CHORuBunGEN/1話/2話/3話/4話/SongOfEarth |
wam2 |
|
■03. 1987 中村結歌には、中村結歌でないもう一人の記憶がある。 それが生まれる前のものであることも知っている。 だからと言って、それを「前世」と呼ぶのはあまりにも安易と言えよう。しかし明確かつ鮮明に、その記憶は結歌の中に存在していた。 自分がピアノを弾けることで称賛されているのも、その記憶の人物が一役かっていることも自覚している。 だがこのことを他人に話したことはただの一度もない。後で思えば、「彼」の記憶を話したことで、自分の評価を落とすのが嫌だったのだろう。幼心にもつまらない虚栄心を働かせていたということか。そして幼心ゆえに可愛くも、周りの大人たちがそんな自分の話を疑い無く信じると思っていたのだ。 「彼」の記憶を有した結果のメリットといえばピアノくらいなもので、役立つものは無いに等しい。 死ぬまでの半年間がやけに強烈なのは、そんなに思い残した事があるのだろうか。 そして余計なことにそのおかげで、こちらまでいらない恐怖心を植え付けられてしまった。 (ま、いっかー。そんなこと、今、心配する事じゃないし) お気楽にも、そう思っていた。 あの日までは。 * * * 1987年12月13日。飛行機が落ちた。 * * * 同23日。 ──────雪が降っていた。 G県K市内、塚原霊園。深々と雪が積もる中、参列者は皆、悲しみと涙をもって故人の早すぎた死を悼んでいた。 墓石に刻まれている文は次のとおりである。 ≪中村智幸 1956-1987≫ ≪中村沙都子 1956-1987≫ 真っ白な雪と、人々の黒い服。 モノトーンの視界に墓に添えられた花だけが、とても鮮やかだったことをよく憶えている。まるで一枚の絵のように、その景色は美しくもあったが残酷でもあった。 結歌のコンクールに二人は現われなかった。当日の朝にはこちらに着く予定だったのに。 十日前、舞台の上で拍手を貰っていた7歳の結歌は今、喪服を着て両親の墓前にたたずんでいた。 「・・・・お母さん」 中村沙都子。楽しそうに笑っている顔しか、結歌は見たことがない。結歌がピアノを弾くかたわら、彼女はきれいな声でいつも歌っていた。 (死・・・か) 歳相応でない表情でうつむく。 「彼」の記憶が御丁寧に植え付けてくれた恐怖とはまさにこれである。 本能的な恐怖。誰もが持っているものだが、「彼」は人一倍、死への恐怖心を抱いていた。 しかし「彼」が本当に恐れたのは、死そのものでも、自分の肉体が滅びることでも、死の瞬間までの時間でもない。 ───ただ、あの“黒い人影”が扉を叩く音だけだ。 「・・・・・」 自分もいつか死ぬことは知っている。だがそれは今心配することではない。しかしこうして身近な人の死を感じるのは、苦痛にも近い悲しみを感じ、死について考えてしまうのは当然と言えよう。 結歌は墓に向き直り表情を改めた。時々、苦手と感じていた父の名を見つめる。 (──────お父さん) そして。 この日、絶対の恐怖を私は見た。 両親の古い友人である巳取あかねに呼ばれ、重い足取りでその場を離れる。朝にはすでに積もっていた雪のせいで靴はぐしょぐしょだ。もうそれを気にすることさえやめて、結歌は歩き始めた。 しかしあかねの所に辿り着く前にその足は止まった。 (・・・・) 何がそうさせたかはわからない。立ち止まった体はなにげに、今自分が居た場所を振り返った。 振り返ってしまった。 そして見た。懐かしくも恐ろしい黒い人影。 反射的に逃げ出したくなる光景。 「・・・・・!!」 あまりの驚愕に叫ぶこともできない。雪のせいでもなく両足が凍り付いた。 雪は降り続いている。 白い景色に黒い影が降り立った。二百年前と同じ、あの姿のまま。 「彼」自身の記憶とはいえ、結歌の記憶でもある。見た、ということよりこの体の震えが黒い人影が目の前にいることを実感させる。夢ではないのだと冷酷にも告げた。 喪服の参列者に同じく黒い影が一つ増えただけのこと。しかしその姿は結歌の目を引き付けて離さない。 しばらくして疑問が生まれてくる程度のほんの少しの余裕ができた時、ようやく絞りだすような声が出た。 「な・・・んで・・」 何故、また現われる。二百年経った現在に。 「彼」の前でなく、結歌の目の前に。 何故? 記憶をたどる。混乱する頭から答えを探るのは困難だった。 (私には関係ないじゃない) これは言い訳に等しい。が。 (まさか) ある節が思い当たる。 そうだ。 契約・・・があった。 正確に言うと、法律上の効果を持たないものを契約とは呼ばないのだが、前金を貰ってまで交わした約束があったはずだ。 ──────まだ、終わっていない。 未完成のレクイエム。 「まさか・・・・」 まさか。 確かに約束はした。それは果たされていない。しかしここまで追ってきてまで、それはあの人物にとって重要なことなのだろうか。 (わからない) 一体《誰》の為のレクイエムなのか・・・。 まだ終わっていない。 まだ追われている。 黒い影に恐怖を覚える「彼」の記憶には理由がある。これは「彼」自身の単なる思い込みに過ぎないのだが、それは結歌にもしっかりと受け継がれている。 