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 これから櫻と会わなきゃいけないと思うと一気に足が重くなる。
 13階。エレベータが開くと、いつもどおり和成が待っていた。櫻の生存が知れてから、顔を合わせるのは初めてだった。
 型どおりの挨拶を済ませて並んで歩き出す。このフロアの床は絨毯が敷いてあり足音を吸収するため、沈黙が一層際だつ。そっと覗き込むと和成の表情は硬い。目が合うと、彼はごまかすように笑った。言葉が出ることはなく視線を戻す。やはり、硬い表情で。
 和成は阿達家の事情をよく知っている。史緒と櫻が顔を合わせることに気を揉んでいるのかもしれない。
「受付(した)で聞きました。もう来てるんでしょう?」
「───史緒さん」
 できるだけ気丈に言ったあと、それ以上に慎重な声で返された。
「はい?」
 顔を上げると、和成はこちらを見ていた。
「最近、篤志くんに会いましたか?」
 顔を強ばらせてなにを言うかと思えば。
(篤志? なんでここで?)
「…最後に顔を見たのは先週ですけど。どうして? 最近、篤志はここに来てるんでしょ? 一条さんのほうが詳しいんじゃないの?」
「いえ、すみません。…なんでもありません」
 和成はそう言って、また視線を戻す。
「…?」
 そして扉の前に着いた。
 足を止め、姿勢を整える。
 ここにはもう何十回と来てるはずなのに、緊張し、足が震えていた。
 扉の向こうに櫻がいると思うと一気に体が熱くなる。手のひらに汗。
 櫻に会う、ただそれだけのことで。
「史緒さん」
 和成が気遣うように声を掛ける。
 深呼吸をひとつ。
「…大丈夫です」
 昨日はみんなの前で醜態をさらしてしまったけど。
 大丈夫。あの頃とは違うのだ。




 阿達本社ビル社長室。
 政徳はいつもどおり自分の机に座っていた。そしてこちらに背を向けたソファに座る、櫻。
「……」
 足が止まってしまう。でも奮い立たせて、前へ。
 ソファに座っている、その頭しか見えないのに圧迫感がある。たぶん、これは史緒の意識のせいで、実際はそんなことないはずなのに。
「おは、ようございます」
 父親に挨拶をする。情けないことに声が震えてしまった。櫻は動かない。
「なにをしている。座りなさい」
 と、政徳が言う。
 けれど、とてもじゃないけど、櫻と同席なんてできない。
「いえ、私はここで」
 と、言いかけたところで、櫻がソファから立ち上がった。
「…っ」
 思わず身構えたとき、
「いいから座れよ」
 櫻が面倒くさそうに言った。
 史緒のほうを見ようともしない。ソファから離れて窓際へ移り、書棚に寄り添い、そこに落ち着いた。史緒はおそるおそるソファに近づき、櫻がさっきまで座っていた長椅子ソファの向かい、扉のほうを向くかたちで腰を降ろした。扉の横では和成が控えている。
「篤志も呼んだんじゃないのか?」
 と、政徳が櫻に言った。
(篤志?)
「後から来ますよ」
(篤志も来るの? どうして?)
 それを問える空気ではなかった。

