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 どんどん、と鼓動が鳴り響いていた。
 櫻は街路樹の縁に背を預け、ノエルの頭を胸に抱え込む。体の内側が熱い。そのせいで背中と額に汗を掻いていた。比較的長期的な予測をもって行動する櫻はこんな瞬発的に足を動かすことなんてあまりない。咄嗟の判断に従ってくれた筋肉は痺れを伴って疲労を訴えていた。
「……ッ」
 何度も呼吸を繰り返すあいだに、何度も確認した。腕の中にある体温を。
 これを失くしたらどうなるんだっけ。
 普段の自分からでは考えられないほど頭が働かない。
『ハル、苦しい』
 胸元から状況をまったく解っていない声が聞こえてくる。
 櫻は歯を食いしばったあと、ノエルを引き剥がして、
『俺を殺す気かっ!?』
 記憶に無いほど怒鳴りつけるとノエルは縮み上がって、次に抗議した。
『え。なんで? どーして? あたし、そんなのしない』
 目が合う。青い眼と。
 櫻は深く息を吐いて、さっきより少し余裕をもってノエルを抱きしめた。
『ハル? 瞳、見なくていいの?』
 ──あたしの目が転がり落ちたら、眼球のほうについていくくせに!
 と、言われたことがある。
 櫻がよくノエルの顔を覗き込むのはその青い眼を見るためだとノエルは知っている。櫻もそれは否定しない。
 でも今は この熱を失わなかったことに、体中が、頭の芯までが、安堵で震えていた。
『…ハル?』
 体が震えていることに気付かれた。ノエルの手が背中に回り、ぽんぽんと軽く叩かれ、それが繰り返される。なんだか気持ちが良くて櫻は目を閉じた。
『そうだ。ハル、ずっと捜してたもの見つけたんでしょ?』
『…誰に聞いたんだ』
『ラン』
 なに、と眉を顰めて顔を上げるとすぐそこに、心配そうな表情でこちらに声を掛けようか迷っている蘭の姿があった。なんでおまえがここに、と口を開き掛けるが声にはならない。目が合うと、蘭は一体なにを読みとったのか、目尻に涙を浮かべ、込み上げる感情を我慢できないというように微笑った。
『あとね、ハルのほんとの名前も知っちゃった。サクラっていうんでしょ? お花の名前。見てみたい。どこに行ったら見れるの?』
 ──咲子から生まれるのは“春の花”
 ──ずっと前から決めてたの。子供が生まれたら、桜と名付けようって
 その名前は捨ててもいいと思っていた。
 名乗り出るつもりなんてなかった。その名を死なせても構わなかった。
 でも意外なほど近くにいた「亨」を見つけて、「櫻」を振り返らなければならなくなって。
 亨の約束を守っていた篤志。まっすぐに目を向けるようになった史緒。長い年月を越えた咲子からの伝言。咲子が、櫻に遺したもの。
 「阿達櫻」と無関係ではいられない。
 気安く捨てられるものじゃない。
 簡単に逃げられるものじゃなかった。
 自分では把握しきれないほど多くの人間に関わってしまっていた。そのことに今まで気付かなかったくらい、大きな流れの中に。
(…面倒だな、すごく)
 今までと何かが変わるわけじゃない。でも、自分自身と、それが通ってきた環境と関わりを絶つことなどできないのだと、解った。
(そういうもんか)
 地面に座り、ノエルに触れたまま上を向く。いつのまにか眼鏡は落としたらしい、裸眼で。
 雲ひとつ無い空は相変わらず。
 でも、気分は楽だった。
『そうだっ、ハル、さっき道の向こうで話してた女の子だれっ?』
 いつものことながら、どうでもいいことにノエルは不機嫌になる。
『だれっ?』
『妹』
『…え? ───ええぇえっ!?』
『あと弟がいる』
『うわぁ! すごい。ね、会いたい会いたい、紹介して紹介して!』
 本当に面倒くさい。
 でも、そういうものなのかもしれない。
 ノエルのはしゃぎ様を視て、呆れか諦めか、もしくは体を軽くする開放感からか、櫻は息を吐いた。


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