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「それにしても」
史緒は溜め息を吐く。
「生きてたのね…」
できるだけ湿っぽくならないように声を出したつもりだったのに、失敗したようだ。周りからいくつもの心配そうな目を向けられてしまう。
「平気よ。ごめんなさい」
「声も出せなかったくせに」
むくれた祥子の横槍に史緒は苦笑して返した。
「突然で驚いてたのよ。許して?」
(大丈夫)
頭は動き始めている。ここで崩れたりなんかしない。これは強がりじゃない。
史緒は目の前にいる人たちの顔を見回してそれを再確認する。
櫻は生きてた。海に落ちたあとも死んではいなかった。それをすぐに受け入れることは難しい、でも切り離して考えることはできる。
あの後、助かって、すぐに出てこなかったのは戻れない事情があったのか、それとも戻りたくない理由があったのか。
そして3年も経った今になって出てきたのは、戻れない事情が解消したからなのか、別の目的があるのか。
(どちらも後者だわ)
さっきの態度を見れば考えるまでもない。
自発的に帰らなかった。連絡もしなかったということは、阿達櫻は死んだと思われても構わないということだ。事実、こちらではそうなっていた。櫻の生存を誰が信じていただろう。
それにもし、3年間戻れない事情があって、今になってそれが解消したのだとしても、櫻が阿達家に帰りたくなる理由を史緒は想像できない。櫻を引きつけるものがここにあるとは思えない。あえて挙げるとすれば、アダチの地位とか(当時、彼は跡継ぎとして育てられていたわけだし)。でも父親には「これから会いに行く」とまるでついでのように言った。「種明かし」とやらのお膳立てのため。そう、櫻がやりたいのは「種明かし」だ。
──首を揃えたところで種明かししてやるさ
(なにを?)
さっき、蘭に対して怒りをぶつけていた櫻は史緒の記憶の中の彼とは少し違っていた。
他人に危機感を与えないと気が済まないような語りかけ、薄い笑みを含んだからかい、傷つけることを意識した物言い。悪く言えば、他人にたたきのめしそれで満足する人かと思っていた。
でもさっきのは、自嘲するような中に余裕のない怒りを蘭にぶつけ、史緒に、そして櫻自身に苛立っているように見えた。
あんな人だったろうか。
史緒の目が肥えたのか。櫻が変わったのか。いつもの態度を保っていられない何かがあったのか。
「…蘭」
「は、はい…っ!」
視線を落とし史緒の隣に座っていた蘭が泣きそうな表情で反応する。突然の名指しに驚いたわけではなさそうだ。いつ声を掛けられるか、気を張っていたのだろう。史緒は安心させるように笑いかける。
「訊いちゃだめなのね」
「…っ」
「いいのよ。無理には訊かない。近いうち、種明かしはしてくれるみたいだし」
「…」
蘭の視線が泳ぐ。幾度か唇が空回り。歯を噛み、きつく目を閉じた。
「…ごめんなさい、史緒さん。やっぱり、あたしの口からは、言えません」
「うん」
「でもね」
「ん?」
「櫻さんが考えていることは…わかりません。でも、櫻さんが何年も、子供の頃からずっとずっと、捜し続けていたもの、あたし知ってます。どんな理由があったかは知りません、でもどれだけ長い年月をかけてそれを捜し続けていたかは、本当に、よく知ってるんです。これだけは自惚れてもいい、櫻さんの次に、あたしが解ってた。それなのにあたしが…その気持ちを裏切るような嘘を吐いたから、だから櫻さん…あんなに、怒って…」
嘘を吐いたことの自責か、櫻を怒らせたことの悲しみからか、涙を堪えるために蘭の声は途切れた。手を伸ばしてその頭を抱えるように撫でると震えた声が返る。
「ごめんなさい…、ちゃんと話せないのに、自分のことばかり言って」
「いいよ」
蘭と櫻のあいだに何があったのか、史緒は知らない。いや、「知らない」というのは言い訳がましい気がする。きっと、ちゃんと、2人を見ていれば気づくことはあったはずだ。けれど櫻から逃げ回ってばかりだった幼い頃の史緒にそれは無理な話で後の祭り。今更ながら蘭と櫻のあいだにある因縁を目の当たりにして、軽いショックすらあった。
(見逃していることがあるんだ)
幼い頃は見過ごしてばかりだった。なにも見えていなかった。見ようとすらしなかった。
櫻の苛立ちの理由。他人にあたる理由。(どうして亨くんを?)目的。
当時は逃げてばかりだったこと、今は少しだけ冷静に考えることができる気がする。
「その嘘って、───蘭が先に見つけたことだね」
「!」
司の発言に蘭が飛び跳ねた
「どうして…っ」
「司もなにか知ってるの?」
「いや、知らないよ。最近になっていろいろ入ってきた情報による推測」
「司さん」
「わかってる。史緒はやっぱり本人の口から聞いたほうがいいよ」
蘭からの呼びかけを正確に読みとった司は肩をすくめて、推測を明かす意志は無いことを示した。史緒は息を吐く。
「そうね…。どうせすぐに、呼び出されるみたいだし」
司が口にした「本人」が指すのは櫻ではないことを、このとき司と蘭だけが知っていた。
「…やっぱ写真は出ないかぁ」
と、健太郎が呟き、全員が注目した。
健太郎は不本意極まりないといった表情でノートパソコンを睨み付ける。それからキーボード部分を軽く叩いた(相手は精密機械なので手加減したのだろう)。
「櫻氏が失踪中のあいだ、誰と行動していたかは解るよ。さっきの様子からして人違いってことはなさそうだ」
と、パソコンをテーブルの上に乗せ、モニタをこちらに向けた。司以外が覗き込む。
モニタには、カタカナで記された人名と、その下に簡単な略歴が連ねてあった。簡単な、というのは、表示されている行数が少ないという意味であって、その内容を指すものではない。「簡単な略歴」の中にはそれが物なのか理論なのか法則なのか汲むことができない専門用語も多く、日本語で書かれているにも関わらず酷く難解な略歴だった。かろうじて何かしらの分野の研究者だということは読みとれた。史緒は知らない人物でだった。
「写真嫌いな人らしくて、ネットからじゃ経歴くらいしか出せなかった。兄貴のとこの社内報のこの人の写真が出てて、遠目だけど櫻氏が一緒に写ってたんだ。今度、持ってくるよ」
「どこの国の人?」
「イギリスだったかな? でも一年中仕事で飛び回ってるって。ちなみにこの人、今、来日中。さらに前に来たのが3年前。間違い無いだろ」
「そうね…」
櫻はこの世にいないと思いこんでいた3年間、世界のどこかで、誰かと、櫻は確かに生きていたことを実感させられ複雑な気分になる。
とうに頭では理解しているはずなのに、なかなか心が付いていかない。
櫻が生きていたこと。
「───ねぇ」
不満げな声をあげたのは祥子だった。
「どうしてこんなときに篤志がいないの?」
「……」
史緒は答えられなかった。
それから史緒のそれとはまったく別の思いで、蘭は視線を落とし、司も口を閉ざした。
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