キ/GM/41-50/49[1]
≪7/22≫
「はろー」
健太郎が声をかけると、やわらかそうな髪が揺れてぱっと不安げな顔がこちらを向いた。
間近で見てもずいぶん若く見える。身長は祥子と同じくらい。はっとさせられるほど深い青色の瞳だった。相変わらず表情は不安を表しているけど、大きな眼はまっすぐにこちらを向いてくる。
健太郎はとくに躊躇することもなく口を開いた。
『すみません、えーと、あなたはノエル・エヴァンズさんですか?』
『は…はい!』
「お、すげ、やっぱ本人か」
『…っと、いけない。名乗っちゃいけないって言われてるのに』
「え?」
『あのね、マーサに。危ないからって』
「……えーと」
速すぎて単語が拾えない。なにを言っているのか、その文脈を推定することさえ難しい。健太郎は少し考えてから言葉を並べた。
『今、なにか困ってる?』「独りでどうしたの?」『電車? どこへ?』「メモとかある?」
単語ばかりの日本語混じり(英語混じり、と言うほうが正解かも)。路線表を指したり、電光掲示板を指したりの手振り身振りでノエルに話しかける。
健太郎は怖じ気づいたり慌てたりしていなかった。落ち着いて、どうにか伝えようとしてる。祥子は素直に感心した。
『えと…っ、あたしね、ハルを捜してるの!』
うわずった声で青い眼が訴える。その勢いに呑まれて健太郎の言葉が止まった。祥子は少しだけ聞き取れた単語を反芻する。
「今、捜してるって言った?」
「だよな。…はる? なんだそれ。駅とか地名とか、観光地? 名物とか名産?」
「この娘、仕事で来てるんじゃなかった? 観光くらいはするかもしれないけど…、でも一人で?」
「あ、そか。じゃあ、社名とか? …どうかなぁ。───ハル?」
はっきり発音し首を傾げてみせると通じたらしい。
『あたしの家族!』
「ファミリー? あ、ハルって名前か。はぐれたの?」
『…あの、あたし、日本語、わかんないの』
早口だけど(本人は早口とは思ってないだろうけど)これは解る。
まぁ、大方の予想通りだ。
健太郎は安心させるようにノエルに笑いかけて「ちょっと待ってて」という仕草を見せた。そして声を潜めて(潜めなくてもノエルには解らないだろうに)祥子に問う。
「どうする?」
「どうする、って?」
「ここで英語できる人を捕まえるのは簡単だけど、それじゃつまらないし」
「え? なに? 簡単って」
「こんだけ人がいるんだし、呼び掛けりゃいくらでもいるだろ」
さすが、というかなんというか。祥子にはできない発想だ。それに今、つまらないと聞こえたけど?
「せっかく櫻氏と関係あるエヴァンズをオレらが捕まえたんだぜ? 他の人間にでしゃばられたら、あの兄妹の突っ込んだ話ができなくなるだろ。やっぱりここは身内だけで話を進めるべき! 今日、蘭は? どうしてる? あいつなら喋れるだろ、近くにいるなら来れないかな」
あの兄妹、というのは櫻と史緒のことだろう。好奇心というか打算的というか、見方を変えれば嫌な考え方だが、その熱心さに祥子は頷くしかなかった。携帯電話を取り出し、リダイヤルから蘭の名前を探す。
一方、健太郎は何気ない仕草でポケットから飴を取り出し、ひとつ、ノエルに差し出した。「飴、舐める?」(日本語)ノエルは首を傾げながらもそれを受け取る。健太郎は自分もひとつ口に入れて、さらにひとつを祥子に渡した。
じわり。ノエルの緊張が解けていくのが伝わる。
『ありがとー』
「どーいたしまして」
ノエルも飴を口に入れて、笑顔を見せる。なんか通じてるらしい。さっきまでの不安が和らいだのなら、良かった。それにしても。
(…危機感ないのかな、この子)
いつからこの駅で迷っていたのか知らないけど、よく変なのに引っかからなかったものだ。祥子と健太郎だって、ノエルから見れば初対面の赤の他人、もう少し警戒するべきだと思うけど。他人事ながら心配になってしまう。
蘭は事務所に向かっている途中だった。今から電車に乗るところだから電話はできないとのこと。軽く事情説明をしたら「わぁ、すぐ行きますねっ、えっと、あと15分くらい!」だという。蘭の好奇心も健太郎に劣らない。
祥子は携帯電話を折って健太郎に説明した。
