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 HR(ホームルーム)終了を知らせるチャイムは、他の時間のそれとはひと味違う。廊下や昇降口に満ちる足音や喧噪も軽やかで、その日の授業から解放され肩の荷が降りた故の開放感がある。
 今はテスト前なので少しの重さが残っているけど、それでもやっぱり放課後の空気はそれ以外の時間とは違う賑わいがあった。
 高等部1年の教室に島田三佳はいた。周囲が浮き足立って帰宅する中、窓際の席に着いたまま、難問を解くような顔でレポート用紙にシャーペンを走らせている。
 三佳は周囲の音が耳に入らないかのように集中していたが、教室内に響いた声に、さすがに手を止めた。
「ミカ! 帰るよっ」
 顔を上げると、廊下から手を振る姿があった。隣りのクラスの斉みすずだ。
「もう少し」
 短く返した後、手元に目を戻して10秒ほど文字を書き込む。そしてやっと席を立った。机に広げていたテキストとプリントをまとめてカバンに押し込む。レポート用紙は枚数を数えてちぎってホチキスでとめた。
「遅いっ」
 廊下に出て、肩を怒らせているみすずに謝る。
「今日、ミカん家に行くんでしょ」
「現国のノート、持ってきてくれた?」
「ミカはそれさえなきゃ、アタシと肩並べるのにねぇ」
 放課後の廊下はなにかと騒がしい。方々で賑やかな声が飛び交う。
「みすずー、こないだの委員のプリント、どうなった?」
「あー、それはテスト後にして。どうせ来月の話でしょ」
「島田、帰るの? あんただけ遅れてた課題」
「提出(だ)してから帰る。面倒掛けて悪かったな」
「もー、毎回毎回、最後までねばるのやめなよ。少しは手を抜きなって」
「考えとく」
「みすず、また生徒会やらないの? 声掛かってるらしいじゃん」
「あんな無茶できるのは中学まで。やるとしたら反権力のほうね。おもしろそうじゃない」
「今度は一人でやってくれ」
「なに言ってんの、付き合わせるに決まってるでしょ」
「あんたたち、その会話、中学のときもやってなかった?」
 誰かが言って、周囲にいた結構な人数が笑った。胸を張っているみすずになにも言えなくなって、三佳は溜め息を吐いた。


 校門を出ると、駅へ向かう道に学生たちの波ができている。同じ制服の生徒がほとんどだが、しばらく歩いているといくつもの制服が入り混じる。近隣にはいくつかの学校があった。そのせいで歩道は学生で溢れ、少数の逆流する社会人などは歩き辛そうに足を運んでいた。
「なんか、今日、混んでない?」
「どこの学校もテストが近いからな。その上、金曜の放課後ならこんなもんだろ」
 三佳とみすずもその波の一部となって、いつものように喋りながら歩く。
「祥子さんのって、もう来月だよね。お祝品、なにがいいかな」
「悩むほど吟味しなくてもいいと思うけど」
「だめ。相手の一生に一度のことよ? 慎重に選ばなきゃ! それに楽しいじゃない、こういうのって」
「…あまり楽しそうに見えないけどな」
「悩んでるのはほんとなの! もう来月だってことに焦ってるの!」
 駅に近づくとすれ違う人影が多くなる。その隙間を抜けながら、みすずの声を聞く。
「そうだ、テストが終わったら玲於奈に付き合わせようかな。あいつ、妙に義理堅いとこあるし、ならわしみたいなことよく知ってるし。そういうところ、年寄りっぽいよね」
「あぁ、父親が厳しいからな、あれは」
「三佳も他人のこと言えないけどさ」
「なに、……、────」
 急に、歩道のど真ん中で三佳は足を止めた。

 なにかを感じた。
 みすずとの会話とは関係ない。まったく別の、なにか。
 その正体は解らないし、一体なにを感じたのかさえ判らない。
「どしたの?」
 急に立ち止まった三佳に倣い、みすずも立ち止まる。いや、なんでもない、と返そうとしたけど、体が動かなかった。
(…いま)
 今、なにか、近くに。
 なにか、知っているものとすれ違った。
 それを確認しようと思うより先に、背後から声がする。

「三佳」

(──!)
 その声は風になって耳まで届いたようだった。背中を押すような力があった。
 強く惹かれるように、いくつもの感情に掻き立てられるように、体が凍ってしまってうまく動かなかったけど、ぎこちなく、三佳は振り返った。

 男の人が立っていた。三佳と同じように、振り返った姿勢で。
 眼鏡の奥の目はまっすぐに三佳を見ていた。少しも視線を外さない。確かにその両眼は三佳を捉え、瞳に映し、そしてやわらかく笑う。
 知ってるけど、記憶と同じではない顔。
(……────)
 胸の中は騒がしくいくつもの思いが爆発してるのに、頭が働かない。三佳は呆けたまま、その男性を見つめ返した。
「ミカ?」
 すぐ隣りからのみすずの声は聞こえていたけど、思考にまで到達しなかった。

