CHORuBunGEN/1話/2話/3話/4話/SongOfEarth
wam3


#1 00.序曲
  01.1997
  02.予兆
#2 03.1987
  04.結歌
  05.祥子
  06.彼方からの手紙、そして。
#3 07.1989
  08.結歌-2
  09.使い
#4 10.生まれた街へ
  11.kadenz
  12.終曲







07. 1989

『もーちーろーん、あんたのおごりでしょうねぇ? 今日は』
 1980年10月。場所は大通りに面する喫茶店。巳取あかねは週一回の休日をつぶされた不機嫌さを隠しもせず、呼び出した人物に念を押した。
『わかってるよ』
 眼鏡の奥の、男の二つの目が笑った。
 窓の外を、流行りの服を身にまとった若者が通り過ぎる。あんな風に、3人でつるんでいた時もあった。それはたった2年前のことなのだが、社会に出てから一気に年をとったように思える。その若者達を視界から消えるまで見送って、あかねは目の前の人間に視線を戻した。
『・・・・』
 あかねはこの男に、あまり良い印象は持っていなかった。
 はっきりしない優柔不断な性格。ある時からいっそう影を帯びた横顔。けれど時々見せる、しっかりと確立した物の考え方。そんな矛盾も踏まえて、あかねはこの男にちょっとした嫌悪を抱いていた。
(・・・つまり暗いのよ、性格が)
 しかしそのような性格も、あかねの親友の目には格好良く映るらしい。どういうわけか。
 付き合いは長いのだがあまり一対一で話す機会はなかった。そういうわけで、こういうシチュエーションは珍しい。この人物と会う時には必ずもう一人・・・・あかねの学生時代からの親友であり、目の前の人間の配偶者が隣りにいたのだ。
『で? 用件は何?』
 “一回目”のオーダーぶんがテーブルに揃ってから、あかねはあまり口数の多くない相手の為に促してやる。
『頼みがあるんだ』
 中村智幸は真摯な表情でそう切り出した。
 あかねは目をひそめる。
 親友である沙都子の夫とはいえ、仲が良いとは表現できない間柄の智幸が口にする言葉としては予想外だった。しかしその真剣な態度が言葉の深刻さを表わしている。
『・・・・高くつくわよ』
『それでもいい』
 あっさりと表情を変えずに答えた。
『あんたねぇ』
 詳細が語られていないこともあるが、あかねはじれったさを感じるを得ない。加えて、ここでの会話が沙都子には秘密であることを、あかねは見抜いていた。そうでなければわざわざ智幸がこうして外に呼び出す理由がないからだ。
 はあ、と溜め息をつく。
『・・・今日、沙都子は?』
『病院に行ってる』
『そっか。・・・あと二ヵ月だもんね』
 そこでまた会話は途切れた。
 からん、とグラスの中の氷が鳴った。
 智幸はあかねの返事を待っているのか、カップに手をつけようともしない。目を合わせずにうつむいている。
(私・・・沙都子に隠し事したくないんだけどな)
 とくに沙都子が熱愛している智幸のことについて。
 もしばれたら沙都子は黙っていないだろう。
 沙都子と智幸。どちらに着く? と聞かれたら、あかねには悩む時間すら必要ない。
 沙都子に吐けと言われたら、あかねは簡単に白状する気でいた。
 しかし中村智幸とも、いい加減長い付き合いなのだ。無理難題を突き付けられても困るがそうでないことならまあ内容によるかな、と思う。
『・・・いいわ。とりあえず聞かせてよ』
『巳取・・・』
 顔をあげて安心したような表情を見せる。そしてさっそくというか現金な奴というか、テーブルの上に封筒を置いた。
 宛名は書いてない。
『これを預かっていてくれないか』
『・・・・手紙?』
 気のせいか、智幸の手は震えているように見える。しかし次に発せられる言葉は、深みがある程落ち着いて、しっかりとしていた。
『これから生まれてくる僕と沙都子の子供に。・・・成長して・・・・物事をしっかりと考えることができる年齢になった時、渡してほしい。頼む』
 何年先のことになるのか想像もつかないことを言う。その月日の長さをざっと計算して、あかねは苦々しい表情になった。
『・・・あんたが直接渡せば?』
 あかねのもっともな提案に智幸は軽く笑っただけだった。
『いや、・・・もしかしたら、僕はその時に・・・いないかもしれないから』
『・・・・・?』
 その時あかねは深く追求しなかった。智幸の態度がそれを拒んでいるようだったし、何を尋ねればいいのかうまく一つにまとめられなかったから。
 できないことはない。あかねは承諾した。
『わかった。・・・沙都子とあんたの子供に、ね?』
『・・・ありがとう』
 真正面から礼を述べられて、あかねはらしくもなく赤面した。それをごまかすように皮肉を込めて智幸に言う。
『あんた、これから私に頭が上がらないわね』
『ああ・・・まったくだ』
 中村智幸は穏やかな表情で、笑っていた。



 5ヵ月前に書いた手紙は書いて封をしたものの、どうすればいいか、ずっと迷っていた。
 杞憂かもしれない。
 そうあってほしいと願う。
 でもこれを残すことで、自分が見ることができないかもしれない、もしかしたら最悪の未来が少しでもかわるなら。
 そう思って、やはりこの手紙は、未来に残すことにする。








