CHORuBunGEN/1話/2話/3話/4話/SongOfEarth
wam SongOfEarth


1.
 1978年

 10月下旬。G県の東端にある学校法人森都芸術大学でも、枯葉が舞う季節になっていた。
 さて、森都芸大では、秋の一大イベントである森都祭が終わると、次は冬の一大イベント・モリオト祭が待っている。
 このモリオト祭は毎年必ず12月22日に行なわれていた。規模的には森都祭が学内全体の文化祭であることに対して、モリオト祭は音楽学部が中心で小規模。宣伝費が予算として出ることはないが、古くからの行事なので一般客も結構集まる。
 ひとことで言えば「腕試され大会」。年末合唱と作曲コンクールがメインで、学内全員に参加権が与えられるが、このメニューを見ればわかる通り、音楽学部の為の行事だった。
 ちなみに、毎年6月22日に行なわれる、美術学部を中心としたイベントはモリビ祭といった。
 昨年は森都祭とモリオト祭の間が一月半しかなかったため、生徒たちはてんてこまいを踊らされるはめになった。その教訓から、今年の森都祭は例年よりふた月早い9月に行なわれ、現在モリオト祭の準備がのんびりと進められていた。


「後は中村だけなんだよな、申込書を提出してないのは」
「はぁ」
 音楽学部内、某研究室。同学部作曲科三年生の中村智幸は、担任である武藤教授と机を挟んで向き合っていた。口から出た声が溜め息ではなく、相づちだと受け取られることを願う。
 室内は、教授の反几帳面な性格がよく表されている。机の上には乱雑に楽譜が積み重なっている。きっとページ数は合っていない。部屋の隅に置いてある楽器はケースに入れてなければ、カバーもかけてない。よく弦が痛まないものだ。
 智幸はそれらに呆れることで、自分の置かれている状況を忘れようとした。
「あと二ヶ月ないぞ。もう練習を始めてる奴もいるのに・・・。オーケストラ構成や練習スケジュール、二ヶ月なんてすぐだ」
「・・・・・・・・・」
「とにかく、申込書だけは今月中に出しなさい。タイトルは無記名でいいから。わかったな」
「そう言っていただけると、助かります」
 智幸はそう言って立ち上がり、部屋から出ていこうとする。しかしその背中を教授が呼び止めた。
「一応、中村にも期待してるんだからな。他の学科や一、二年に受賞をとられたりしたら顔が立たん」
 教授は深く椅子に座り込み、腕を組む。学科顧問として少なからずの意地があるのだ。一応、という言葉が気にならないでもないが、智幸が苦笑する程度のものだった。
「うちの学科の四年生もいるでしょう」
「あんな就職決まったとたん、遊びほうけてる奴らに負けたら、なおさら許さんぞ」
 冗談めかして言うがその表情は真剣だった。
 これ以上、小言を聞かされてはたまらない。智幸はそそくさと部屋を後にした。
「失礼しましたー」
 廊下に出て後ろ手でドアを閉める。無事逃げられたことに、智幸は安堵の溜め息をついた。
 しかしすぐに表情を改め、笑みを浮かべて顔をあげる。
 そこで待ってくれている人がいることを、智幸は知っていた。
「お話、終わったの?」
「ああ」
「じゃ、帰ろっか」
 廊下の窓を背に、鈴木沙都子は立っていた。
 手にはカバンを持ち、コートを下げている。今、夕日が落ちようとしている窓の外は、外は上着無しには歩けない季節なのだ。
 沙都子は髪をきっちりあげていて、首が寒そうに見えるが、本人からはそれに負けないほどの元気が溢れている。白いワンピースの上にグレーのセーター、沙都子はいつも、あまり腹を締めつけない服を着ている。これは歌う時の複式呼吸で邪魔にならないように、とのことらしい。
 二人は並んで歩き始めた。ぎこちなさは無い、自然だった。
 二人がつきあい始めて一年が経とうとしていた。
「モリオト祭のことでしょう? 呼び出されたのって」
「そう、コンクールの申込書を早く出せ、って」
「出せばいいんじゃないの?」
「簡単に言うなよ。その申込書、曲のタイトルも書かなきゃいけないんだ。とりあえず、それは後でいいって言われたけどさ」
 学内自由参加の作曲コンクール。しかし毎年恒例、音楽学部作曲科の三年生だけは、強制参加を強いられている。つまり現在の中村智幸はそれだ。
「曲、書けないの?」
 顔を覗き込む沙都子に、智幸は笑ってみせる。
「いいものを書こうとすると、すぐにはね」
「・・・そっか」
 作曲のことは、沙都子にはよくわからないところが多い。何と声をかければいいのか、迷ってしまう。
「それに、書けたとしても、オケをまとめるようなリーダーシップは僕にはないし」
「弱音?」
「そう」
「こらこら」
 半ば冗談で返事をしたら、沙都子のパンチが待っていた。ふざけて、それに派手にやられるフリをした。二人、笑いあう。
 しかし冗談だとしても、智幸に自信がないのは確かだった。
 コンクールの作曲者は、まず曲を書いたら、器楽科の人間との顔合わせが待っている。オーケストラを編成する器楽科の人員は、むこうの都合でほとんど決まっているが、ソリストなど、作曲者が独自に出演交渉にいくこともある。それが決まったら、練習スケジュールを組み、本番までに曲を完成させなければならない。
 原則として作曲者イコール指揮者となり、オーケストラをまとめるだけの力も要求された。
 それがコンクール主催者である学校側の意図でもあった。

 学校から十分程歩いたところにバス停がある。智幸と沙都子は校門を出ると、バス停に向かって歩いた。二人とも市内在住だが、沙都子はバス通学で、智幸の家はすぐ近くなので、毎日徒歩で通っている。
「器楽科のなかで、中村くんの曲を誉めてる人たちもいるよ。期待に添わなきゃ」
 びしっと指を突きつけて、生徒を諭す教師のように、沙都子は強気で言う。
「でも窮地に追い詰められても“いいもの”を書こうとするあたりは、さすが中村くんだけどね」
「・・・・・・・・」
 アメとムチ、というわけでもないが、そう素直に誉められると、少しだけやる気が出てきたような気がする。それとも沙都子に言われたからこそ、かもしれない。
 そーいえばね、と沙都子は続ける。
「どうして去年のモリオト祭は出なかったの?」
 二人がつきあい始めたのは、そのすぐ後だった。
 強制ではないが、出ようと思えば出れたはずだ。智幸の性格から、面倒臭がったとは思えないし。
 沙都子の問いに、智幸はその目を見て答えた。
 目を見て答えることができた。
「去年の今頃はそれどころじゃなかったんだよ」
「何かあったの?」
「いろいろとね」
「?」
 笑ってごまかしても、沙都子は特に興味を示さなかったらしい。更なる追求は返ってこなかった。もしかしたら、それが彼女なりの気の使いかたなのかもしれないけど。
「あ、見て」
 沙都子が道の反対側を指差した。
 大学の近くなので車通りは激しい。それもあり、近隣の小学生の為に歩道がしかれている。ちょうど沙都子が目を向けた方向に、赤いランドセルをしょった小学生が三人、仲良く歩いているところだった。
 小さい子供によくある、ひょこひょこした足取りはいつ見ても危なっかしい。ついハラハラと眺めてしまう。
 小学生は手に何か、細長い棒みたいなものを持っている。それを口にくわえると、この夕暮に、暖かい音で曲が流れた。
 ドレミの歌。
「・・・たて笛か」
「なんか、懐かしいね」
 明日は音楽のテストなのだろうか。指の動きはぎこちないが、一生懸命な演奏をする。
 智幸と沙都子は、足をとめてそれを聴いていた。
 一つ音が外れた。
 それでも小学生は、気づかずに吹き続ける。
「僕もやったな、あれ」
「あ、私はね、歌うほうが好きだった派」
「沙都子らしいよ」
 バス停につくと、ちょうどバスがやってきたところだった。智幸が呼び出されていたせいで、少し時間がずれて、それほど混んでいない。
 沙都子はじゃあね、と手を振ってバスに乗り込む。智幸も笑って手を振った。
「曲、がんばってね」
「うん、ありがとう」
 沙都子を乗せたバスは、煙をたててバス停を後にした。智幸はそれを見届けて、今度は自宅へと歩き始めた。


2.


