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 風は陸から吹いていた。
 櫻は小高い丘の上から海を見下ろす。そこはある意味で絶景だった。
 冬とはいえ夕方の4時とは思えないほど辺りは暗い。強い風が吹き荒れて、どす黒い空に雲が轟いている。眼下から聞こえる水飛沫の音は耳で温度がわかるほど痛い。
 絶えず風に奪われるコートの裾も気にせず、櫻はその狂ったような、暗い、赤い景色を眺めていた。
 悪天候に気を落としたりはしない。逆に、もし天気が良ければこんなところにはこない。こんな、青空が似合いそうな場所には。

 冷たい風に包まれている。自分が小さな個体だと気づかされる。小さな存在だ。この広い自然に比べたら。いや、比べるまでもなく。
 広がる景色は雄大すぎて、この小さな体ではあっけなく飲み込まれてしまう。そしてこの景色と比べたら、自分が住む世界でさえあまりにも小さい。狭い。
 それなのにどうして見つけられない?
 こんな狭い世界のなかでどうして出会えない?
 なにをしている。亨。ここにくるんじゃないのか。
≪捜しものは見つかった?≫
 亨。
 もし亨に会えたら、今も壊したいと思うだろうか。自分とは違い、素直に笑い、この赤を見ない亨を。
 判らない。もう、亨は自分とは似ても似つかないくらい、変わっているかもしれない。
≪あたしはいつかこの空に溶けるの。そうしたら、櫻くんのそばにいけるかな≫
 咲子。
 おそらく本気で願っていた。どこまで本気か判らない空想めいたことを言いながら、その裏では現実の痛みや苦しみを隠し続けて。そして、最期まで亨の居場所を吐かなかった。
≪ちゃんと自分のこと考えて。誰の姿も通さずに自分を見てあげて≫
≪櫻は櫻でひとり、ほかの誰と比べても意味ないの≫
 比べざるを得ないんだ。
 子供の頃はいつも一緒だった。遊ぶのも学校も叱られるのも。周囲から間違われるくらい似ていた。「他人」とはあきらかに違う存在。それをどうやったら比べずにいられるというのか。
 櫻のほうが変わった。それは解っている。
 亨を見れば、自分が以前どこにいたか判る。
 素直に笑っていられて、青い空を見ていた頃の自分がどこにいたのか。
 それが亨だから。

 背後の茂みから黒猫が現れた。
 史緒の猫だ。丘の上の強い風に髭が揺れる。普段は史緒が抱いているので気づきにくいが、その足取りはかなり怪しかった。
 櫻が腰を下ろし手を伸ばすと、それに擦り寄ることも逃げることもせず、よたよたと歩いてくる。
 死期。
 簡単に思い至った言葉。抱き上げると黒猫はされるがままに腕に収まった。
 この猫も咲子と同じか。やがて弱り果て、動かなくなる。
 足音がしたので振り返ると、今度は史緒だった。
 史緒。
 亨とは違って、すごく遠い存在。怖がっているだけの、なにもしない、弱い人間。
 猫を返してやると、縋るようにそれを抱きしめた。そんなものに頼らなければ不安でしょうがないらしい。
 なにもできない。
 仮にほら、これを教えたら、おまえに何ができる?
「亨は生きてる」
 蓮家の末娘が放棄した可能性。おまえは今、それを知った。───さぁ、何ができる。
 史緒は瞠り、震えるだけの唇は何も返さない。櫻は失望の息を吐いた。
「2度は言わない」
 少しは期待していたのだろうか。頭が冷えていくのを櫻は自覚した。
「ふざけないで…ッ!!」
 珍しく気概のある声。でもそれだけ。
「櫻が殺したくせに!」
 実のある言葉にはならない。あの母にしてこの娘だ。いや、違う。あの母が騙しきったからこそ、か。
 史緒は咲子のことをまったく解っていない。長年、病に苦しんでいたこと。それを隠し続けていたこと。笑い続けていた、その気遣いを。
 そういう無知が一番苛つく。
 櫻は声を荒げた。
「ほんっとうに、おまえの馬鹿さ加減には呆れるよ」
 そのとき、突風が吹いた。

「───ッ」
 櫻のコートがなびく。風にさらわれ、足を掬われた。
 平衡感覚を失い耳の奥に激痛が走った。同時に、脳に警告が走る。視界の端に崖の淵が映った。
(落ちる)
 このまま倒れても、手をつく場所に地面はない。咄嗟に伸ばした腕は傾いた体を直すことはできない。
「櫻っ!」
 史緒が手を伸ばし、動く。おそらく何も考えてないのだろう、櫻の腕を掴もうとする。櫻はそれを視界に入れていた。
(この、馬鹿が)
 バシッ
 駆け寄る史緒の手を払った。
 ぐらりと視界が回り、大きな空が視界を満たす。青くはない。赤くもない。───この禍々しい天空に、咲子は絶対にいない。
 体が空(くう)に埋もれていくのを、地と空の境目が上空に上がっていくのを見た。
 頭から落ちていく。
 頭皮が凍っていくのを、最後まで感じていた。





≪咲子から生まれるのは“春の花”≫

≪花言葉にはこんなものもあるの≫
 やめろ。
 そんな想いを背負いたくない。


≪“あたしをわすれないで”≫
 忘れるよ。忘れるに決まってる。忘れないわけない。
 いなくなってしまった人を想うのは辛い。
 ずっと心に置いておけるわけない。

 でも、思い出すから。
 いつも微笑っていたことを思い出すから。
 家族の顔を見るたびに。桜を見るたびに。空を見るたびに。

 例えこの空が、青く見えなくても。



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