キ/GM/41-50/48
≪11/25≫
* * *
その日の朝、関谷和代(かずよ)は久しぶりに一人で朝食を摂った。
夫は昨夜から、同業仲間との集まりで出掛けていて、帰るのは今日の昼前だという。
どうせ誰もいないしと、朝食はごく簡単なもの。普段だって、夫と2人きりだけど、やっぱり1人と1人以上の差は大きい。作ることが楽しくないし、同じものを食べても味が違う。食卓に1人の空気が重い。食欲も無い。和代は溜め息を吐いて箸を置いた。
そういえば、ずいぶん前に家を出た息子は、ちゃんと食べているだろうか。学校へ行ったり働いたりと中途半端な1人暮らしをしているらしい。忙しさに負けて食事を疎かにしていないだろうか、そのせいで体を壊したりしていないだろうか。自己管理はできる子だから、心配いらないとは思うけど。
和代はそこで思い出し笑いをした。
息子には最低限の料理を教えたけれど、あまりうまくならなかった。大抵のことは小器用にこなしていた息子だが、妙なところで苦手なものが見つかる。
ちなみに夫は、一時期、主夫をしていたので料理はできる。そのことを、よく、息子にひけらかしていた。
(まったく…、うちの男たちは大人げないんだから)
もう一度笑った。この家でにぎやかに喧嘩していた頃が懐かしい。
和代は食事の後片づけを済ませて、日課の掃除を始めた。いつもよりはりきって、ローラー作戦で各部屋を片づけていく。もしかしたら夫が二日酔いで帰ってきて、寝室に籠もってしまうかもしれない。そうなる前に布団を干し、部屋に風を通した。
掃除が一段落したとき、電話がかかってきた。夫かと思ったが違う。習い事の連絡網だった。相手は話し好きの人で、つい長話になる。ちょうど、和代も誰かと話したかったところだ。話題は近所の噂話から折り込みチラシ、家の中の苦労話で盛り上がる。そういえば昨夜から声を出していなかった。
会話を中断するように玄関のチャイムが鳴った。
電話の向こうではない。こちら側の音だ。
夫ならチャイムを鳴らしてもすぐに鍵を開けて入ってくる。
「ごめんなさい。誰か来たみたい」
うん、いーよー、またねー、と相手は快く応じてくれて、電話を切った。
2度目のチャイムが鳴った。
「はーい」
和代は声を返して、ぱたぱたと廊下を走り、玄関へ向かう。
鍵を回し、ドアを開けた。
長身の痩せた男性が一人立っていた。
「……」
なにかを思い出し掛けたような気がする。水の底で生まれた空気が水面を目指す泡となるように。でもそれはすぐに割れて消えた。
セールスではなさそうだった。手荷物は無い。真夏だというのに長袖のシャツ。年代的に見て息子の友人かと思ったが見覚えはない。顔を見ると、男は和代のほうをじっと見ていた。名乗りもしないのでこちらから促す。
「あの、……どちらさま…───」
最後まで発音できなかった。和代は凍り付いた。
(……まさか)
あり得ない。
でも否定できない。
「お久しぶりです」
と、長い前髪の下の両眼が細く笑う。
「───…」
和代はわずかに遅れて男の名前を思い出し、それをそのまま口にしていた。
「……櫻くん?」
* * *
関谷高雄は同業仲間と集まって飲んで、一晩泊まって、家に帰る途中だった。
朝になってみても体にアルコールが残っていた。高雄は普段でも、家ではあまり飲まない。妻も飲まないからだ。息子は酒が飲める年齢になる前に家を出てしまった(煙草は吸える年齢になる前に吸っていたようだが。
その息子は最近、別の仕事を始めたと近況を報告してきた。はっきり聞いたことはなかったが、どうやらそれも、目指していたもののうちのひとつらしい。ハタチを越した息子のやることに口出しするつもりはない。しかし、その前にやっていた仕事の仲間たちにうまく説明できているかが気になるところだった。
そしてちょうど、息子から電話がかかってきた。
「やぁ。アダチの仕事は順調かい?」
高雄がからかうように言うと、
「お父さん!」
と、穏やかでない呼びかけがあった。