 音楽学部全学科全生徒に、個人レッスンの授業は設けられている。
 学校の敷地内には練習棟という建物があって、部屋数は三十近く、全て防音である。学期の初めにカリキュラムが組まれ、週4回、講師と一対一で向き直らなければならない。それは笑いあり涙あり口論ありの孤独でハードな時間であった。教えるほうも一人なら、教わるほうも一人。当然、注意されるのも一人だし、しぼられるのも一人である。練習不足を指摘されればひとたまりもない。最後まで気まずい雰囲気のまま、講師のマシンガントークを受けなければならなかった。
 作曲科もその例外ではなく、ピアノをはじめ、管楽器や弦楽器、その音を知るために打楽器もやらされる。時にはコールユーブンゲン程度の歌もやる。そして曲作りを要請される。
 今日、中村智幸の個人レッスンはピアノだった。そこまではよかった。しかしコンクールの曲ができてないことを白状させられると、後はもうボロボロ。一時間小言を聞いていたようなものだった。
 そんな授業をどうにか終えて、智幸が練習棟の廊下を歩いていた時のことだった。
「おーい、ユキー」
 背後から声が聞こえた。聞いたことのある声だったが、それが自分の名前を呼んでいるのだと気づくのには時間が必要だった。
 それに気づけば相手を確かめる必要もない。智幸をそう呼ぶのはこの学内でなくても一人だけだから。
 振り返る。そこにはくわえ煙草の男が立っていた。髪は少し長め(切るのが面倒なのだろう)皮ジャンにジーンズという格好で、片手にはクラリネットケースを抱えている。
「朗」
 智幸はその姿に目をやると、足を止めた。よっ、と男は軽く手を振って笑った。
 市川朗。器楽科クラリネットの三年生、一見コワイお兄さんにも見えるが、その、気の良さを智幸はよく知っていた。
「9月の合同演奏以来か。そんなに広くない校舎なのにめったに会わないな」
「最近、おまえがサボりがちなの知ってるよ」
「うるせー、バイトが忙しいんだ」
 朗のアルバイトはジャズ喫茶のバンドである。智幸も見に行ったことがあって、ピアノやサックス、コントラバスなどと一緒に演奏していた。それを聴いた智幸は、朗の音はオーケストラよりバンド向けだと、なるほど納得したものだ。
 そもそも朗と知り合ったのは、一年の時の森都祭。ひょんなことから、曲や音に対する意見がお互い共通していることがわかり、意気投合。二人で夜遅くまで討論したりもした。
 たまに会えば音楽の話で盛り上がる、気心が知れた仲だった。
「朗も個人レッスン?」
「そう、というか、ほとんどいびられてた。休みが多いから、一曲演ってみせろってさ。学校サボったくらいで腕を落とす俺じゃねーって、言ってやりたかったけどやめた」
 学校には来てなくても毎日吹いている。それで講師たちを納得させることはできないが、朗は実際、一曲演奏し、それで黙らせてきた。
 朗の自信がありそうな態度に、智幸にもそれがわかった。
「おまえは? そーいや、三年は強制だったな。モリオト祭のコンクール」
「ああ」
「ユキの曲、楽しみにしてるからな」
 わざとプレッシャーをかけさせるつもりの言葉だ。含み笑いとともに、意地の悪い視線を送っている。
「そっちは? オーケストラには出ないのか?」
「協調性がないもんで。・・・気楽に客席から聴いててやるよ」
 そう言うと、朗は腕時計を一瞥して荷物を抱え直す。
 智幸もその動作を見て了解する。
「クラリネットのソロがあるなら、二年の石原っていう男を誘え。おまえ好みの音、出すよ」
「考えとく」
 曲が出来ていないのに気が早いとも思うが、智幸はそう答えた。すると朗は、じゃーな、という言葉を捨て台詞に廊下を走り始めた。昼からのアルバイトに行くために。



*     *     *



 例えば同じ作曲科の人間でも、始終同じ教室にいるわけではない。
 選択授業もあるし、違う教授の授業もある。初めから結託してカリキュラムを組まない限り、毎日会うことは不可能だ。
 しかしそんな中でも、作曲科の人間が一同に会する授業が、週に三コマあった。
 「作曲概論」である。
 ピアノが一つ置いてある教室には、ずらりと机が並んでいる。音を出す授業ではない。基本的に講義なのだが、説明で曲が必要なときに、ピアノが利用されているのだ。
「あー、聴いた。あの新曲、サックスのソロがいいよね」
「例の映画のメインテーマ。スコアで手に入らないかな」
「モリオト祭のソリスト、バイオリン四年の宮塚さんはどう?」
「トランペットって、Bからだっけ?」 
 どうしてもこのメンバーが集まるとこういう話題になる。世の中に溢れる音、曲、歌。それらを語り合うとなると、学科内の人間でなければ盛り上がらなかった。
 今現在、授業中であるはずだが、教室の中で皆、二、三の輪になって話をしている。もちろん、ここに概論担当の武藤教授がいたら、そんなおしゃべりを許すはずはない。
 しかし、前方の黒板にはでかでかと、「自習!」と、書かれていた。その下には「モリオト祭の準備をするように」、ともある。
 教授が今どこにいるかは知らないが、確実に近付いているモリオト祭の、曲を書く時間を与えてくれたというわけだ。何といっても三年生は強制参加なのだから。
 毎年のことらしいが、準備が予定より遅れている生徒は少なくない。本当なら今頃は、曲が完成し、オーケストラの練習が始まっているころなのに。
 だが、この顔触れが揃って、大人しく自習するはずもなかった。話題は歌謡曲から始まり、クラシックにCF曲、サントラや音楽家にまで発展する。大げさかもしれないが、学校を出ると、この手の話が通じる相手は少ない。意見交換の場は活用しなければ意味がなかった。
 だが物事に例外あり。教室内には、教授のお達しを律儀にやっている人間もいる。
 五線譜とボールペンを持ち、窓辺に座っている中村智幸もそのうちの一人だった。
 しかし五分前から智幸の右手は動いていないし、視線も外に向け、どう見てもうわの空である。
 窓の外、敷地内の端にはドーム型の建物があった。
 創立二十一年を迎えた森都芸大、校舎もかなり老朽化してきている。しかし五年前、さすが私立というべきか、敷地内にコンサートホールが新築された。大きくはないが、『響森館』と名付けられたそれは、客席数九百。学内の公演・イベントなどに大きく役立っている。
 今回十七回を迎えるモリオト祭も、去年と同様、そこで行なわれる予定だった。
 モリオト祭のコンクールの主旨は、作曲者にオーケストラを扱わせ、場慣れさせること。及び、それをまとめる力を養わせること、である。そのオーケストラを編成する器楽科には団結力をつけさせることが目的だ。
 出場者は作曲に加え、器楽科オーケストラの人員確保、練習スケジュール作成、練習、指揮などをこなさなければならない。けっこう面倒臭いので出場者は年々減っているが、その年の作曲科三年生の人数より少なくなることはなかった。
 そして一般客の投票と教授の審査で最優秀に選ばれた人間には、「モリオト」という称号が与えられる。
「中村ー。曲、順調に進んでるか?」
 離れたところで、数人と会話していた服部が、窓辺でぼけている智幸に声をかけた。
 ぎく、と智幸は内心で呟いた。いや、もしかしたら口にしていたかもしれない。
 その態度を見やり、服部は、ははーん、と目を大きくして笑う。
 ふー、と息をつく智幸だが、その態度は焦っていない。
「どれどれ?」
 服部は智幸の譜面に興味を持ち、わざわざ歩み寄ってきて背後に回り込む。隠そうとしている智幸からノートをひっぺがし、その五線譜を覗き込んだ。
「─────」
 服部の視点が止まる。その表情がかたまった。
 その理由を、智幸はわかりすぎるほどわかっていた。服部は視線をそのままに、苦々しい声を吐いた。
「・・・・・・おい、一個も音符が見えないけど」
「見たまんまが進行状況だよ」
 ほとんどに自棄になって答える。服部は低い声を吐いた。
「おーまーえー」
「なになにー? 中村くん、まだ、曲書けてないのっ?」
 服部の声を聞きつけて、数人が振り返る。面白がっているように聞こえるのは、智幸の被害妄想だろう。きっと。
「おせーよ、間に合うのか?」
「でも中村は書き始めると速いんだよな」
 わらわらわらと、智幸のまわりに人が集まり始めた。その勢いをなんとなく、顔前に当てたノートでかわす。突然、にぎやかになった。
 教室の窓際には智幸を中心に五、六人が輪になっている。クラス全体の人数が二十人前後なのだから、四分の一はそこにいるのだ。
「オレはやっとオケの練習に入ったよ。まあ、その後が大変なんだけどな」
「どういうこと?」
「まだ楽譜を配った段階だけど、オーケストラは少なくとも五十人以上。全員集まるとマイクで喋らなきゃならないし、パート練習も細かくチェックしなきゃならないし。・・・改めて指揮者の偉大さがわかったよ」
 そう言って一人が溜め息をつくと、今度は隣の女が口を開く。
「そういえばチェロの首席の人! ・・・えーと名前は忘れたけど、すっごい態度悪いっ! 女だからってなめられてるのかしら」
「あー、あいつね。でも今回、コンマスが四年の佐々木さんなのは、正直助かる」
「同感」
 智幸はそんな会話を聞いていると、だんだんと不安になってきた。
 曲を創るだけでこんな苦労をしているのに、その後も大変なことが待っているのだ。
 半ばうんざりしながら、一同に尋ねた。
「みんなは、いつから曲を作ってた?」
「私は申込書を出してすぐあたり、かな。一週間くらいでできたよ」
 その意見には三人が大きく頷いた。一週間くらい、というのは、自分の決めた〆切であって、徹夜した、という意見もある。中には智幸のように悩み考え、一ヶ月というものもあった。
「俺は夏休みに書いてたよ」
「早いな」
「そか? 三年はコンクールに出なきゃいけないってわかってるわけだし、直前であわてるのも嫌だったから」
 中村のようにな、と嫌みを当てられてしまった。もちろん本気ではないが。
 少しの笑いが起こる。
「それにやっぱ、いい曲書きたいだろ? 自分の創作を聴いてもらう最後のチャンスかもしれないし」
(──────)
 智幸はふと、顔をあげた。その最後の言葉は、思ってもみないことだったのだ。
「すげー、現実的」
「悲しいこと言わないでよー」
 急にシビアな話題に転じて、またも大騒ぎになった。
 この教室、作曲科の中で、将来作曲家・音楽家になる人間は、一人いるかどうかだろう。後は教師や楽器屋、レコード屋、音楽教室の先生などなど。過去の卒業生の進路と言ったらこんなものだ。
 だからこそさっきの言葉。
《自分の創作を聴いてもらう最後のチャンス》
 かなりの重みで、智幸の胸に刻まれた。



3.


