CHORuBunGEN/1話/2話/3話/4話/SongOfEarth |
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1791年。7月。 夏の初めのある夜、音楽家、W.A.Mが家でひとりで作曲をしていると、突然、扉が強く叩かれた。 「主人の“使い”の者ですが…」 開けてみると、扉の前には灰色の服を着た人間が立っていて、呆然としているW.A.Mに用件を告げた。 「あなたにレクイエムの作曲をお願いにあがりました」 |
T. モーツァルトの音楽は宇宙に昔から存在していて 彼の手で発見されるのを待っていたものを掴んだかのように純粋だ… アルバート・アインシュタイン |
1977年11月。 私立森都芸術大学はG県の東端の街に位置している。学部は大まかに音楽学部と美術学部の二つに分かれ、レベルがそこそこなだけにつまらない競争意識も無く、のんびりとした校風だった。歩いて十分の所にちょっとした山があるので、美術の学生は写生を口実に授業中に山を登る。音楽の学生は隣りの消防署の吹奏楽団と演奏会を開いたりもした。高度経済成長期と呼ばれるこの時代、そんな慌ただしい世の中とは別世界のように和やかに、学生たちは皆、それぞれの学びたい事を学び、最後の学生生活を満喫していた。 後に、この時期は平和だったと中村智幸は悟ることになる。 そう、あの日までは───。 「音楽って人に教えるものじゃないと思う」 この言葉が、全てのはじまりだった。 明日に学祭を控えた森都芸術大学では、構内の至る所で学生がひしめき合っていた。中村智幸のクラスもその例外ではない。今頃彼のクラスでは明日の準備が着々と進められているはずである。それにも関わらず手伝いもしないで智幸が食堂で一服しているのには訳があった。 「ツカイ」は二日前に現れた。 黒い服と鍔の広い黒い帽子、そして三日月を象った錫杖と黒いマントをなびかせて、「ツカイ」は降り立った。智幸の目前に。 最初はただ驚くしかなかった。妙な格好の人物が自分の前に現れたこと、そして「ツカイ」が自分以外の人間には見えないということに。 人間ではない、というさらなる驚愕は三十分で消えた。 他の人間に見えないという事は、自分が何を言っても無駄だということだ。下手に騒げば精神病院送りになりかねない。なにより「よろしく」と言った「ツカイ」の笑顔は害があるようには見えなかった。事実、三日目に入った今日まで「ツカイ」は特に何をするでもなく、智幸の言動を眺めているだけである。自身、生活に支障があるというわけではないので、「ツカイ」の目的をただ探っていた。 守護霊ってこんな感じのものかもしれない、と呑気にも思い始めていた。 ただし、智幸の周りからの評価に「独り言が多い」という項目が付け加えられつつあるのは致し方ないことである。 「誰もが感じられる感覚。何かが動けば音がする、音が集まれば音楽になる。この自然から、絶対離せないもの。教わらなくても誰もが持ってるもの…」 窓の外を眺めながら中村智幸は言う。それは「ツカイ」に向けられた台詞であるが端から見れば独り言以外の何ものでもない。三日目に入り、周りの視線も気にならなくなっているのか、智幸はしっかりした声で言った。 「だから、“音楽”なんて科目は必要ないんだ」 「ツカイ」は笑ったようだった。否定する証拠をあげるかのように、智幸の手元にある資料を指差す。 「…それなら教師じゃなくて、作曲家とかになったら?」 その資料には「教育実習の手引き」と書かれていた。鋭いところをつかれて智幸は黙るしかない。 つい先週、智幸は卒業後の進路調査を提出したばかりである。第一志望は「教員」だった。 「僕に才能はないよ」 首を傾げて苦笑する。しかし次に続く言葉は意外なほどはっきりとして、迷いの無い表情だった。 「そういうわけだから、僕は、力をもった音楽家を世の中に送り出せる、指導者になりたいんだ」 この台詞を諦めが良いと取るか、それとも自分の力をわきまえていると取るか、もしくは都合のいい言い訳と取るかは意見の分かれるところだ。「ツカイ」は少し考えてからこう結論づけた。 