「最初に言っておきますが」
 この部屋にいる全員に聞かせるように、櫻はよく通る声で言った。
「今回、本当なら俺は名乗り出るつもりはなかった。死んだと思われているならそれで構わなかった。それなのにこうしてお父さん達の前にいるのは、明らかにしておきたいことがあったからです」
 きわめて事務的な物言いのあと、面倒くさそうに溜め息を吐いた。
(明らかに、しておきたいこと?)
(それが、櫻の言う種明かし?)
「……それで?」
 政徳の促しを受けて櫻は頷く。
「その前に俺にとって不名誉な噂があるらしいので訂正させてください。───史緒」
「!」
 刺すような視線を感じて思わず声をあげそうになったがどうにか抑えることができた。
「俺はおまえに殺された覚えはない」
「……っ」
 政徳と和成の安堵の吐息が聞こえた気がした。
 ───あの瞬間の記憶は曖昧だった。
 櫻のコートが風に煽られ、傾き、史緒は反射的に手を伸ばし、触れた。
 突き落とそうとした? それを実行しても不思議ではなかった。
 助けようとした? そんなこと絶対にあり得ない。
 やり直しも引き延ばしも利かない瞬間、理性も間に合わない刹那、反射的に、どちらを選んでいたかなんて。
「で、本題」
 苛立ちのこもった声が室内に響く。
「おまえはまた忘れてたみたいだけど、あの時、俺は言ったよな。亨は生きてるって」
 目に見えて驚いたのは政徳ひとりだけ。声は出さなかったものの、表情が揺れ、椅子から乗り出し、机が音を立てた。
 扉の横にいる和成は口を引き締め、表情を隠すようにうつむいた。
 史緒は息を詰め、膝の上で拳を作る。その仕草だけで櫻は見抜いたらしい。
「なんだ。思い出してたのか」
「……」
「櫻、ばかを言うな、なにを…」
 政徳は不快を表し、冗談にしては悪質で不謹慎な内容を窘めようとした。
 史緒も同じ思いだ。けれど、政徳より考える時間を与えられていた史緒は、櫻の言うことをすぐに斬ることはできなかった。
 冗談、ではないと思う。それから、そう、そんな嘘を吐くことで櫻がなにか得をするとも思えない。史緒に過去のことを思い出させ不安にさせるための揺さぶりだとしても、それは櫻にとってさして重要なことではないはずだ。
 嘘、ではない?
 そうだ、少なくとも、櫻は揺動で言ってるんじゃない。嘘は言ってないのだ。
 史緒は唾を飲む。
「櫻がそんなことを言うのは、亨くんを見たから?」
 思いの外しっかりした声が出た。たぶん同じことを思ったのだろう、櫻が意外そうな表情で振りかえる。反射的にうつむきそうになったが堪(こら)えた。視線がぶつかる。目蓋がひきつるのが分かる。でも、目を逸らさなかった。
 櫻、薄く笑い、首を傾げて、
「いいや」
(じゃあ、思いこみ?)
 安堵したような、残念なような、緊張が解けて疲労を感じた。
 では、櫻はなにを根拠にしているのか。
 己の目で確かめず、けれど長い間そのことを疑わなかったなら、それなりの理由があるはずだ。
「亨を殺したのは俺じゃなくて、咲子だよ」
 と、可笑しそうに口にする。
 カッとした。やっぱり馬鹿にされているのか?
 亨を殺したのは櫻だ。その口が亨は生きてると言った。おまけに殺したのは咲子?
「……なにを言って」
 ソファから腰を上げる。落ち着いて座ってなどいられなかった。
「史緒は現場を見たし、お父さんも一応は聞いているとおり、亨を殺そうとしたのは俺。動機は言わない。でも」
 まっすぐに目が合った。
「咲子は知ってた。だから、亨を殺したんだ」
「……?」
 今度こそ史緒は絶句してしまった。文字通り言葉を返せず、立ちつくす。
「櫻」
 政徳は机に拳を置き、もう一方の手で額を抑えている。
「まずは、殺す、殺さないと言うのはやめてくれ。気分が悪くなる」
「それは失礼」
「…待って、そんな説明じゃ分からないわ! 結局、亨くんは」
「死んだよ。墓だってあるだろ」
「なにそれ…、じゃあ、櫻が言った生きてるってどういうことなの?」
「墓はある。でもその下に骨があるかは別問題だ」
「……っ!」
「そういう話だよ。黒幕は咲子だって言ったろ」
「……え?」
 史緒はまだ話についていけない。
 どういう話だって?
 墓はある。骨はない。
 寒気がした。
(まさか本当に?)
(本当に亨くんがいる?)
(法的には死んでる。でも骨はない? ───生きてるの? 咲子さんが、なにか……?)
「最期まで口を割らなかったけどな」
 と、櫻は窓の外を見て、遠い目をした。


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