 モリオト祭まであと五週間。
 中村智幸は本格的に切羽詰まってきていた。
 まわりはとうにオーケストラとの練習を始めている。智幸の五線譜には、まだ音符が乗っていなかった。少し書いては消して、また少し書く。その繰り返しだ。
 さあ、どうするか。
 書こうと思えば書ける。いざとなったら、昔、創った曲をオーケストラ用にして持ってくる、という手段もある。そのかわり同じ学科の人間には白い目で見られること、間違いないだろう。
 それとも。
(“いいもの”を書けるほど、自分の力が無いということだろうか)
 できるだけいいものを書こうと、今、悩んでいるのは、自分のちからを過信しているということかもしれない。
 自分に才能がないことくらいわかっている。
 そう、わかっているのだ。
 それでも試してみたいというのは、愚かなことなのだろうか。

「ねぇ、聞いて聞いてっ」
 ドーン、とほとんどタックルをくらったような衝撃を、中村智幸はその身に受けた。
 構内の中庭を抜ける通路で思いっきり転びそうになる。天下の往来でそれは避けたい事態だ。
 身を切るような寒さをものともしない勢いでやってきた人物は、そのまま智幸にしがみ付き、興奮を隠せない表情で聞いて聞いてと繰り返している。
「・・・沙都子」
 ずれた眼鏡を指で直し、智幸はその名を呼んだ。
「聞いてっ。すごいの。すっごい歌を今日習ったの」
 鈴木沙都子はこの学校の器楽科声楽(通称・うた科)に属している。確か2限目は音楽史だったはずだ。智幸も受講しているが、カリキュラムの都合上その講義で二人が会うことはない。
「一体何を習ったの?」
 その気迫に押されながら智幸は言う。すると沙都子は熱が冷めない表情で、尋ねられるのを待っていたかのように叫んだ。
「“歓喜の歌”よ。音楽史の先生、それが好きなんだって。講義の途中で聞かせてくれたのっ」
「歓喜の歌って、ベートーベンの?」
「そう、第九よ」
 その時の感動を再び思い出したのか、沙都子は智幸の手を握って大きく振った。
 ベートーベンの交響曲第九番と言えば、日本では有名すぎるほど有名だ。もしかしたら知らない人はいないのではないだろうか。年末恒例の合唱曲であるアレである。
 通路で大騒ぎする二人を、通り過ぎる生徒たちは振り返って見ていた。その中には智幸の見知った顔もあり、智幸と沙都子の仲を知っている友人たちは笑いながら手を振っていた。
「私、モリオト祭の合唱には絶対参加するっ! 学内の公募、締切まだだよねっ」
「あ、ああ。確か、二十日までって書いてあったかな」
 智幸は沙都子がここまで興奮している理由をいまだ分からないでいる。第九は智幸も習ったが、基本的なデータくらいしか覚えてない。
「沙都子っ!」
 二人のもとに駆け寄ってきた影があった。息せき切ってやってくるのは、沙都子と同じ器楽科の巳取あかねであった。
「突然いなくなったと思ったらやっぱり・・・。どーしてこの広い建物の中から、中村の所に行けるのよ」
 あかねは先程まで一緒に講義を受けていた沙都子の不在に気づき、構内中を探し回っていたのだ。しかし無駄に駆け回っていたわけではない。あかねは沙都子の探し方を、経験から心得ていた。
 学部内で沙都子と智幸の仲は有名である。
 変人集団うた科の中でもその存在が際立つ鈴木沙都子。少数精鋭個性派揃いの作曲科の中、大人しい性格でなぜか人望のある中村智幸。
 沙都子を探したいなら、智幸の居場所を調べればいい。そのへんの音楽学部の連中に尋ねれば、情報は伝わってくる。
 そんな人の苦労も知らず、沙都子は今度はあかねに詰め寄った。
「あかねも一緒に出ようっ。モリオト祭の合唱っ」

  わが抱擁を受けよ 幾百万の人々よ
  この口づけを全世界に
  喜びに満ちた歌を!
  兄弟たちよ 星空の彼方に
  愛する父は 必ずや 住みたもう
  あなたの力は世間が厳しく分け隔てるものを再び結びつけ
  そして

「“すべての人々はあなたの優しい翼のもとで兄弟となる”」

「今はどこかしらで戦争が絶えない時代だけど、いつか世界中がこの歌を歌う時がくればいいね。こんなに素敵な歌をみんな知らないなんてもったいないよ」
 ついこの間、同じ地球上、遥か遠くの土地で起こったベトナム戦争は終結を迎えた。
 テレビのニュースから伝わる映像は衝撃的なものだったが、多くの人たちにとっては遠い国の出来事でしかない。智幸は自分もその一人であることを自覚している。
「・・・・・・・・中村」
 あかねは、はしゃいでいる沙都子に聞こえないよう小声で、隣の智幸に声をかける。
「第九の講義、あんたも受けたんでしょ?」
「ああ」
 智幸もそれに合わせて小声で返事をする。あかねの言いたいことは何となくわかった。
 目の前で大騒ぎしている人物に、二人は同じ意味の視線を送る。
「あんな風に、考えたりした?」
「いや、思ってもみなかった」
 智幸は苦笑いを返した。
 鈴木沙都子の感性は2度と出会えない類のものかもしれない。寛大でグローバリズムと言えるほどの視野の広さ。しかも本人はそれが天然で真実本気なのだ。無知からくる幼さとも違う。同じ歳で、同じ時代を見てきたはずなのに。
 聞いているこちらは、照れ笑いではなく、泣きたくなるのは何故だろうか。
 翼を失ったような思いに駆られるのはどうしてだろう。
 神しか持ち得ないはずの翼を、沙都子はその身に宿しているような気がする。
「一人で歌うのもいいけど、皆で歌うのも好き。不思議な統一感・・・っていうか、一緒にいるんだなぁって気がするもの。
 歌が世界を結ぶの。すごいでしょう?」
「───── 」

 沙都子、そしてあかねは気づかなかった。沙都子の言葉を聞いて、智幸のなかに火が灯ったことを。
 そう、彼は今、すぐにでも、ピアノの前に飛んでいきたかった。



4.


 翌日。
 中村智幸は学校の廊下を疾走していた。
 だいたい大学生にもなって、こんな風に走ることなど滅多にできるものではない。そんな貴重な体験、全速力で走りながらも智幸は両手の楽譜だけはしっかりと抱えていた。
 朝イチの授業が終わった後の休み時間。それぞれの教室からは楽器を持った生徒たちが、ぞろぞろと廊下に溢れていた。たいていケースを片手に持っているが、皆、慣れてくると面倒臭がって楽器をしまわず、そのまま持ち歩いている。だから楽器どうしがぶつかった時は大惨事になりかねない。だが慣れている、というのは楽器の扱いに慣れているという意味だ。そんなへまをする者は本当に少なかった。
 そんな状況の中を智幸はうまく進んでいく。そして少しでも見知った人間を見ると、こんな風に声をかけた。
「クラリネットの市川朗、どこにいるか知らないかっ?」


 器楽科クラリネットの学生のほとんどは、この時間208教室に集まっていた。
 作曲科が一斉に集まる授業があれば、クラリネットの学生が一同に会する授業もある。アンサンブルやちょっとした曲もやるが、ほとんどは基本的なことで、お互いの音を聴き合う。まあ、そんな授業だ。
 よほど大きい楽器でない限り、個人レッスンも含めて実技の授業は立って行なう。
 その為、教室に机は無く、椅子が部屋の隅によせられていた。ちょっとした広場のような空間になっており、中央にはいくつかの譜面台が置かれている。
 講師が来るまでの時間、所々で調音や音だしが始められていて、室内は独特の雰囲気に包まれていた。タンキングやロングトーンの練習も始まりにぎやかになった。
 しかし、
 バンッ
 そのにぎやかさを吹き飛ばす音をたてて、入り口のドアが開かれた。
「朗っ!」
 突然、大声で現れた人間に、教室の中は一瞬静かになった。
 室内の人数×2の視線を受けることになったが、当の本人はそんなことは気にしてない様子。目的の人物が目に入らないのか、そのままの姿勢で視線を左右に大きく走らせていた。
 教室の奥で人影が動く。窓際に椅子を引き寄せて座り、窓枠を枕に居眠りをしていたらしい。
「・・・どうしたんだ、んなにあわてて」
 夢からさめきれてない様子であくび混じりの声、のっそりと起き上がった。
 両手を頭上に上げて、大きな伸びをする。ごしごしと目をこする。どこかぼんやりしている。
 しかし次の中村智幸の台詞に、市川朗の眠気は一気に覚めた。
 智幸は息を整え、真っすぐな視線、深い声で言う。
「出演依頼だ」
「・・・・・・・・・は?」
「モリオト祭で僕の曲を頼む」
「ちょっと待てよ」
 智幸の言葉を理解すると、厳しいまでの真剣な顔になる。同じ学科の人の間を縫って、ツカツカと教室を横切った。半ば智幸の体を押し出すように廊下に出て後ろ手でドアを閉める。
「あのなぁ」
 智幸の表情が本気だとわかるからこそ、朗は声を荒げた。
「俺はそーいう団体行動は嫌いだって言ったろ? それもついこの間」
「オケじゃないんだよっ」
「は?」
 声がうわずり、声が震えるのは、隠しきれない興奮の表れだ。それでも自信に満ちた笑みを浮かべている智幸は朗に詰め寄った。
「できればクラリネットを他に六人・・・いや、この楽器をそれなりにできる人ならだれでも」
(六人・・・って)
 訝りながらも、勢いづく智幸から、半ば強引に楽譜を渡される。朗は肩をすくめて、それに目を走らせた。
 一枚目にはタイトルが大きく書かれていた。
 ぱっと見て、書きなおした後がほとんど無い。それは直観的に書かれた曲ということだろう。音を出さないで曲を読む側にとっては、見やすい楽譜だった。二枚、三枚、四枚・・・さっと目を通してページをめくっていく。
(・・・ずいぶん単純な曲だな)
 譜面に散らばるオタマジャクシの間隔が全体的に広い。十六分音符より短い音符は無さそうだ。全体的な並びを見て思う。
 ユキの曲らしくない。
 智幸の創作をいくつか知っている朗は眉をしかめた。しかし。
「───────」
 音符を目で追う。曲が頭の中に聞こえてくる。イメージが広がる。
 朗は息を飲んだ。
 まばたきを忘れて、楽譜に見入ってしまった。
 智幸は本気だ。この曲から、それが伝わってくる。
 そして最後のページ。まだ未完成なのだろう、七枚目で曲は途切れていた。
「・・・?」
 その楽譜は総譜だったが、大譜表がやたらと狭いことに、朗は気づいた。全体のパートが極端に少ないのだ。オーケストラの場合、パート数が軽く十数はあるはずである。
 パート数は七。つまり使う楽器が七個ということ。
 いったい何の楽器なのか、朗は一枚目、一小節目の上の文字を見た。それぞれのパートに使う楽器が指示されている。
 驚く。総譜では見慣れない楽器名が、そこには書かれていた。クラリネットではない。
「・・・これなら、誰だって・・・」
 誰だってできる。
 そう言いかけたが、朗は言葉を切って考え込んだ。
(おもしろいかもしれない)
 朗もその楽器のプロの音色を知っている。加えてこの曲・・・。完成を想像して思わず緩む口元を手で押さえた。
 朗は胸が熱くなるのを感じた。
「マジでやるのか?」
「もちろん。規定には反していない、確認済みだ」
 智幸は大きく頷いた。
「多分、多くの人にとって懐かしい音だと思うから」
 そして多くの人に懐かしさを感じさせる曲を、智幸は書こうとしている。
 パンッと、朗は楽譜を叩いた。
「OK、おもしろそうだ。他の人選は任せてくれ。この企画を真顔で聞く奴を選ぶ」
「頼むっ」
「ところでこの楽器、学校にあるのか? 見たことないぞ」
「器楽科の先生を端から洗うよ。無かったら買ってでもやる。レンタルっていう手もあるしね。・・・それからフルートの人はさけて。変な癖をつけさせたら、責任とれないから」
 使用するものと共通点を持つが、フルートとでは楽器につける口の形が全く違う。無理にを使わせたりしたら、その人のフルートの腕前は確実に落ちるだろう。
 そんなところにまで気を回す智幸に、朗は笑った。
「りょーかい」
 朗は智幸の創る曲が好きだった。
 今回は自分がその演奏に携わろうとしている。これは演奏者として、至福の喜びではないだろうか。

