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*  *  *

 三佳はベッドの上に寝ころぶ。うつぶせになり、やわらかい布団を握りしめた。
「…っ」
 階段を駆け上がったせいだけでなく、息が切れて、胸が苦しかった。
 どっくどっくと心臓が鳴っている。全身が熱い。本当に熱くて、火傷しそう。
 胸を締め付けるものがある。息ができなくて、生理的な涙が浮かぶ。手足が震える。全身がなにかを訴えているのに、思考だけがまるで何十メートルも後ろにいるようだった。
(あぁ、この感覚は知ってる)
 昔。
 窓一つ無い薄暗い廊下を、ひきずられるように歩いた。嫌なのに、今よりもっと幼かった三佳はその力に逆らえなかった。
 微かな音を立てる蛍光灯を頭上に、まっすぐに続く廊下を行くしかなかった。
 その先に待ち受けるもの、手を引く人物がなにをする気なのか、必死に否定しながら。己の愚かさを痛いほど感じながら。
(怖いんだ)
 怖いという言葉の本当の意味を知った。
 あのとき、見上げた横顔を今でも覚えてる。
 あのときの生活も、環境も、とりまく人たちも、今とはまったく違うのに、同じような気持ちになるなんて。

 体を捻って、ベッドの上、仰向けになる。
 まだ昼間だから室内は明るい。やわらかな光と空気。ドアも窓も閉まっているので外からの音は無い。気持ちが落ち着いてくると、ここは穏やかな空間だった。
 時計の音に耳を澄ます。天井を見続けていると時間の感覚が薄れてくる。
 見慣れた天井の、見慣れた照明、その垂れヒモ。無意識に手を伸ばすと、胸から込み上げるものがあった。

 この部屋で目覚めた日も、同じように手を伸ばした。
 照明が灯っていない室内の明るさに驚いた。
 カーテンの向こう側の光の名前を知らなかった。
 無知だった自分。あの日から、成長しているのだろうか。



 机の上にある時計に目をやる。
 まだ、帰ってから30分も経っていない。


 ──長い間、ここを離れることになったんだ


「……」

 逃げるように先に帰ってきてしまったけど、おかしく思われなかっただろうか。
 司はもう帰っただろうか。それともまだ月曜館に?
 どうしてあの場から逃げてきてしまったんだろう。もちろん、用事なんて無かった。司の話のその先を聞かなきゃいけなかった。
 ただ、あのままでは、司の前で取り乱してしまいそうだったから。
 それを司のせいだと思われたくなかったから。
(どうしよう…っ)
 急かされるような気持ちだけが先走って、他に何も考えられない。
 直面しているのは、とても大事なことのはずなのに。

 司が決めたことなら何も言うことはない。この場を離れるというなら、笑って見送るしかない。
 彼自身のことだ。三佳が口出しする権利なんかない。する気もない。けど。
 だけど。
 司と会えなくなるってどういうこと?
 司のそばにいられないってどういうこと?
 依存しないようにしてた。重荷ににならないよう、邪魔にならないよう。それなのに、今、別れの話をされただけでこんなに苦しい。
「……っ」
 突然、地面が消えたような眩暈があった。心臓が悲鳴をあげて枕にしがみつく。

 あの日、屋上で、強い風の中でひとり、高い空と広い世界を見たときの気持ちと似ている。
 ひとりで、歩いていけるだろうか。あたりまえにあると思っていた、てのひらを離して。


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