逢うわけにはいかない。 追ってきている以上、逃げるしかない。 「・・・・使い」 名は知らない。そう名乗っただけ。 墓の前に立ち尽くしている使いは、かなり長い時間、そのままでいた。結歌は震える足をどうにか動かし、人影に隠れた。 新しいはずなのに雪をかぶったその石は年季を感じさせた。 石としての硬質感は無く今にも凍り付きそうである。“使い”はその墓に刻まれている文字、中村智幸の名を見やると苦笑した。 「こうなること、わかってたんでしょ?」 どこか哀しげに首を傾げる。 その言葉は中村結歌には聞こえない。過去、中村智幸と使いが出会っていたことさえ、結歌は知る由もなかった。 「結歌」 「・・・っ」 後ろから声がかかった。思わず身構えてしまう。 「どうしたの?」 振り向くと、巳取あかねが立っていた。いつも気丈な彼女が今日は涙を隠そうともしない。母の親友だったという彼女は、現在高校の音楽の教師で、結歌にも色々と教えてくれていた。 「う・・ううん、何でもない」 「・・・そろそろ帰るわよ。最後にもう一度、お別れしなさい」 嗚咽混じりの声でそう言うと、結歌の背中を押して歩きだす。 「ちょ・・と、待って!」 墓前には使いがいる。結歌は青くなってあかねの手を払った。 しかし、恐る恐る見たその方向に、すでに使いはいない。 (帰った・・・のかな) 周囲にもいないことを確かめてから、結歌は安堵の溜め息をついた。とにかく今日のところは見つからなかったということだ。 しかし安心してはいられない。 「結歌・・・?」 心配そうに覗き込むあかねの顔を見る。 これから結歌は巳取あかねの家に厄介になることが決まっていた。そして今まで通り音楽を習いながら、ピアノや作曲の勉強をして将来のことを考えなければならない。 「・・・・」 今、決断しなければならないことがある。 使いが追ってきている、これは目の前の事実。理由は多分、レクイエムの完成。 「彼」の記憶を、「彼」の音楽を受け継いだ自分を追ってきている。 でもだめ。逃げなければならない。「彼」の記憶が語るとおり、使いと逢ってはならない。 使いと逢うことが意味するもの、それは・・・。 「・・・・」 (音楽を好きな気持ちは「彼」のものだわ) 愚かにも結歌はそう割り切った。 そう、あまりにも愚かに。 「・・・あかねさん」 「何?」 そしてこれが、自分の生き方を変える決断。 「ごめんなさい。・・・私、東京の茅子おばさんの所に行く」 |
■04. 結歌 「英語の範囲、終わりっ」 机にシャーペンを投げ、立ち上がって伸びをする。時間は0時52分、まとめたばかりの英語のノートに結歌は満足し、そのままベッドに倒れこんだ。 はー、と大きく深呼吸して体の力を抜くと、このまま眠ってしまいそうな感覚に陥る。 「ふっふっふっふ」 しかし。不気味にも不敵な笑いが込み上げてきた。 (これで英語の試験は完璧だな) 英語を教える萩原先生はテスト問題の形式が毎回ほぼ同じな為、1日勉強すれば7割は固い。結構このことに気付かない生徒が多いので赤点を取る心配はほとんど無い。 結歌は勉強が嫌いではなかった。 その価値はさておき社会的には成績が良ければ認められるという事実は否定できるものではない。たとえ文部省が偏差値をなくしても、いまだ学歴社会なのは確かだ。精神的にも勉強というものは努力をしたぶんだけいい点が取れるもので、いい点を取れればそれなりに嬉しい。 そしてなにより、新しいことを知るということは元来楽しいものなのだ。 五科目も授業を聞いてていれば興味があるものが一つや二つは見つかる。それを掘り下げて勉強することは、決して苦痛ではない。 「・・・」 興味───? ふと、結歌の顔から笑みが消え、眠気が一気にさめた。 「・・・嫌なこと思い出した」 と、不機嫌そうな声を口にする。 今日、不覚にも三高祥子にピアノを弾いているところを見られてしまった。口止めはしなかった。しかし祥子の性格から考えても、誰かに口外することはあるまい。 三高祥子。嫌いではない。しかし何だろう、あの全てを見透かしたような目と、何か言いたいことがあるような言動。何の為に、結歌に付きまとうのか。 『興味あるよ。どちらかというと悪意がこもってる意味でね』 天井の照明を見つめる。祥子の言葉を反芻しているうちに憤りを感じて、そのままベッドにどかっと肘打ちを食らわせた。 (何なのよ・・・いったい) はっきり言って、グサッときた。 あの後、じゃーね、と捨て台詞を残し祥子は帰っていった。喧嘩を売られたのかどうかは判断しにくい。 このまま、三高祥子との間に良い友人関係が築けるとは考えていなかったわけではない。しかし何か狙いがあるだろう、ということくらいは想像がついていた。 ああもはっきりと目の前で言われては・・・。 結局、祥子は心を許してはいけない人物だということだろうか。 「・・・ちがう」 結歌は自分自身の考えを否定した。 あれは威嚇。自分にあまり近付くなという警告。 三高祥子は目的があって結歌に近付いている。しかし本人は、近付きすぎるのを恐れている。 先程、結歌が考えていたこと、つまり祥子に対する不信感を抱かせることこそが彼女のセリフの狙い。