 その後、朗は人員集め、智幸は楽器集めに加え、曲のタイトル提出、実行委員との打ち合わせ、練習室の確保に奔走することになった。
 かくして、中村智幸プロデュースの企画が、今、始まろうとしていた。


5.


 沙都子は最近、智幸と会えないでいた。
モリオト祭まであと三週間。沙都子のほうも合唱の練習で忙しいし、智幸もコンクールの準備があるのはわかる。
 たまにどこかの教室で、市川朗たちと練習しているのも知ってる。それはコンクールの曲に他ならないが、智幸は練習中、絶対に第三者を近づけようとはしなかった。練習棟の防音室に、放課後も遅くまでこもっている。
 完成するまで関係者以外には聞かせない。そういう考え方は作曲科の人間に多く存在する。 智幸はそれほどでもなかったはずだが、今回はそれを徹底的に実行していた。
 朝は授業が始まる時間が違うので会うことは少ない。放課後もお互いの練習が忙しく、最近は一緒に帰ることもなかった。残るは昼休み、一緒に昼食をとりたいのに、智幸は捕まらない。それくらい、してくれてもいいじゃないかー、と、恨みごとを言いたいのに。
 しかし全然会えないわけでもなく、休み時間など、来てくれることもある。そのあたり、智幸が気をつかってくれているのはわかる。けど、智幸が自分の曲のことを話題にすることはなかった。隠し事をされているようで、少しだけ、淋しい。
「あ、市川くん! ・・・だよね?」
 昼休みの食堂。見知った顔を見つけ、沙都子は考える前に叫んでいた。
 突然、声をかけられた男は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。しかしこちらは見識の無い相手だと気づくと、不審げな目つきで沙都子を見据えた。
「・・・そーだけど」
「中村くん、今どこにいるか知らない?」
 これはかなり無礼であったはずだ。沙都子は名乗りもせず、用件だけを告げた。構内中を探し回って、やっと心当たりのありそうな人間を捕まえたのだ。少しくらい無礼であろうが致し方ない。
 はじめは訝っていた朗だが、沙都子の問い掛けから、目の前の女が何者なのか気づく。
 朗は目を開いて大きく息を吸い、ぽん、と手を叩いて言った。それとわかるほど声は大きかった。
「もしかしてあんたが中村の彼女っ? えーと、沙都子さん?」
「? ・・・そうよ」
 逆に尋ね返された。その迫力に沙都子は頷くしかない。
 沙都子の覚えている限り、沙都子は市川朗と対面したことはなかった。にもかかわらず、声をかけたのはこちらだけど。朗は一人納得して、沙都子をまじまじと眺めている。
「何?」
「・・・いや、あんたすごいよ。中村にあんな曲書かせるなんて」
「え?」
 突然話が飛んだ気がした。沙都子は首を傾げる。
「中村が創った曲、あんたの言葉がモチーフらしいよ」
 中村智幸が創った曲。それはモリオト祭のコンクールに出す曲だ、というくらいは沙都子にもわかった。しかし、智幸と朗が行動を共にするようになってから、智幸はその話題を口にしていないし、誰にも曲を聴かせないようにしている。
 その曲のモチーフが・・・・・・。朗は何と言った?
「えっ、私知らない。きいてない」
 沙都子は朗の前で両手と首を横に振った。きいてないのは曲だけじゃなく、朗の口から、その曲の説明に自分の名前が出たことについて。智幸は何も言ってなかった。
 朗は、智幸が沙都子にまで聴かせていないことに驚いた。そして自分が問いただされてはたまらない、とばかりに、すでに逃げながら言う。
「あ、そーなんだ。じゃ、本番までのお楽しみ。中村なら305にいるよ。じゃーな」
「ちょっと・・・市川くん!」
 その声に朗は振り返らない。わざとだろう。

 この後、智幸に会ったらいろいろ聞いてみよう。
 沙都子はそう思っていたが、いざ智幸の顔を見たら気が変わった。
 智幸が隠しているのは、未完成のものを聴かせたくないからだ。完璧なものを、沙都子に聴いて欲しいから。
 ききわけの良すぎる彼女を演じるつもりはないが、珍しく自分のことに熱中している智幸を見たら、愚痴を言う気もきれいに消えた。
(やっと、ふっきれたのかな・・・)
 彼はこの一年間、彼の心の中だけでずっと、彼の中の何かと、戦っていたようだから。





 練習棟23号室。
 その部屋の外には聞こえない。
 しかし、智幸の手が止まると同時に、その空間を満たしていた曲が消えた。
 市川朗を含む七人が楽器から口を離し、顔をあげる。七人を前にして智幸は言った。
「・・・と、まあ、これがラストなんだけど」
 始めの顔合わせから十日。曲も完成し、はじめて通しの練習をした。
「どうかな」
 朗が集めてきたメンバーの中には、彼が推薦した、クラリネット二年の石原も含まれている。他、弦楽器やら打楽器のほうからも来ていて、はてはうた科の人間もいた。
 智幸が曲を作っている間、皆、かなり練習したらしい。この学校の学科には無い楽器なので、少し心配していたが、凄腕の人達が集まったことに圧倒された智幸だった。
「・・・すごい」
 石原が言う。
「本当、この楽器でこんな曲ができるなんてな」
「ユキ、おまえやっぱり、すげーよ」
 だめ押しに朗に誉められても、智幸は照れたりしなかった。自分自身、すごいものを創ったと思っているのだ。もちろんそれが自分の、生涯続くちからだとは思っていないけど。
 曲が出来上がって、はじめて人に聴いてもらった(演奏してもらった)。その反応に智幸は満足する。
「モリオト祭まであと三週間弱。慌ただしいけど、よろしくおねがいします」
 改めての挨拶。おねがいしまーす、と全員が頭を下げた。
「・・・で、これが練習スケジュールなんだけど」
 午前中のうちにコピーしておいた紙を七人に配った。それぞれが目を通す。
 スケジュール表には、主に放課後の練習時間とその曜日と、部屋割りがわかりやすく書かれていた。
「基本的には、この通り、人数が揃わなくてもやる。オーケストラのほうの練習もあるだろうけど、できるだけ参加してほしい。・・・特にうた科の久保、合唱のほうの練習は週何回?」
「3回だよ。けど、問題はスケジュールのことじゃなくて・・・」
「何?」
「鈴木さんがいろいろ尋ねてくること」
 久保は智幸に冷やかしの視線を向ける。智幸は赤くなって、がくー、と肩を落とした。
 言うまでもないが、沙都子と久保は同じクラスだった。久保が智幸の企画に参加したことが伝わると、沙都子は詳細を問いただしたのだ。
「まあ、どーいうわけか、最近は言ってこなくなったけど」
 智幸と沙都子の仲は有名なので、他のメンツは面白がってニヤニヤ笑っている。そして野次をいれる。
「最近、練習で忙しいからって、放っておいてるんじゃないのー?」
「そのうちフラれるかもな」
「いや、確か告白したのは鈴木さんのほうなんだよ」
「うそっ。初耳」
 周囲に好き勝手言われている間、智幸の握った拳はぷるぷると震えていた。もちろん、皆、それを知っていてはやしたてているのだが。
「あーもうっ、今日は解散っ。各自、個人練習しておくようにっ、以上!」