「おっけー」
「…で、どうするの?」
「なにが」
「蘭が来たら会話はできるだろうけど、そのあと」
「なに言ってんだ、一緒にハルとやらを捜せばいいじゃん」
と、事も無げに言う。
あー、そう。祥子は苦笑する。
大物、なのだろうか。それとも単に楽天家なのか、なにも考えてないだけか。
だって、ノエルは櫻とつながりがある。祥子たちはそれに踏み込もうとしている。史緒は後で報告すると言ったけど、それを待たずにノエルに深追いしてもよいのだろうか。
(そりゃあ、今更、後には退けないけど)
この状況でノエルを置き去りにするわけにもいかない、最後まで面倒を見るべきだろう。
「まぁ、でも、あと15分も待たせるのは厳しいか。ちょっとは説明しておきたいよな」
「え?」
訊く間もなく、健太郎は口の中にあった飴を強引に飲み込み、電話をかけはじめた。
「あー、もしもし、オレ。三佳? 三佳って英語できる? ……うぉい、そういう意味じゃねーって! …じゃあ、史緒は? え、いないの? …あぁ! 昨日の今日でさっそく櫻氏に呼び出されたんだ? 親父さんの会社? へーえ」
どうやら事務所にかけたらしい。健太郎のよく動く表情がおもしろいのか、ノエルはその様子を見ていた。ふと、祥子と目が合う。間がもたない、話し掛けようにも単語が思いつかない。なんとなく笑いかけると、ノエルのほうも笑い返してきた。
健太郎がどこまで計算していたか判らないけど、飴を出したのは正解だった。口の中にものを入れてるので、無理に会話をする必要性は少なくなる。
「事務所に誰がいるの? 司? 代わってくれ。……・司? オレ、健太郎。あのさ、英語喋れる? うん、ちょっと通訳して欲しいんだけど。説明は長くなるからあまり突っ込まないでよろしく」
その後に健太郎はノエル・エヴァンズに会ったことを言い、伝えて欲しい項目として、通訳がこちらに向かってること、自分らは怪しい人間じゃない、一緒にハルとやらを捜そうってこと、を挙げた。
「頼むな。じゃあ、代わるから」
と、健太郎は会話を一段落させ、携帯電話をノエルに差し出す。
『え? あたし?』
「そうそう」
ノエルは戸惑いながらも電話を受け取った。窺うように健太郎の顔を見て、少し迷ったあと、ようやく電話に耳を傾けた。
『えっと、もしもし? …ぁ』
そのあと、まるで水を得た魚のようにノエルは喋り出した。明るい顔になって、声のトーンも上がる。ようやく話の通じる相手に(電話ごしでも)出会えたからか嬉しくて仕方ないという様子。
早口の英語。声は聞こえないけど相手は司だ。
(…もっと英語やっておけばよかったな)
ノエルと直接話ができること、素直に羨ましいと思う。
「祥子の能力もこういうときは役に立たないな」
と、健太郎が言った。むかっとするけど、この能力に対して言い返せるだけの自信はない。
「あんただって、大学で英語やってるんでしょ?」
「う」
有効な言い訳が思いつかなかったのか健太郎は言葉を飲んだ。
だけど健太郎の場合は相手が誰であっても、たとえ会話はできなくても、意思疎通はやってのけるだろう。祥子にとってはこちらもある意味羨ましいことだ。
『あの、これ』
ノエルが遠慮がちに携帯電話を差し出し、もう一方の手でそれを指差している。
「あ、まだつながってる?」
『うん!』
健太郎の言葉の意味が解ったわけではないだろうけど、ノエルは大きく頷いた。健太郎は電話を受け取り、
「よー、司。ありがとな。……わーった。……ん? え、なにそれ。なんか知ってんのか? って、おい…ぁ」
少しの会話のあと、耳から離し、訝しげにそれを見る。司になにか言われたのだろうか。
「どうしたの?」
「いや……。まぁ、蘭を待てばいっか」
気を取り直して電話をしまう。
「じゃ、ここにいても暑いしさ、そこの店で蘭を待ってよーぜ。ちょうどなんか飲みたかったし」
すぐそこの店を指さす。ノエルはなんとなく解ったっぽいけど、一瞬躊躇、健太郎、祥子の顔をそれぞれ見て、ちょっとの後、大きく頷く。
微笑って、並んで歩き始めた。
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