あの言葉はあまり近付きすぎないようにと、結歌に、そして祥子自身に言い聞かせているのだ。 (何よ、近付いてきてるのはそっちじゃない) 相変わらず、訳わからん奴・・・。 午前1時32分。 今日という日がまだ終わりでないことを告げる、電話のベルが鳴った。 5回目のコールで結歌はベッドの中で目を開いた。 (・・・嫌がらせかなぁ) 暗闇に響く音を遠くに聞きながら、つい非建設的なことを考えてしまう。 こんな時間に電話をかけてくる人間は一人しかいない。 このまま寝たふりでやり過ごそうかとも思ったが、もし嫌がらせならそれも無駄なだけなので立ち上がって結歌は部屋を出た。 2LKのマンション。電話はリビングにしか無い。その隣りのソファにどかっと腰を下ろし 受話器をとった。 「・・・はい」 『ちょっと! なんでこんな時間まで起きてるのっ? 早く寝なさいっていつもいつも言ってるでしょっ。あんたのことだから、また勉強でもしてたんでしょう。ガラでも無いことやってるから、擦れた性格になるのよっ』 ぺらぺらぺらぺら。 「・・・・・」 結歌はそのまま受話器を下ろしたい気持ちになった。 気力がありあまった声をいきなりぶちかましてきたのは中村茅子、この家の主である。 「・・・・・この電話のせいで起こされた、というのは考えないんですね」 『あら、考えなかったわ』 単なる天然ボケか、それとも意地悪か。彼女の図太い性格を知っている結歌は、迷い無く後者だと即決した。 中村茅子、48歳独身。結歌の伯母にあたり、結歌の父親・中村智幸の姉である。昔からやたらと元気な人で、現役のキャリアウーマンだ。現在は某企業の開発部に属している為、一度仕事が入ると1週間は家に戻らない。 「仕事のほうはどうですか?」 『相変わらず大いそがしよー、どう? そっちは。しっかり食べてる?』 ふざけているようでも結歌の様子を心配してくれているのがわかる。電話をたぐり膝の上に置くと、結歌は口調を改めて受話器に笑いかけた。 「食事を怠らないのは、昔からの茅子さんの教えですから。ちゃんとやってますよ。そっちこ そ、面倒臭いからってコンビニ食はできるだけ避けてくださいね」 『オーケーオーケー。ところで、今回は長引きそうなの。もしかしたら帰りが遅くなるかもしれない』 「・・・はい」 『そうそう、それから・・・』 珍しく茅子の真面目な声が返る。 『もうすぐ夏休みでしょ? 沙都子さんと智幸の所へ行ってきなさい。もう何年も行ってないでしょう』 「──────」 『わかったわね? じゃあ、切るから』 結歌は深い溜め息をついて、ゆっくり受話器をおろした。相変わらず茅子は手厳しい。 ソファに深く座り直し、結歌は天井を眺めて吐息をついた。 「・・・・もう、十年か・・」 一枚だけ、昔の結歌を示す写真が残っている。 それは中学生の頃、結歌が一度捨てたものだ。それを茅子が寸でのところで拾い戻し、自室 に隠しておいたことを、結歌は後で知った。 「・・・・・」 そっと、隣りの茅子の部屋に忍び込む。閑散とした、しかし見事と言えるほど散らかっている部屋を、結歌は足の踏み場をうまくたどりながら入った。隅に置いてあるテレビに向かい、その上の敷物をめくる。 一通の封筒。そしてその中に、一枚の写真。 6歳の結歌がトロフィーを抱いて、両親に囲まれて無邪気に笑っている。 遠い日の出来事。 (・・・何も知らないって、幸せなのかな) あの頃の結歌はまだ知らない。自分のちからに慢心していただけの日々。 まだ追われていること。そして何も終わっていないこと。 「・・・」 墓前に行かないのには、理由がある。 直視できないだろう。 きっと両親は、今の結歌の姿を望んでいないだろうから。 衝動的に写真を破りたくなったが、何故だか虚しくなってやめた。 結歌は幸せそうに笑っている3人の写真を見て思わず笑いが込み上げてきた。それは写真の中の笑顔とはまるで異なるものである。 自分への嘲笑。 「ピアノなんかとっくにやめちゃったよ・・・お父さん」 使いは2百年前と同じ姿でここに現われた。信じたくはないが人間ではないという現実を受け入れるしかないだろう。 逃げていることを否定しない。 たまに、あの雪の日に自分が見たものが本当に使いだったのかと疑うことはある。しかし毎年この季節、「彼」が初めて使いとあった7月、初夏になると訪れるこの恐怖感を否定することはできない。この恐怖感に打ち勝つ為に・・・。 だから私は、このままでいいんだと、自分に言聞かせるしかないのだ。 * * * 6月25日水曜日。 ばったり、としか言いようが無い。 昇降口で靴を履きかえた後、階上への階段を昇っている途中、上から降りてくる三高祥子と 対面した。 「おっはよー、三高。いつも早いじゃん」 ほとんど条件反射的に笑顔で手を振る。手を振ってから、 昨日ケンカした(ような雰囲気になってた)んだっけ。 と気付いた。 祥子はというと、一瞬驚いたように目を見開く。次に下目づかいでふっと不敵な笑みを見せると、そのまま結歌の横を何も言わずに通り過ぎていった。 「・・・・」 祥子の人を小馬鹿にしたような態度に上げた手の行き場と笑顔の始末に困り、しばらく動け なかった。 