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≪4/6≫
*
司は屋上に出た。
懐かしい重さのドアを開けると風が吹き込み、体の隙間を抜けていった。その風さえも懐かしく、司は笑う。そして顔を上げて、息を飲んだ。
懐かしいけれど、初めて見る景色があった。
夜でも人工の明かりに照らされて、周囲の街並みがよく見える。仰いでみると、黒い空の中に、雲と、微かに星が見えた。
コンクリートの床に踏み出す。知らず、手摺りまでの歩数を数えている自分に気付き、司はまた笑った。こんな風に、過去の習慣を上書きする作業が、これからいくつもあるのだろう。
ふと、いくらも歩かないうちに司の足が止まる。
景色の中、闇夜にまぎれるように。──手摺りに座る三佳がいた。
別段、司は驚かなかった。いるだろうと、当然のように思っていた。
(…あぶないなぁ)
自分のことを棚上げしていることに自覚はあるので口にはしないけれど。
(──あぁ)
既視感があった。
広い視界の中、風にさらされて。高い空も遠い空もあって。
ちょうどこの季節だった。時間は違うけれど。
初めて会った日。三佳はこの景色を見たのだ。
三佳が月曜館に来なかった本当の理由を、司は知っている。
泣きはらした顔をみんなに見せたくなかったからだろう。
司の姿に気付くと、三佳は片手を軸に手摺りから飛び降りる。そのまま手摺りに両腕を掛け、街の景色に目をやった。
司はその背中に歩み寄り、隣りに並んで、同じ景色に目を向ける。
「勉強中じゃなかったの?」
「息抜き」
「学校はたいへん?」
「もう慣れた」
「そう」
特に抑揚のないやりとり。ふたりは手摺りに並んで淡々と話し続ける。
「昔の写真、見たよ」
「どれ?」
「いろいろ。蘭が撮ってたやつ」
「あぁ。───どうだった?」
「三佳が小さい」
「そりゃそうだろ」
「あと、僕が大きい」
「大きい?」
「だって、最後に鏡を見たのは11歳──そこから自分がどんな風に成長してるかなんて、想像できなかったから」
あ、と司が声を上げ、夜景に指を伸ばす。
「あそこの公園、桜が咲くの? 三佳がよく言ってたよね」
「あぁ」
「今年は終わっちゃったか。残念」
そう言って司は空を仰ぎ、次に人工の光を指した。その動作は、まるで、見えることを誇示するようだった。
「東京タワー行ってみたい。テストが終わったら、付き合ってよ」
「いいけど…、そういえば私も上ったことはないな」
「地元なのに?」
「そういうものじゃないか?」
「うーん、そうかも」
「そうそう」
「あと、海。いつか三佳と行った」
「天気が良い日がいいな。あの日は、結局、降られて大変だったし」
「濡れて帰って史緒に怒られたよね。──そうだ、峰倉さんのところへはまだ行ってるの?」
「月2回くらいは」
「次のとき、一緒に行ってもいい?」
「もちろん。──でも、これもテストが終わってからだな」
「今日、三佳と一緒にいた子…」
「みすず?」
「僕の名前、知ってたみたいだけど、なんで?」
「あぁ、それは……、玲於奈が喋ったから」
「玲於奈って、峰倉さんとこの?」
「そう。仲がいいんだ、あの2人」
「なんだ。三佳が友達に僕のこと話してるのかと思った」
「……それはない」
「うん、なんとなく、判る」
少し長めの沈黙のあと、司は夜風を吸い込んだ。
「誕生日会、しようか」
この一言に、
「え?」
今まで夜景から目を離さなかった三佳が視線を向ける。
司はその視線を受け止め、微笑む。
今日はじめて、三佳の顔をじっくり見ることができた。
「今月末。三佳の誕生日だろ?」
「…っ」
その顔が見開く。──以前とは違う。ちゃんとその表情の移り変わりを視覚で捉えることができた。
「どう?」
今まで知りながら見られなかった風景、人、知ることができなかった表情。それらをどんどん、これから新しく見ていくことになるのだろう。
三佳は唇を震わせる。息を整えて、目に涙が浮かんだかと思うと、歯を見せて笑った。
「…屋上(ここ)で?」
噛み締めるように言う。
「そう。ビニールシート敷いて」
「バイオリン、弾いてくれる?」
「いいよ」
「チェス、強くなった?」
「んー、どうかな。勝率はあんまり変わってない」
「私は、強くなったよ」
「お、すごい自信。じゃあ、勝負」
「あぁ」
大きく頷いて不敵な表情を見せる。
それなのに、急に、三佳はぱっと横を向いた。なにかまずいことをしたかと司は首を傾げる。
「なんで目を逸らすの」
「つ…司が、じろじろ見るから」
「え? 見ちゃだめ?」
「だめ…じゃないけど、恥ずかしいだろっ」
「そんなにじろじろ見てる? どうも加減がまだよく解らないな」
「そうじゃなくて…」
と、語尾が弱いのに頑固に視線を逸らしたまま、もどかしいのか口を空振りさせる。
「昔の司はそんな風に視線をくれなかったから。…て、それが不満だったわけじゃなくて、その、違うことに戸惑ってるだけで」
あわてふためく三佳を見るのも聞くのも珍しく、ついじっと見てしまう。調子に乗っていたらとうとう睨まれてしまい、司は景色に視線を移した。
深呼吸して夜風を吸い込む。
「三佳」
声を改め手を差し伸べる。三佳は意図を察するより先に手を乗せてくれて、司はそれを握った。
目を瞑り、ひとつ息を吐いて、吸って、目蓋を開け、三佳の目を見て言う。
「また会えて良かった」
「…そういう約束だった」
「うん。約束どおり、また会えて良かった」
二度、会えて良かった。またこの手を取れて良かった。
この4年のあいだに、ここに戻りたい気持ちを忘れずにいられて良かった。
過去にできなかったこと、諦めてしまったことを、恐れずに約束して、それを守れて良かった。未来へ、その強さを残せて良かった。
「うん…」
三佳の手が握り返してくる。
「会いたかった」
「僕も、会いたかったよ」
これからどういう関係でいられるか判らない。でも不安は無かった。こうして触れられる距離にいるなら、どんな関係も怖くないと思えた。
「ただいま。──言ってなかったから」
司が言うと、三佳は可笑しそうに笑う。でもすぐに収めて、
「おかえりなさい」
とても大事なものを噛みしめるように言った。
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