08. 結歌-2

 宇宙から降ろされたはずのモーツァルトの“才能”。
 その最後の曲である「レクイエム」はモーツァルトが死んだ二百年前までに宇宙に還らなかった。
 地球上の史実では未完成のまま。
 そうでないところでは予想外の事件。
 前例が無かったことだが、未だ「彼」のこころの中に残存し、次の肉体に受け継がれている。つまり。
「私たちが今こうしてここにいるのも全てお前がミスしたおかげなわけだ」
 都内某市上空。ゆきのはかけらの気遣いも無い言葉を、いつもの口調で呟いた。皮肉でないぶん、その言葉は直接胸に突きささる。
「どーして・・・あんたはそう人を落ち込ませることを言うわけ」
 黒い服と帽子とマントを身に着けている、中村結歌の言うところの「使い」は、たはははと肩の力を落した。一方、気持ち良い晴天とよく似合う白一色の衣服をまとっている小柄で表情のキツいゆきのは「同情の余地無し」と言わんばかりの表情で使いを見下ろしている。
 どうでもいいことだがこの場合「見下ろす」ことが可能なのは、ゆきのの方が高度をとっている為だ。
 青い空の中で、白黒の二人があまり(というか全く)仲の良くない会話をしている風景は、ある意味滑稽とも言えた。
 二人とも錫杖を持っていて、輪を象ったそれはゆきのが、そして三日月を象ったようなそれは使いがそれぞれ所有している。
「落ち込ませているわけじゃない。責めてるんだ」
「ゆきのぉ・・・」
 あまりに容赦の無い台詞には涙がでる。
「だいたい、二百年前にレクイエムを書かせておけばこんなことにはならなかっただろう」
「“時間”の計算を間違えたミスは認める。けど、あの時はこんな風に彼の曲が必要になるなんて夢にも思わなかったのよっ」
「まさかとは思うがそれは言い訳か?」
 厳しい目付きで睨まれて、さすがに使いは口を閉じた。が、付き合いが長いのにいつまでたっても懲りない使いは少しの反抗を試みる。
「───この際だから言わせてもらうけど・・・あと2年しかないのよ。もっと早
く生まれさせてくれればこんなに急ぐ必要もなかったのに。そのへんはゆきのの管轄でしょ」
「馬鹿言うな。十七年前に中村結歌は生まれているだろうが。それを見付けられなかったのはお前の手落ちだ」
「・・・」
 これで本当に返す言葉は無い。おとなしく引き下がった。
 ゆきのはふてくされている使いの横顔を見やると、静かに口を開く。
「この仕事、あまり乗り気ではないんだな」
 厳しさは変わらず、けれど先程とは違う深刻さのゆきのの言葉に使いは低い声で答える。
 雰囲気が一変した、刺々しい口調だった。
「・・・あたりまえよ。私は、『聖』の思い通りになるのが嫌なの」
 本来ならばこのセリフはかなり無礼な問題発言にあたるのだが、ゆきのは無言で聞き流しただけだった。
 その代わりにこれから地上へ降りる相棒に声をかける。
「余計な忠告だと思うが・・・・できるだけ迅速に処理しろ」
「言われなくてもわかってる」
 本当に? ゆきのは呟いたがそれは使いに聞かせる言葉ではなかった。
「え? 何か言った?」
「別に。───それから、『聖』の使いである私たちが、人間と接触するときの制約・・・分かってるだろうな」
「もちろん」
 不敵な笑みを返す。珍しくゆきのがそれに応えた。
 かしゃん、と二人は錫杖を合わせた。
「無駄話もここまでだ。───行け」
「りょーかい」
 じゃあね、と軽く手を振って、使いは地上へと降下した。




 今まで十七年間、中村結歌を探していたわけではない。
 見付けてはいた。十年前、結歌が七歳までの足取りは確かにあったから。
 ある事件を境に手掛かりは消えた。木を森に隠したように。人波にまぎれるように。
 本人、中村結歌が自分のちからに気づいてないはずがない。大成するちからだと分かっているはず。意図的に隠れたのだ。
 何の為に?
 疑問点はいつもそこにある。
 世に出たくないのだろうか。そうするとその理由は。
「結歌の心理なんてどうでもいいか・・・」
 今回の目的は、二百年前に完成されなかったモーツァルトの「レクイエム」の空への返還。
 それだけだ。
 ゆきのの言う通り、早く終わらそう。
 公園のブランコに腰掛けている中村結歌を眼下に発見する。空気抵抗も無く急降下する。地上十メートルのところで止まり、慣れたようにゆっくりと、結歌の背後にまわって使いはにっこりと笑った。
「やーっと捕まえた」
 結歌の背中が揺れた。
「久しぶり・・・それとも初めまして、かな。中村結歌さん」
 とりあえずにこやかに挨拶をしてみたりする。相手の出方をうかがうにこやかな表情はちょっとわざとらしかった。
 さっ、と結歌の表情が青くなる。
(あれ・・・?)
 その表情の中、驚愕以外に恐怖をも見て取った使いは首を傾げた。
 なにか、誤解でも?
 そりゃ、空から人(?)が降りてくれば驚くだろう。それに伴う少しばかりの「恐い」という感情も分からなくも無い。
 しかし結歌はそのからだ全体で使いを拒絶しているのがわかる。見開いた目は使いを捕らえて離さない。そして今にも後退りしかねない態度だが、その足は棒のように動かなかった。
 ただ震えているだけだ。
 怯えている。
 どうやら良く思われていないらしい。本題に入れる雰囲気ではなかった。
「あのね」
「!」
 使いの呼び掛けに極度の反応を示す。顔を強ばらせて、歯を噛み締めて、緊張しているのがわかる。
 その態度を見て、使いはふぅと溜め息をついた。
「・・・実際、意外だったのよね。あなたが音楽から離れていること」
 そうすることで使いは結歌を見付けにくくなる。
(逃げた、ということか)
 確証はなかった。けど今、結歌の態度を見て確信する。結歌が音楽から退いた理由、使いから逃げる為であったことを。そしてそれは成功したのだが、それも今日までというわけだ。
 しかしそれならば新たな疑問が生まれる。
 何故、逃げる?
(何もしてないのに)
 先程からあからさまに怯えた態度を見せている結歌に、一応気を使っているのだ。友好的に対しているはずなのだが、結歌は警戒を緩めようとはしない。
「何故、私から逃げるの?」
 単刀直入に尋ねる。
 心覚えのない恐怖心を抱かれても迷惑だ。というより困る。
 これからの“交渉”に影響が出るではないか。
「───・・・恐いのよ」
 消えそうな声で呟いた。
 使いにとって、初めて聞く結歌の言葉だった。
「え?」
「あんだが恐いのよっ! 私に近付かないでっ!!」
 絞りだすような悲痛な叫び。突然の剣幕に使いは一歩退いた。明らかに使いに嫌悪感を向けて、結歌は手に持っていたものを思いきり投げ付けた。───それは紙だった為に使いに届く前に地面にぱらりと落ちた。
「・・・近付かないで・・」
 大声を出して張り詰めていた神経が緩んだのか、結歌はその場に崩れ落ちる。その体はがくがくと震えていた。
 使いは目を丸くしてそんな結歌の姿を見下ろす。
(恐い・・・?)
 そんなことは結歌の態度を見ていればわかる。またまた疑問が生まれる。
 なんで私が恐いの?
 使いは結歌の今までの生活、そして「彼」から受け継いだ記憶をあまりにも知らなすぎた。
 恐がられる覚えはない、と使いは思う。「中村結歌」とは初対面のはずだから。・・・そう考えるだけの事実しか使いは知らなかった。
「結歌ちゃーん、何やってんのー?」
 その時、使いは公園に入ってくる2つの影を見た。一方、結歌はその声さえ耳に入らなかった。
 声に反応しない結歌に異常を感じたのか、2人の男女は小走りでやってくる。もちろん、その2人に使いの姿は見えていない。
(・・・今日はこれ以上は無理か)
 使いはそう判断して結歌への干渉を諦め、消えようとした。が、先程結歌に投げ付けられたものが視界に入り、なにげにそれを拾う。
(手紙・・・?)
 別段、それを読む気も起こらなかったが、封筒にしまわないまま結歌が投げたので、文面が嫌でも目に入る。しかも気にも止めなかったその文の、ある単語が使いの目に飛び込んできた。
《中村智幸》
(・・・)
 眉をひそめて、使いは手紙の文字に視線を走らせる。
 手紙を読むにつれ、初めのうち驚いていた使いの表情はやがて微笑に変わった。目を細めて手紙全体に目を移す。
(なるほどねー・・・)
 本心から感心して、便箋を丁寧にたたみ、封筒に入れた。


