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■6月

 史緒は長く緩い坂道を上る。
 大気が澄んであたたかい。空を覆うほどの光る緑の下、高原の中の一本道。木漏れ日が道を照らし、心地良い風が吹くと葉擦れの音が頭上から降ってきた。
 そっと振りかえる。確かにこの足で歩いてきたはずなのに、夢の中のような、どこか現実離れした風景。
 美しい写真の中のような、どこまでも続きそうな道。どこまでも。どこまでも。
「───」

 ふと、なにかを思い出しかけた。


「史緒さん」
 なにか思い出しかけたが史緒はこの時ひとりではなかった。そのため、すぐに思考を中断し、隣りからの呼び掛けに応じた。
「はい?」
「ありがとう。──本当に」
 そう言って、どこか遠い目をした三高和子は、漆黒に牡丹の花をあしらった江戸褄を着ている。今朝、彼女を迎えに行き、ここへ連れてきたのは史緒だ。その史緒も今日は薄いオレンジ色のドレス。薄手のスカーフをしている。
 今、史緒は三高和子と長く緩い坂道を歩いていた。
「和子さん」
 お礼の言葉を受けて史緒は苦笑する。
「それは何度も伺いました」
「いいじゃない。つい、胸からあふれ出ちゃうのよ」
「光栄ですね」
 和子は長い闘病生活をしていたとは思えないほどきれいに背筋を伸ばして歩く。坂道が辛そうなので史緒が手を引いているが、慣れない着物姿でも足取りはしっかりとしていた。
「あなたが私の病室に訪ねてきてから何年?」
「驚いたことに、もう6年です」
「まだそれだけ? もっとずっと、時間が流れてると思ったわ」
「ずいぶん経ってますよ。初めて会ったとき、祥子は高校生だったんですよ?」
「そうね。──あの子、変わったわ。史緒さんのおかげで」
 控えめな声の割に本当に嬉しそうに笑うので、つられて史緒も目を細める。「私も変わりました。祥子のせいで」
「あら。ネガティブな言い方ね」
「だって、こんなの計画外でしたから。祥子がうまい具合に変わって役に立ってくれることは期待してましたけど、私にまで変化があったのは本意じゃありません」
「初めて会ったとき、あなたいくつだったかしら」
「16歳です。──なにを仰りたいかは判ります」
「良かったわね。あのとき変わってなかったら、今のも判らなかったでしょ?」
 冷やかすように言うので、史緒は降参を示す息を吐き、素直な言葉を口にした。
「良い結果を得られたとは、思ってますよ」
 今なら解る。人と人が出会い影響し合わないはずない。そうやって自分の世界が広がっていくのだ。
 視界が拓け、歩いてきた道の先に白い教会が見えてきた。
「あら、ステキ」
「祥子は奥の建物にいるはずです。こちらへどうぞ──」




 今日は祥子の結婚式だった。
 相手はいろいろあって知り合ったという4つ年上の男。幸い、祥子は人を見ることだけは失敗しないので、史緒も余計な心配をすることはなかった。けれど、そんな祥子でも相手と知り合って3年、完全に順風満帆とはいかず、少しのすれ違いもあったようだが、それを乗り越えてきたからこその関係がそこにあるのだろう。
 式場のスタッフに案内され、新婦の控え室のドアをノックすると、蘭が顔を出した。
「わぁ、おはようございます! 和子さん、本日はおめでとうございますっ」
「ありがとう。蘭ちゃんこそ、朝早くからありがとうね」
「どういたしまして。祥子さんのドレス姿、あたしが一番に見たんですよ、役得ですねっ」
 室内に招き入れられると、大きな姿見の前に座る純白のドレスを着た花嫁が振り返る。祥子だ。
「あらあら。綺麗にしてもらって、うらやましいわ」
 母の言葉に祥子は苦笑する。
 ベールはまだ被っておらず、丁寧に結わえられた髪に白い花が挿してある。サイドテーブルの上に手袋とブーケ。介添のスタッフは席を外しているようだった(もしくは気を遣って外してくれているのかもしれない)。
「おはよう」
 史緒が声を掛けると、
「…おはよ」
 祥子は小さく返してくる。そのまま目を合わせながら、お互いの出方を待つような、腹を探り合うような沈黙ができてしまう。普段から憎まれ口の応酬なので、その経験から、祥子は史緒がなにを言うかと警戒しているようだった。
 素直じゃない付き合い方をしてきたツケだろう。
 史緒は声と表情を改めて、心からの言葉を口にする。
「結婚、おめでとう」
「……」
 祥子は毒気を抜かれたような顔だ。でも複雑そうながらも笑って、
「ありがとう」
 と言った。