*     *     *


 練習棟の部屋の鍵を管理室に預け、智幸と朗は本館の廊下を歩いていた。寒く薄暗い空間は、肝試しに最適かもしれないが、少々季節はずれの感もある。見慣れた場所を暗いからといって怖がる歳でもない。二人は会話をしながら平然と歩いていた。
「あの楽器やってて、不都合とかないか?」
 譜面こそ持っていないものの、智幸の頭の中ではさっきから曲が回っている。例の曲をどう演出していくかを、ずっと考えているのだ。
「不都合って?」
「クラリネットをやるうえでの後遺症とか」
「ないよ。俺がやる楽器はクラリネットと運指は同じだしな。吐く息の量の違いは、悩むほどのものじゃない」
「そうか・・・」
 明日、他の六人にも聞いてみる必要があるだろう。もし何か弊害があるようなら、智幸はすぐ降ろさせるつもりでいた。その人の専門でないことを、わざわざやらせているのだ。それが原因で元の楽器の演奏に害を加えたりしたら、申し訳が立たない。
 智幸は作曲するうえでの歯がゆさを実感していた。ピアノはともかく、管弦楽器を満足にやれない自分が、それらの作曲をしなければならないのだ。楽器の名称や外形や音は知っていても、演奏できない。そのことがこんなに隘路になるとは思わなかった。
「それにしても本当、あの曲はすごい。モチーフ提供の沙都子ちゃんには頭が下がるね」
「モチーフ・・・というか、キエチーフというか。沙都子の言葉が、きっかけになったってことは否めないよ」
「それでも、さ。今の歌謡曲もそうだけど、新しいものばかりがうけてる。新しいものを否定しないけど、俺はフォークとかも好きだ。それで言うと、ユキの曲はフォークのほうの部類に入るだろ? 使う楽器がどうこう言う前に、音楽が。どの時代になっても、そういう原点みたいな曲は残っていてほしい」
 朗の音楽論に智幸は返事を返せないほどの感銘を受けた。そんな智幸の状態は眼中にないのか、朗はさらに続けた。
「みんなもあの曲、すごいって言ってたじゃん。おまえ、やっぱり才能あるんじゃないか?」
(──────)
 何気なく言った朗の言葉は、その場に沈黙を生んだ。
「・・・・・・・・・・・・そんなことないよ」
 かなり遅れて智幸が返事をする。そして続ける。智幸はためらわなかった。
「だけど、僕の子供は才能を持って生まれてくるらしいよ」
 智幸は少しの皮肉がこもった言葉を吐いて失笑した。
 朗には誰への皮肉なのかもわからない。その言葉の真の意味を理解することはできないが、朗は手持ちのバックをわざと智幸の頭にぶつけて言った。
「何言ってんだ。おまえの子供に才能があるなら、おまえにもあるってことだろ。同じ遺伝子なんだから」
「・・・っ」
 智幸は目を見開いた。
 才能、という言葉の意味は、生まれつきの優れた能力や知恵のことである。
 理想論や道徳観は別問題だ。そういう意味を表す言葉が「才能」なのだから。少なくとも、この世界の言葉では。
 それを知っていた朗は、はっきりと言う。
「それに才能のある奴が大成するとは限らない。自分のちからをうまく使えないような奴からは、努力で名声を奪ってもいいと思うよ」
「・・・・・・」
「それにそれって、この学校にいる奴なら一度は悩むことじゃないか? 下手に開き直るより悟ったほうが強気でいられる」
 そう言う朗の口調は、まるで自分に才能が無いことを認めているようだ。それでも淡々と語るのは、過去、このような事を悩み、自分なりに考えた結果なのだろう。
 智幸は言葉も無く、朗の言葉を聞いていた。
 外に出ると、もう夕方を通り越して夜だった。まだ校舎のあちこちにあかりが灯っていて、生徒が残っているのが分かる。凍えるような風は、皮膚を切るようだった。
「俺、車だけど。ユキの家、この辺なんだろ? 送ろうか?」
「いや、歩いて帰るよ」
「そっか。じゃ、また明日。放課後の練習には顔を出すよ」
「・・・授業にも出たほうがいいと思う」
「ヒマだったらなー」
 朗は右手でキーを鳴らしながら、駐車場のほうへと走っていった。
 息をついて、智幸も校門のほうへと歩き始めた。
 黒い空を仰ぐと、その中に高く三日月が浮かんでいた。
 白く輝く弓形の三日月を見ると、ふと、ある人物を思い出す。
 胃の口が閉まるような感覚に襲われ、少しだけ吐き気を覚えた。
 その姿が闇に浮かばないうちに、視線を街の灯に戻し、足を速める。
 月を目に入れないように、家まで帰ろうと思った。



6.


 12月22日。
 学校法人森都芸術大学、第17回モリオト祭。当日。

 その日、森都芸術大学の校門に、一人の女性が車から降り立った。
 歳は二十代後半。白いスーツとヒール、真っ赤なコート、そしてサングラス。ショートヘアが全身をすらりと際立たせているが、背は特別高いというほどでもない。
 看板や花飾りでにぎやかな校門、一般客もかなりいたはずなのに、その女性はかなり目立っていた。
 カツカツと歩く姿は当然のように板に付いている。が、彼女は普段からこういう格好をしているわけではなかった。こんな服では仕事にならない職業だし、デートをする相手も今はいない。単に趣味として、こういうお洒落が好きな性格だった。
 校門にはこの学校の生徒と思われる数十人の案内係が、一般客を誘導している。チラシや風船を配り、丁寧に対応している。その流れに加わろうと、列に並んだ時、彼女は案内係の中に、見知った顔を発見した。
(あれは・・・)
 一際明るい笑顔で、まわりと喋っている女生徒、女はその人物に近付き、確認すると、にっこりと笑った。
「沙都子ちゃん・・・だよね?」
 チラシを配っていた鈴木沙都子は、一瞬遅れて振り向いた。
「え?」
「一回会ったでしょ? 私よ」
 女はサングラスを外すと、沙都子にもう一度微笑む。沙都子は合点がいったようで、目を見開いて驚きの表情を見せた。
「えーっ、どーしてここにいるんですかっ」
 隣にいた巳取あかねは、友人の叫び声に耳をふさいだ。何事かと振り返る。
 見ると、沙都子は何やら年上の女性と何やら話し合っていた。沙都子のほうはかなり興奮している。
「今、帰ってきてるの」
「そんなこと言ってませんでしたよ」
 教えてくれればいいのにー、と沙都子はぼやいた。
「そりゃそうよ。今日、突然帰ってきたの。あれには会ってないわ」
「そうなんですか」
「あいつ、どこにいる?」
「もう楽屋に入った頃だと思います。その後の合唱には私が出るんで、そっちも聴いていってくださいね」
「楽しみにしてるわ。頑張ってね」
 それじゃ、と手を振ると、サングラスをかけなおし、女は去っていく。すらりと背筋の伸びた後ろ姿に、沙都子は羨望の眼差しを送った。
「沙都子、今の人、誰?」
「見たぁ? かーっこいいよねー。憧れちゃうなー、私」
「いや、だから・・・誰?」
 あかねの疑問はむなしく、一方通行で終わっていた。



*     *     *



 普段、学内の生徒たちが全員揃うことなどめったにない。だからこんな日は、芸術学校に集う人間の多種多様さに改めて驚く。
 響森館はそれほどでもないが、それに続く渡り廊下付近は、準備のため、実行委員が絶えず走り回っていた。舞台設営などの手伝いなのか、美術学部の学生もちらほらと見受けられる。
 オーケストラの一員なのだろう。舞台衣装に着替え、楽器を持った生徒たちも渡り廊下を走っていた。
「十時を回りましたっ! 作曲コンクール開始の時間です。緞帳、上げてください」
 スタッフ同士で通信可能なトランシーバーから、合図の声が聞こえた。すると、その直後、今度は全校放送から声がした。
『ただいまより、1978年度、第二十一回モリオト祭、作曲コンクールを開始致します』
 それと同じ放送は響森館のホールにも響いていた。
 緞帳が引き上げられる。客席の照明が落ち、自然とざわめきが消えた。
 ライトが当てられているステージには、オーケストラの椅子と譜面台がずらりと並んでいる。 静寂が訪れた。
舞台下手から、楽器を抱えた人たちが、並んで入場する。黒い服で統一されている。自分の席に着くと、譜面台の高さを調節し、椅子の位置を確認する。
 全員が椅子におさまると、客席から向かって指揮台のすぐ左側、コンサートマスターが立ち上がって、バイオリンを構えた。
 Cの音。
 それに倣って、一斉に音を出す。コンサートマスターの音程を基準に調音を開始する。
 弦楽器の滑らかな音が和音で重なり、ホール中に響いた。
 オーボエの音だけが残り、次に管楽器の調音が始まる。
 しばらくして音がやむと、オーケストラは構えをとき、指揮者の入場を待った。
『エントリーナンバー1。音楽学部器楽科四年生、大谷貴志作曲。「ピアノ協奏曲」』
 アナウンスが入ると、同じく下手から白いスーツの男性が、指揮棒を片手に、舞台中央に歩いてくる。客席に向き直ると、深々と一礼した。