 結歌が自分を恐がっている理由と思われる原因の一つが、この手紙には書かれていた。
(智幸のやつ・・・・。一本取られたかな)
 それには二十年前、結歌の父親と使いが出会っていたことが記されていた。それどころか会話の一部始終全てが克明に書かれている。
《殺すかもしれない》
 確かにそう言った。あの状況で智幸が使いの言葉を真に受けるのも無理はない。冗談半分で言ったあの言葉に自分の未来を見越した智幸は、この手紙を残すことで、死してなお娘を守っている・・・。
 智幸の、娘に対するささやかな警告、使いへの反発、といったところだろうか。
 結歌がそれを鵜呑みにするだけの材料も、もしかしたら使いはどこかに落してきたかもしれない。
(・・・・・自分の蒔いた種、ってやつか・・・)
 そう思いながらも、使いは笑っていた。智幸の反抗が、少し、嬉しかったのかもしれない。



 死を目の前にして、人は平静を保てるだろうか。
 未知の次元。全ての生命に与えられた結末。
 否、十七年しか生きていない中村結歌ならなおさら。
 誰にでも1秒先は分からないものだけど。


 巳取あかねを仲介人とした父からの手紙は新たなる驚愕を伝えた。
 二十年前、使いが智幸のもとに現われていたこと。他の人間には見えないその姿を後に結歌の母となる沙都子は例外だったこと。さらに智幸の子供───つまり結歌を、殺すかもしれないと使いが告白したこと。
 そして。
(使いとあったお父さんは、十年前に・・・)
 やはりそうなのか。使いと出会うことが意味するもの、それは。
 ・・・近付かないで。
 そんな言葉で済まないことは知ってる。懇願も哀願も役には立たない。父の手紙が恐怖心に毒を流す。その傷口から十年間押さえ付けていたものの解放、さらにそれが外殻を溶かして。
 苦痛と絶望。
(知ってたなら助けてよ・・・)
「どうしたの? 気分悪いの? ・・・・結歌ちゃんっ」
「!!」
 実在する人間の───確かに耳から聞こえる声に結歌は顔をあげた。
 心配そうに覗き込む人物の顔を確認すると、息を吸うのも忘れて、結歌は息とともに小さい声を吐き出した。
「・・・あやめちゃん」
 その後方に桔梗の姿も見える。
 支えてくれている菖蒲の体温を感じる。
 泣きたくなるような安堵。一人ではないということが、こんなに安心できるものだったとは知らなかった。