「…消極的なんだ、けっこう」 畳み掛けるような「ツカイ」の一言に、智幸は心を読まれたかのような動揺を覚えた。そして言い訳するかのようにまくしたてる。 「あきらめは大切だよっ、かのブラームスも言ってる。『私たちはもう、モーツァルトのように美しくは書けない』…ってね」 「──────」 苦し紛れの引用だったが、予想以上にその台詞は「ツカイ」を黙らせた。智幸が予測していた反論は返ってこない。 「ツカイ」がその引用に反応したことに智幸は気付いてない。テーブルに座って頬杖をついたまま、智幸に何か言いかけて、そしてやめた。 右手に持っていた錫杖をこつん、と自分の頭に当てる。言いかけたことは「余計な事」なのだ。 ───まあいいか。それはまた別の話だから。 はあああぁぁぁ、と、わざとらしい溜め息をつき、意地悪そうな目付きで智幸の顔を覗き込んだ。 「私もそれ、聞いたことあるけど、確か続きがあったよねー?」 ぎく、と智幸が呟く。さらに追い打ちをかけるが如く、「ツカイ」はすらすらすらと言ってのけた。 「『私たちはもう、モーツァルトのように美しくは書けない。───でも、彼と同じくらい純粋に書くよう、努めてみることはできる』」 あきらめはしない。たとえ追い付けないと分かっている相手がいても。 (彼だけは特別だから。天に才能を与えられた「神童」、格が違う力) 「ツカイ」は隣りでテーブルに座っているのでに見下ろされるようなかたちになり、その視線に智幸は返答に窮した。勝ち誇ったような「ツカイ」の表情に、いじめられているとしか思えないのは自分の発言が不発に終わったことへの八つ当りかもしれない。しかしここにきて少しばかりの抵抗を試みたのはある意味立派ともいえよう。たとえそれが無謀なことだとしても。 「えーと…ほら、ブラームスも才能があったってことさ。モーツァルトに劣ったとしても」 『才能』。 智幸の言葉はもう少し続く予定だったが、そこで途切れることになる。何故なら。 「なーかーむーらー…。おまえ最近ヤバいよ、その独り言」 「…服部っ」 いつのまにか人が近付いていた。ここは食堂なのだから当然といえば当然のことなのだが。 そこにいたのは同じ学科の人間、服部克雄だった。怪しげな視線を遠慮なく智幸に投げ掛けてくる。そう、彼らから見れば智幸の今までの台詞は全て、相手がいない会話、つまり独り言なのだ。 「どうしてここに…」 「どうして、っておまえ」 「お昼、食べにきたのよ。今更だけど」 さらに服部の後ろから同じく級友の小沢千絵が現れた。トレイを片手に智幸に歩み寄る。皮肉を込めて芝居がかった台詞を言った。 「誰かさんが手伝わないおかげで、作業進まなくてさぁ」 「はははは…」 智幸は笑うしかない。乾いた声が響く。 しかし二人とも悪意があるわけではない。そのことは智幸も分かっている。一応心配してくれているのだ。 「まぁ、おまえには明日のシフト、多く割りふっといたから。後で当番表、見にこいよ」 「久石くんが、中村の腕で客ひこう、って言ってたよ」 「…それ、自分がサボりたいだけだろ」 ありがたい友情、承っておくよ、と智幸は半ばうんざりしながらかたひじをついて笑う。 森都芸大、音楽学部作曲科は人数が少なく1クラスしかない。そのぶん団結力がありこのような行事のときはかなり盛り上がる。明日の企画は毎年恒例の喫茶店。BGMはピアノで基本的にクラシックなのだが、それをどう怪しく編曲するかは弾き手の腕しだいである。 「いい人達じゃない」 二人が去った後、「ツカイ」が言った。 「まあね」 しかし…と智幸は考える。智幸の妙な噂話は本格的に広がりはじめていた。それらの全ての現況は、今隣りにいる、この人物なのだが。 何者なのか、ということさえ、もうどうでもよくなっていた。 当の本人を見ると、うつむいて何かを考え込んでいた。珍しいことである。少し間があって、智幸の視線に気付くと顔を上げて、誤魔化すように笑った。 「……あのね」 少し迷ってから、「ツカイ」は口を開いた。 「は?」 「“才能”って、どういうことか知ってる?」 級友の二人が来てくれたおかげであやふやで終わらせることができた、と智幸が思っていた話題を持ちかけられた。あからさまに智幸は嫌な顔をする。 「…また、その話?」 