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*  *  *

 醜悪な余韻を残して男が消えた扉を、祥子はしばらく睨んでいた。
(…あの人だ)
 ──祥子は、誰かを憎んだことがある?
 かつて史緒が言った。
 ──本当に許せない、近づくだけで吐き気がして、心臓を握られるような嫌悪感
 ──それから、少しの殺意
(あの人だ)
(あの人が、史緒の)
(憎しみの対象だった人)
(首の火傷も)
 祥子の知らない過去が史緒にはある。
 でもそれがどんなものであろうと、祥子にとっての史緒は、初めて会ったときから小憎たらしく、生意気で、皮肉屋で、祥子を挑発し怒らせることばかり言う嫌なやつだった。祥子の能力を手元に置くために蘭も利用して、そのことを悪びれもしない。弱いところを見せず、仕切屋でワンマンで、A.CO.を引っ張っていく。
 その史緒が、一言も言い返さなかった。
 言い返せなかった。
「史緒さん…っ!」
 ソファに倒れ込むように座る史緒に蘭が駆け寄る。
 史緒は顔すら上げず、青ざめた顔でぶつぶつと何かを呟いている。
「……ネコ、どこ?」
 息を吐くような頼りない声はそう言った。蘭は狼狽(うろた)え、悲鳴のような声をあげた。
「史緒さん、しっかりして!」
 正気で無いのは見れば判る。あの男はその存在だけで、ここまで史緒にダメージを与えることができる。
 祥子はこぶしを握り歯ぎしりした。
「史緒っ!」
 力任せに腕を引いても、史緒は祥子と目を合わせようともしない。
 不安と怯えを隠そうともしない表情はさらに祥子を苛立たせる。
 祥子はカッとなり、手を振り上げて史緒の頬を叩いた。
「しっかりしなさい! あんたのそんな姿、見たくもないのよ!」
 蘭は肩をすくめ、健太郎も身を縮めたが、気持ちはわかる、と目が言っていた。
 怒っているはずなのに、目に涙が滲んだ。
「あんたはいつもみたいに、強気で偉そうに、威張ってればいいの!」
(くやしい)
(どうして、史緒があんなのにやられるわけ?)
 祥子は肩で息をしながら涙をこらえていた。
 しばらく経って史緒は叩かれた頬に指で触れる。痛かったのか指が跳ねて、あらためてそっと撫でた。その動作は日頃の史緒からは考えられないほど鈍(のろ)い。イライラする。
「……」
 史緒は唖然とした表情でようやく顔を上げた。見開いた目がまともに向けられる。それを確認して祥子は涙目で睨み付けた。怒りさえ覚えているというのに、史緒は呆気に取られた様子で、
「……ごめん」
 と、間の抜けた声を返した。口端がどこか笑っているように見えた。



*  *  *

 司は三佳と一緒に事務所へ向かう途中で櫻と遭遇した。
 先に気づいたのは三佳のほうだった。司、と手を引いて有事を報せてくる。その1秒後、司の知覚範囲内にも入った。そして櫻のほうも気付いたのだろう。明かな意志を持って、足音が近づいてくる。
「やぁ、島田サン。七瀬も」
(なんで…)
 櫻は事務所のほうから来た。
 篤志と、そして司自身も恐れていたこと。
 櫻は史緒に会ったのだろうか。
「史緒には構わないんじゃなかったのか?」
 責めるような余裕の無い声になってしまったことは発した後に気付いた。それを冷やかす声で櫻は短く返した。
「事情が変わったんだ」
「事情って…」
「ひとつ忠告してやるよ。関谷篤志に気をつけろ。あいつが現れたばかりの頃、おまえは警戒していただろう?」
 忠告といいながら、からかうような、いつもどおりの揺さぶり。不安を与え、その反応を見る、いつも通りの櫻のやり方。
 けれど、前に会ったときならともかく、今の司にその言葉はもう効かない。
「その疑心はもう解けたよ」
 笑みを乗せて答えると意外そうな声が返ってきた。
「亨のことは知らないんじゃなかったのか?」
「昨日、知った」
「誰から?」
「本人」
「史緒には?」
「言ってない」
「じゃあ、もう少し大人しくしててくれ」
「そのつもりだよ。僕は部外者だ」
 相変わらず櫻との会話は妙な緊張感がある。内心の疲労を完璧に隠しているはずなのに、すべて見抜かれているような気さえしてくる。
「さすが。よく解ってるじゃないか。どうせ決着がつくまでは数日だ。すぐ済むよ」
 じゃあな、と言って櫻は司の横を通り抜けようとする。しかしすぐに何か思い当たったように踵を返した。
「───あぁ。今のうちに史緒と手を切っておいたほうがいいんじゃないか? あいつの正体を知ったあと、史緒が使い物になるとは限らないだろ?」
 そう残して、今度は本当に櫻は去っていった。
「……」
 それも、いつも通りの揺さぶり。司に不安を与えるための言葉だ。
 けれど今の最後の一言は、ずいぶんな重みを残した。
 もちろん、そんなことにはならないと否定する根拠はいくつかある。
 でも史緒にとってその正体を知ることは、櫻が生きていたという事実以上に、衝撃的なのではないだろうか。
 史緒は櫻の生存を受け入れられただろうか。
 そして、数日のうちに明かされるというもうひとつの真実を、史緒は受け入れられるだろうか。
 まだ折り返しにも達していない今回の騒動に、司は大きな溜め息を吐いた。


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