「・・・始まったな」
 舞台裏の第五楽屋では、スピーカーから流れてくるオーケストラの曲を聴いて、市川朗が呟いた。
 今、この部屋にいるのは、出場者数人と、それに選ばれた数人のソリスト、計十五人程度だった。
 その中には中村智幸も含まれている。智幸の曲の演奏者のうち、朗以外はオーケストラと掛け持ちなので、今は舞台の上だ。うた科の久保も合唱のほうの打ち合わせにでかけている。
「僕はもう腰を据えたよ」
「おまえは聴いているだけだろーがっ、舞台に立つのはこっちなんだぞ」
 極度の緊張のせいもあるが、智幸の落ち着いた態度がしゃくにさわる。八つ当たりを慣行しても、責められるのは朗ではないだろう。
(まったく、変なところで度胸があるからなー、こいつは)
 今の智幸にそんなことを言ったら、真正面から礼を述べられそうで口をつぐんだ。
「客の前で演奏するのは慣れてるんだろ?」
「バイト先とは客の数が違う」
 場慣れしていると思われても困る。買いかぶられないためにも、朗は正直に言った。
 こんなに緊張したのは、本当に久しぶりのことだ。しかし緊張の中にも、わくわくする気持ちがある。
 テーブルの上に置かれた朗の指が、無意識に動いているのを見て、智幸は笑った。
「そうそう、僕はあんまり舞台に立ったことないからわからないけど、照明が眩しくて譜面が見えないってこと、あるんだって?」
「だからプレッシャーかけるようなこと言うなって。・・・あーもう、舞台で調音できないんだよな、リハの時、ピッチ合わせとかないと。それから・・・」
 早口で独り言を言う朗だが、別に彼はあがり症ではない。本番に強いタイプだということを、智幸は知っていた。まあ、そうでなければバンドのバイトも務まらないだろうが。
 智幸がコンクールの音に耳を澄ましたとき、ちょうど級友の服部の曲が流れていた。

「おまたせー」
 コンクールのプログラムが十三番に入ったころ、オーケストラに出ていた五人が帰ってきた。
 オーケストラの一人が続けて演奏できるのはせいぜい三曲である。理由は疲労。その為、一曲終わるごとに、必ず数人が入れ替わることになっていた。五人はあらかじめ、始めのほうの数曲にシフトを入れておいたのだ。
「客の反応はどうだった?」
 智幸が尋ねる。
「まあ、例年通りっつーか。特に一般客は飽きてくるんだよな。かといって、コンクールでポップスなんてできないし」
「クラシックに慣れてる教授たちは喜んでたらしいよ。今年はレベルが高いって」
 手際良く楽器を磨くと、丁寧にケースにしまう。あまり管弦楽器に縁の無い智幸は、そういう作業につい見入ってしまった。しかし、次の朗の言葉に顔を上げる。
「でも、ま、これからが本番だよな」
「そーいうこと」
「なっ? ユキ」
 突然、七人の視線を一斉に受けて、智幸は一瞬、表情に迷う。しかしここまできたことを思うと、自然と笑みがこぼれた。
「ああ」
 それぞれが楽器を組み立て始める。
 すると、同じ楽屋の中にいた他の人達が、次々と振り返った。遠慮がちに視線を送り、ひそひそと話を始める。もちろん、その話とは、七人が使う楽器のことについて、だ。
 始めは皆、驚いているが、少したつと明らかに態度が分かれる。少しの嘲笑と、呆然とした視線。
 智幸たちは、そんなことは全く気にしていない。
「僕は賞を取ろうなんて思ってないよ。ただ、多くの人に、この曲を聴いてもらいたいんだ」
 最後に、智幸は七人にそう言った。
 すでに承知しているのか、朗たちは自信のある表情を、智幸に返した。
 その時、ノックと共に、実行委員が現れる。
「十九番の中村さん、一番のリハーサル室に入ってください」
「わかりました」
 はっきりとした声で智幸は答えた。しかし、ここで智幸は別れることになる。ここから先、智幸がやることはないのだ。
「じゃーな、ユキ。ちゃんと聴いてろよ」
「もちろん。皆、がんばって」
 全員と真剣な視線を合わせる。
 そして、七人はリハーサル室へ、智幸は出入口へと歩き始めた。


 「関係者以外立入禁止」。そう書かれたドアから、中村智幸が出てきた時、ちょうど合唱団が楽屋入りするところだった。
 かなりの団体で、彼らは第一から第四楽屋に入ることになっている。第五楽屋は、先程、智幸がいたところで、作曲コンクールの出場者があと四組残っているのだ。
 もしかしたら鈴木沙都子も、この団体の中にいるかもしれない。そう思ったが、智幸が見る限り、その姿は見えなかった。
 智幸は階段を登り、ロビーに出た。
 赤い絨毯の上を歩き、窓際へと近づく。窓の外は、その気温がわからなくても、どこから見ても冬で、枯れ木が風に揺れていた。
(・・・・・・一年、過ぎたのか)
 あまり良くない意味の表情を浮かばせる。それからも分かる通り、鈴木沙都子と付き合い始めて一年過ぎた、ということではなかった。
 熱くなる頭を抑えるように、頭を左右に振って、智幸はロビーの椅子に座った。
 その時、アナウンスが流れた。

『エントリーナンバー19。音楽学部作曲科三年生、中村智幸作曲。「大地の歌」』



7.


 軽い拍手に促されるように緞帳が引き上げられる。
 つつがなく演奏が始められる。・・・はずだった。
 客席にざわめきが起こる。
 ステージには今までのような整然として壮観なオーケストラはいない。雛壇はそのままだが、譜面台や楽器はきれいに片付けられている。
 ただ七個の椅子が、扇形に並んでいるだけだった。
「一体、何やるんだ?」
 客席の誰かが言った。
 下手から楽器を持った人間が現れると、そのざわめきは一層大きなものになった。
 作曲コンクールはオーケストラでやる。この会場にいる大半の人間はそう思いこんでいたに違いない。
 体を乗り出してステージを見つめる。
 教授たちでさえ、目を丸くする。
 七人が席についた時も、誰もが拍手を忘れていた。
 そんなに驚かなくてもいいのに。
 誰もが知っている楽器なのだから。
「リコーダー・・・、たて笛だわ」
 一般に、リコーダーの種類は十数個あると言われている。その中でも有名なものが五つ、順番に並んでいた。
 手の中にすっぽり入ってしまうほどのスプラニーノ。
 最もポピュラーなソプラノ(ディスキャント)。
 きれいな中音のアルト(トレブル)。
 低音がよく響くテナー。
 肩のバンドなしには持てないバス。
 ソプラノとテナーは二人、他は一人ずつのパート構成だった。
 リーダーである市川朗はアルトリコーダー担当である。
 声を抑え、笑う者がいる。
 小学生が音楽の授業で使う楽器だ。オーケストラの重厚な音を聴いた後では、輪をかけて幼稚だ、と。
 しかしそう思われることは、智幸も朗も十分承知していた。
 指揮者が現れないまま、アイコンタクトでもって七人は一斉に構える。緊張感のある沈黙。 物音をたてることさえ許されないような空間。
 朗が笛の先を動かすのを合図に、息を吸う音が響いた。
 曲はカノンで始まった。






 合唱に参加するのはほとんど1年生から3年生で、4年生は十数人程度である。総勢約二百人にのぼるが、この人数が響森館のステージの裏の楽屋に収まりきるはずもなく、渡り廊下を越えてすぐの、本館の視聴覚室も利用していた。
 楽屋は上の学年から優先的に入っている。
 中村智幸の曲が流れ始めた頃、鈴木沙都子は第三楽屋にいた。
 プログラムがどこまで進んだかを確認するモニターには、ステージ全体が映し出されている。備え付けのスピーカーからは、音も聞こえてくる。
 まるで食い入るように、沙都子はモニターを見つめていた。
(中村くん・・・・・・?)
 舞台の中央には市川朗がいる。間違いなく、これは中村智幸の曲だ。
 七つ、並ぶ笛。
 しばらくその曲に聞き入っていた沙都子は、突然立ち上がった。
 その時にはすでに、モニターの前には楽屋の中の十人以上が集まって、たて笛のアンサンブルに耳を傾けていた。その間を通って、沙都子は廊下に出る。
「沙都子っ!?」
 あかねの声も無視して、沙都子は走り出した。
 廊下を経て、扉一枚向こうはすぐ舞台袖だ。沙都子は実行委員に断りもなく、ドアを引いた。
 たったドア一枚。
 それだけで空気が違う。
 息を飲む緊張感。立ったことがある者ならわかるだろうが、舞台袖というのは天井が高く、ひんやりとした空気と、木の匂い。独特の雰囲気があるのだ。
 沙都子はそこを通り抜け、制御カウンターの隣、カーテンのところまで足を運んだ。
 舞台の上では市川を含めた七人がライトを浴びて演奏を続けている。
 はじめ、笑っていた観客も、口を閉ざし、舞台を見つめていた。
 楽器をやるものなら誰もが知ってる。アンサンブルの強み。
 重なる音は少ないけれど、澄んだハーモニーと静かなメロディ。
 静寂の迫力。というものは確かにあるのだ。
 ステージに智幸の姿はない。指揮者がいないことが示すように、これはアンサンブル。オーケストラとは違う、静かで澄んだ響き。
 曲は深く厳か。どこかアジア的。笛の音がそう思わせるのか、民族音楽のようにも聴こえる。広大な地、地平線に沈む夕陽を、沙都子は思う。
 「大地の歌」
 それが題名。
 ソプラニーノリコーダー、最も高音を出す一番小さい楽器のソロにはいった。
 小鳥の鳴き声のような音が、ホールに響きわたる。
 高い音は広い会場でも、一番後ろの席まで音を貫かせることができる。しかし高音楽器特有の刺すような音色ではない。優しく穏やかな音だった。
 それに重なるように、市川のアルトリコーダーが入ってくる。テナーとの和音が暖かい。
 大地の歌。
 沙都子は自分が泣いていることに気づいた。
 カーテンを握りしめる。
 どうして。すごいすごい嬉しいのに、泣きたいほど嬉しい時に、胸が締めつけられるような感覚に襲われるのはどうしてなんだろう。
 その痛みを忘れたくない思いにかられるのは何故なんだろう。
 舞台の上の演奏は続いている。
(・・・これが、中村くんの曲)
 そして、この曲が彼の中にある世界。