「真面目な問題。さぁ、何でしょう」 「───他の人より、表現力が優れていること…とか」 芸術面なら、そういうことだろうか。漠然とそう思う。所詮、才能なんてものは結果の後に来るもの。努力でそこに伸し上がった人間でも才能があると言われるだろう。 才能の定義。 「難しく考えないほうがいいよ。───あなた達人間は気付いてないことが多いけど、才能っていうのはこういうこと。『宇宙に形無く存在しているものを、この地上に、その手のひらに、引き降ろすちから』のことなの」 「ツカイ」はそう言った。あまりにも簡単に。 「───」 しばらく「ツカイ」の顔を凝視していた智幸は、窓からの風によって我に返った。 (宇宙に形無く存在しているもの───) 智幸は「ツカイ」の言ったことの意味を理解することに思考を傾けすぎていて、重要なことに気付かなかった。 これは「ツカイ」が初めて、教えてくれたことなのだ。この三日間、自分のことは何も言わないで、智幸の行動を見ていただけの「ツカイ」が。初めて教示した言葉。 言い切った。きっと真実なのだろう。人間ではない(と思われる)「ツカイ」が言うと、何となく納得してしまう。 「だから、才能なんてものは、そう誰もが持っているものじゃないのよ」 * * * 「しっかし、人使い荒いわねぇ…沙都子も」 数百枚というチラシを抱え、階段を折りる。音楽学部器楽科(ピアノ)三年の巳取あかねは先程から愚痴をこぼしてばかりだ。 「いいじゃない。あかね、ヒマだって言ってたでしょ」 「だからって、他のクラスの人間に自分のクラスの宣伝を頼まないでしょー、普通は」 既に逃げることは諦めている。だから愚痴ぐらいは吐いてもいいだろうと思ってはいるが、目の前の人間は、一人楽しそうに道行く人にチラシを配っている。あかねの話などまともに聞いてはいないようだ。 同じく音楽学部器楽科(声楽)三年、鈴木沙都子。 「うた科でーす、明日来てねー」 「沙都子ー…」 うんざりしてあかねは、自分が持っているチラシに視線を落とした。 《うた科、全員参加ライヴ!! 『白鳥の湖』『ベートーベン五番・六番』など、フルオーケストラをスキャットで! 加えて、演歌・ポップス・ジャズ・ビートルズをファルセットで吠える! 乞うご期待!!》 「…」 あかねはめまいを覚えて、廊下の壁に寄り掛かった。 (相変わらず…変な集団だ) 「あかねっ」 「えー、なにー?」 思いっきりだれだ声を出す。どうしてこの友人はいつもこう元気なのか。 「食堂で何か食べてかない? お腹へっちゃった」 うんとも言ってないのに、沙都子はもう歩きだしている。しかし休めるならあかねは大歓迎だった。 本館の北階段を一階まで降りれば食堂がある。沙都子はランチを注文し、あかねは食べたばかりだったのでコーヒーを頼んだ。 「そういえばさ、沙都子」 「ん? 何?」 込み入っている中、どうにか空いている席を捜し出し座ることができた。明日の準備のせいで皆遅い昼食を取っているのだ。 「ウチのクラスの子が言ってたんだけどね。どうして声楽なのに『器楽科』なんだろう、って。ま、今更だけどねー」 沙都子のクラスのことだ。あかねの言葉に沙都子は身を乗り出し力説を始めた。 「なーに言ってんの、声っていうのは世界に一つしかない、自分だけの楽器なの。器楽科でも何の間違いも無いんだな、これが」 「───」 あかねは目を見開く。今、すごい事を言ったのかもしれない。この、友人は。 能天気な奴、と思っていたがこんなことを考えていたなんて。あかねはコーヒーを口に含み、目の前でランチを食べている人間を見なおした。 「沙都子ってさー、卒業後、どうするの?」 おそるおそる聞いてみる。声楽で食べていくのは、この学校のレベルでは難しいだろう。しかし先程の言葉からみると、もしかして途方も無いことを考えているのかもしれない。 「ああ、進路ねー…この間も担任に言ったんだけど、『永久就職』、かな」 がた、とあかねはコーヒーカップを机に落とした。 (あのなー…) わからない奴、と呟く。その声は沙都子には届かなかった。 まあそれも、らしいと言えば沙都子らしい。 あかねは体勢を建てなおし、「永久就職」で思いついた事を口にした。 