「私は受付の手伝いに行ってきます」
 そのまま残ってると祥子といつものやりあいをしてしまいそうなので、史緒は踵を返す。それ以外の意図も察したのか、蘭も付いてきた。
「あたしも、お客様の誘導してきますっ」
 ドアを開けて、室内に手を振る。
「じゃあ、後で」
 ドアを閉めると、親子2人が残された。



「あ」
 か細い声がして史緒が顔を上げると廊下の先に2人の男女が立っていた。服装からすると本日の参列客。しかしそれ以前に、史緒には2人とも面識のある人物だった。
 史緒は意識して女のほう──新郎の妹に視線を向けた。そして軽く頭を下げる。
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 細い声でゆっくりとおじぎする。頭を上げると、新郎の妹は隣りの男を紹介した。その内容は判りきっていたが、史緒は中断させることなくそれを聞く。さらにこの男は世間的に見てちょっとした有名人なのだが、2人ともそれに言及しなかったので、史緒もとくに触れなかった。そして、一度面識のある男に向かって挨拶をする。
「はじめまして」
「え…、あ、いえ。こちらこそ」
 男は一瞬戸惑いを見せたが、すれ違いざまに小さく、「ありがとうございました」と囁き、史緒はそっと微笑む。お互い、振り返らなかった。



 参列客が集まり始める。
 それぞれの親族と友人、恩人。全体の人数はそう多くない。新婦側のほとんどは史緒の知っている顔だ。駐車場からここへの道のりで顔を合わせたのか、みんな一斉にやってきた。
「おーっす、受付おつかれさん」
 健太郎は暑いのか上着を脱いで手で仰いでいた。
「おはよう。ホールに飲み物あるから行ってきたら?」
「そーする」
「名前を書いていくのが先よ」
「おっと」
「…まさか祥子がこういうことになってるとは思わなかったな」
 と、司は笑いながら芳名帳に自分の名前を書いていく。その後ろから声が返る。
「3年も付き合ってるんだろ。ずいぶん手間取ったほうだ」
「結婚まで3年って、遅いほうなの?」
「一般論」
 三佳も今日はドレスだ。最初は制服でいいと言っていたが、友人からダメだしがあったらしい。
「結局、賭けは史緒の一人勝ちだったしな」
 と、篤志が言って、史緒は笑った。
「先日はごちそうさま」
 祥子たちが付き合い始めた頃、この2人がいつまで保つか賭けをしたことがあった。仲間内の賭けの効力は絶対。例えそれが3年越しのことでも。レートを高く設定させられたにも関わらず史緒の一人勝ちだったため、数日前、みんなに奢ってもらったのだ。その日、初めて賭けのことを知らされた祥子は酷く怒っていたが。
「あ、一条さん」
 一条和成も祥子に招待されていた。
「おはようございます、史緒さん。本日はおめでとうございます」
「ありがとうございます。──って」
 ホスト側である手前、丁寧に頭を下げる。が、史緒は声を落として言った。
「父さんが電報を送ってきてるけど」
「肩書きは伏せてあるはずですよ。一応、気は遣いました」
「それはそうだけど、どういうつもり?」
「娘の友人の結婚式にお祝いを送ってもおかしくないのでは?」
「……たいして面識無かったはずよね。一条さん、なにか吹き込んでない? 私と祥子のこと」
「さぁ」
「あーっ、和くん」
「やぁ、蘭、久しぶり」
「ほんと、久しぶりーっ。おじ様もお元気ですかぁ?」
「うん。ご実家のほうはどう?」
「おかげさまで、みんな、相変わらずですよ。──そうだ! 和くんと史緒さんは結婚しないんですか?」
 蘭の発言に史緒はぎょっとして、篤志は離れたところから睨んできた。
 和成は史緒も篤志も無視して蘭に笑い返した。
「そうだね。怖い兄2人と父親に睨まれてるから、まだ先かな」
「一条さんまで何言ってるのっ?」
「うわー、だんぜん応援しちゃいますっ。あたしにできることがあったら、なんでも言ってくださいねっ」
「ありがとう。じゃあ、手っ取り早く、すぐ上の兄を懐柔してくれると助かるかな」
「一条さんっ!」
 真っ赤な顔をした史緒が割って入っても、和成と蘭のにこやかな会話はなかなか止まらなかった。


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