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 夜中に目が覚めたとき、そこが病室だと納得するまでの思考作業に、やっと慣れてきた。
 無意識に息を整え、意識から遅れてじんじんと起きあがる背中の痛みを待つ。ここで慌てて動いてしまうと、脳天を突く激痛に数分間は悶えなければならない。学習能力と呼ぶべきか、体は覚えていた。意識が定まらない寝起きにおいても息を潜めるべきことを。
 日常の鈍痛を取り戻す。深い溜め息を吐く。そうして初めて、外界の状況に目をやる。辺りは暗かった。夜。時計は見えない。でもひんやりとした空気が、朝が遠いことを教えた。けれど。
(明るい───)
 白い壁に鮮やかな影ができている。昼間の明るさとはまったく別の、白い光。
(月がでているんだ)
 窓のほうに目をやる。しかし、この角度からでは月は見えなかった。
 こんなに明るいのに。
 そこにあると判っているのに届かない、まるで焦がれるような気持ち。
 届かない、過ぎ去った日常。
 こんな夜は、隣りで寝ている櫻を揺すって起こした。ベッドから抜け出して、2人で、窓辺で話をした。マキさんと史緒は寝ているし、見つかると叱られるので、声を潜めて足音を抑えて、2人で小さく笑い合っていた。
 それはほんの、3ヶ月前のこと。
 櫻が変わったことには気付いていた。
 ちゃんと話を聞いてやればよかった。無理にでも、向き合って、聞き出していればよかった。
 櫻。
 なにに、苦しんでいたの?
 こんな夜にひとりでいるのは本当に淋しい。悲しい。
 あの頃に戻れたらいいのに。
 でも戻れない。進むしかない。
 咲子の「いたずら」はもう動き始めている。それに加担したのは自分の意志だ。
(会いにいくよ)
 いつか。
 今は動かせないこの体で。
 また2人で、たくさん話せたらいい。以前、月夜の庭で、一緒に夜空を見上げたように。
「……」
 無性に月を見たくなった。
 ベッドの上で体をずらしてみても、背中に痛みが刺さるだけで、窓枠の中に月は入らない。そうなると余計に見たくなる。
 意を決して、ベッドのすぐそばにある車椅子に手を伸ばした。
 ただでさえ体力が落ちている。背中には激痛があるし、軋むし、痛さと疲労で涙が滲む。
 それでもどうにか、10分以上かかって車椅子に身を沈めることができた。
 息を切らすほどの苦しさのなかでも、思わず笑いが込み上げる達成感があった。
 はじめて、ひとりで車椅子に乗れた。
 車椅子に乗れればこっちのもの。部屋を出て、廊下を進む。月が見える場所へ。
 夜間徘徊は禁止されているけど、マキさんに叱られることに比べたら、見つかったときのお咎めなど恐るるに足りない。深夜の病棟へ車椅子を走らせた。
 そして月を発見。
 満月だった。
 とてもとても明るい。雲さえ、白く見えるほど。
 陽光は肌を刺すのに、月光は全身を包まれている感じがする。不思議な感覚。目を瞑っていても、光が当たっていることがわかる。
「…だれ?」
 背後から呼びかけられた。一人だった世界で、他人と遭遇。
 振りかえると年下の少年が立っていた。徘徊仲間に挨拶をして、少し話をした。
 会話の合間に少年は訊いてきた。
「おにいちゃん、なまえ、なんていうの?」
「僕は今、名前が無いんだ」
「なまえが無い人なんているの!?」
 実はおばけなんだ、というと少年は目を丸くする。
「じゃあ、生きてるときはなんて名前だったの?」
 しつこく名前を訊いてくる少年に、その素直さに苦笑する。
 おそらくこの名を名乗るのは最後だ。噛みしめるように、口にした。
「──…亨」


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