「そういえば、あんたがホの字な奴、最近おかしな噂が…」 がたん、と派手な音を立てて沙都子は立ち上がった。あかねの言葉は途中で切れることになる。 「沙都子?」 「ごめーん、ちょっと行ってくる」 顔を赤くして、嬉しそうに沙都子は席を離れた。その方向を見て、あかねは沙都子の態度に納得する。 「…なるほど」 「だから、才能なんてものは、誰もが持ってるものじゃないのよ。だけど、才能が全てじゃないっていうのも確かなの。智幸はまだ何もやってないし、これから何でもできるよ」 「ツカイ」の励ましの言葉を、智幸は素直に聞いた。 「そうかな…」 「そうそう」 その時。 「中村くんっ!!」 その声は大きかった。本当に大きかった。「ツカイ」さえも心底驚いた表情で、その声の源を見た。 見ると、さほど背の高くない女がそこに立っていた。視線はもちろん、中村智幸に向けられている。 「す…、鈴木さんっ」 今度は智幸がうわずった声をあげた。その横顔はそれと分かるほど赤く、いつもよりテンションが高い。 「…」 二人の会話を端で聞いていて、智幸の心理を「ツカイ」は察した。 (なるほど…そーいうことね) 人の恋路を邪魔するほど野暮ではない。「ツカイ」は少し離れて、傍観を決め込んだ。 が。 ───え? (スズキ?) 「ツカイ」の頭の中で何かひらめく。彼女にとってはいい方向へではない。 まさか。 (スズキサトコ──────!? ) バッ、と振り返る。 「あのねぇ、ウチのクラスのチラシ、持ってきたんだけど…もしかして、おジャマだった?」 「全然っ、そんなことないよっ」 智幸はムキになって否定したが、沙都子の視線は…。 「え…?」 奇妙な沈黙が生まれる。 沙都子の、四割の好奇心と六割の敵視が含まれた視線を、「ツカイ」は真っすぐに受けとめた。そう、間違いなく、沙都子の目は「ツカイ」を捕らえているのだ。 「えぇっ!?」 智幸は胸を突かれるような驚きを味わった。反射的に「ツカイ」のほうへ振り返る。しかし「ツカイ」は沙都子のほうへ目を向けて、智幸とは目を合わせなかった。 三日間。誰一人として、この姿を見ることがなかった「ツカイ」を。鈴木沙都子は見ているのだ。ごく当たり前のこととして。 「…鈴木さんっ! 見えるのっ!?」 「は…? 見えるって、何が?」 智幸の言葉の意味が分からず、沙都子は首を傾げる。 「何がって…」 「きゃあぁ、その衣裳かわいいねー。あ、もしかして明日のパレードのっ? すごーい、こってるねぇ。すごーいすごーい」 沙都子の叫びは智幸の声をかき消した。「ツカイ」の外見、確かに普通ではないその格好を、沙都子はそう評価した。 この服どーなってるのぉ、とすっかり浮かれている沙都子に脱力する智幸だった。 「ツカイ」は特に何を言うでもなし、沙都子の一方的な会話を適当に聞いている。 (やっぱり、見えてるんだ) 何故、という疑問が生まれる。どうして智幸と沙都子だけが、この人間ではない(と思う)「ツカイ」を…。 「おっと、私、友達待たせてるんだった。じゃ、中村くん。後で彼女、紹介してねっ」 ぺらぺらとまくしたてるその姿は智幸の話など聞いていない。沙都子はそう言うと、さっき来た方向へ戻っていった。 「あ、ちょっと、鈴木さんっ」 引き止めようとした声も無駄に終わった。すでに沙都子の姿は遠くに消えている。 「鈴木さーん…」 「ずいぶん…強引な人だね」 別れ際、彼女の笑顔が引きつっていたのには、智幸は気付かなかっただろう、と「ツカイ」は断言できる。「ツカイ」への視線に敵意が交じっていたことも。 (素直でかわいいじゃない) 感情が表情に出るところとか特に。それに気付かない智幸は鈍感とも言える。 それにしても。 (…ここまでか) 沙都子を引き止めようとした右手を降ろして、そういえば、と智幸は振り返る。 彼女は何かとてつもない、智幸にとって非常に都合の悪い勘違いをしていた。 「誰が誰の彼女だって…?」 奇妙に顔を歪ませて「ツカイ」の顔を覗き込む。沙都子はそう誤解したまま行ってしまったのだ。 「あははは、否定すればよかったじゃない」 率直すぎる答を返した「ツカイ」は、意外なほど無邪気に笑っていた。 「しまったあー」 そして低い声で。 「安心して。