ぎゅっとその手を強く握り、ふるふるとそれが震える。 「なんだその態度は───!!」 「もー、朝から気分わるー」 先程の祥子の事をぶちぶち言いながら2年3組のドアを力まかせに開ける。ほとんどの生徒は遅刻間際に登校してくるので、教室内の人間は半数にも満たなかった。 「おはよ、結歌」 萌子と郁実はすでに登校していた。結歌の姿に気づき挨拶をする。 「ちょっとー、きーてよー」 二人に泣き付こうとして駆け寄ったその時。 「おーっす、中村。おまえ、三高祥子と仲良かったよな、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 ぴく。 「ど───して、どいつもこいつもっ。いつどこで私が三高と仲良くしたっていうのよっ」 新聞部の部長である大河原太郎は間が悪かったとしか言えない。結歌は後からの罪のない言葉に怒鳴り返してしまった。 「なに怒ってんだ?」 「別に。何? 太郎ちゃん」 取り乱したところを見られたからといって、取り繕う相手でもない。結歌は自分の席について、話を聞く体勢に入った。萌子と郁実もやってきて4人で机を囲む。 「我が新聞部で“この人のデータが知りたい!”のコーナーのアンケートをとったんだが」 いつもながら妙な口調で太郎は話し始める。 「あ、それ知ってる。この間はバスケ部の高草木先輩だった」 「そう、それっ!」 郁実が自分のところの新聞を呼んでいるのが嬉しかったのか、太郎は指さして自慢気な表情で何度も頷いた。 「・・・けっこう詳しく書いてあったけど、あれ本人の了承を得てるの? ファンを無駄にあおってる気がするけど」 「何を言う松尾っ。我々は購買層を広げ発行部数をあげる為には個人の人権など眼中にない」 「───太郎くん、プライバシーって言葉、知ってる?」 確かに、校則には基本的人権の尊重という文字は記されていない。 萌子は呆れて溜め息をついた。さらに太郎はじゃじゃーんと効果音が付きそうな声で続ける。 「そして驚くなかれ。そのアンケートの集計2位には三高祥子の名が挙がっているのだっ」 間。 結歌、そして萌子と郁実の悲鳴にも似た叫び声が響いたのは言うまでもない。馬鹿っ声がでかい、と太郎は一番声の大きかった郁実の頭を押さえ付けて、祥子本人が教室にいないことを確かめてから安堵の溜め息をついた。 「うわー、一体誰よ、シュミわるー」 「でもわかるよ、美人だもん、あの人」 萌子と郁実の感じ方はそれぞれ違うようだ。結歌は少し考えてからこう結論づけた。 「人気はあるんじゃない? ただし、他のクラスにね」 三高祥子の見目の良さは、まあ7割の人間が認めるところであろう。だが同じクラスの者であればその性格のキツさは身に染みて分かっているのだった。故に新聞部のアンケートの結果は三高祥子の外見しか知らない生徒たちの所業ということになる。 「まあそのとおりかな。集計結果の8割は男で3年生が多い」 「で、太郎ちゃんは三高のデータなるものを私に尋ねに来たというわけか。でも何で私の所に来るわけ? 同じ中学の卒業生とかのほうがいいんじゃないの?」 「それなんだ。中村は三高祥子の出身中学知ってるか?」 「知らん」 「私も」 「同じく」 結歌たち3人は顔を見合わせた。相手が相手とはいえ、クラスメイトの出身中学を3人とも知らないなんて。 「先生に調べてもらったところ判明した。なんとK区の二中なんだ」 「K区っ!? やたらと遠いじゃない」 郁実が思わず大声をあげた。 ここから電車で40分はかかる。この学校も地元ではレベルが高いと言われているが、単に自由な校風というだけで、辺りの地区も含めて考えたら比べるものでもないのに。 「そう。何故こんな遠い学校に来たのか、それも謎」 「本人が素直に言うわけないしねー」 「だろー? このままじゃ記事書けないんだよ。さすがに三高祥子と同じ中学だった奴がどの高校にいるかなんて調べられないしな」 結歌は先程から一人黙り込んでいた。 (なんでそんな遠くから来る必要があるの?) 祥子に対する謎がまた一つ増えた気がする。校内に一人も友人がいないのはあの排他的な性格のせいだろうが、それどころか校内に三高祥子の過去を知る者さえ一人もいないということだ。 好奇心がうずかないと言えば嘘になるが、本人に聞けるわけもない。 「あーそれから、新聞部が超常現象研究会と組んだ7月特別号がテスト後に出るけど、一部百円でどうです? おじょーさん方」 「何、あんたあんな怪しい連中とつるんでんの?」 超常現象研究会は通称オカルト研究会(略してオカ研)で超能力やら誰ぞの予言やら、一部カルト的に研究を続ける集団である。人数がそれなりにいるのに部として認められないのは、思想的に偏っている為だとかなんだとか噂が絶えない。 「まあまあ、ビジネスというか。将来の新聞記者としては、色々なところに情報源を置いておきたいわけだ。付き合いは広いほうがなおよろしい」 「で? オカ研とは何やるわけ?」 さほど興味が無さそうに萌子が聞いた。 「ずばり、“1999年地球はどうなる?”」 冷たい沈黙があった。大河原太郎は3人の白けた視線を浴びることになる。 