*     *     *



 中村智幸は、響森館のロビーの椅子に座っていた。
 ホールに入って誰もいなくなったロビーに、スピーカーから、智幸の曲が流れていた。
 基本的にアンサンブルに指揮者は無用だ。本番になればただ黙って聴いているしかない。市川朗たちなら、うまくやってくれる。同じ練習期間を過ごしてきた智幸は、あの七人に信頼を預けていた。
 ロビーの大きい窓から外を眺め、智幸は自分の曲を、耳を澄ませて聴いていた。

 去年の今頃はそれどころじゃなかったんだ
 一年前のモリオト祭に出場しなかった理由を、智幸は沙都子にそう言った。
 去年の今頃、というのは1978年11月のこと。
 ツカイと出会い、そして別れて1年が経過していた。
 黒い服と帽子とマント、銀色の錫杖、そして智幸以外の人間には見えない姿で、ここに現れた。そして、いくつかのものを残して消えた。
 ツカイは何も教えてはくれなかった。ただ現実になる未来を突きつけただけだった。
 鈴木沙都子とのこと。
 そして、近い未来に誕生する命のこと。
 いや、一つだけ、ツカイが智幸に教えたことがあった。
 W・A・M。
 それが何を示す単語なのか、この一年の間に智幸は気づいていた。智幸の推理が合っているのか確証はない。それでもツカイの唱えた「才能の定義」を信じるなら、間違っていないような気がするのだ。
 ツカイとはあれから再会はしてない。これからも逢うことはないだろう、と智幸は思う。
 次はあなたの子供に会いにくる。
 ツカイはそう言った。それが数年後か、数十年後かはわからない。
 あなたにはもう会わないから。
 そうとも言った。その言葉を素直に認めるのは恐い。その言葉の意味を、未だはっきり分かってないフリをしている。
 ただ、今、言えることは、力の限り、自分の未来を守る。
 そう、決心する。












 智幸は最後まで動かなかった。そこで曲が終わるのを聴いた。
 最後のデクレッシェンドまで、きれいに終わるのを聴いた。
 ロビーにはスピーカーで流しているが、防音壁一枚向こうのホールでは、生演奏で客は聴いたはずだ。沢山の人たちが、この曲を聴いてくれた。
 体が熱い。静かな充実感を得る。
 しかし次の瞬間、智幸は心臓が破裂しそうな衝撃を受けることになった。
 ドワッ
「!」
 拍手。そして喝采。
 壁を破りそうな歓声が、ロビーまで聞こえた。
「・・・・・っ」
 拍手は鳴りやまない。誰かの叫び声や口笛が聞き取れる。ホールでは、智幸の曲の演奏より何倍も大きい音が、反響しているに違いない。
 これらの喝采は、市川朗ら七人、そして智幸への称賛だ。謙遜はない。素直にそれを受けとめられた。
(・・・・・・・・)
 眼鏡を外して、椅子の上に置く。
 智幸は両手で自分の頭を押さえ、座ったままうつむいた。寒気と勘違いするほどの震え、しかしそれは歓びでしかない。
 自分の創作を聴いてもらう最後のチャンス。
 それでもいい。それでもかまわない。
 この拍手をもらうだけのことをやった。自分の曲でこれだけの人が感動した。
(これだけのことをやった)
 視界がぼやけるのを見てとる。歯を割って出そうになる声を圧し殺すが、その顔は満足げに笑っていた。



8.


『作曲コンクールの全てのプログラムが終了致しました。お手元の用紙にエントリーナンバーを記入して、所定の投票箱にお入れ下さい』
 実行委員長の放送が全校に響く。いっきに会場が騒がしくなり、みんな席を立ち始めた。
 一般投票は、外からの客と出場者以外の学生が参加できる。その結果に教授たちの票と評を交えたうえで、受賞者が決まるのだ。
 開票の間の第九合唱は、沙都子(と、あかね)が参加する。智幸がホールに向かい始めた時のことだった。
 休憩時間になり、ホールの扉からは人が溢れている。その人波に目をやると、智幸は目をしかめた。そして次に、器用にも目を見開かせた。
「・・・えっ!?」
 絶対、ぜったいここにいるはずのない人物を見かけて、智幸は裏返ったような声をあげた。
(なっ・・・な、なんでっ)
 明らかにここの学生ではない人物(そんな人はまわりに沢山いるが)、智幸がよく知った顔、三十になるはずだが、若々しい格好でやたらと目立つ女性が近づいてきた。
 失礼にあたるがおもいっきり指を差し、驚きのあまり声は言葉にならない。
「しばらくぶりね、智幸」
 ショートヘアも凛々しく、白いスーツを完璧に着こなしている女性は、智幸の目の前で笑顔を見せた。光モノのピアスに赤すぎないルージュ。ヒールを履いていても、智幸のほうが少しだけ背が高い。
「ねっ・・・姉さんっ!」
「うむ。今、帰ったぞ」
 腕を組んで胸を張り、豪快な返事であるが、智幸を驚かそうと、シチュエーションを画策したのが読み取れる態度だった。
 中村茅子。現在29歳で、某企業に勤務する東京人、自称キャリアウーマンである。仕事が忙しくてなかなか帰ってこないのに、何故、今、こんなところに悠然と立っているのか。
「昨日、でっかい仕事が終わってね。それまで休み無しだったから、お正月休暇を長くしてもらったの。だから私は今、冬休み」
「だからって・・・」
「家に帰ったら、母さんにこのイベントのこと聞いて、せっかくだから弟の晴舞台を見てやろうと思ったわけよ。悪い?」
 久しぶりに会っても変わらぬ強引さに、智幸は溜め息とともに言葉を返せなかった。
「それよりっ」
 がしっと、茅子は智幸の首に後ろから手を回すと、そのまま引き寄せた。
 突然のことに智幸はバランスを崩すが、それを保つには体を屈めなければならなかった。抵抗すれば離れられるだろうが、茅子の睨む視線が返ってこないという保証はない。大人しくされるままにする。
「聴いたわよ。あんたの曲」
「・・・・・・」
 茅子はぱっと手を離すと、今度はガッツポーズをとる。
「さすが、私の弟っ!」
 そして派手に笑う。当然、そこは休憩中のロビーなのだから人目もある。何人かは大声で笑う女性に振り返っていた。
「姉さんっ」
 人目を気にしたのは智幸のほうで、本人は何とも思っていない。
「そうそう、沙都子ちゃんにも会ったわ。この後、合唱に出るんでしょ? 見に行きましょうよ」
 強引に手を捕まれ、引きずられるようにホールへと向かわされた。
 しかし、智幸を呼び止める声がかかった。
「ユキっ! 聞いてたか? あの歓声っ」
 ステージ衣装のまま、市川朗が走ってきた。興奮を隠しきれず、微かに指が震えているのを見て取ることができる。智幸はその手を取り、強く握った。朗もそれを握り返す。
「もちろん聞いてたよ。おつかれ」
「ホールでのリハ、やらなかったから心配だったけど、結構響くんだな。俺、一瞬、自分の音に酔ったよ」
「僕の想像以上の出来だった。こんな風に音にできたのも朗たちのおかげだよ。本当にありがとう」
「礼を言いたいのはこっちだって。サンキューな」
 もう一度握手を交わすと、ようやく朗は、智幸の隣の茅子の存在に気づいた。智幸に顔を近づけて耳打ちする。
「おまえー、沙都子ちゃんというものがありながら」
 こんな年上の美人と、と朗は言いたいのだ。智幸は冗談じゃない、と言わんばかりに頭を振った。
「これは・・・」
「どおもー、沙都子ちゃんに続き二号さんの茅子でーす。よろしく」
 わざとらしく科を作り、茅子はポーズを取る。げっ、と智幸は叫んだが、さらに朗にも発言権を取られた。
「作曲科の奴らがここにいたら面白いことになるだろうに」
 それこそ冗談では済まされない。卒業までこの話題を持ち出されることになるだろう。智幸は本気で焦って、どうにか口にした。
「朗っ、これは僕の姉! そんなんじゃないってっ。・・・姉さんも、変な噂立てられるようなこと言わないで」
「ジョークよ。ねぇ? 朗くん」
「ま、そんなオチだとは思ってたけどな」
 茅子一人でも大変なのに、タッグを組まれては反撃のしようがない。これ以上、遊ばれないためにも、智幸は黙るしかなかった。茅子は時計を見て、大変、と声を高くした。
「それより、合唱、始まるわよ。朗くんも早く着替えてきて、一緒に見なきゃ。お疲れさまはその後よ」