智幸は彼女と結婚するから」 「ただいま…」 あかねのところに戻った沙都子は力なく椅子に座る。席を離れた時とは打って変わった元気の無さに、あかねはカップを持つ手を止めた。 「どうしたの?」 その声に反応して、がばっと顔を上げた沙都子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。 「あーもうっ、彼女がいたなんて予想外だった!!」 「ぶはっ」 あかねがコーヒーを吹き出す。それは突然沙都子が大声を出したことと、その内容による驚きを表したものだが、とりあえず後者に対しての疑問を返す。 「彼女? …中村に?」 信じられん、とあかねは内心で呟いた。あの、中村に彼女? 「そうよっ…ほら、隣りにいるじゃない」 と、中村智幸が座っている方角を指差す。 「え…?」 あかねのところからだと、智幸の背中しか見えないが近くにそれらしき人物は見当らない。どれ?、と聞こうとしたがそれは沙都子の恨み言に消された。 「ぜったい独り身だって信じてたのにぃ…うぅっ」 テーブルにうつぶせて、本格的に落ち込んでいる沙都子を見て、あかねは溜め息をついた。 「あのさ、別に沙都子の趣味を疑うわけじゃないけど…そんなに中村って、いい?」 一応気を使って小声で言う。 沙都子が上体を起した。あかねは反射的に身構える。しかし、予測した言葉による反撃は返ってこなかった。 真っすぐにあかねの顔を見て、真剣な顔で一言。 「うん」 * * * 沈黙。 突然、空気が凍ったように。 「──────」 智幸は「ツカイ」が何と言ったか理解するまで、きっかり三秒必要だった。 《智幸は彼女と結婚するから》 断言。 冗談だと、受け取ればいい。笑えばよかったのかもしれない。 だけど。 「ツカイ…?」 「ツカイ」の顔から笑いは消えていた。意味深な、どこか突放したような表情。冷酷とも言えるような。 わかった。 遊びは終わったのだ。「ツカイ」との時間は、ここで終わる。そのきっかけは多分、鈴木沙都子の出現。彼女に「ツカイ」が見える理由。 それを含めての、溢れてくるような数々の疑問を、智幸は口にできなかった。 (聞かないほうがいい…) そんな気がする。 そうすれば、目の前の人物が何者なのかを、深く考えずに済む。 しゃらん、と軽い音をたてて、「ツカイ」の手にしている錫杖がなった。 それが合図だったかのように、笑って先程の発言を続ける。 「それでね」 「…」 恐怖を覚えた笑顔ははじめてだった。 「子供が一人、生まれるの」 「おい…」 「その子は、歴史に名を残したある人の生まれ変わりで…きっとすごい才能を持って生まれてくる」 『才能』──────。 才能の定義とは。それをこの「ツカイ」は何と言った? 「ツカイ」はどんな目的でここに来たのか。何の為に、中村智幸の所へ。 頭の中に生じるのは疑問ばかりだ。自分が分かっていることなど、ただの一つもない。知らなくてもいいのかもしれない。わからなくても、これからも普通の生活が続けられたかもしれない。 中村智幸の予感は当たっている。 これは自分の人生を変える出来事なのだ。 「私、その子を、殺すかもしれない」 その一言が、智幸の沈黙を終わらせた。 「ツカイっ!!!」 周りの視線など考える暇もなかった。智幸は大声で叫ぶ。たったその一言で呼吸が乱れて肩が震えた。 「…」 叫んでおいて、後の言葉が出ない。言いたいことは沢山ある。沢山ありすぎて、思考が混乱して何から聞けばいいのかわからない。 寒気がした。怖いのだ。「ツカイ」が。 ふっ、と笑う声が聞こえた。 「私、もう帰るよ」 「ツカイ」はテーブルを下りて立つ。突然の別れの言葉に智幸は意表を突かれた。 「一応目的があってここに来たけど、智幸の言葉でそれももうどうでもよくなった」 「え…?」 智幸の言葉。 「ツカイ」が一歩離れた。「帰る」のだ。そのせいでまた一つ増えた疑問を深く考える余裕もなくなった。 「…おまえ、何者なんだよ? どうしてここに来た? 『殺す』って何だよっ? ツカイっ!!」 「ツカイ」の足が止まる。智幸の大声に、さすがに周囲の学生たちはざわめきはじめたが、本人の耳には入っていなかった。 