 目を開けた時、自分の部屋ではなかった。
「あ、おっはよー。って言っても、今、夜の十時だけどねぇ。何か食べる? それとも飲み物がいい? 欲しいものあったら遠慮無くリクエストしてね。この時間コンビニしかやってないけどさ。桔梗に買ってこさせるから」
 小気味いい言葉を聞いているうちに目が冴えてきた。思わずくすくすと笑ってしまう。寝ている体勢から見えるだけの家具と、セリフの主から、結歌は自分の居場所を悟った。
 内田菖蒲はずっとついていてくれたのだろう。フローリングの床には空になったグラスと読みかけの雑誌が置かれていた。結歌の額には濡れたタオルが置かれていて、それがなかなか気持ちよかった。
「・・・あやめちゃん」
「ん? なに?」
 結歌の顔に耳を近付ける。
「ベッドが煙草くさい」
「・・・余裕あんじゃない」
 とうっ、と布団の上から体重をかけた。二人で声をたてて笑った。
「・・・ちゃんと生活しないと、茅子おばさんが泣くよ」
 結歌が突然倒れた理由をどう解釈したかは定かではないが、菖蒲が深く追求してこないことがありがたかった。
「・・・・・うん」
 桔梗の三歳離れた姉である菖蒲は、結歌の姉代わりでもあった。昔から世話好きな彼女は、今日久しぶりに逢った結歌に、変わらぬ気遣いをしてくれている。それが嬉しかった。
「よかったら泊まってく? お母さんもそう言ってるし。どーせ茅子さん帰ってこないんでしょ」
「いいのっ?」
「私と一緒の部屋でいいならね」
 軽くウインクすると、菖蒲は立ち上がって部屋を片付け始めた。結歌のぶんの布団を敷くスペースをとるためである。
「ああ、それとも桔梗の部屋でも構わないわよ」
 さらりとした口調で結歌にひやかしの目を向けた。含み笑いが結歌の癇に触る。
「・・・っあやめちゃん!」
 顔を赤くして大声を出した結歌を見て、菖蒲はからからと笑っていた。


*     *     *


 当然と言えば当然だが、内田家夫妻に挨拶をしようと菖蒲の部屋を出たとき、桔梗と対面してしまった。
「・・・・」
 気まずい沈黙が生まれた。
 そういえば喧嘩してたんだっけ・・・。
 広くない廊下で相対して、その顔をまっすぐに見つめる。二人とも視線を外そうとはしなかった。昔からの慣習で、先に目をそらした方が己れの非を認めた、ということになっているからだ。二人の強情な性格はそういう幼少時代の“きまり”からきていた。
「よう」
 無表情で桔梗が声をかける。
「・・・・やあ」
 思いのほか穏やかな応対に結歌は笑った。
 桔梗は目を細めて言葉を続ける。
「心配されたくないなら顔に出すな」
「──────」
 それだけ言うと、桔梗は結歌の横を通り過ぎて自分の部屋に消えた。
 いつもの結歌なら、そんな桔梗の態度に言い返していただろう。だけど想像以上に何故かよくわからないショックが大きかったらしく、結歌は振り返ることもできなかった。
 一人その場に取り残されて、言い様のない孤独を思い知らされた。

*     *     *


「桔梗の彼女って、見た?」
 ターバンで髪が顔に落ちないようにして、パックに専念している菖蒲が尋ねた。
 菖蒲のベッドの隣に布団を敷いて、結歌はその上を陣取る。着ているTシャツは菖蒲に借りたものだ。
 菖蒲の言葉を聞いて、結歌は意外そうに顔を上げた。
「知ってるの? 桔梗のことだから、黙ってるとおもってたけど」
「無理矢理聞き出したのよ」
 愚問だったかもしれない。
「・・・私も話だけ。違う学校の子だって」
「ふーん。あいつに彼女ねぇ。中学の時は部活ひとすじで、結歌ちゃんが自分のこと好きだってことも気づかないほど、鈍いやつだったのにねぇ」
「・・・その話やめて・・・」
 昔のことを掘り返されて、恥ずかしさのあまり結歌は枕に顔を沈めた。ぐわああ、と叫びたくなるが、時間を考えると大声を出すのは気がひける。菖蒲を睨もうとしたけど、赤面では効果がなかった。
「で? 今はどうなの?」
「どう・・・って、桔梗はああだし、ね。それに私、今はそれどころじゃ・・・」
 結歌はそこで口を閉じた。・・・そうだ。
(今はそれどころじゃないんだ)
 中学の最後で色恋沙汰に興味が無くなったのも、使いと逢ってしまうことの危機感を覚えたからではなかったか。自分のことだけで精一杯で、余裕を無くしてしまったから。
 使いという存在が、自分の生活をどれだけ変えてしまったのだろう。
「私は結構お似合いだと思ってたんだけどな。桔梗と結歌ちゃん」
「もしもし?」
「桔梗もあれで結歌ちゃんのこと心配してるのよ。・・・だから、何も話してくれないことに腹立ててるの。かわいいでしょ?」
 あははーと笑ってから菖蒲は、しまったパック中だったのにっ、とオーバーアクションで叫んだ。その口調は決して、何も言わない結歌を責めているものではなかった。
 いつも桔梗をパシリ扱いしている菖蒲だけど、姉は姉なりに弟のことを思っているのだ。
「あやめちゃんて・・・桔梗のこと大事なんだ」
 素直に感心してみる。んー、と菖蒲は三秒考えて、すました顔で言った。
「大事っていうか、放っておけないとういか・・・昔から手間のかかる弟と妹だからねぇ」
 しみじみとした菖蒲の言葉を同じく三秒かかって理解して、結歌は一人、布団の中で微笑んでいた。