 今回、合唱に参加したのは約二百人。実に学内生徒数の五分の一である。
 それだけの人数がステージに入りきるはずもなく、客席にも溢れでている。このホールの人数構成比は、客と合唱団+オーケストラでほぼ二対一。それだけの人数の演奏。聴いているほうはその迫力に誰もが口を閉ざした。
 音を全身に受ける、という体感は生演奏でしかわからない。音は空気の振動であり、その振動は音を聴く者の体をも震わせる。
 演奏側はその練習や仲間との関わりが全体の結びつきを強くする。同じ苦労、同じ歓び、同じ時間を過ごし、歌を通じて一つになる。もちろん、同じ歌を聴いている人も。
 人が人だけで奏でる和音。
 たぶん、演奏を聴いて泣きたくなるのは、この空間にいることの歓びだと思う。そして歴史の永さを知る。
 この曲は約二百年、歌い継がれてきた。それだけの歴史を生きた世界中の人が、この歌を歌ってきたのだ。
 中村智幸は客席の一番後ろ、ロビーへと続く扉の前でそれを聴いていた。
 白と黒の服を着た合唱団は、整然としているものの、その表情を見ると、皆楽しんでいることがわかる。オーケストラボックスでは、全員の目が指揮者に向けられ、不思議な統一感がある。そして、それらと向かい合う聴衆。一番後ろにいる智幸からは背中しか見えない。それでも多くの人が、その声と演奏に引き込まれているのが空気でわかった。
   あなたの力は世間が厳しく分け隔てるものを再び結びつけ
   すべての人々はあなたの優しい翼のもとで兄弟となる
 ドイツ語の滑らかな発音で荘厳な曲が語られる。心臓を揺らす激しいユニゾン。ホール全体にそれは響き、聴く人の体と心をも震わせた。
 そう、沙都子が言うとおり、いつか世界中が、この唄を歌えばいい。
(大丈夫)
 自分のなかに、そう言い聞かせる。
 智幸も他の人と同様、同じ空間にいる。同じ大気の振動を感じている。この世界にいる。あたりまえのことかもしれないが、智幸は最高の安らぎを覚えた。
 一年前、ツカイに出会った後から、周りの人との疎外感を持つことがあった。ツカイという人間外の存在を、自分だけが見えたという反優越感。誰もが知り得ないはずの未来、運命を少しだけでも教えられたこと。そして自分だけが知る、という重責。秘密を抱えることの重さ。
 自分だけが違うとは思わない。それでも、よくわからない、周りに取り残されたような感覚に陥ることが、この一年の間に少なからずあった。
 でも大丈夫。
 音楽を聴いて感動を覚えるあいだは、自分を好きでいられる。自分を好きでいられるうちは、この先長く悩まされ続けるであろう“教えられた未来”のことに、押し潰されないはずだ。
 未来のことは、いつか過去になるから。
 “教えられた未来”が違え、今悩んでいることが、ばかばかしかったと思う時がくる。ツカイと交わした言葉を笑い話に、沙都子や未来の子供に話せる日がくる。智幸はそう願う。
 ツカイの言葉に惑わされない。
 悩んでもいい、でも迷ってはいけない。自分の生き方を。
 ツカイの言うことは真実ではない。この先自分が体験していくことが、正真正銘の真実なのだから。
《智幸は彼女と結婚するよ》
 ツカイにそう言われなくても、ステージの上、天を仰ぎ歌う彼女を見て、智幸は確信する。
 きっと、彼女と生きていく。
 そしてこの決断に後悔しないことを誓う。
 この日の、この歌に。


9.


 もう校庭の木々に葉は残っていない。
 すぐ北に見える山も、夏場の青々しさとはうってかわって、焦茶色に変化していた。この街は四季の移り変わりがよくわかる。春には桜が、秋には紅葉が見られるのだ。
 そして、智幸はこの季節がくるたびに思い出すことになる。
 あの、ツカイの存在を。
 多分、ツカイの言った未来が、過去になるその日まで。
 でも大丈夫。
 一人ではない。

「中村くんっ!」
 背後から駈け寄る声に智幸は振り返る。
 校庭を横切って、鈴木沙都子が息を切って走ってきた。合唱のときの衣裳から着替え、いつもの格好に戻っている。智幸は手を振って応えた。
 沙都子は智幸のところに辿り着くと、息を整えてから、口を開いた。
「やっと、逢えた」
 今日はお互い忙しく、朝から会う機会がなかったのだ。今日という日は本当に長く感じられて、沙都子の顔を見て、智幸は懐かしさを感じる。
 しかしせっかくの再会も、沙都子のほうは、むくれて拗ねたような表情で言った。
「もお、そうやってすぐ一人になりたがるクセ、どうにかならない?」
 沙都子は合唱の片付けが終わった後、智幸を数ヶ所探し回って、やっとここにたどりついたのだ。いや、今回に限らず、沙都子が智幸を見付けた時、彼は一人でいることが多い。沙都子はそれをとても気にしていた。
 探し回った沙都子の苦労も知らず、智幸は肩をすくめる。
「そんなつもりはないけど」
 苦笑する智幸。しかしもしここにあかねがいれば、沙都子のほうが「それを見つけだせるあんたも大したもんよ」と皮肉られたに違いない。
「ううん、絶対ある」
 悪気のない顔できっぱりと智幸の言を否定する。そして心配そうに智幸の顔を覗き込んだ。
「・・・考えごと?」
「まぁそんなところ」
「となりにいてもいい? 邪魔しないから」
「─────」
 真剣な表情の沙都子は智幸の右腕にするりと手をまわす。言葉を続けた。
「これから先、長い間も」
 構内の人間はそのほとんどが響森館に集まっている為、本館のほうに人影は見られない。その空間にいたのは二人だけだった。
 となりにいてもいい?
 沙都子の台詞を理解すると、智幸は顔をほころばせて微笑んだ。
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
 そう言うと、沙都子は腕にいっそう力を入れて、智幸の腕にしがみついた。その腕に顔も埋めて、しばらくそのままでいる。智幸も、沙都子に声をかけたりはしなかった。
 言葉もないけれど、一緒にいて自然な空気。その時間を幸せに感じていた。
 結局、ツカイの思う通りに事は進んでいる。この時智幸はそう思った。
 でも今だけはいい。
 今、この瞬間だけは、自分が選んだ結果だと信じられたから。
 校庭の木々が揺れ、冷たい冬の風が吹いた時だった。
『1978年度、森都芸術大学第十七回モリオト祭、作曲コンクール受賞者、第十七代モリオトを発表します』
 全構内、校庭、敷地内に響く放送がかかった。
 智幸、そして沙都子も一斉に顔をあげる。構内のどこかで誰かが口笛を慣らした。近くに人はいないのに、校舎が全体に騒がしくなったように感じた。
「中村くん・・・・・・」
 沙都子の視線の意味は伝わった。しかし智幸は、自分の結果が期待できるものではないと、わかっていた。
「僕のはただ目立っただけさ。教授たちの受けも悪い。曲のよしあしは別問題だよ」
 オーケストラの中、唯一のアンサンブルは、それは目を引くだろう。同じ土俵で戦わなかった、という反対意見もあるかもしれない。その意見と“コロンブスの卵”は紙一重。この場合、後者が認められることは少ない。
 他のオーケストラの曲でもいいものは沢山あった。自分の曲がそれに対抗できるものだったか、智幸に自信はない。
 それでも未練や後悔がないのは、自分の力のすべてを、あの曲に表せたと思っているからだ。ただ、少しでも多くの人に感動してもらえればよかった。
「そんなことないよ、・・・私、泣いたよ。あの曲」
 控えめに、沙都子は言った。
 直後、沙都子は短い悲鳴をあげた。智幸は衝動的に沙都子を抱き締めたくなり、それを実行したからだ。  
 沙都子の耳元で、小さく、ありがと、と囁いた。
「・・・・・・」
 一番身近で、自分の曲をわかってくれた人がいる。それがとても嬉しい。
 沙都子は智幸の腕をとき、目を合わせ、いつもの満開の笑顔を見せて言った。
「おつかれさまでした」
 二人で声にして笑う。
『第十七代モリオト────』
 再び放送がかかった。
『音楽学部作曲科三年生、中村智幸。タイトル、「大地の歌」』
(・・・・っ)
 智幸は一瞬、自分の名前を忘れた。鉄柱のスピーカーに目を向ける。
 沙都子は手を叩いて歓喜の声をあげた。智幸が実感しないうちに、放送が繰り返された。同じ事を告げる。
「・・・まさか」
「まさか、じゃないよっ。やったよ、中村くんが選ばれたのっ」
 沙都子はすでに泣きそうな声で、智幸の袖を掴む。それを激しく揺らされて、智幸はやっと、現状を把握するに至った。
「・・・・・・」
「よかった、よかったね」
 多くの人に認められるということはこういうことか。
 智幸はそれを改めて実感する。
 固く、こぶしを握り締めた。
「モリオト受賞、おめでとう」
 改まって頭を下げる沙都子。
「ありがとう」
(・・・いつか)
 使いのことを話せる日がくるのだろうか。
 歳を重ねて、時が経って、遙か未来、笑って話せる時がくるのだろうか。
 使いに出会い振り回された三日間。沙都子に勘違いされたこと。振り切れずに何年も悩んでいたこと。使いによって人生が狂わされたと思っていること。そんなことが気のせいだったと。
 すべて笑い話になる日まで。
 一緒に生きようと思った。
 子供が生まれてもこんな悩みを持たせない。五年先も十年先も、笑っていられたらいい。
 僕が終わるその日まで。
 
 二人は響森館へと歩き始める。
 一般の人の客出しが始まっていた。近所に住む人たち、近隣の中高生。もしかしたら、二月前、智幸にたて笛を聴かせてくれた小学生もいるかもしれない。ここにいる人たちは皆、自分の曲を聴いてくれていた。そのことに感謝の気持ちを覚えつつ、その姿を見送った。
 少し経つと、今度は学内の生徒もわらわらと帰り支度を始めだした。見知った顔が数人、智幸に称賛の声をかけていく。智幸は一人一人のそれに応えて、沙都子と人の流れに逆らって歩いた。
「市川くんたちが、終わったら打ち上げやろうって言ってたよ」
 思い出したように言う沙都子に、智幸は呆れた声で応える。
「あさってクリスマスパーティやるって話だったけどな」
 今日が12月22日ということは、明後日は24日、クリスマス・イブである。
「それはそれ、これはこれ。楽しいことは多いほうがいいでしょ。なんか作曲科の人達を中心に人数が増えてるみたい」
「うちの科は芋蔓式だよ。最後には全員参加することになる」
「仲いいもんねー」
「朝まで騒ぐことになるかな」
 冷やかすような沙都子の言葉に、智幸は深々と溜め息をついた。
「いいんじゃない? なんてったって、今日はいちばん夜が長い日なんだから」
 あかねも誘わなきゃ、と沙都子はすでに友人を巻き込む算段を始めている。
 智幸も心労の表情を浮かべたものの、もちろん今日という日を楽しむつもりだった。
 人波の中から、朗が手を振ってやってくる。その後ろには他のメンバーも揃っているようだ。 沙都子は智幸の手を引き、仲間たちにもう片方の手を振り返した。







wam SongOfEarth  END
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