「…一つだけ、教えてあげる」 智幸を巻き込んだ代償として。関わった者への当然の権利、知るということを。 一つだけ教える。 生まれてくる子供の前世。 「W・A・M──────」 ダヴリュー・エー・エム。 神の名を与えられた者。再びこの大地を踏むために。近くよみがえる。 「…?」 何を言われたか分かっていない智幸を見て、もう一度微笑む。 「さよなら」 音も無く、「ツカイ」の体が宙に浮いた。 「今度はあなたの子供に会いにくるけど…智幸に逢うことはもう、ないから」 もう逢うことはない。 その意味を、この時の智幸には察することができなかった。 そして、その黒い影は消えた。 ここまでだった。 中村智幸は十分ほど、その場に立ち尽くしていた。 少し遅れて、校庭の木の上から食堂を見下ろしていた、白い影も消えた。 これが、1977年11月。中村智幸の身に起こった出来事。人生をも変えた三日間だった。 * * * まだ見ぬ君へ───。 僕は今日、次のクリスマスは君と迎えられることを知った。 夜が更けるまで二人で大騒ぎだったよ。 しかし嬉しい反面、僕は不安を憶えずにはいられない。 三年前の、あの三日のことを忘れることができない。 今まで誰にも話さなかったことを、 未来の君へ、ここに残しておく。 『W・A・M』。 ツカイの一つ一つの言葉。 それらの意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。 僕は自分の運命として、いつも肝に命じておくけど、 生まれてくる子供へ。 どうか君だけは、彼女と出会わないよう、 僕は、願うよ。 1980年5月18日 中村智幸 |
U. Requiem aeternam dona eis, Domine, Et lux perpetua luceat eis. Dies irae, dies illa solvet saeclum in favilla, teste David cum Sybilla Mors stupebit et natura, cum resurget creatura, judicanti responsura. 主よ、永遠の休息をかれらに与え、 たえざる光をかれらの上に照らし給え。 ダヴィドとシビッラとの予言のとおり、この世が灰に 帰すべきその日こそ、怒りの日である。 人間が、審判者に答えるためによみがえるとき、 死と自然界とはおどろくであろう。 |
校舎の屋上に黒い人影があった。 屋上の手摺りに腰掛けているその方向を、誰かが偶然見たとしても、何も意に介するようなことはなかったであろう。何故ならその人影を目に映すことができるのは、この構内に二人しか存在しないからだ。 中村智幸。鈴木沙都子。 「すべて筋書き通り…」 「ツカイ」は独りごちた。誰に向けて言ったわけでもないが、口にしてみて何故か苦笑してしまう。 本当にこれでうまくいくのだろうか。運命の輪は廻り始めている。 全てを終わらせる為に。 「…」 西の空に目をやると、ちょうど日没だった。建物が立ち並ぶ街に夕陽が落ちていく。空と雲と街とを赤く染めながら。 この景色の中にどれだけの人間がいるだろうか。そしてその内のどれだけの人間が、この景色に目を止めただろう。 望んだのは繁栄。世界を手にするちから。 気付いたときには遅すぎる。もう後戻りはできない。 「ツカイ」は膝の上で組んだ自分の両手に顔を埋めて呟いた。 「…きれぇ」 その時、背後から高い声がかかった。 「灰色の人工物がそんなに感動的か?」 「ツカイ」は目を見開く。妙に聞き慣れた声。 (…何でここにいるの?) 「ゆきのっ!!」 振り向きざまに叫ぶ。 白い服と白いマント、白い髪を耳の上で二つに縛り、空に立っている。右手には手袋、輪が象られた錫杖を握っている見慣れた姿がそこにはいた。偉そうな態度と口調だが体は小さい。人間の年齢にすると小学生ぐらいに見える。両腕を組んで「ツカイ」を見下ろしていた。 いつものことだが機嫌が悪そうだ。 「…喋りすぎたんじゃないか?」 「え?」 少し間をおいて、「ツカイ」は、その台詞の目的語に「中村智幸」が当てはまることに気付く。 「…見てたのねっ!?」 「全部な」 中村智幸との会話を。