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 朝、司は朝食を摂ったあと、ホテルをチェックアウトしてすぐに空港へ向かった。荷物はすでに送ってあるので、手持ちは小型の旅行カバンひとつと杖にサングラス、それだけ。
 天気は快晴。離着陸をする旅客機の音が空によく響いていた。
 司はバスから降りると第一ターミナル内の案内カウンターへ向かった。そこで付き添え人をつけてもらえたので、まず搭乗券を手に入れる。それからチェックインカウンターのアルファベットの確認と、そこから搭乗ゲートまでの経路を簡単に説明してもらった。
 丁寧にお礼を言って別れる。時間には余裕があった。司はもう一度、搭乗ゲートまでの経路を頭の中で確認してから踵を返し、人の流れの中を歩き始めた。
 初めて空港に来たときも感じたように、どこかで大きな機械が動いている音がする。たとえ意識しても普通の聴覚では捉えづらい音だ。それでも司にははっきりと聞こえる。初めて空港に来たとき───不安を抱えて蓮家に向かったとき、あの頃はまだ余計な雑音を排除するすべを知らなかったので、耳を塞ぐほどの大きな音に驚いたものだ。
 あのときと同じ場所に立ち、あのときと同じ場所へ向かう。
(今回もまた流花さんに泣かされるのかな)
 あり得ないとは言い切れない未来に笑う。そんなことを考えているうちに待ち合わせていた南ウィング4階に着き、見送りに来た史緒と落ち合った。


 昨日まで他のみんなも来ると言い張っていたが、「そういうの苦手だから」「そもそも学校があるだろ」と司が説得して、代表で史緒一人が来ることに収まった。
 その史緒が簡単な挨拶といくつかの伝言のあと、気まずそうに言った。
「三佳、捕まらなかったわ」
「そう」
「…いいの?」
「よくはないけど、ぎりぎりまで言わなかった僕の責任でもあるし」
「でも」
「それより───史緒に訊きたいことがあったんだ」
 史緒と三佳の話をするつもりはない。強引に話題を変えても史緒に気を悪くした様子はなかった。
「…なぁに?」
「僕が阿達の家に引き取られた後、すぐ、蓮家に連れて行かれたこと。あれって、史緒が手を回したの?」
「知ってたの?」
「まぁね」
「余計なことだった?」
「まさか。あのまま君たち兄妹と一緒にいたほうが地獄だったよ」
「サラっと言わないで」
 苦々しい棘のある声が返る。
「だから、感謝してるんだよ。ありがとう」
「………喜んでいいのかしら」
「もちろん」
 心からのお礼を言っているのに史緒は釈然としない様子だった。

「ここに、帰ってきてくれる?」
 しばらく迷っていたと思ったら史緒はそんなことを訊いた。
 今回、この質問は初めてだった。
 他の仲間にとってはそれは当たり前の事で、確認するまでも無かったのだろう。逆に、三佳は考えすぎて、気を回しすぎて訊けなかったようだ。史緒は考えた末、確認せずにいられなかったらしい。
 司は苦笑する。
「今のところ、そのつもり」
「今のところって…」
「史緒こそ、無責任にそんなこと言っていいわけ? 僕がもし見えるようになったら、今持っている能力の大半は捨てることになる。それでも雇ってくれるの?」
「大半を捨てたって、ただで帰ってくるとは思えないけど」
「はは。───あぁ、でも、数年後にA.CO.があるかのほうを心配すべきかな」
「言ってくれるじゃない」
「これからどうするの? 篤志はそのうち離れるんだろ?」
「それは桐生院さんとも相談中なの。人数が減るし、仕事を縮小することにはなりそう」
 困ったわね、と史緒はわざとらしく溜め息を吐いた。
「いつまでやっていく気?」
「私だって、将来を不安に思わないわけじゃないのよ」
 そう言いながらも史緒の声はどこか楽しそうだった。
「健太郎はどうだか知らないけど、蘭は目指してる職業があるし。三佳だって、うちで大人しくしてるとは限らない。いざとなったら、事務所をたたむことだってあるかも」
「そうなったら、史緒はどうする?」
「あまり考えたくないけど、そのときに私の経験不足が痛くなるのよね。学歴もないに等しいし。───真琴くんや文隆さんのとこ、雇ってくれないかしら。だめね、彼らも甘くはないわ」
 わざとなのか、まったく念頭にないのか。そこで父親の名が出てこないのは史緒らしい。
「でもどうにかなるわ」
 史緒の科白とは思えない根拠の無い曖昧な未来予測。それでも自信があるのか強く明るい声だった。

