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≪16/25≫
目の前に立ち、見下ろしてくる人物が誰なのか。史緒はまだ信じられない。
ドアが開かれてから、蘭が彼の名前を口にするまで。その名前が記憶の底から浮上するのを必死で否定し続けていた。けれど目の前に立つのは、紛れもなく、3年前、史緒の目の前で嵐の海に落ちた、阿達櫻だった。
「……っ」
なにがそうさせるのか、体の震えが止(や)まない。こんな真夏に寒いわけではない。それにまだ、───まだ、怖いという思考にさえ辿り着いていないのに、間抜けな条件反射のように、彼を前にして体が反応していた。
思考が働かない。視線を逸らしたいのに、体は言うことを聞かず、数年ぶりに見る顔を見上げ、目を離せなかった。
そんな史緒を見下ろして、櫻は苛立ちを込めた溜め息を落とした。
「まだまともに喋れないのか?」
「…ゃ」
細い割に力強い指が伸びて史緒の腕を掴んだ。強引に立たせられる。近い視線に泣きそうになって逃げようとするが櫻は許さない。怒りを露わにして史緒を睨み付けた。それと向き合うことができなくて史緒は目を瞑った。
「おまえの馬鹿さ加減には心底呆れるよ」
大声ではないのに、強い声。
「確かに、期待はしてなかった。蘭もそうしたように、あいつを見つけるための餌として利用しただけだ。俺が知り得ない所で餌に掛かる可能性ももちろん考えた、それを…」
史緒は櫻の腕から逃れようと必死でその言葉は耳に入らない。構わず櫻は史緒の手を引いた。
「おまえは昔から、都合の悪いことからは眼を逸らしてばかりだ。…ああ、解ってるよ、これに関しては俺だって他人のことは言えない。だけど、───おまえは何年も一緒にいる人間の顔もまともに見られないのか? それとも元のほうを忘れたか。関谷は」
「櫻さんっ!」
「おまえは黙ってろ!」
「…ッ」
蘭の静止に櫻は振り返りもしない。その厳しい声には蘭に対する怒りが込められていた。なにに怒っているのか、蘭はよくわかっていたから、自責し、唇を噛んだ。
櫻は史緒の腕を捻り上げる。視線を合わせようとしない怯えるだけの横顔に、幾分声のトーンを落とした。
「俺が最後に言ったことを忘れたのか?」
その言葉に史緒の抵抗が止む。
「───…?」
史緒ははじめてまともに櫻を見た。
微かに見開いたあと、視線が外れ、ゆっくりと泳ぐ。記憶を探るように。
櫻に捕らえられていることも忘れて。視力では見られない、遠く。遙か過去を。
「……さいご…?」
(最後。嵐の日。崖の上。海の音。ネコ? 違う。櫻は嗤った。唇が動く。なにを?)
ようやく動き始めた思考は記憶を探ろうとするが、視界を遮る人影に現実に戻された。
「込み入ってる話の最中に悪いんだけど」
健太郎の背中が史緒の目の前にある。その向う側からいつもの飄々とした声が聞こえた。
「とりあえず、その手を離せよ」
「…っ、ケン?」
史緒を庇うように立つ健太郎は、その場の空気など気にしないといった様子で、史緒の腕を掴んだまま櫻の手首を軽く叩いた。
「なにか用か」
櫻の見下すような視線をものともせず、健太郎は芝居がかった調子で額を掻いて、櫻の顔を覗き込むように言った。
「サクラさんとやら。ノエル・エヴァンズの連れってあんただろ?」
「───」
櫻の表情が微かに揺れた。
さっき、突然の乱入者に驚いたのは健太郎も同じだった。けれどもちろん、史緒や蘭の驚きとは違う。そして、祥子のように事情を知らず不可解であることとも、また違った。別の意味で驚いていた。最近、見た顔だったのだ。
「…だからどうした」
不機嫌を隠さない返答もさくっと無視して、健太郎は不敵な笑みを作り自分の優位性をアピールする。
「身元がバレてるのに、不法侵入に乱暴狼藉はまずいんじゃねぇの? 警察沙汰にして困るのはそっちのはずだ」
「身元?」
櫻は鼻で笑って、史緒を乱暴に放した。史緒はふらついて、また座り込んでしまうところを祥子に支えられた。
「身元、ね」
その史緒を指さして櫻は言う。
「俺の身元なんて、こいつがよく知ってるよ」
立ち位置が重なっているので、祥子もその指先を受けた。史緒はぐったりとして大人しく腕の中に収まっている。そんな姿を晒(さら)していることにすら気づいていない。祥子はそんな今の状況に気分が悪くなった。
顔を上げると、櫻はこちらを見ていた。
「史緒」
びくっ、と史緒の肩が跳ねた。
「俺はこれから親父のところへ行く。後でおまえも呼び出すよ。首を揃えたところで種明かししてやるさ。親しい人間に騙され続けていることに気づかず、俺が教えてやったことを考えもせず忘れて、そうやって目を逸らし続けていた自分の愚かさを思い知ればいい」
櫻は軽蔑のまなざしを向けて言い捨てた。
史緒の反応が無いと見ると気が済んだのか踵を返す。
「警察沙汰にして困るのは、史緒のほうだよ」
と、皮肉げな笑いを健太郎に残した。
そのまま去ろうとする櫻の背に、祥子は叫んでいた。
「ちょっと待ちなさいよっ!」
突然現れた男に好き勝手言われ放題で祥子は腹が立っていた。事務所内を掻き回すだけ掻き回してあっさり帰るのも許せなかった。
気にくわない対象は櫻だけじゃない。蘭や、そして史緒の様子も面白くない。
祥子は彼らの事情など知らない。だからこそ、余計に苛立ちが募る。それからひとつだけ、櫻という人物について思い当たることがあった。
支えていた史緒をソファに座らせると、祥子はそのまま櫻に詰め寄った。
「あなた、煙草吸うでしょう?」
近づいてみれば問うまでもない。咽せるような煙の匂いに祥子は顔をしかめた。
「だからどうした」
櫻は怪訝そうな表情で祥子に目を向ける。改めて、その眼鏡の奥の瞳と至近距離で向き合う。
怖い、と思った。その瞳だけでなく、祥子の能力が無意識のうちに視る、気配も。
すべてのものに苛立っているような。───許せないでいるような。
櫻はふとなにか思いついたように、史緒のほうを見た。
「あぁ、残ってるのか」
「!」
祥子は薄寒くなった。まるで透視でもしたかのように、櫻は一瞬で祥子の問いかけを理解した。視線を戻して嗤う。
「別にあいつにとっては屈辱の傷じゃないだろ。猫と七瀬を守ったつもりなのさ」
「え…?」
「そういう盲目的な自己満足が、さらに周りを見えなくさせる。与えることに必死で受け取ろうとしない。教えてやれよ、その独善的な思考が騙され続けている原因だって。あいつに比べたら七瀬のほうがよほど眼が利くよ」
冷たく笑って、もう用はないというように、ドアの向こうへ消えた。
嵐のような来訪者は去っていった。
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