09. 使い

 長居できるのもここまでだ、というくらい粘って、午後5時。内田家を出る。菖蒲は渋ったが、何より桔梗と顔を合わせたくなかった。
 丁寧に礼を述べると、結歌はドアを閉め、マンションの通路を歩き始めた。
「・・・・・」
 通学用のカバンを両手に抱いて、普通に歩いていた足は自然と早くなり、しまいには全速力で駆け出す。ベランダ伝いに下りられたら一番近道なのに、と思う。見知った顔も無視して2階ぶんの階段を疾走し、自分の家の玄関が見えても安心はできなかった。
「ハッ・・・ハッ・・・」
 今にも使いの声が背後から聞こえそうだった。
 自分の置かれた状況を忘れたわけではない。たとえ一時でも、休息と呼べる時間を与えてくれた菖蒲には頭が下がる思いだった。
 ノブを手にすると力任せに引き、身体を中へ滑り込ませる。後ろ手でそれを閉める。
 ばたん。
「はぁ───っ」
 玄関に背をもたせ深々と息を吐いた。そのままカバンを投げ出し、その場に座り込む。
(逃げたってどうにもならないのに)
 それはわかっているが、使いから逃げるのはすでに条件反射と化してしまっているのだ。使いは結歌がここに住んでいることを知っている。逃げても意味がないように思う。
 どうすればいい?
 逃げられないことはわかる。けど使いと対面するなど、考えただけで寒気がした。全身が凍りつく感覚を、今も鮮明に思い出せる。
 使いの目的はわかっている。レクイエムだ。
 完成させろ、と言いたいのだろう。
(書いていいのだろうか)
 もし、その後・・・。
(・・・あれ・・・?)
 ふと、何かを全く別件のことが思考をよぎった。
 家に入るまでの手順で、何か足りないものがあったような気がする。
(・・・私、鍵開けてない)
 鍵はカバンの中にあった。玄関を開けるにはそれが必要となるはず。
 その時。
「帰ってきたのに『ただいま』もなし? 躾けがなってないわね」
 よく通る声がキッチンから聞こえた。Tシャツにジーンズというラフな格好の女性が姿を現した。
「茅子さん・・・っ!?」
「おかえりなさい」
 落ち着いた優しい笑顔で迎えてくれたのは、この家の主・中村茅子だった。
「どうして・・・っ? 確かしばらく帰れないようなこと言ってたじゃない」
 茅子がここにいることに驚いた内容の言葉ではあるが、実際はしゃいでいるのは誰が見てもわかった。
「まだ仕事の合間だけどね、ちょっと暇ができたのよ。それで帰ってきたの」
「とか言ってー、実はプロジェクトから外されたんじゃないですかぁ?」
「安心しなさい。あと5年はそんなことにはならないわ」
 おほほほほ、と声をたてて笑う。そんなことをきっぱりと発言するあたり、やはり彼女は大物と言えるだろう。
 結歌をリビングに招き入れると、茅子はいそいそとお茶の準備に取りかかった。
 そんな茅子の後ろ姿を久しぶりに見た結歌は、なんとなく幸わせな気分になる。
 自室に入り手早く着替えて、もう一度リビングに戻った。


「何かあったの?」
 茅子の声に顔をあげる。ぎくっと思ったのは、ちょうど使いのことを考えていたからだ。
「え・・・どうして?」
「元気が無いようだから」
 コーヒーカップを二つ、テーブルの上に置いて、茅子は結歌の向かいに座った。真正面から顔を覗き込まれると、結歌は目をそらせない。ここで視線を外したりしたら、はいそうです、と言っているようなものだ。しかし事実、何かあったわけだから、結局茅子には表情から読み取られてしまった。まだまだ修業が足りない。
「桔梗くんと喧嘩したとか」
「それは日常茶飯事。・・・そういえば、昨日ひさびさにあやめちゃんの部屋に泊まったんだけどね」
「・・・・」
 茅子は意味ありげに笑って口をつぐんだ。話をそらそうとしたのがわかったのだろう、この話にはのってこなかった。
 下手な言い訳は茅子には通用しない。いや、もしかしたら納得したふりをするかもしれない。どちらにしろ彼女は見抜いている。
 結歌の唇が何か言い掛ける。しかし声になるまでに思い止まり、それをやめる。一度頭を振って、今度こそ結歌は口を開いた。
「・・・茅子さんの弟って、どんな人でした?」
 茅子は不審の眼差しで結歌を見る。上目遣いで少し考え込んだ。
 それが悩みの種であるとは理解しがたいが、あながち無関係でもないのだろう。
「ずいぶん、あまのじゃくな質問のしかたねぇ」
「・・・・」
 茅子の弟とは、早く言えば中村智幸のことだ。つまり結歌は自分の父親のことを尋ねたのである。
「そうねぇ。大人しかったかな、あれは。でも自分の意見を持ってるやつだった」
 淡々と語り始める。
「勉強は中の上、運動はだめ。部活も文化系だったし・・・。そうそう、智幸が芸大に行きたいって言い出した時は大騒ぎだったわ。両親は寝耳に水で、普通の大学に進学するものと思い込んでいたから大慌てで」
 その時、すでに茅子は東京に就職していたので詳しい経緯は知らない。
 しかし両親の頭ごなしの反対ぶりに見兼ねて、
“私からもひとこと言ってやろうか?”
 と言ってみた。
 すると。
“いいよ。自分で説得する”
 当時、気が弱いと思っていた弟の迷いの無い言葉に、茅子は感心したものだった。
 よく喋る人は、それと同じくらいいろいろと考えている。
 大人しい人は、喋る代わりにいろいろと考えている。
「周りが思ってるより、全然強い子だったわけよ。・・・・結歌は智幸のこと、あんまり覚えてない?」
「うん・・・」
 脚光を浴びていた結歌から、いつも目を逸らしていた。嫌な顔をする。
 そんなことくらいしか覚えてない。
 今思えば、智幸は知っていたのだ。結歌が「彼」の生まれ変わりだということを。
 それが結歌に対する態度と、どう関わっていたかは知ることはできない。
「・・・茅子さん」
「ん?」
「私、ずっと・・・誰にも言わないでいたことがあったの。本当に、今も、誰にも喋ったことなんかなかった。・・・だけど、そのことをお父さんは知っていた。それが、つい最近わかったの」
 それでも智幸は何も言わなかった。一体何を思って、智幸は結歌を見ていたのだろう。
「・・・ずいぶん強固な秘密を持ってたのねぇ」
 あえて内容には触れずに、茅子は答える。ここで重要なのはその秘密のことではなく、結歌の智幸に対する見方なのだ。
「結歌に智幸の記憶がどう残っているか知らないけど・・・。智幸は結歌のこと、ちゃんと愛してたよ」
 この台詞に前後のつながりは無い。しかし茅子は、結歌が一番覚えていたかった記憶を、そっと教えてあげる。こういうことをはっきりと言葉で言えるのは、よほど無知で純真な人間か、それなりの年月を生き視野の広い人間かのどちからであろう。茅子はもちろん後者である。
 結歌には忘れてしまうほど遠い日のことだけど、必要な思い出であるはずだ。
「・・・・そう・・だった?」
 あまり鳴っとくしていないような、それでも智幸に対する見方の明らかな変化が伺える結歌の声に、
「そうよ」
 首を縦に振って、茅子は微笑んだ。





