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■04
 篤志が実家へ着いたとき、時間は夜の8時を回っていた。チャイムを鳴らしたあと自分で玄関を開けると、いつもどおり父がリビングから顔を出した。
「やぁ、おかえり。お、なんだ、みやげはないのかい。気が利かないなぁ」
 昼間に電話したときの緊迫感は欠片もない。今が非常時だということが伝わっているのか疑わしいくらい、いつもの鷹揚な態度だった。
 かなり気を張って帰ってきた篤志は毒気を抜かれた思いで大きく息を吐く。父はそんな篤志をからかうように歯を見せて笑った。篤志も、笑い返した。
 家に上がって父のあとを歩きリビングに入ったとき、いつもの姿見えないことに気付いた。
「お母さんは?」
「んー、今は休んでる」
「具合でも悪いの?」
「いや」
「昼間、櫻が来たんでしょう?」
「らしいな。訊かれたことには答えたって言ってたよ」
「…そう」
 嘘を吐かないでいようと、最初に言い出したのは母だった。
 そしてそれを最初に訊きに来るのは櫻だと篤志は解っていたから、いずれ父か母か篤志が櫻に頷く日が来る、そこまでは予想していた。
 ただ、櫻が安穏な訊き方をしてくるとは思えなかったので、櫻と相対することになるのは篤志の役目であって欲しいとどこかで願っていたが、結局、クジを引いたのは母だったというわけだ。
「起きてるなら、顔見てきたいんだけど」
「寝てるよ」
「お父さん」
「放っておいてやれ」
「…」
 父は振り返って笑った。
「それより、帰ってきたばかりで悪いけど、お茶淹れてくれないか?」

 リビングテーブルの上に書類が並べられる。戸籍と、養子縁組した際の書類。それから篤志が昼間取ってきた、亨の死亡に協力した医者の念書と証書など。「関谷篤志」を調べられたときにすぐにはバレないよう、作成時の小細工はあるが、咲子のいたずらを社会的に表し、法的に納得させられるものだ。
 そのときが来たらどうするかは事前に話し合ってあった。篤志と高雄は書類の内容を事務的に確認し合った。
「これで俺の仕事は終わったかな。君のほうはまだまだこれからがヤマだろうけど」
「ありがとうございます」
 書類はすべて封筒に収められ、篤志が持つ。この先、これをどう使うかは篤志に一任されている。
「言っておくけど」
「はい?」
「ハタチ過ぎた息子のやることに口出しする気はないよ」
「10代のときも、口出しされた憶えはあまり無いんですけどね」
「うん、まぁ、…そうだね」
 高雄がおどけて言ったので、それに倣い篤志も返したら、一本取られたというように高雄は頭を掻いた。
「でも今回はひとつだけ」
「はい」
「この先どうするかは、ちゃんと篤志の意思で決めて欲しい。何にも囚われず流されず、望んだ未来を選択して欲しいと思ってるよ。───おっと、突き放してるわけじゃないんだ。責任を押し付けてるわけでもない。むしろ、責任は俺や和代にある。…ただ、今回決めなきゃいけないのは、君自身の未来のことだから。他に気を遣うようなことはせず、望むとおりに、決めて欲しいんだ」
「お父さん」
「俺らは家族であり、咲ちゃんのいたずらに加担した共犯という仲間でもある。最後まで味方でいるし、篤志がどんな未来を選択しても受け入れるよ。もし誰かから責められても、君だけのせいじゃない。もし拒絶されることがあったら、ここに戻ってくればいい。そういう意味で不安になる必要はない」
「……」
「俺は今でも、12年前に咲ちゃんがしでかしたことに疑問がある。きっと他にできることはあった。別のやり方があったはずだ。でも今それを責めることはできないし、あのとき一番悩んだのは咲ちゃんで、彼女も、考えうる最良の選択をしたはずだから。───あのときの咲ちゃんのいたずらに多くの人が巻き込まれた。そのうちの一人である篤志が、今度は自分のために選択しなきゃいけない。最良でなくてもいいんだ、君が望むものを。…それが、俺が口出ししたいことだよ」
 そう締めくくって高雄は口を閉ざす。表情は深く、言いたいことは伝えきったという達成感と、これから篤志が直面する問題への同情が読みとれた。篤志は視線を落とした。
「…後悔してますか? 俺らに関わったこと」
「してないよ。感謝はしてるけど」
「え?」
 顔を上げて目が合うと、高雄は大きく口端を引いて笑う。
「君と暮らすのは楽しかった」
「───」
 12年間、家族として暮らしていた。
 それは篤志が生まれてから現在までの、約半分の時間。
 「良い子でいなければいけない」と意識していた時期もあったが、喧嘩もしたし、心配もさせたし、迷惑もかけたし、怒られることも恨むこともあった。それでも両親は信頼してくれていた。自分の境遇に不安になったときも、慰め励ましてくれた。愛されていると気付くことができた。
 自然と笑みが浮かぶ。
「その割には、高校卒業後は出ていけってしつこく言ってたよね」
「それはアレだ。千尋の谷底に落とすというやつだ。実際、こっちも、子離れしなきゃならなかったんだよ」
 そっぽを向いて言い訳のようにぼやく様が可笑しくて篤志は吹き出した。けれどすぐに表情を改める。
「俺も、感謝しています。ありがとうございました」


