キ/GM/41-50/49[2]
≪11/17≫
* * *
三佳は、司と初めて会った日、それ以前の時間をすべて棄てている。
それまで生まれてから9年間。時間を共有した人、長く過ごした場所、習慣、今思えば、まるで夢だったかのような、今とは異なる生活。その、悪夢のような終わり。でも、確かに仲間だった人、尊敬した人、楽しい時間もちゃんとあった。
けれど、それらをすべて切り離して、すべて棄てて、三佳はここで、今の仲間と生きてる。
9年間も生きていたのに、もう、日常で思い返すことはほとんど無い、以前の自分。
忘れてしまった思い出もある。忘れてしまった人も。
───そうだ。
自分の父親のことさえ、ずっと忘れていた。
思い出そうとしたとき、なにも憶えていなかった。ようやく拾い上げた父の口癖。後になって手に入れた写真。でも、他にはなにも思い出せない。
父親なのに。血縁なのに。
この世界でたった一人の家族だったのに。
(司と離れてしまったら、私は、司のことも、…忘れてしまうのかな)
以前の生活が夢ではなかったことの証として、今と昔の唯一の接点、再会した柳井恵がいるけど、また会える確証はない。
それ以外の人とは会ってない。どうしているかも知らない。
もう会えない人もいる。
三佳もそうであるように、みんな別々の、新しい生活をしている。お互いの知らない場所で。
それぞれが過去の知人のことなど意識しないまま。
(同じように、そのうち司がいない生活に慣れてしまうのだろうか)
こんな風に迷っていること自体、そのうちどうでもよくなってしまうのかもしれない。───昔はあんなことで悩んでいたな───などと、過去のどうでもよいことのうちのひとつになってしまうのかもしれない。
確かに、人生を掛けて悩むことじゃないだろう。
でも、今のこの苦しさを、そんな風に片づけてしまいたくなかった。
*
重い扉を開けて、三佳は夜の屋上に出た。
時間は21時を回っている。季節は9月も後半、昼間はまだ夏を思わせる気候だったけれど、夜の寒さは体を冷やすものだった。どこか冬の匂いがする冷たい風が髪の隙間を流れていった。羽織っているカーディガンがとても暖かく感じる。三佳は襟を合わせて手摺りへと歩いた。
屋上に照明は無い。廊下から漏れる明かりは頼りなく、足下は真っ暗。それでも慣れた場所、手摺りの前に立つ。
いつもここから見下ろす公園は暗くてほとんどなにも見えなかった。西の空にはビルの明かりが作り出す夜景、そして遠く響く車の音。仰ぐと、ひとつだけ星が見えた。
目覚めた日、初めて見たここからの夕暮れ。
この広い外の世界で立っていられるだろうか。歩いていけるだろうか。あまりに広すぎる空間に放り出されて不安に思ったものだ。
でも、司がいた。
あの日、司に手を引かれ、名を呼ばれ、安心した自分。
(…そうか)
あまり良くないことに気付いた。
──七瀬と手を繋ぐだろう
櫻が言っていたそれは、三佳が特別とか、信頼とかは、関係無い気がする。
この世界に出たばかりの三佳のために、司が気を遣ってくれていただけなのかもしれない。危なくないよう、迷子にならぬよう。そう、幼子の手を引くように。
司から信用されてない、とは思わない。
でも。
──七瀬は周囲に裏切られるのが怖い
もし今も司がそれを恐れているなら。
いつも隣りにいながら、私は彼を守れていなかったことになる。
頼るだけで、頼られる存在にはなれず。なにひとつ返せないで。
(…そう、なのかな)
司はここを離れることに少しの抵抗感も無かったのだろうか。
ここに、司を繋ぎ止めるものは何も無かったのだろうか。
(違う。櫻の言葉に惑わされるなっ)
司は迷ったはずだ。
ひとりで、長く迷って、考えて、そうして離れることを決めたのだろう。
住み慣れた場所を離れることが辛くないはず無い。でも、それを引き替えにしてでも、目が治ることのほうが魅力的だから。───それはあたりまえのことだから。
その苦しい選択をした彼を労わなきゃいけない。
ちゃんと、会って、言わなきゃいけない。前は逃げてしまったから。ちゃんと。
いってらっしゃい。元気で。さよなら、って。
「やっと捕まった」
ひっ、と意味を成さない三佳の悲鳴は夜の屋上に消えた。
振りかえると、明かりの中に人影が浮かび上がる。ドアから影が伸びる。
「……司」
いつからそこに立っていたのだろう。声を掛けられるまで気付かなかった。
司は三佳のほうへ歩み寄り、少し離れた位置で立ち止まる。そして笑った。
「こんなに会わなかったのって初めてじゃない? ってくらい久しぶり。まだ、たった数日なのに」
「……そうだな」
手摺りから離れて相槌を打つ。たぶん、普通に声が出たと思う。
「櫻に会ったって?」
誰に聞いた? と訊こうとしたけど解はすぐに見えた。篤志しかいない。そして三佳が帰ってきたことを司に教えたのも篤志だ。
「何か言われた?」
「別に」
「それは否定の言葉じゃないね」
「…」
三佳が黙ってしまうと、司は気を取り直すように息を吐いた。
「あのさ」
「ん」
「この間は、いってらっしゃいって言ってくれたけど、それだけじゃなくて、もっと、三佳が今思ってること、考えていることを聞かせて欲しいんだ。…どう?」
「!」
司は手を差し伸べた。いつもと同じように、自然に。
(あぁ───)
今まで、何度、その手を取ったことだろう。当たり前のように。そうすることの意味を考えもしないで。
櫻の言葉に惑わされるな。そう思っても、三佳は目の前の手を取ることができなかった。
「三佳?」
「───そんな言い方はずるい」
「え?」
「私がなにを言っても、司は行ってしまうのに。私が、私の要求を口にしても結果が変わらないなら意味無いじゃないか。我が侭を言ったって司は困るだろう? 私は自己嫌悪するだけ。そんな気持ちのまま別れたくない」
気が高ぶっている自覚はあった。このまま余計なことも喋ってしまいそうだったが止められなかった。司の言葉を聞きたくなかったから。
「大丈夫、心配しないで。私はもう、初めて会った頃とは違う。司の手を取らなくても、平気」
「三佳、それは」
「ごめん、変なこと言ってるけど…、司の決断に口出しなんかしない。そう、やっぱり、今は、それを受け入れるのに時間が掛かってるだけなんだ。───だって、私はまだ想像さえできてないから。司がいない生活なんて」
こんな風に一方的に、司に言葉をぶつけたのは初めてかもしれない。
(そうだ、簡単に想像なんてできるはずない。いつも一緒にいたのに)
(…でも、かつて、そばにいてくれた父。 あの写真のように)
(その父のことさえ、私は)
三佳は肩で息をして、大声を出そうと大きく息を吸ったけど、大半はかすれた吐息になってしまった。
「もしかしたら、忘れてしまうのかも、…昔と同じように」
「───昔?」
司の問いかけには答えず、三佳は自嘲する。
「死んだ家族のことさえ忘れるくらい薄情だから」
息を吸い直し、頭を振る。顔を上げ、司に向かって、しっかりと言った。
「行ってらっしゃい。元気で。 本当に、それしか言えない」
それを最後に、三佳は口を閉ざし、司の横をすり抜ける。
結局、司の手は取らなかった。
司は追ってこない。声もしなかった。
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キ/GM/41-50/49[2]