キ/GM/41-50/49[1]
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(頭痛い…)
足下がふらふらして、気を抜くと視界がぶれてしまう。朝、家を出るとき、あまりの体調の悪さに回れ右して自分の部屋へ戻ってしまいたかった。
寝不足なのは自分が一番よく分かっている。一時間も眠れなかった気がする。眠ろうとしても、頭の中を目まぐるしく飛び交う疑問や不安、不明なことにも自分なりの解釈を出そうと止まらない思考が、睡眠を許してくれなかった。
大半は櫻のこと。
そして亨のことだ。
昨夜、政徳から連絡があり呼び出された。櫻が、話をしたいのだという。
櫻に会いたくなんか無い。でも櫻が残したいくつもの謎ははっきりさせておきたい。種明かしと言った。史緒が見えていないこと、解ろうとしていないこと。それが知りたくて、こうして不調を押して出てきたのだ。
集合場所はいつもと同じ、アダチ本社ビル。もう目の前まで来ている。
足を引きずるようにエントランスをくぐると、空気が変わった。たくさんの人々が入り混じり、それぞれの仕事のために動き、それぞれがこの会社を動かしていることを実感する。おおきな流れを感じる。
その、いつも通りの人の流れが、今日が特別な日ではないことを教えていた。こんなにも身体と気持ちが重い日でも。
(行こう)
史緒は気を取り直し、姿勢を正し、気合いを入れ直した。
受付で所定の手続きを済ませ、エレベータホールへと足を進めた。
櫻はあのとき、嵐の崖の上で、亨が生きている、と言った。
咲子が黒幕だと。
(…なんで)
なんでそんなことを言うんだろう。冗談でも質(たち)が悪すぎる。
──俺が最後に言ったことを忘れたのか?
確かに忘れていた。でも思い出した。
(どういうこと? 櫻は今でも、亨くんが生きてると主張するの?)
あの桜が散っていた春の日から、もう10年以上経つ。史緒は7歳で、櫻と亨は12歳だった。
(馬鹿なこと言わないで)
ただでさえ、今、櫻のことで現実を受け止めるのが精一杯なのに、その上、亨のこと。
失踪扱いだった櫻とは違う。亨は死亡している。他でもない、櫻が殺した。
あの、桜の日に。
(亨くんが生きてると言うことでどうしたいの? 私になにをさせたいの? 昔のことを掘り起こして、あの頃のことを思い出させて、一段落させたはずの気持ちを揺さぶろうとしてるの? いつもの嫌がらせ?)
そうだとしたら胸がささくれる。
(そうでなくても、痛いのに)
「…っ」
胸を押さえたけどもう遅い。
込み上げるものがある。ぶり返す。おおきな波が心を揺さぶりにくる。
その波は涙が滲むほど激しい。
10年経っても、まだ崩れてしまう。息ができずに、苦しくて、胸が潰されてしまう。一体いつになったら、呼吸を乱さずに済むくらい、この記憶は風化するのだろう。
誰だって、息ができなくなる過去がある。自分だけではないことくらい知ってる。それでもこの社会が、この景色があるというのなら。
(誰もがこんな気持ちを持っていてそれでも笑っているなら、私は、弱いんだわ)
壁に手を付いて深呼吸。ここは父親の会社の中だ。崩れるわけにはいかなかった。
(櫻……、亨くんが、なんだって言うの?)
初めて失った。好きな人。大切なもの。
櫻が奪った。言葉にできない重い気持ちを知った。なにもできなかった。
それがきっかけで。
───いつのまにかずっと願っていた。
もう失わないように。大切なものを無くさないように。
そばにいてくれる人たちを手放さないで済むように。
強くなって、それらを守れるように。
あのときの気持ちを、二度と味わわないように。
最初は、胸の中に収まるくらい小さな子猫。
守れることを教えてくれた人。
遠い国の友達。
母。
母代わりだった人。
雷を怖がっていた同居人。
親戚(はとこ)。
友達。
同業人。
そして仲間達。
それでも失ってしまった人がいる。だけど。
願うことをやめられなかった。
───もうなにも失いたくないの。
亨を失ったときの言葉にできない悲しみ。淋しさ。なにもできずにいた自分への無力感。それらを、もう二度と。
(櫻……)
根幹を揺るがさないで。
(亨くんが、なに?)
櫻はあのとき、なんて言ったのか。
「亨は生きてるよ」
そして、
「黒幕は咲子だな」
と。
(……?)
「生きてる」ことの「黒幕」とはなに?
咲子がなにか、櫻にとって都合が悪いことをした?
(咲子さん…?)
史緒の前で、咲子は最後まで笑っていた。亨のことで史緒が閉じこもるようになってからも、変わらずに笑っていてくれた。病身で、本当は痛く苦しかったはずだ。子供の頃の史緒はそのことに気付かないままだったけれど。
(咲子さん……、と、櫻…?)
そういえば、変わってしまった後の櫻と咲子が顔を合わせているところはほとんど記憶に無い。亨と同じ顔で笑っていた頃の櫻は咲子と仲が良かった気がするけれど。
(咲子さんに対しても、酷い言葉で傷つけたりしていたのかしら)
(櫻は咲子さんのお見舞いに行ってた? あ…、私、全然知らないんだ)
史緒自身はは和成に連れられて咲子のお見舞いに行っていた。
日の当たる病室、ベッドの上で上体を起こし、水色のカーディガンを肩にかけて、窓の外を見ていた。史緒と和成が訪れると、こちらを向いて、逆光になった顔が、やさしく微笑む。
──史緒
(……?)
なにか、言っていた。
──櫻を恨まないで
──大丈夫、あなたを守ってくれる人が現われるわ。…そういう約束なの
「…───」
そうだ。もう忘れかけていたけど、そう言われたことがあった。
和成のこと? 確か、彼が阿達の家に住み始めたのは、咲子の紹介だったと聞いたことがある。けれど、咲子にそれを言われたとき、和成はすでにいた。未来形で語られたということは、和成ではない気がする。
──櫻を恨まないで
咲子は、櫻のこと、なにか知っていたのだろうか。
──あなたを守ってくれる人が現われるわ
これはおそらく、史緒を安心させるための、未来を夢見させるための方便だったのだろう。…でも。
──約束なの
どうも引っかかる。
守ってくれる人?
史緒ははネコを守っていた(それが驕りだとしても)。同じように、誰かに守られていた?
「……?」
守ってくれるって、何から? 咲子が言ったのは、もちろん───櫻から、だ。
和成やマキさん、2人はすでにいた。司と蘭、司が家に来たのはまったくの不可抗力だし(咲子と約束があったとは思い難い)、蘭とは離れていた。あぁ、でも、蘭は櫻のことをなにか知っているようだった。
そしてあの頃はもう一人、櫻と臆することなく話し、向かい合い、閉じこもっていた史緒の手を引いて、外に連れ出して、色々な景色を見せてくれたのは、篤志だった。
篤志に初めて会ったのは咲子が他界した後。はとこがいるなんて知らなくて、血縁と聞かされて驚いた覚えがある(櫻も訝しんでいた)。家に出入りするようになって、司と仲が良くて、史緒が家を出るときも一緒に来てくれた。
(でも確か篤志は咲子さんと面識が無いはずだし…)
ちん。
軽い音がして、現実に戻される。
史緒の目の前でエレベータの扉が開いた。
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