 7月7日月曜日。終業式。

 朝。起きたら茅子はすでにいなかった。
≪緊急の連絡が入ったので会社に行きます。   茅子≫
 そんな書き置きが残されていた。
「相変わらず・・・忙しい人だなぁ」
 それは文面の文字からも伺える。よほど急いでいたのだろう、最後の名前はほとんど殴り書きだった。それを見て結歌は笑う。
 ・・・・思えば、彼女が帰ってきたのも、内田のおばさん、もしくは菖蒲あたりが、結歌の様子がおかしいのを茅子に知らせたのかもしれない。結歌を心配して、茅子は帰ってきてくれたのではないだろうか。
 朝食はいつも通り一人だったけど、不思議と楽しい気分ですませることができた。
 自惚れではなく、周りの人間が自分を思ってくれていると、知った。
 茅子や菖蒲、萌子と郁実・・・桔梗、そして三高祥子も。
 自分のことを思ってくれている人が沢山いるのに、自分が自分のことだけを悩んでいるのは、とても身勝手なことなのかもしれない。
 そう思うと、すぅっと視界が開けたような感覚に陥った。
 使いのこと。レクイエムのこと。お父さんのこと。昔の結歌のこと。
 悩んでいるのは決断力が無いからだ。使いと真っすぐ向かい合う勇気が無いからだ。
 レクイエムのことにしても、使いと話し合わなければならないのかもしれない。
 玄関わきの鏡に結歌自身の顔が映る。
 結局、自分のことは自分で解決するしかない。それを尻込みして、いつまでも悩んでいるのは馬鹿なことだ。
「・・・・・」
 今度使いに会ったら、もう少しうまく立ち回ろう。強くならなきゃいけない。使いという存在に負けないように。
 今日は終業式。三高祥子も学校に来るだろう。今日こそ、話を聞いてもらおう。
「行ってきまーす」
 もちろん返る声はない。それでも結歌は満足して、玄関のノブを回した。


 そして。
「おはよう」
 ひっ、と結歌は短い悲鳴をあげた。この時ばかりは恐怖より純粋な驚きが先に立った。
 心臓が飛び上がるのを感じた。
 使いはそこにいた。扉の前にいた。通路の手摺りに腰をかけて、結歌を待ち構えていたのだ。
 反射的に逃げようとするが、先程の決意がそれをどうにか押し止めた。それは誉めて然るべきだったが、結歌はその後の行動に迷った。
 睨んで威嚇しようか、それとも使いのいいぶんを聞くのか。
 何を尋ねるのか。
 しかし先に口を開いたのは、使いのほうだった。
「私の要求は、もうわかってるんじゃない?」
 笑顔で、でもただそれだけを、使いは言う。これは疑問ではなく確認である。
「レクイエムよ」
 その言葉は二人の間の空気の色を変えた。
 宣言。
 そんな感じだった。
 二百年の時を経て、扉のそば、同じ対面を果たす。用件は同じ、レクイエム、それだけだ。
 一瞬だけ、ノスタルジアに浸って、使いは新たな確認を口にする。
「逃げてたのね、私から」
「・・・そうよっ」
「・・・・これのせい?」
 使いは右手の指二本で智幸からの手紙を挟み、ひらひらと踊らせる。結歌は目を見開いた。使いが持っているとは思ってもみなかった。
「それもあるわ」
 あくまで強気で。それを合い言葉のように掲げ、結歌は答えた。使いは笑ったようだった。
「じゃあ智幸も本望ね。・・・だけどこの手紙、日付は十七年前、だけど開封は最近・・・。封筒はかなり古くなってるけど、中は色も褪せてない。これを読んで私から逃げるのはわかる。でも十年前、あなたが音楽をやめて、私から逃げる理由は無かったはずだわ」
 十年前。あの雪の日のことだ。中村結歌として、はじめて使いを見た日でもある。
 そう。智幸からの手紙がなくても、結歌はあの日、逃げ出した。
 「彼」の記憶に従って。
「だって・・・『彼』が」
 ずっと胸のなかにある不安。拭いきれない予感。
 それだけが結歌の生き方を決めた。
 結歌の言葉を待たずに、さらに使いが言い寄る。
「それに、恐いのは私でしょ? それとレクイエムを書かないことと、どんな関係があるの? レクイエムをくれたらすぐに消えるのに」
「うそっ・・・!」
 弾かれるように、結歌が叫んだ。
「・・・・え?」
「・・・『彼』は・・・当時、病に侵されていた『彼』の身体は、いつ死んでもおかしくない状態なのに、『彼』のからだは、まるで使いを待っていたかのように、使いと会うまで生きて、使いと会って死んだ。今の私のからだ、どこも悪くないのに、それなのに、使いと会って、『彼』と同じような結果になるとしたら、それは・・・・・・っ」 浅い呼吸を一回、ろくに空気も吸えないで、歯を噛み締める。
(それは・・・)
 あなたに殺されるということ?
「・・・・っ!!」
 口にするのが恐い。それを言ってしまうことで、使いの表情が変わるのが、またそれを見てしまうのがたまらなく恐ろしかった。
 「彼」が恐れていたのは、死そのものでも、自分の肉体が滅びることでも、死の瞬間までの時間でもない。
 ただ、黒い人影が扉を叩く音だけだ。
 記憶は受け継がれている。・・・・その恐怖まで。
 結歌には覚えのない感情。
 理屈がないということが、相乗効果をもたらした。
 そんな条件がいくつか重なり、結歌のなかでは、使いと死は同意義になっているのだった。
 目の前の使いは、そんなことは微塵にも考えていなかったけれど。
「・・・・くくっ」
 突然、使いは声をたてて笑った。
(えっ!?)
 それを引き金に、使いはくすくすと笑いだす。
 押さえていたものが我慢できなくなったような、そんな笑い方だった。一応、結歌に気を使ったのか、口元には手をやって声を抑えている。
「何がおかしいのっ!」
 そう言いながらも、結歌は自分の中の使いの印象が、完璧に崩れていくことに戸惑いを感じていた。
 まるで普通の人間のような言動に、記憶とのずれが生じる。
 確かに、‘結歌’として、まともに話したのは初めてなのだ。
 ひととおり笑いが納まった後、使いは真剣な表情を結歌に返した。
「・・・ええと、そう。やっぱり誤解があったのよね」
 どこから説明すればいいのか迷う。
「まず、その手紙に書かれていることは冗談・・・って言ったらタチが悪すぎるか・・・。でも本当、結歌をどうこうしようとは考えてない。あなたが余計なこと言ったりしない限り、私の目的はレクイエムだけよ」
「・・・・」
 使いの言葉に嘘はない。結歌の今までの生活を覆す内容だった。
「・・・・本当なの?」
「ええ」
 使いは今更ながら反省する。
 智幸が最期まで心配していたことは、全て杞憂だったのだと。・・・教えてあげればよかったのかもしれない。
 違う。二十年前、智幸に未来のことなど言うべきではなかったのだ。
 結歌に継がれた『彼』の恐怖は病からくる妄想。死期を目前にした精神不安。
 いったい幾つの悪条件と偶然が重なって、二百年もの無駄な月日が流れただろう。
「・・・・ちょっと、考えさせて」
 ほとんど表情の無い顔で、結歌が小さく呟いた。
 誤解が溶ければ後は時間の問題だ。使いは了承する。
「いいわ。引き渡しは物理的なものでよろしく」
 使いはそう言うと、あの雪の日と同じように、消えた。






