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■03
 櫻が怖かったわけじゃない。
 と、言えばやっぱり嘘になるけれど。

 傷つけられても構わなかった。
 腕の中のネコの温かさで楽になれた。櫻の言葉は刃物のように周囲に振り回されていて、それに切られることもあったけど、ちゃんと治せていた。
 和成は今も気にしているけど、この火傷だって大したことじゃない。
 過去に苛(さいな)まれることに比べたら、本当に些細なことだった。
 傷つけられてもいい。
 だから思い出させないで。
 櫻が怖かったわけじゃない。
 櫻を見て、櫻以外の人を思い出したくなかっただけ。
 最後はもう呼び違えることもないくらい2人は似ていなかったけど、でも確かに同じ顔で。
 もう一人、別の存在が確かにいたのだと。
 その顔で。
 あの日の桜の色を思い出させないで。

 嵐の日、櫻がいなくなった。もう顔を見ることもない。思い出すこともない。
 何年も経って、別の死に遭うことで思い出してしまったけど。
 でももう大丈夫。
 ネコもいない、和成もあの頃ほど近くにはいないけれど。
 幼い頃とは違う。自分も。自分を取り巻く環境も。
 だからもし、あり得ないだろうけど、「失踪」という扱いになっている櫻がまた目の前に現れることがあっても平気。
 そう、思っていた。



「はーい、はいはい! 祥子さんっ、今日の帰り、祥子さんのお母様のところへお邪魔しちゃだめですか? ご無沙汰しちゃってるもの、お会いしたいでーす」
 蘭はソファの周りを飛び回りながらいつも以上の陽気さで言った。祥子は苦笑して答える。
「うん、いいよ。そうしよっか」
「あと、今日はあたしがごはん作るって約束ですよね! 帰りにスーパーに寄ってくださいね! やったぁ、誰かに食べていただける機会なんて滅多に無いし」
「それはお互い様」
「連日泊まらせていただいて、ご迷惑じゃないですか?」
「ううん、そんなことない、楽しいよ? 蘭の学校の話とか聞けるし、一緒に出掛けられるし。都合がつくあいだは居て欲しいな」
「ほんとに? ありがとうございますっ」
 ソファの背後から祥子の首に両腕を回す。祥子は驚いて声をあげるも、それを甘受して歯を見せて笑った。
「友情ごっこをやってるところ悪いんだけどさぁ」
 と、蘭と祥子の会話を中断させたのは健太郎だ。向かいのソファから呆れたような視線を向けている。その隣りで史緒もくすくすと小さく笑っていた。
「先にこっち、終わらせちゃわない?」
 と、テーブルの上に配られた書類を指差し、何の為に集まっているかを示した。
 その日───後にその客(、)が訪れた時間。A.CO.の事務所にはこの4人がいた。
 篤志は最近、顔を出していない。司と三佳はこちらへ向かっている途中だという。
「蘭はまだ祥子のところにいるの?」
 数日前もそんな話を聞いた気がして史緒が訊くと、蘭は大きく頷いた。
「はい。おじゃましてます」
「相変わらず仲良いのね。夏休みだし、2人でどこか出掛ける予定でもあるの?」
「…いえ、今のところは。あたしが勝手に押しかけてるだけです」
 蘭の声と表情に影ができた。
「そう?」
「あっ、あの、あたし、お茶入れてきますっ。ケンさん、ごめんなさい、もう少し待っててね!」
 史緒の問いかけは少しも含んだものは無かったのに蘭に逃げられてしまった。
 首をひねる史緒に、書類に目を通していた祥子が小さく言った。
「帰りたくない事情があるみたい。訊かないであげて」
「そう…」
 祥子のところに逃げられているならそう心配することはないだろう。らしくない蘭の動揺を見てそれをを気に留めながらも、史緒は仕事に思考を切り替えた。

 ───最初に反応したのは祥子だった。
 ぴくりと目を上げ、顔を上げる。少しの時間、空を見据えた。
 戸惑うような表情。眉にしわが寄り、さらにそれが一層濃くなって、祥子は音を立てて立ち上がった。
 その険しい表情に史緒が気付いて、声をかけるより先に祥子はドアに目をやり、声を上げる。
「史緒…っ」
「───え?」
 ばんっ。