「ひとつ、訊いてもいいかい?」
「はい」
「欲しいものをひとつ選ぶとしたらなんだ?」
「ひとつには絞れません」
 高雄の質問の意図は、息子が父親にねだるようなものでない。篤志も解っている。自分の未来を他人にねだることはできないから。
 篤志の即答に高雄は面食らったようだ。貪欲だな、と笑う。
「じゃあ、いくつならいいんだよ」
「そうですね…。3つかな」

 篤志の願いは単純で、でも少なくはない。そしてきっと、簡単でもない。
 史緒のそばにいたい。
 櫻と話せる場所にいたい。
 アダチに入りたい。
「どちらの名前で?」
 高雄は相槌のように軽く質問してきたが、今まで篤志を育ててくれた関谷夫妻にとって、その答えが重要なものだと知っている。
 そう、篤志が選ばなければならないもののうちのひとつは名前だ。
 どちらを選ぶこともできるだろう。元の名を名乗ることも。今のままでいることも。
 その時機(とき)がきたらどちらを選ぶのか。篤志自身、長く考えていたことだ。
 けれど今も、どちらかを選ぶことはできていない。
 どちらでも構わない。
 元の名を名乗りたいわけでも、今の名を守りたいわけでもない、それ以上に欲しいものがある。
 史緒や櫻のそばにいるにはどうすればいいか。どちらの名であることを要求されるのか。今まで騙し続けていた自分を、どちらの名であれば受け入れてもらえるのか。
 高雄の質問には答えられなかった。



 電話が鳴った。番号は非通知。篤志は少しだけ迷う。非通知で掛けてくる相手に心当たりはない。もし史緒なら今は話したくない。そして今の状況で蘭や司が非通知で掛けてくるとは思えない。
(誰だ?)
 さらに5秒迷って、篤志は通話ボタンを押した。
「おせーよ」
 と、聞こえてきた声は櫻だった。
「櫻? この番号、誰から聞いたんだ」
「親父のところに行ってきた。根回しご苦労さん、あまり驚かれなかったよ」
 篤志の質問は無視されたのだろうが、櫻の科白から答えは読みとれた。
「一条はどこまで知ってるんだ? 少なくとも、史緒よりはずっと解ってるようだな」
「史緒に会ったのか!?」
「蓮家の末娘を問い詰めに行ったついでだ。あいつに用なんか無い」
「…っ」
 篤志は今すぐ事務所へ駆け込みたい衝動に駆られた。
 櫻と再会して史緒は平静でいられただろうか。取り乱さないでいられただろうか。以前のように一人閉じこもっていないだろうか。最後に会ってから何日も経ってない。篤志の件で不安にさせているところにさらに心理的負荷が掛かっているはずだ。
 蘭からは連絡は入ってない。おそらく気を遣ってのことだろうが、史緒は大丈夫だろうか。
 会いに行って励ましてやりたいとは思う。けれど自分にその資格があるかは疑問だ。今、史緒を不安定にさせている原因の一旦は間違いなく篤志自身で、かといって、篤志が隠していることを告白したとしても余計に困惑させるだけなのは目に見えている。
(…いや)
 篤志はすぐに思い返す。
 史緒を慰め励ますことができるのは、今は篤志だけじゃない。いつのまにか自惚れていたのだろうか。
 三佳や祥子、その他の仲間たちの存在に期待してもいいはずだ。
 心配する必要はない。
「おい」
 反応のない篤志に気を悪くしたのか苛ついた声が聞こえてきた。
「どうせ、どのタイミングでバラすか迷ってたんだろ? 明日、親父のところに来いよ。史緒にも連絡が行ってるはずだ」
 顔を合わせる席は設けてやった、と櫻は言う。
 実際、篤志はどう切り出すか悩んでいた。
 効率の良い手順を考えれば、政徳に証拠を出したあと、史緒に話して納得してもらい、集まって社会的な後始末について相談したかった。けれどやはり、どう考えても、史緒に納得させるのが一番難しい。
 全員が集まって話ができるなら、史緒も自分も感情的にならずに話ができるだろう。そういう意味で、櫻の申し出は都合が良かった。───担がれている気がしなくもないが。
「……わかったよ」
 電話の向こうで櫻が小さく笑った気がする。
「じゃあ明日、親父のところで。時間は───」


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