 一週間後。

 あれから、結歌の周りを使いは付きまとうようになった。それはまるで三高祥子を思わせたが、それほど甘くもなかった。神出鬼没。どこにでも現われる。
 言葉を交わす。結歌の、使いに対する恐怖心は、いつのまにか無くなっていた。
 ・・・それでも、何故かレクイエムには着手できないでいる。
「いいかげん、レクイエムを書いてくれない?」
 何度目かの要求。数える気にもならなかった。
 あの日、結局終業式には出られず、時期的には夏休みに入っていた。
 三高祥子とも会えないでいる。
 図書館からの帰り道。セミの鳴声が暑苦しく響く細い道を歩く。使いが突然現われるのには、慣れ始めていた。
「・・・そんなに大切なものなの? その、レクイエムが」
「───」
 使いは自分のことを話さない。その背景も。
 使いを黙らせるにはそれをつっこめばいい。結歌はそんな風に要領よく応対できるまでに、落ち着きを取り戻している。使いと初めて会ったときの事を思えば、驚くべきことだ。
「レクイエムさえ渡してくれれば何もしないって言ってるでしょう? この条件は結歌にとって、何の損失にもならないじゃない」
「・・・・・」
「このまま、外にさらさないで、あんたの中だけで埋もらせるつもり?」
「外に出したとして、一体何になるの? “モーツァルト”のレクイエムが完成するわけじゃないし、誰か聴いてくれるわけでもないし」
 その言葉に使いは引っ掛かるものを感じたようだった。結歌の前に回り込み語調を強めて言う。
「わかってないわね。レクイエムを依頼したのは誰だった? ・・・私よ。他の誰でもない私自身なの。世間がどうこうって次元の話じゃないのよ」
「じゃあ聞くけど、その曲をどうするの? 誰の為のものなの? どうして『彼』に依頼したのよ」
 黙らせるのが目的だったわけではないが、結果的に使いのことを尋ねる質問になってしまった。使いは口を閉ざす。
「・・・・詳細は尋ねない約束よ」
 そんなことを言う。二人の睨み合いになったが、先に目を逸らしたのは使いのほうだった。
「・・・なんでそんなに強情なのよ。理由は何? まさか本当に音楽が嫌いだから、なんて言うんじゃないでしょうね」
「違うわ」
 あっさりと答える。
(・・・あれ?)
 自分でも不思議に思うほど、簡単に答えられた。
 使いもその返事には首を傾げた。今までの結歌の言動からすると、こんな答え方をするようには思えなかったのだが。
「・・・結局、好きなんでしょ? 音楽が」
「・・・・っ」
 即答できなかった。それ以前に、自分がどう答えようとしていたのかも、わからなかった。
 違う。と答えたかったのかもしれない。
《音楽を好きな気持ちは『彼』のものだわ》
 幼い日の決意。
 幼いながらにそんな決断を下した昔の結歌がいる。それを思うと簡単にレクイエムなんか書けるわけがないではないか。
 あの日の思いを、すべて否定してしまうのは残酷だ。
 今まで目を逸らしていて、深く考えたことがなかったかもしれない。
 自分は、音楽をやりたいのだろうか。
「本当に好きなことをやらないで、何の為に生きるの?」
(──────)
 核心を突かれたようだった。それでも反発する気持ちが強く残る結歌は、振り払うように頭を振った。
 自分の中に存在する音楽に、ずっと苦しめられてきたのだ。
(いっそのこといらない)
 そう思っていたはずだ。でも今はわからない。・・・それとも音楽こそが、本当に好きなことなのか。
 そうなのだろうか。
(・・・わかった)
 ふと、簡単に頭に閃いた。その答えに導かれるのが当然のように、すんなりと。
 今まで、使いに対する恐怖感で怯えていた。だけど違う。本当に結歌を苦しめてきたのは、矛盾。どうしようもないジレンマ。
 自覚はしていなかったが、本当は音楽がやりたかったのかもしれない。しかしそれは使いに見つかることを意味する。それで音楽をやりたいと思う気持ちを握りつぶしたのは、あの日の結歌本人だ。
 結歌は勘違いしていたのだ。音楽を拒否していたわけではなく、それに伴なう使いという存在から、音楽が嫌いだと思い込んでいただけだ。
 自分の中に存在するものに、追い詰められていた。
 感情が昂ぶり、そんな結論に達した結歌は、思わず次のように呟いていた。
「・・・お父さん。あなたが教えてくれた音楽が、私を苦しめていたんだね・・」