「今、どこ? 家にかけたんだけど、つながらないから…」
「俺は外、都内だ。家には母さんがいるはずだよ」
「ずっと話し中で…」
「友達と長電話でもしてるんだろう。───それより、どうした? なにかあったのか?」
「櫻がそっちに行くかもしれない」
「………誰だって?」
「櫻だ! 俺のこともバレた」
ほろ酔い気分だった体に鞭を打たれたようだった。
「おそらく、櫻は俺のことを調べて回ってる。もし家に行くとしたら…」
「わかった」
息子がなにに気を掛けているか理解し、高雄は声を厳しくした。
「俺はすぐに帰る。おまえはおまえのやることをやってから戻れ」
「今夜、一旦、帰る」
「待ってるよ、じゃあな」
一気に頭が働き出す。高雄は早足で駅のホームへ向かった。
* * *
「お久しぶりです。関谷和代さん」
阿達櫻がそこに立っていた。
和代は声も出せない。
過去、彼と顔を合わせたのは、たった2回。最初は、彼の母親で和代の親友である咲子の病室で。そのとき、櫻はまだ中学生だった。次は、咲子の葬儀の日。春の晴れた日だった。櫻に、息子を紹介したことを覚えている。
ドアを開けたとき、どうして判らなかったんだろう。初めて会ったときは、似ていると、思わず口にしてしまったくらいなのに。
櫻は海難事故で行方不明になったと息子から聞いた。あれからもう3年。櫻の父親であり和代の同窓生である阿達政徳はもう諦めているようだった。
それなのに。
「…生きてたのね」
ようやく和代が言葉を発すると、櫻は嗤った。
「やっぱり、それが普通の反応だよな」
「え?」
「ここ数日のうちに何人かと再会したけど、見せる反応はほぼ一様。だけど関谷…あぁ、和代サンの息子だ。関谷篤志だけは、違う反応だったから」
「───」
含むような科白。話の方向に気付いて和代は鈍い衝撃を覚えた。
「ヤツのことを尋ねたい」
(待って)
(…なにを言う気なの?)
和代は心細さに負けて、家の中を振り返った。でも誰もいない。夫は出掛けている。今、自分は一人だ。
(…言わないで)
不敵に嗤う櫻を前にして恐怖が擡げる。気持ちが渦巻き始める。
(言わないで)
(お願い。訊かないで。それを問わないで)
(そうしたら私は、───答えなきゃいけない。約束を守らなきゃいけない)
「確認したいことはひとつだ」
ドアを閉めてしまいたかった。でも櫻の視線から逃れられなかった。
「関谷篤志は、本当にあんたらの息子なのか?」
いっそ気を失えたらいいのに。
こんな突然に。
やってくるなんて。
唇が乾いているのにそれを舐める余裕もない。ドアを押さえたままの腕は静かに痙攣を起こし、足は少しでも気を緩めれば崩れてしまいそうだった。
櫻は返答を待っている。口元は薄い笑いを浮かべているのに、視線だけは鋭く、和代を見下ろしていた。拒否は許さないとその瞳は語っている。
「……どうして、そんな訊き方するの? もう、…わかってるくせに」
「当事者の口から訊きたい」
櫻が訊いたのは、息子の本当の名前じゃない。
──本当にあんたらの息子なのか?
余計に酷い。酷い問いかけだった。
「和代サンのことも調べたよ」
「───ッ」
「咲子はあんたを紹介するとき、“同じ病院に入院していた”と言った」
「だからって!」声が空回ってしまう。「……医者から聞き出すことは、できないでしょう?」
「別に医者じゃなくても過去を知る他人はいるさ。看護婦や入院患者。あの病院は長期入院の患者が多いし、年寄りの集まりにもなってる。俺のことを覚えている人もいた、あとは口八丁でどうとでも。───あんたのことを知る人もいたよ。入院していたこと、それから、結婚直後に通院していたことも」
「……」
和代は泣いていた。
両眼から溢れてくる涙は止まりそうになかった。
「で、最初の質問に戻るけど」
櫻の声は少しも変わらずに同じ問いかけを繰り返した。
「関谷篤志は、本当にあんたらの息子なのか?」
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