「・・・あほらしー、高校生の話題じゃないよ、それ」 「えーと、どっかの預言者が地球が滅びるようなこと言ったとか? だっけ?」 萌子は相変わらず手厳しい言葉を返す。結歌はこういう事にうといようで、詳しくは知らない。 「あ、それは間違い。別に地球が滅びるわけじゃないんだ。ノストラダムスは西暦3000年の予言もしているから。問題は何が起こるかってこと」 「へえ、詳しいのねー」 郁実が感嘆の声をあげると、 「オカ研の受け売り」 太郎は簡単に白状した。なーんだ、とせせら笑うと丁度1現目が始まるチャイムが鳴った。 それと同時に遅刻間際の登校者たちがそろって教室に滑り込んでくる。 三高祥子も今教室に戻ってきたらしく、自分の席につくところだった。4人の会話は聞かれていないらしい。 「じゃ、7月特別号3部予約ってことで、毎度っ!」 太郎はそう言うと逃げるように自分の席へと戻って行った。 「あ、こらっ」 すでに手遅れ。つまりうまく押し売りされたというわけだ。 「・・・商魂たくましー」 「将来の夢は新聞記者より、営業マンのほうが向いてるんじゃないの?」 (──────) 結歌は自分が神経過敏になっているのだと思わざるをえない。 この季節、初夏には毎年のことだから仕様がないとは思うのだが。 2人が離れて一人自分の席に残された結歌はぽりぽりと頭をかいて、萌子の言葉を繰り返した。 (・・・・夢、か) ────眩しい、光と影。 人に誉められるということは、眩しいということだ。 と、小さい頃は真剣にそう思っていた。 舞台でピアノを弾くようになったころ、写真を撮られる回数は増えていった。 カメラのフラッシュは嫌い。 あの光で目が眩む。周りの景色が見えなくなる。なのに。 人が集まっている、その少し離れた所にいるあの人だけが、何故かはっきりと見えるから。 目が合う。 するといつも、目を逸らし、うつむいてしまう。 あの人は喜ばない。私が周りの人に誉められても。 嫌な顔をする。 それがとても嫌い。 だからあの人のことも、苦手に感じていた。 (───お父さん) まだ何も終わっていない。 まだ追われている。 使いに見つかるわけがない。────だって。 唯一の手がかりである「音」さえ、私は手放したのだから。 手放してまで、生きているのだから。 6月26日木曜日。 「よーしっ、一学期最後の進路調査だ。紙くばるぞー」 6限目、ホームルームの時間。担任である高田先生の声が教室に響く。教室の所々からだるそうな声が聞こえたが、B5の紙は容赦なく一番後ろの席の中村結歌まで届いた。 「一生の事なんだからな。自分のやりたいことを選び、その為の大学を選ぶんだ。ハンパな現実主義者は後で泣きを見ることになるぞ」 進路調査は初めての事ではない。ぶつくさ言っていた生徒たちも無駄話をやめ、用紙に向かいはじめる。 「中村、消しゴム貸して」 「いいよ」 「ウチの担任ってさー、熱血教師を絵に描いたようだよな」 前の席の男子生徒の言葉に結歌は吹き出した。声を抑えて笑う。 「言えてる」 結歌は自分の進路希望をすらすらすらと記入するとペンを置いた。ふと、三高祥子の姿が視界に入る。 窓際の特等席を陣取る祥子は筆記具も出さず、窓の外を眺めている。ハナから進路調査など、眼中に無いようだ。 この間呼び出しを受けたばかりだというのに。 (・・・あの度胸は見習いたいかもね) 恐いもの知らずというか、自分のことを考えてないというか。 しばらくしてボリュームがかなり大きい独り言で、担任が喋り始める。 「今の若者は夢が無いんだよなー」 (──────) 「・・・・っ」 祥子は何かに反応し顔を上げた。ぞわっと肌を伝う、とある感覚。 「子供の頃、あーなりたいこーなりたいって色々あったろーが。歳とると言えなくなるっていうのは、良くない傾向だよな」 「せんせー、じゃあオレ、東大法学部出て首相になるー!」 「ロンドンに留学でケンブリッジー」 その後、オックスフォードやらMITやらでてきて教室は笑いに包まれた。しかしそれでも悪ノリしているのはクラスの2分の1くらいで、あとの半分は冷めたものである。 そのうちの一人である女生徒は頬杖をついて呟いた。 「夢だって。・・・高校の教師が吐くセリフじゃないわね」 「──────」 がたんっ。 突然、結歌は立ち上がった。 その音は大きくもなかったが、教室中に響いた。少なくとも、騒いでいたクラスメイトを黙らせるほどの音だった。 うつむいて机に両手をついたまま動かない。その手は震えていた。 その時の結歌の表情を見た者はいたかもしれない。しかし、この時の結歌の心情を感知したのは、三高祥子、ただ一人だった。 「どうしたの? 結歌・・・」 その声を合図に、結歌は顔をあげる。そして。 「・・・・っ!」 物凄い勢いで走りだし、教室から出ていった。 急な出来事に呆気にとられている一同、しかし彼らは次の出来事で我にかえることになる。 妙、というより変に聞き慣れない声がはっきりとした口調で響いた。 「先生、私も気分が優れないので保健室に行きますっ」 三高祥子はそれだけ言うと、小走りで自分の席から離れた。 その言葉はまるで結歌の不可解な行動を正当化するようでもある。 軽い音をたててドアが閉まった後、廊下を走る音を2年3組の生徒たちは聞いた。 「お・・・おい」 中村結歌、そして三高祥子がいなくなった教室は異様な雰囲気に包まれていた。ざわざわと聞こえてくる話は十人十色だが、半数の者の意見はだいたい次のようであろう。 「私・・・三高さんの声はじめて聞いたかも」. |
