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 史緒は伸ばした指の先に車が風を切るのを見た。
 その直前に腹が締め付けられ、息が詰まり、後ろに引っぱられる強い力を感じた。背中が何かにぶつかる衝撃の後、膝に力が入らず崩れ落ちそうになる。すると、その、ウエストに回っている誰かの腕は、史緒をその場にゆっくりと座らせてくれた。腕の主は一緒に腰を下ろしたらしい。背中に体温を感じた。腕の力は弱まっていない。
 体が熱い。頭に痛みの余韻が残っている。鼓動が響く。危険回避後の体の当然の反応とは解っていても、史緒は耳を塞ぎたくなるほどの鼓動のうるささに圧倒されていた。
 座り込んでいる地面も、夏の太陽の光を吸収して熱い。でもそれ以上に体が───背中が熱かった。
 体に絡まる腕がある。確かな力に支えられている。その腕に鼓動が伝わってるのがわかる。相手の体温が伝わってくる。
 背中から腕を回されてるので顔は見えない。
 でもわかる。自分を助けたのが誰なのか、見なくても解ってしまった。
 すっと息を吸う音が聞こえて、
「櫻っ!!」
 すぐ近く、耳元で怒鳴り声。びりびりと腕から声の振動が伝わった。
 その声は焦ってはいない。呼び掛けであり確認。判りきっていることを確認するような、どっしりと構えた声だ。ビルに挟まれた通りによく響いた。
「うるせーな! 生きてるよ!」
 道の向こう側から苛立つような櫻の声が返った。どうやらあちらも地面に座り込んでいるらしい。おそらくノエルも無事だろう。良かった、と史緒は溜め息を吐く。
 それが伝わったのか、支えられている腕の力が緩んだ。
 そして怒鳴られた。
「おまえが飛び出すのは無謀だろ!」
「…ッ」
 史緒は首を縮める。そっと目を上げて顔を上げると篤志が鋭い目を向けていた。
 よく知ってる。何年も、毎日顔を合わせてた顔だ。
 しばらく目を合わせたあと、篤志が視線を外して深々と息を吐く。少しだけ不機嫌そうに頭を掻いた。
「あんまり無茶すんなよ」
「……」
 ふと、思い出す。櫻が海に落ちて、崖の上で茫然と立ちつくしていた史緒を、陸側に引き寄せてくれたのは篤志だった。あのときも、この腕に助けられたんだった。
(あのときだけじゃない。いつも、家にいたときも、出てからも。仕事でも、そうじゃないときだって)
(私はみんなを守ってる気でいた。一人で勝手に、相手の気持ちも見ないで勝手に、守ってるつもりでいた)
(でも私だって……っ)
 史緒の様子を変に思ったのか篤志が顔を向ける。
「…おい、どこか怪我でも」
 首を横に振って返すと安心したように口元が弛んだ。
「あなたは誰?」
「!」
 叩かれたようにその顔が歪む。そこにじわりと迷いと自嘲が混じる。
「さぁ…、誰なんだろうな。自分でも、よく分からない」
「私は」
 喋るためには体を支える力が必要だった。地面に手を付くとアスファルトから熱が伝わってくる。
「わがままで…、何も失いたくない、なんて思ってた。亨くんが死んだとき、すごく、怖かったから。もう何もなくさないように、って、努力してるつもりだった。それがうまくいかなかったこともあるけど、二度とあんな思いはしたくないから。───だから」
(決めるのは私じゃない)
(困らせるだけかもしれない)
(でも)
 ───思い通りに事を運ぶのに、努力するのは当然だと思ってた。
 自分ができること、他の人に動いてもらうこと。段取りして、手配して、実行する。祥子を入れたときも、蘭を入れたときも、史緒はそうして思い通りの結果を手に入れてきた。
 ──裏で動くだけでなく、その要望を素直に直接相手に言うほうがずっと簡単じゃない?
 そう言ったのは祥子の母親だった。
 それをできないのが私の性格なんです、なんて、笑わせる。努力もしなかったくせに。
 言えずに後悔したのは藤子。
 ちゃんと好きだと、いなくならないでと言っておけば、彼女は仕事や生活を改めてくれただろうか。いや、そんな軟らかい頭じゃなかった。でも、そうはならずとも、もしかしたら、少しは結果が変わっていたかもしれないのに。
(願うことは、篤志の意志と反しているかもしれない)
(困らせるだけかもしれない)
(でも)
 口にすることで、言葉以上に伝わるものがあるなら。
「私は、関谷篤志を失いたくない」
「───」
 見開いた篤志と目が合う。
「…今までみたいに、一緒に仕事ができなくても、い」
 そこまでしか声にならなかった。史緒はまたうつむいて、歯を噛みしめる。
(篤志が変わったんじゃない)
(私が勝手に裏切られたような気になってただけだ)
(今まで一緒にいたことが、嘘になるわけじゃないのに)
「あぁ」
 揺れる声が返る。
 篤志は後ろに両手をついて空を仰ぐ。体の力を抜いて、長い息を吐いた。
「……じゃあ、そうするか」
 少しだけ笑いを含んで、篤志は言った。
 史緒も倣って空を仰ぐ。ビルの隙間に、夏の青い空が見えた。





「健太郎、大丈夫っ?」
 祥子と蘭が駆け寄ると、櫻とノエルに巻き込まれて地面に転がっていた健太郎は手だけを持ち上げ、それを弱々しく振って応えた。
 咄嗟とはいえよくやる。櫻が飛び出したのを見て健太郎は地面を蹴り、歩道に頭から突っ込んでくる2人を庇った。櫻はノエルの頭を庇っていたので、健太郎は櫻の頭を腹に受けたらしい。結果、3人とも地面に伏しているが衝撃は抑えられたようだ。健太郎が起き上がり、櫻も上体を起こす。櫻はとくに行動を示さず、健太郎のほうを気に掛けることはなくノエルを離さない。
「怪我は無いのね?」
「俺はなー。…はぁ、心臓に悪い」
 祥子の問いかけに健太郎はおどけて返す。櫻も篤志の呼びかけに答えていたし、心配はいらないのかもしれない。それでも念のため、祥子は感覚を澄ませ3人の状態を視る。それぞれショックはあっても大きな怪我はなさそうだ。
「蘭はノエルたちの様子を確認して」
「は、はい!」
 後を蘭に頼んで踵を返し、通りを横切って反対側の歩道へ向う。
 ノエルが駆け出す前、櫻の隣りに史緒がいたのが遠目にも判った。一体、どういう状況だろう。まさかまた一方的に言葉をぶつけられていたりしないだろうか。それに、さっき、櫻だけでなく史緒も駆けだしていたように見えたけど。
(まったく世話かけさせて…! 怪我なんかしてないでしょうねっ?)
 反対側の歩道、ノエルのほうと同じく道に座り込んでいる史緒を見つけて祥子はひやりとする。
「史緒っ」
 そしてさらにその隣りに意外な人物を見つけた。
「って、えっ? なんで篤志もいるのっ?」


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