キ/GM/41-50/48
≪23/25≫
* * *
史緒は夕食のあと早々に自室へ引き上げていた。考えることがありすぎて三佳との会話も、食事さえままならなかったからだ。
携帯電話を手に取る。しばらく睨み付けて、結局なにもせずに ベッドに投げ捨てる。それを2回繰り返した。
なにが言いたいかも定まっていないのに誰かに助けを求めるなど、自分らしくない行為だ。
史緒はベッドの上に寝転がった。
(…私って、最低な人間なのかもしれない)
こうして落ち着いてみても、櫻が生きていてくれて良かったとは思えないでいる。実の兄なのに。
死んでなくて良かったとは思う。でもやっぱり、再会できて嬉しいという気持ちは無かった。
(だって、櫻は亨くんを)
「…っ」
思い出したくなくて、思考を遮るために目を瞑り、シーツに顔を埋める。
(───どうして亨くんを?)
史緒の記憶の中の2人は、仲の良い兄弟だった。
いつも一緒にいた。2人で笑っていた。見分けがつかないくらい、同じ笑顔だった。
(そうだ。あの写真よりずっと前は、櫻だって)
それはいつ頃のことか。
母がいた。マキさんと4人で母のお見舞いに行っていた頃。その頃はたしかに、櫻は笑っていた。
史緒の手を引いてくれていたのは亨だ。亨に連れられて、櫻を見つけると、櫻の隣りには母がいた。
両親がいない家で、夜、2人と同じ布団で寝付くときもあった。本を読んでくれたり、子守歌を唄ってくれたり。
とても自分のものとは思えない記憶にくらくらする。祥子あたりに話しても信じてもらえないだろう。自分でさえ、信じられないのだから。
(記憶でなかったら、想像すらできない…)
思わず笑いが込み上げる。
次に泣きたくなった。切ない温かさが胸に灯る。
(…懐かしいんだ)
あの頃は独りでいることなんてなかった。
マキがいて、2人の兄がいた。みんな、笑っていてくれた。
(櫻は、どうして……。───いつから?)
亨が死んだ日?(違う、亨くんを殺したのは櫻。もっと前、あの写真を撮る前のはず)
写真には蘭も写っている。あれはまだ蘭と出会って間もない頃だった気がする。
蘭を紹介してくれたのは亨。その場に櫻はいなかった。
(もっと前)
いつから? なにがあった? 亨は知っていた?
史緒は気付かなかった。
知らないうちに、始まっていた。
ベッドの上に放り出してあった電話が鳴った。寝床に埋もれている電話をすくい上げ、液晶表示を目にすると史緒は眉を顰めた。
「え」
驚いたことに父親から。
用があるときはいつも、和成を経由して連絡が来ていたのに。
──俺はこれから親父のところへ行く
櫻はそう言った。それを実行したのなら、この電話の内容は決まる。そうでないとしても、今、父親と喋るのは気が重い。史緒は何度か意識して呼吸を繰り返し、最後に手を胸に当てて長く息を吐いて、ようやく電話に応じた。
「櫻に会ったか?」
簡単な挨拶のあと、政徳は言う。史緒は頷くしかなかった。
「…はい」
「事前に聞いてはいたものの、やはり驚いたな。櫻が」
「ちょっと待ってください」
そこで父親の言葉を中断させることができるくらいには、史緒の頭は働いていた。
「…なんだ」
「“事前に聞いてはいた”って、誰から聞いたんですか?」
「和成だ」
「一条さん? どうして? 今日より前に、櫻に会ったの?」
「和成は篤志から聞いたらしい」
「───篤志?」
めまぐるしく展開していく状況に頭と胃が痛くなってくる。
時系列を整理することができない。
櫻と最初に再会したのは誰か。蘭? 司? 篤志? 少なくとも、史緒はかなり遅れて櫻と顔を合わせたようだ。
どうして櫻は、史緒を含め彼らに接触したのだろう。蘭はなにか知ってる。司も勘付いている様子はあった。篤志は?
一体、なにが?
「櫻がなにか話があると言ってる。私としても、これからのことについて櫻の言い分ははっきり聞いておきたい。明日、こちらに来られるか?」
──首を揃えたところで種明かししてやる
(種明かし?)
(なにを?)
──親しい人間に騙され続けていることに気づかず、俺が教えてやったことも忘れて
(私が?)
(親しい人間って?)
──あいつを見つけるための餌として利用しただけだ
(あいつって誰のこと?)
「史緒?」
意識が飛んでいた。史緒は慌てて電話に耳を傾ける。
「は、はい」
「明日、大丈夫か?」
「ええ。伺います。…あ、あの」
「なんだ」
「…篤志は? そちらにいるんですか?」
「ここ数日は来てないが」
「え?」
じゃあ、どこに行ってるというのだ。
──俺が最後に言ったことを忘れたのか?
(最後……?)
目を閉じて記憶を辿る。櫻を見た最後。最後の日。
それは嵐の日。崖の上。櫻は荒れ狂う空を背にして。強い風の中で。
そう、痛いほどの風と音の中で。
胸の中にネコがいて、数歩先に櫻がいて。
櫻の、唇が動く。
──黒幕は咲子だな
「…咲子さん?」
史緒は思わず声にして呟いていた。目を開けると自分の部屋、記憶の中の光景との違和感に軽い眩暈があった。
もう一度目を閉じる。
実際、あの崖の上でも、史緒は聞き返したと思う。
──2度は言わない
(なにを?)
ふざけないで、と怒鳴り返した。
(どうして?)
許せなかったから。
櫻が殺したくせに! 掠れて、声にならなかったけど。
許せなかったから。たとえ冗談でも、外(ほか)でもない櫻が、それを言うことを。それを。
それを。
「…」
記憶の靄(もや)が晴れていく。
あの荒れ狂う風の中で。嵐の空の中で。黒い海を見下ろす崖の上で。
櫻のコートも史緒の髪も掻き乱された。櫻の唇が動く。史緒は確かにそれを見た。うるさいほどの風の中で。史緒はそれを聞いた。
──亨は生きてる
櫻は、そう言ったのだ。
「───…」
史緒はひとり部屋の中で、目を、見開いた。
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