■05. 祥子 (・・・追い掛けて、どうするの?) 結歌の向かう場所は見当がついている。急ぐ必要も無いので祥子は走るのをやめた。そしてそのかわり、自分の中の疑問に答えなければならなかった。 中村結歌を追い掛けて、そして、一体自分は何を言おうとしているのだろう。 幾度となく失敗した言動とその契機。また繰り返すのだろうか。 こぶしをかたく握り、力強く呟く。 (中村結歌に興味なんか持たなければよかった) そして中途半端な同情も。 今となっては自分の行動の愚かさを笑うしかない、が。 後悔したくないのなら、ここで引き返すべきなのに。 校舎本館、最上階の階段をさらにのぼった踊り場で祥子は足を止めた。磨りガラスから眩しい光が差し込んでいる。 この扉の向こうに結歌はいるはずだった。 ノブに手をかける前に選択しなければならない。この後の自分の行動を。 「・・・・・」 ──────三高祥子には簡単には公言できない特質があった。 中村結歌は恐怖している。 「何か」に怯えている。 「何か」から逃げている。 その為に「自分」を隠している。 それはわかる。でも。 (だからなに? ・・・私には関係ないわ) 繰り返したくないなら、無視すればいいだけのこと。それは経験からくる教訓である。 余計な世話だということはわかっている。結歌は触れられたくないだろうから。だけど。 (・・・・・このまま放っておいたら、なんか、危ない気がする) 祥子が扉を開けると、ぎぃ、と重い音が響いた。 初夏の気持ちの良い晴天が視界に広がる。祥子の長い髪が風を受けた。そしていつものように、フェンスに肘をついて結歌が振り返り、笑顔で声をかけた。 「なーに? 三高もサボってきたわけ?」 高田さんかわいそー、とカラカラと笑う。教室を飛び出した時とは別物の表情で。 「・・・・」 そんな結歌を、祥子は憐れだとさえ思ってしまう。本人にとってはいい迷惑だろうが結歌の演技───というよりすでに条件反射と化してしまっているその態度は、祥子には見え見え なのだ。 同情、軽蔑。そんなものが混じった目付きで祥子は笑った。 「・・・私を無視するだけの余裕も無いってことかな」 一定の距離をとり、祥子は近付くのをやめそう言った。 「え?」 「付きまとわれるの、嫌なんでしょ? せっかく私のほうからケンカ仕掛けてあげたのに」 (ケンカ・・・・?) 《興味あるよ。どちらかというと悪意がこもってる意味でね》 「誰も嫌なんて言ってないじゃない。それに・・・あんなことくらいで怒ってたら切りがないわよ」 「でも、それなりにショック受けてたでしょ?」 「!」 いつになく直接的な反応をする祥子に結歌はたじろぐ。 いい雰囲気ではない。 今度こそ祥子は喧嘩を売っているのではないかと思われる態度で結歌に相対する。軽い冗談も許さない状況がそこには存在していた。結歌は軽口で話を逸らすこともできない。 上っ面だけでも仲良く喋りましょう、という空気では無いのだ。 (何なのよ・・・) 今現在心理的に余裕の無い結歌に三高祥子のきまぐれとも言える態度は我慢できるものではなかった。 「三高の目的は何? 私だって暇じゃないの。都合のいい時だけ仲良くされてもこっちだっておもしろくないのよっ。あんたが・・・何も言わないからっ」 そう、祥子は初めから何かを伝えようとしていたのだ。 「私も、中村さんがあなたの周りの人に何も言わないのが嫌なの」 暖簾に腕押しで祥子は挑発にはのってこない。冷静に皮肉を言ってのけるのだが、その言葉の真意を結歌は見抜けなかった。 (馬鹿にして・・・) 「何なのよっ! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」 夏場はほとんどの教室が窓を開けている。それと授業中という状況にもかかわらず結歌は大声で叫んだ。 祥子は深く溜め息をついた。それは彼女の中である決意を示していた。 「いい加減、楽になったら?」 突然の提言。 「何を恐がってるのか知らないけど、いい加減苦しいんじゃないの?」 「・・・・・え?」 ほとんど音にならない声で疑問符を返す。 『恐がっている』。 目の前にいる三高祥子はいったい何を言ったのか。それさえうまくまとめられない。 一瞬、めまいを覚えた。 祥子の暗示的な言葉はまるで結歌の心を見透かしたように。 (ように・・・?) 違う、気がする。祥子のどこか突放したような表情もそれを語っている。 どういうこと? 「なに・・・言ってるの?」 しらを切ろうとしての言葉ではない。純粋に祥子の台詞の意味を尋ねた。 祥子は結歌に背を向けて空を仰いだ。 「───お節介かもしれないけど、中村さんの普通じゃない精神状態が私をここに居させるの。・・・・最初はそれに興味を持って近付いた。けど、何気ない言葉にひどく反応するその恐怖心は、必ずあなたをだめにするから」 「やめてっ!」 