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 三佳は2階の一室、峰倉の書斎に逃げ込んでいた。6畳の空間にこれでもかというほど本が無造作に並べられ、乱雑に積まれている。その他、段ボールに押し込められたガラクタもあちこちに投げ出されている。奥のほうは埃で埋もれ、かつて掃除を試みた三佳はその物の量に諦めたことがある。そういう状況なので、この部屋を「書斎」と呼んでいるのは峰倉だけで、他の家族は「物置」と称していた。
 その部屋のドアの内側に背を預け、三佳は蹲っていた。
 司が来た。
(なんで?)
(このあいだ、屋上で、いってらっしゃいって。元気でって)
(ちゃんと言えたはず)
(言わなきゃいけないことは、ちゃんと言えたはず)
 ──三佳が今思ってること、考えていることを聞かせて欲しいんだ
(それ以上、なにを?)

 コンコン

「……っ!」
 ノックの音がすぐそばから聞こえて三佳は声にならない悲鳴をあげた。
「島田、七瀬来たぞ」
 峰倉の声だった。いつものどこかふざけたような喋り方ではなく、真面目な低い声。
「別れはちゃんとしとけ。後悔するぞ」
 と、厳しい声が続いた。
(…別れ?)
 ふと、一枚だけ残っている幼い頃の写真が思い浮かぶ。
 写真の中で三佳を抱いていた父親の記憶はほとんど無い。矢矧とはあの後会ってない。恵とは一度だけ会った。でも連絡先も知らない。今、どうしているのかも知らない。また会えるのかも解らない。
 彼らとの別れなんて無かった。ある日、突然、離ればなれになった。
(別れ方なんて知らない)
(上手な別れ方なんて……)
 ドアの向こうで峰倉の足音が遠ざかっていった。
 そしてもう一度ドアが鳴った。
「…三佳」
「!」



  *

 司が軽くドアを叩くと、その向こうで反応があった。
 ノックしたその音の響き方で、三佳が内側から体重を掛けているのが判る。背中を預けている、もしくは座っているのかもしれない。
 名前を呼んでも返る言葉は無かった。
 無理にドアを開けて三佳と対峙しても、先日と同じ、話は進展せず三佳を苦しめるだけだろう。今日、司は峰倉家に来たものの、三佳と会える可能性は低いと判っていた。それほど大きくない失望感を味わいながら、そっと息を吐いた。
 やっぱり開けてくれる気は無さそうなので、司はその場に腰を下ろした。三佳と同じように、ドアに背を預けて。
 司からすれば、三佳が目の前にいようが、板一枚向こうにいようが、あまり変わりは無い。周囲のノイズが無ければ息遣いも聞ける。声を聞けばその裏にある感情も解る。
 ただ、触れられないことが少しだけ残念だった。
「三佳」
「……ごめん、顔、合わせたくない」
 ドアの向こう側から、思ったよりしっかりした声が返る。
「うん、いいよ。このまま少し話を聞いてくれれば」
 肯定の沈黙があった。
 さて話し始めようとしたところで、司は小さく笑ってしまった。
 三佳に何を言おうと散々考えてきたはずなのに、いざ口を開こうとすると何も浮かばない。いや、聞いてもらいたいことは沢山あるのに、それらをいつものように順序立てることができなかった。
「そうそう。最近、ようやく自覚したんだけど、僕は嫉妬してたらしいんだ。史緒と篤志に」
 結局、思いついた断片的なことを、それを口にすべきか考える前に声にしてしまう。今、口をついて出たことは、三佳とはまったく関係の無い司個人の感情についてだったけど、それでいいか、と思う。
 三佳になにか伝えることができるのは、これが最後かもしれないから。
「…嫉妬?」
「史緒と篤志は、多くの問題を抱えながらもうまくいった家族だから。僕の家族はそれができなかったから。
 見えなくなって、親に裏切られたと思ってるところに、あの櫻と同居、その後は流花さんからは周囲を疑うことばかり教えられて…───僕のこういう性格が形成されるには十分な環境だよね。もし蘭がいなかったら、もっと酷いことになってたな」
「……蘭?」
「前にも言ったけど、僕は蓮家の他の兄姉にいろいろ教わった。楽器やゲーム、ちょっとした護身術みたいなものも。それと同じように、蘭からは“信頼できる人間もいるんだ”って教わったよ。蘭はそんなの意識してないだろうけど。
 彼女は嘘を吐かない、家族に愛されてるから周囲に気持ちを与える方法を知ってる。そうすることで生まれる信頼関係、絆。僕に蘭の真似はできない。でも、そういう人間関係があるって教えられた」
 言葉にすると気持ちを整理できる。
 思っていること、考えていることを並べ、時にはぶちまけて、ひとつの結論を出す。
 心の中で考えている間は修正が利く。いくらでも言い訳ができる。けれど言葉という形にしてしまったら、それを踏まえずにその先を考えることはできない。
 両親のことを口にしたくなかったのは、整理したくなかったからかもしれない。認めたくなかった、片づけてしまいたくなかったからだ。
「史緒と篤志と仕事を始めたものの、最初、僕はあの2人と長くやっていくつもりはなかったんだ。そのうち離れるつもりだった。
 ───あの頃、僕は疲れていたんだと思う。その前後に何かあったわけじゃなくて、なんていうか、長く蓄積されてしまった疲労。体がだるくて重くて、一人でいるとき急に涙が出てきたりして不思議だったけど、それもたぶん、疲れていたから。…周囲を疑うことに。無意識に休み無く警戒していることに。いろいろ、磨り減ってたんだと思う」
 今、振りかえることで初めて解ることがある。当時は自覚できなかった体の悲鳴。その原因。
「そんなとき、初対面の女の子に大声で泣かれて、ごちゃごちゃしていたものがいろいろ吹き飛ばされたっていうか」
「…、───えっ?」
 部屋の中から聞こえた調子の外れた三佳の声に、司は堪えきれずに笑ってしまった。
「感動、って言葉は変かな。でも、疲労で倒れそうになってるとき、ひん曲がってた性根にまっすぐな感情を正面から当てられて、すごいショックを受けたよ。そう、やっぱり、吹き飛ばされたって感じだったな」
 蘭と初めて会ったときも同じようだった。阿達兄妹との生活でくたびれているときに。
 あの頃、司自身も幼かったのに、まっすぐな気持ちを当てられただけで感動するなんて。

 三佳に会ったとき、夕暮れの風の中へ泣き声が空に吸い込まれていくようだった。
 つられて泣いてしまいそうだった。
「僕も、三佳と離れて平気なわけじゃないよ」
 三佳は子供だ、なんて言っておきながら、その子供に頼り切ってたのは、まだ子供である司のほうだった。
 初夏、街中で櫻に声を掛けられたとき、両親のことを考えたときも、思わず三佳の手を捜してしまった。三佳の手に触れることで安心できると知っていた。
 良き相談相手。三佳の目を通して視る世界。隣りを歩いた、楽しかった日々。
 今日から、もうあの手のひらを握れない。
 いつからか、三佳に甘えていたのは司のほうだった。
「僕は君に、すごく、すごく助けられてた。救われていた。守られていた。三佳の手を必要としていたのは、僕のほうだよ」


 ドアの向こうから言葉は返らない。
「ねぇ。どうしても出てきてくれない?」
 やはり反応は無かった。しょうがないとは思う。
「残念」
 三佳を責めないよう苦笑して、司は立ち上がる。
「行くね」
 そっとドアに手のひらを当て、その向こう側へ、最後の言葉を口にした。
「本当に、───ありがとう。三佳」


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