あまりの憤りに「ツカイ」は何か言い掛けるが言葉にならない。 それを無視して、ゆきのは錫杖の先を「ツカイ」の目の前に突き付けた。 「ところで」 鋭い目を「ツカイ」に向ける。 「あの男の子供の生死は、おまえの一存では決定できないはずだな」 「ああ、『殺すかも』ってヤツ? …冗談よ。そうなるかもしれないってこと」 ゆきのの視線も「ツカイ」は軽く受け流した。ゆきのが錫杖を引くと、「ツカイ」は空を見上げて伸びをする。 でもね、と視線はそのままで口を開いた。 「たとえそうなったとしても、中村智幸にはどうすることもできないよ」 自分の子供を守ることさえも。 ゆきのは意外そうに「ツカイ」のほうを見る。しかしその表情からは何も読み取れない。 「ツカイ」は意味無くそんなことを言ったわけではない。確信があるのだ。 「…何故わかる」 ゆきのの直接的な疑問に「ツカイ」はうつむいて苦笑した。 「わかってよ」 (だって彼は) 「…私の管轄のことなの」 (あと十年のうちに───) 下を向いて黙り込む「ツカイ」の横顔を、無表情で見やる。ゆきのは合点がいったようだった。 「…へぇ」 それだけ言って、これ以上の追求はしなかった。 (しかし) いつものことだがゆきのには心配が絶えない。どうしてこの目の前にいる相棒は、必要以上に人間に感情移入するのだろうか。まさしく百害有って一利無しだ。 沈黙を埋めるようにゆきのが口を開く。 「こちらも、報告がある」 「…?」 「今日の会議で決定した。三年後の十二月五日だ」 文法を考えないゆきのの物言いには慣れている。この言葉の主語となる単語はすぐに分かった。それよりもその日付に「ツカイ」は呆れた声を返す。 「十二月五日…ねぇ。よりによって、命日に生まれるとは…」 『彼』が来る。もう一度この大地へ。そして…。 「今度こそ大丈夫だろうな。二百年前に続き、二度目の失敗を許す程、『聖』は寛容ではない」 「───わかってるわ」 もう、後がない。 自然に、二人は下に広がる景色を見渡す。夕陽は完全に沈み、街に夜が来ようとしていた。 人間は知らないだろう。いつか、朝が来なくなる日があることを。それが遠い未来ではないことを…。 「W・A・モーツァルト。百八十九年ぶりの翔来…ってとこか」 「…だね」 ゆきのの言葉に「ツカイ」はゆっくりと立ち上がる。眼下では校舎に明かりが灯り、学生たちは明日の準備に忙しそうだった。しかし構内に中村智幸の気配は感じられない。 「───」 (音楽って、人に教えるものじゃないと思うんだ) 目的があってここに来たのに、智幸のあの一言が「ツカイ」を黙らせた。後にそれは重要な意味を占めることになるのだが、「ツカイ」もまだそれは知らない。 最後に、息を吸って、まるで何かを決意したかのように、「ツカイ」は太陽の最後の光を見つめた。 「…今度こそ還してもらう。宇宙へ──────」 1791年。7月。 夏の初めのある夜、音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが家でひとりで作曲をしていると、突然、扉が強く叩かれた。 「主人の“使い”の者ですが…」 開けてみると、扉の前には灰色の服を着た人間がが立っていて、呆然としているモーツァルトに用件を告げた。 「あなたにレクイエムの作曲をお願いにあがりました。依頼主の名は訳あって言えません。お引き受け下さるのでしたら、今、謝礼の半金を差し上げます。残りは曲が完成した時に…」 ───当時、モーツァルトは既に体調を崩しており、貧困に悩まされていたので、すこぶる不安定な精神状態にあったが、そのため依頼主のわからないレクイエムを注文されたことで、自分の死が迫ったことを確信した。 誰の為の<レクイエム>なのか どの死者の為のミサ曲なのか 依頼主を知らされないモーツァルトは、今はもう、この曲を自分の為のものだと思っていた あの灰色の服の人物は死神の使いで、ぼくに最期の時が迫っているのを知らせにきたんだ 死神の使いが、早く自分の為の<レクイエム>を書くように───。 |
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