「あなたには相談できる友達が沢山いるじゃない!!」 結歌の悲鳴はさらなる祥子の叱責によってかき消された。 祥子がここまで感情を露にしたことはなかったかもしれない。 「別にいいのよ、個人の事情で悩んでるのは。それを隠すのもいい。だけど、それを押し殺して北川さんや松尾さんにまで笑顔を見せてるのが私は嫌なの。友達なんでしょ? ・・・失礼だわ」 いつに無く饒舌な祥子は吐いて捨てるように言う。今の結歌には祥子の射るような視線に対抗する気力は無かった。 (どういうこと?) 祥子が自分の過去を知っているはずがない。自分しか知らないはずだ。 十年間。 それだけの期間隠してきたのだ。 結歌は周囲の音が消え、自分の鼓動が鳴り響くのを聞いた。 「三高・・・あんた一体」 「・・・・」 まるで結歌の心を見透かしたように。 ───“ように”ではない。 思考が混乱している結歌の目に祥子の目が合う。 結歌の頭をよぎる一つの考え。しかしそれを必死で否定しようとしている自分がいる。 「・・・・っ」 頭をひとつ振って、うまくまとまらない疑問をどうにか祥子に返した。 それは本心をそのまま反映して懐疑的かつ不審の念が込められていた。 「・・・あんた何なの? どうしてわかるのよっ、何を知ってるのっ!?」 両目を閉じて祥子はその言葉を受けとめる。ある程度予測していた反応ではあった。 「・・・・・何も知らないわ。ただあなたが何かに怯えているということ。それだけよ」 目を開くと、まっすぐ結歌を見据えた。 「そんなに恐がらなくても、もう近付かないから」 「・・・・?」 祥子は抑揚の無い声でそれだけ言うと、きびすを返し屋上のドアへと向かう。 もう用は無いと言うかのように結歌から離れた。 「三高・・・?」 「言いたかったのはそれだけ」 あっけなくあっさりと。それだけが目的であったことを、自分の行動の意味を語る。 結歌の位置からは見えないが、この時の三高祥子の表情は悲観、そして後悔、そんなものを表していた。結歌にもう少しだけでも余裕があったなら、声だけでそれを見抜けたかもしれない。 この状況で結歌にそれを望むのは酷というものだが。 「じゃあ、さよなら」 一度も振り返らずに三高祥子はドアの向こうに消えた。 その後遠く聞こえる足音を結歌は最後まで聞いた。 「・・・・」 ずるずると壁づたいに座り込む。正確には足の力が抜けた、というほうが正しい。 《興味あるよ。どちらかというと悪意がこもってる意味でね》 知っていた。 知っていて近付いたのだ。 (どうして・・・?) それこそが祥子のちから。 「・・・・」 結歌には祥子のことはまだいまいちよくわからない。しかし祥子の目的はこれをもって果たされた。 今までの言動は全て結歌の本心を見透かしてのことだったのだ。 祥子のちからが何なのか。漠然とは想像できたが深く考えるのは恐い。 「三高・・・・」 その呟きに込められた意味が何なのか、自分でもわからないほど頭を過ぎる今までの出来事は数が多すぎた。 レクイエムニ短調 K.626/REQUIEM 大きく黒板にそう書くと、音楽教諭の小川良美はチョークを置く。パンパンと手を叩いて指に付いた粉を落した。 『えー、ご存じの通り1791年、35歳の若さでモーツァルトは病死。音楽史上最大の天才と謡われた彼の名・アマデウスは“神の子”という意味さえ持つようになりました。そして未完ではありますが、これが最後の作品です』 6月17日火曜日。2年3組の1現目の授業も終わりに近付いた頃。 ぺらぺらと懇親丁寧な説明を始めるがいったいどれだけの人数が聞いていたことだろう。すでに3分の1の生徒は居眠りをしていた。教科書の下で週刊誌を読んでいる者もいる。 『ねぇ』 一応授業中という状況に気を使って、北川萌子は小声で後ろの席のクラスメイトに話し掛けた。 『後ろに座ってるおばさん、・・・いったい何者?』 音楽室の壁ぎわで年配の女性がパイプ椅子に座って授業を見学していることは、居眠りでもしていなければ全員の分かるところである。 見たところ先生っぽくはあるのだが、全く見覚えの無い人物だった。 『うーん・・・あの歳で教育実習ってこともないだろうし・・・』 二人でこそこそ後ろを眺めていたら小川教諭から声がかかった。 『そこっ、うるさいわよ。・・・っと、もう時間か。じゃあ次の時間、3組はバッハの小フーガをやります。えーと今日の欠席はいつもの中村さん、と三高さん・・?』 明らかに不機嫌な表情を覗かせると、出席簿に印を付けた。 『あ、巳取先生。お願いします』 口調を改めて小川良美は後部に座っていた人物を名指しする。するとその女性は椅子から立ち上がり教室全体を見渡した。 『2学期から産休の小川先生の代理として皆さんの音楽を教えることになりました、巳取あかねです。今この話を聞いてる人が半数もいないようだけど、私の授業は厳しいから。よろしく』 にこやかな笑顔でそんな紹介をした巳取あかねは一礼して腰を下ろす。この話を聞いていた半数弱の生徒たちは心のなかでうめき声をあげたのは言うまでもない。 『それではカルロ・マリア・ジュリーニの指揮で、聞いてみましょう。