 史緒と出会ってから9年。
 同じ家に住み始め、最初はお世辞にも仲がよいとは言えない関係だった。史緒は無関心、司はまともに喋ることもできない史緒に苛ついてばかり。それなのに、結局は今日まで顔を合わせていた。
 そのあいだに2人とも変わり、たくさんの人と知り合い、関わり合ってきた。まさかこんな長い間史緒と一緒にいるとは、当時の司は考えもしなかっただろう。
 関わった多くのものと別れ旅立つ今日が来るとは、想像もしなかっただろう。
「そろそろ行くよ」
「……元気でね」
「そっちも」
 踵を返した司は、一歩を踏み出す前に、少し迷って振り返った。
「三佳のこと頼む」
「わかってる」
 覚悟を含んだ軽くない声で即答される。司が気に掛けていることはとうに見抜かれていたらしい。
「ありがとう。…じゃあ、さよなら」
 司は軽く手を振って、史緒に背を向けた。
 もう振りかえるつもりはなかった。





 ひとり、人混みの中を歩き始めると、どうしようもない感傷に襲われた。
 こんなに沢山の人の中にいるというのに、ちりちりと胸が掠れる孤独感。その奥に微かに込み上げるものがあった。
 司は小さく笑う。
(ここを離れることに未練が?)
(そりゃあるよ。今更考えることでもない)
(散々悩んだ結果の行動だ)
 そもそも、どうしてこの道を選んだか。
 もちろん、見えるようになるならいい。
 でも、それを後押ししたのは───。

 遠い日の記憶。
 今も耳に残る、女の子の大きな泣き声を思い出す。
 ──ねぇ。どうして泣くの?
 ──きれいだから
 ──きれい、って、なにが?
 6月の夕陽が横顔を焼く、屋上の上、さらわれてしまいそうな強い風の中で。
「今、見た、世界」

(あぁ…───)
 それはどうやっても司には分かり得ない感覚だった。
 この世界で見えなくてもどうにかなると自信を持っていた司はショックを受けた。見えないことは確かに納得していたはずなのに、改めてそれを思い知らされただけのはずなのに、強く胸を打たれた。
 ショックを受けたのはそれだけじゃない。
(きれい、という理由で泣けるんだ)
 もし司が同じ景色を見たとしても、同じように泣ける感受性は無いだろう。きれいだと感じられても、大声で泣くような感情表現はできない。でも。
 三佳は「世界」を見て泣いた。司はその三佳から、揺さぶられるほどの感動を与えられていた。

 今回の検査と手術に、100パーセントの保証は無い。
 ダメだった場合の絶望を味わうことになるかもしれない。
 誰でもなにかに挑戦するなら結果を期待したい。
 でも司の今までの経験が予防線を張るのは仕方のないことだった。
 期待しすぎない。
 結果が欲しいわけじゃない。
 努力してみたいだけ。後悔しないために。
 あの日の三佳に近づくために。



「───」

 ふと、司は人混みの中で足を止めた。
 引かれるようになにかを感じて、振りかえる。
 とくに変化の無い雑踏。気になる音も無い。
 でも、人を前にして、聴くのは声だけでないことは当たり前のように知っている。
 この多くの人の中でも。

 そこにいるはずないと思いながらも、司は呟いた。
「───三佳?」


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