 事務所の扉が蹴破られる勢いで開かれた。
 突然だった。ノックもない。そんな不躾な来訪者は長身の男性だった。
 長い前髪で顔がよく見えないので年齢は読めない。夏だというのに長袖の白いシャツを着ている。そのシャツの上からでも、男性がかなり痩せた体型であることがわかる。
 事務所に入ってきた男性は所員ではないのだから、客である可能性が一番高い。それなのに誰も動けず、声を掛けられなかった。男は簡単に挨拶すらさせない異様な雰囲気を放っていた。
 男は事務所の中を僅かな動作で見渡したあと、横柄な態度で面倒くさそうに吐き捨てる。
「蓮家の末娘はいるか?」
 誰かが悲鳴をあげた。
 悲鳴をあげたのは、ちょうど奥の部屋から戻ってきた蘭だった。トレイを落とし、緑茶が入って水滴をつけていたグラスが、ひとつ割れた。
 蘭は青ざめて、唇が震えている。
 突然の闖入者に反応らしい反応をしたのは蘭だけで、健太郎と祥子は男に目をやっただけだった。
 蘭が震える声を出す。
「…櫻さん」



 突然、すぐ後ろで小さな台風が起きたのかと思った。
 祥子は声が出るほど驚いて振り返り、そこに立つ史緒を見た。
 史緒はこれ以上ないというくらい瞠って、瞬きすらなく、突然の来客に目を向けて離せない。意識がないのかと思った。生気の無い青白い肌。
 その見開いた目以外に表情らしい表情はない。
 けれど、祥子にとっては、史緒がこれほどまでに動揺を表したのは初めてだった。いや、動揺というような生温いものではなく、何もかも吹き飛ぶくらい、痛いほど激しい悲鳴。洪水のように溢れ湧き出してくる戸惑い、驚き、混乱? これ以上近づいたら、その感情に飲み込まれてしまいそうだった。
「史緒? どうしたのっ?」
 という祥子の声が聞こえたのか、男がこちらを───史緒を見た。
「…っ!!」
 スイッチが入ったように史緒の顔が歪む。まるで熱いものに触れたかのように体が跳ねた。
 ドアの前に立つ男は無表情で史緒を見据えたあと2秒後に視線を逸らし、蘭のほうを見た。そしてずかずかと事務所へ足を踏み入れる。蘭は逃げることもできず、震え、壁に背中をつけた。
「さ、櫻さん…」
「最初から、見抜いてたんだな」
 蘭を追いつめた男は低い声を出した。
「その上で、俺を謀(たばか)っていた」
「…ごめ、ごめんなさい。ごめんなさいっ」
「謝罪が聞きたいんじゃない」
「…っ」
 威圧的な声に蘭は唇を噛んで視線を落とした。
「そう、謝ることない。俺の眼がふしあなだったってことだ。らしくなく他人を信用しすぎていた、俺の落ち度だよ」
「…ごめんなさい」
 男は目を細めて笑う。
「こっちこそ悪かったな。見くびっていたんだ。おまえが“捜し物”を諦めた、関谷に鞍替えした日にさ。本当に自分でも笑えるよ。まさか亨が」
「やめてっ、櫻さん!」
 蘭は鋭い声で男の発言を止めた。それだけは許さない、というように。
「───」
 男───櫻は煙たそうに眉を顰めた。しかしその僅かな間に蘭の意図を察する。
 そして振り返り、史緒を見た。
 史緒は射られたように体を引きつらせ、震える足が折れてそのままソファの影に膝を落とす。櫻は苛立ちを隠せず舌打ちした。
 蘭に背を向けて歩み寄る。史緒は短い悲鳴をあげた。カツカツと足音が響いて、それが史緒の前で止まる。そのまま蹴飛ばされるのを恐れて咄嗟に頭を抱えた。
「なに、幽霊に会ったような顔してんだよ」

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