 それは父に対する少しばかりの怒りと、自分に向けての皮肉だった。

 ダーンッ!!
 硬い音が結歌の言葉を黙らせた。
 音は空気の波紋。それが衝撃となって結歌の全身を打った。
「・・・使い?」
 それは使いが錫杖の先を、地面に叩きつけた音だった。
 結歌が使いのほうを見ると、切り裂けそうな視線が返る。
 言いようのない怒りが伝わってくる。
「何もわかってない」
 憤りを押さえ付けた低い声で、それだけ呟いた。その肩が震えている。
 結歌の台詞に、何故ここまで使いが怒るのかわからない。それでも今まで見たことの無い、使いの表情だった。それは怖くて、すこし切ない・・・。
「あんた何もわかってないじゃないっ! 智幸のことも、自分のことも・・・。智幸があんたに何を教えたっていうの!」



《誰もが感じられる感覚。この自然から絶対離せないもの。教わらなくても誰もが持ってるもの》
《だから、音楽って人に教えるものじゃないと思う》

 あの時の言葉に、使いは言葉を飲み込んだ。
 本当はあの時、頼みごとがあって智幸に会いに行ったのだ。
 「生まれてくる子供に音楽を教えないで」
 使いは全てが『聖』の思い通りになるのは嫌だった。『聖』に従うしかなくても、ずっとそう思っていた。
 智幸に、子供に音楽を教えないように頼んだら、どうなっていただろうか。少なくとも『聖』の思惑とは違っているはずだ。・・・そう思っていた。
 けど智幸は言う。
 教えられるものではなく、自然から与えられるものだと。
 生まれたときから持っているのだと。
 そう、言ったのだ。

「智幸があんたに音楽を教えるはずない」
「・・・・・」
 使いの厳しい視線が刺さる。
 結歌は、自分には残っていない、かつての智幸の言葉を聴いた。黙るしかなかった。
 自分の知らない父を、使いは知っている。
「結歌が言っていることは、八つ当りで、被害妄想で、責任転嫁なのよっ! 智幸のせいじゃなく、結歌が逃げてるだけ。・・・私からでなく、音楽からっ・・・!」
 もしかしたら使いは泣いているのかもしれない。しかし表情を占めるのは、結歌への憤りが何よりも勝っていたけれど。
 胸に突きささる。それは痛みをもたらしたけど、それより他に、切ない暖かさを全身に伝えた。
「使い・・・・」
「・・・・」
 顔を上げた使いは、結歌の微笑む表情を、見た。
「お父さんのこと、いろいろ教えてくれる?」
 考え直すことが多すぎる。しかしそれは苦労ではなく、真実を知ることなのだと、結歌は理解できた。
 すべてが変わろうとしていた。

「ば───か」
 どどん、と効果音がつきそうな重みのある言葉を、けれど異様に高い声の人物が吐く。
 百メートルほど上空にいるゆきのだった。
 呆れた意味の溜め息をつく。
「毎度毎度・・・人間相手を懐柔させなければ仕事をこなせないのか。あいつは」
 懐柔とは、この場合ゆきの個人の見地によるものである。
 ゆきのは使いほど、人間を好きにはなれない。理由がない。しかしあまり関わりたくない、というのが本音だった。
(きっとまた、無事では終わらない。この仕事)
 二百年前と同じように、『聖』の思惑を裏切って。
「───いや」
 ふと思い立って、ゆきのは自分の考えを否定する。
「期待通りに・・・か」
 使い自身にとって予測もつかない結末になるかもしれない。
 『聖』は何も言わないだけだ。使いが『聖』を嫌うのもよくわかる。
(何を考えている? 『聖』)
 ゆきのは入道雲がのびる深い空を仰ぐ。そしてまるで大気に隠れるように消えた。



(彼の記憶と才能で、世間に騒がれていた)
 中村智幸は喜んでいなかった。
 哀れに思っていたのだろう。
 結歌が“中村結歌”として生きられないことを。
 「彼」の影を背負うしかないことを。
 自分らしく生きることができないと思われる未来を。
 自分の道を探せ。
 智幸はそう言いたかったのかもしれない。



 中村結歌は自室の机に向かっていた。
 机の上には、一冊のノート、ボールペン一本。
 しかしそれらには手をつけず、結歌は指を組んで、それに顎をのせて、ずっと考え込んでいた。
 窓の外はすでに暗く、新月が高く浮かんでいる。流れこんでくる風が、結歌の髪を揺らした。
 車のヘッドライトが部屋の壁をかすめていく。
 隣りの家のテレビ。近所の野良犬の鳴声。風。家電の音。
 衣擦れ。呼吸、そして鼓動。
 本当の沈黙なんて、きっと誰も感じたことはない。
 生まれる前に聴いた胎動。「自分」という個体を感じる以前から。
 ──────私たちは一生、音を聴いて生きていくんだろうね。

「・・・・・」
 ずっと、考えている。
 耳を澄ましている。
 結歌はまっさらのノートをめくり、ボールペンを持つ。
 久しぶりの感覚に戸惑いながらも、1頁目の左端・・・・5本線の上に、ト音記号を書いた。







wam3  END
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