 胸が張り裂けそう。
 “彼”をこの目で見ている。その距離にいる。わずか5歩も踏み出せば触れられる。夢じゃない、その姿に。
 声を聞いた。ちゃんと、空気だけを震わせて耳に届いた。この場所で。声を出せば届く。その声に、きっと彼は笑ってくれるだろう。


「中も外も成長するから、4年後に会っても気付かないかもな」
「わかるよ。──絶対、わかる」


「ね? ちゃんとわかったよ」
 目の前に立つ彼──七瀬司は得意そうに言った。
 そうやって気負いも遠慮もなく、かつてと同じように喋るから、三佳は錯覚してしまいそうだった。
 この4年間、誰にも言わずにあった淋しさや切なさに悩まされたことが嘘ではないのかと。一晩の夢だったのではないのかと。
 それほどまでに、以前と変わらずに、その声が響いたから。
「あれ。忘れられちゃった?」
 三佳の反応が無いことに訝ったのか、三佳の記憶とは少し違う司の顔が首を傾げる。でもそう言いながらも、余裕のある表情。──判っているくせに。
 本当に、自信家なところも変わってない。
「……そんなわけあるか」
 ようやく発した声はかすれてしまい、小さく、たぶん届かなかったと思う。
 改めてなにか言おうとしたのに、体が震えて、おおきく震えて、うまく息を吸えなかった。
 鞄が足下に落ちる。でも拾えなかった。
 歯を食いしばっても遅い。あっという間に、司が見えなくなった。


 三佳は声をあげて泣いた。
 意味のない声のために喉を震わせて。涙を拭うこともせず棒立ちのまま。子供のように、ただ感情を吐き出すために。
 嬉しさも悲しさも無い。言葉で定義されたものじゃない。この体の中の大きな、収まりきらないくらい大きな、抱えきれないくらいたくさんの思いを、声というかたちで出すしかなかった。三佳は声をあげて泣き続けた。その声は通りに響いて、空にも吸い込まれた。
「三佳…」
 あわてて歩み寄った司が三佳の肩にそっと触れると、三佳は両手を伸ばし、司の胸に飛び込んだ。
「…ぅわっ」
 勢いがあったので司は尻餅をついた。三佳は司の背に腕を回したまま放さず、一緒に地面に落ちる。
「いてて…。無茶しないで、以前のような体格差じゃないんだから」
 聞いているのか、聞いていないのか、三佳は司の胸に顔を埋めて泣き続けていた。抱きついているというより、必死でしがみついているようだった。
 司は溜め息を吐きながら、胸の中にいる三佳の髪を撫でる。その顔を見せてもらえないことが少し不満だった。でもそれは、これからの時間の長さを思えば些細なことだ。
 ちゃんと、こうして触れられる場所に戻れた。
 ここへ帰ったのだから。



 さて。
 道の真ん中で地面に転がった男女を見る世間の目はやさしくない。
 それが同じ学校の生徒であるならなおさら。
「島田が男を押し倒した…っ」
「え? なになに? 薪女のコ?」
「誰か中等部行って、住吉呼んできなよ」
「どうしたの?」
「だれー? 泣いてるの……、って、うそっ、島田さんっ?」
 好奇の目をもって沸き立つ観衆。
「うっさい!」
 それを一喝したのはみすずだ。
 三佳と司をかばうように立ち、交通整理のごとく生徒たちを散らす。
「たむろしてないでさっさと行って。通行のジャマよ!」
 背後では、まだ三佳が声をあげている。みすずはそれを複雑な心境で聞いた。
 なんとなく、この場に留まるのは嫌だった。そうして、次の行動を決めた。
 みすずは三佳の鞄を拾い上げ、2人の足下に置く。それに気付いた男と目が合った。もちろん、初めて見る顔だ。でも、その名前は知っていた。
「七瀬さん?」
「そうだけど」
「ミカの家に寄ってくはずだったけど、今日はやめておきます。じゃあ、また」
 男がなにかを言い掛けたけどそれは無視して背を向ける。みすずは人溜まりを抜けて、駅へと早足で歩いた。
 携帯電話を取り出し、発信履歴の3件目にあった名前を呼び出す。
「今日、ヒマ? ちょっと付き合ってよ。どこか遊びに行きたい。──なによ、あんた、いつもテスト勉強なんかしないでしょ? このアタシが声掛けてるんだから、さっさと出てくるべき」
 ──なに、苛ついてんだ
「ば…っ、誰が苛ついてるって!?」
 ──三佳は? 一緒じゃないのか?
「取られた。──ううん、なんでもない。苛ついてないってば! ただ、なんか、……悔しいだけ」
 ──はぁ?
「なんでもない! いいから、出てきてよ。そうだ、買い物に付き合って。お礼はするからさ。──今、暴れたい気分なんだっ、よろしく!」


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