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「見習い風情がバイト気分で来られても困ります」
 と、いつになく直球で、一条和成は言い返してきた。
 電話で、しばらく休みたいと言った篤志に。
「篤志くんを今のポストに入れたのは社長の指示だ。それを面白く思ってない人たちも多い。甘ったれた行動は君自身の評価を下げるだけでなく、社長にも矛先は向かう、それを」
「解ってるよ! こっちだってハンパな覚悟でアダチに入ったわけじゃないんだ!」
 篤志は怒鳴り返していた。夜も更けたアパートにその声が響いても気にしていられなかった。
 和成に言われたことくらい解りきっている。それでもこういう行動を取らざるを得ない状況に腹を立てているのだ。そのうえ和成に説教されては堪らない。
「……ところで、どうして私に掛けてくるんですか? 君の上司は梶さんでしょう? ───まさか、また、君が抱えてる問題に巻き込ませようとしてないでしょうね」
 和成にとっては皮肉だったのだろう。気の毒だが、篤志にとって精神的に余裕がないときに、話が早いのは助かる。
「すごいな、あたりです」
「ちょっと…、本当にいい加減にしてください。史緒さんに知れたとき、余計な恨みを買いそうだ」
 和成と史緒の仲など、口出しこそすれ、険悪になろうとも篤志は心配などしない。それを恐れる和成を逃がさないように、篤志は結論を口にした。
「櫻だ」
 電話の向こうから、息を飲む音と物音が聞こえた。声は返らない。
 しばらくガタガタと何をしているのか判らない音がある。バタン、とドアの閉まる音があって、やっと和成の声が返った。
「───なんだって?」
 仕事中だったのだろうか、場所を移動したようだ。
「櫻に会った。確認はしてないけど、司と蘭も目撃してるはずだ」
「待ってください。…櫻? 急に、何を」
 生きていたのか、と呟く和成の声から動揺が読みとれたが、篤志は気遣わずに言葉を並べた。
「ついでに俺のこともバレた。調べると言っていたから、社長にも接触するはずだ。そういう意味でも、一条さんに言っておいたほうがいいと思って」
「どうしてそういう面倒な話ばかり私に持ってくるんですか」
「ごめん」
「言葉だけで謝られても腹立つだけですから。…私から社長に言えっていうんですか? 櫻のことを? そうやって利用するのはやめてもらえませんか」
 心底苛立っている様子で和成は溜め息を吐く。それでも篤志が返事をしないでいると、沈黙のあと、和成のほうから声を掛けてくる。結局、それが彼の良心、というより、お人好しなんだと思う。
「…櫻は、今までどこにいたと?」
「そういうことは全然聞いてない。少し話した感じでは相変わらずだった」
「相変わらず、ですか」
 と、和成は失笑した。気持ちは分かる。
 櫻は相変わらず。良くも悪くも。
「史緒さんには?」
「言えると思うか?」
「でしょうね」
「俺も悠長なことやってられないんだ。自分のことを晒すにしたって、信じてもらう証拠を用意するのに時間が必要だ。だから、そっちには行けない」
「……ようやく種明かし、というわけですね。咲子さんの」
 和成は慎重な声で言った。当事者ではないのに、心配していることがわかる。
「史緒さんは驚くだろうな。君のことも、櫻のことも」
「驚くだけならいいけど」
「そう簡単に済まないでしょうね」
「あぁ。…覚悟はしてるよ」
 本当なら、篤志の件だけだったはずだ。それが櫻が現れたことで状況は複雑になった。
 どちらも軽い問題ではない。
 史緒は櫻を前にして正気でいられるだろうか。
 そして咲子のいたずらを───篤志が隠し続けてきたことを、史緒は受け入れてくれるだろうか。それとも…。
 手のひらに汗をかいている。篤志はゆっくりと指を開いて、軽く振った。
「…ともかく、一条さんに話せてよかった。ありがとう」
「無理矢理聞かされたんですけどね」
「それはそうだ」
「本当に君らは2人して…」
 和成はそこで息を吐いて、少しだけ笑いを含んだ声で、はた迷惑な兄どもだ、と呟いた。


 煙草と灰皿を持って玄関を出る。アパートの廊下は夜は足音が響くので、それに注意して、手摺りに寄り、深呼吸。夏の夜の湿った空気を吸い込む。そして煙草に火を点けた。
 吐いた煙が夜に紛れるのを見て、最後に史緒に会った夜を思い出す。
 ──どうしてなにも言ってくれないの?
 ごめん。不安にさせたいわけじゃないんだ。
 本当に、ただ、いつも、恐れていただけで。
 真実を知ったときの、史緒の反応を。
 ずっと今のままでもいいかと、思い始めていたけど。
 史緒が嫌悪しているアダチに入りたかった。それは幼い頃から決めていたことだから。当然、史緒と結婚はしない。でも史緒の顔を見られる場所にはいたい。櫻と話せる場所にいたい。
 ──あなたも、あなたの思うとおりに生きられますように
(うん…)
(願っているのは自分のことばかりだ)
 白い煙が夜に消えていく。電灯に群がるユスリカ、湿った空気。意識を茹でる熱、夏の匂いがする。
 ───いつも、強くなにかを思っていたのは夜だったような気がする。
 天気が良ければここから月が見えるのに。
 今夜は見えなかった。


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