モーツァルトのレクイエムです』 さらに生徒たちの気持ちを暗くさせるような、のろく低い音楽がスピーカーから流れ始めた。 6月27日金曜日。 朝、おそるおそる教室のドアを開けると三高祥子の姿は無かった。 昨日あの後教室に戻ってみると祥子はすでに早退したとのこと、そして祥子が結歌は気分が悪くて保健室に行ったという事にしておいてくれたことを知った。 そして今日、三高祥子は欠席。 「結歌ちゃん三高さんと喧嘩したんだって?」 「はぁ?」 放課後、郁実はおもしろそうにそう尋ねてきた。それにはなんて大胆な、という意味が含まれている。 「どうして・・・」 「昨日、二人が屋上にいるのが見えたって、桔梗くんが言ってた。今日元気がなかったのはもしかしてそのせい?」 「・・・・・」 「早く仲直りしたら? 結歌ちゃんと三高さんっていいコンビだし。三高さんは自分から謝るタイプじゃないしね」 一緒に階段を下りながら郁実はそんなことを言った。 「誰と誰がいいコンビなのよ」 「みんな言ってるよ。なんか似た者同士だって」 (──────) 祥子と仲がいいと思われているのは前にも言われた。悪い気はしなかったが、今祥子の言動を思い返してみるとそんな生易しいものではなかったのだ。 好意で近付いてきのではなかったわけだから。 「・・・・似てるのかな」 「本人は気づきにくいかもね。・・・じゃ、私帰るね。明日と明後日、もしかしたら電話するかもしれない。数学がさっぱりなんだよー」 「おっけー。化学は月曜までにレポート提出だからね、忘れないように」 「はいはい」 手を振って郁実と別れると、結歌は溜め息をついて図書館へ続く渡り廊下へと歩を進めた。 郁実は気づいていないらしいが、実は結歌も自分から謝るタイプではないのだ。 (私、三高に会うことを恐がっているのかもしれない) もし今日、三高祥子が登校していたら自分は目を合わせられただろうか。 誰かに言い触らすほど浅はかではない。でも、これから三高祥子に対する自分の態度は、この間までのそれと違うものになる気がする。 いつも通り笑って声をかけられないような気がする。 (誰だって内心を見透かされるのは嫌に決まってる) (そうに決まってる) 一階の渡り廊下の途中。掲示板に貼られた吹奏楽部の定期演奏会のポスターを見上げた時のことだった。 「中村結歌っ!!」 「・・・・っ」 突然名前を叫ばれれば誰だって驚く。さらにその声が放課後の校舎にエコーが響くほどの音量があるならなおさら。 一瞬だけ、使いが現われたのかとも思ったがその考えはすぐに消えた。何故なら、振り返ったそこにはどう見ても普通の人間・・・四十代と思われる女が立っていたからだ。 その人物は息を荒くして物凄い形相で結歌を睨んでいる。つかつかと歩み寄ってきて結歌の肩を掴んだ。 (何なの? この人・・・) 「あなた、中村結歌ね?」 「は? ・・・はぁ、そうですけど」 ぱん、と乾いた音がして左の頬が熱くなった。叩かれたのだ。手加減しての平手だということはわかったがそれなりに痛かった。何が起こったのかすぐには判断できず、左頬を手で押さえると、結歌は相手が誰かを確認しないうちに罵声を浴びせた。 「・・・いきなり何すんのよっ!」 「怒ってるのはこっちよっ!! ・・・・こんな所で何やってるのよ・・」 最後の一言は泣きそうな表情だった。 (──────) ふと、その表情で何か思い出しかける。 落ち着いて目の前の人間を見ると、何やら懐かしく感じなくも無い。どうにか思い出そうと記憶をたどるが、相手の態度を見ると思い出したくないようにも思う。 「・・・・誰?」 「忘れたとは言わせないわよ。・・・私よっ、あなたの両親の友人」 頭の中で何かが閃いた。あ、と声が出かける。どうにか記憶の糸がつながると突然視界が開けたようにすっきりした気分になった。 先程この人物が見せた表情は、結歌の両親の葬儀の時に見た巳取あかねの表情だったのだ。 「あかねさんっ!?」 指を差しおもいきり叫んでから、はっと我に返る。目の前で腕を組み頷いている巳取あかねがどうして怒っているのか、だいたいの察しがついたからだ。 (そうだ・・・。この人は昔の私を知っている) というか、昔の結歌しか知らない人間なのだ。 「どうしてピアノをやめたの?」 単刀直入。結歌を壁に押しつけて顔を近付ける。 結歌は目を逸らした。 「あ・・あかねさんには関係ないじゃない」 正直に話すことなどしない。だいたい十年前のあの日、ピアノをやめる為にあかねと一緒に暮らすのを拒んだのだ。 「・・・・あんたねぇ」 あかねの低い声は憤りで震えていた。 「私の勝手な意見だけど、あなたには才能があるのよ! 努力で勝ち取る才能もあるけどそれさえ与えられない人間も沢山いるのっ! 生まれつき持ってる人間がそれをやらないなんて・・・・不条理だわっ」 継続こそ力、なんて言葉は何の役にも立たない。天分の才の前には全てが無意味。それは万人の努力とその時間を無に帰すようなものだから。 嫉妬と羨望、そして尊敬。・・・人、それを憧れと言う。 「才能なんてないっ!」 あかねの言葉に我慢できなくなり結歌は叫んだ。 「空名を背負わされてるのは私よ、頭の中に聞こえてくる音をただ書き写すだけ、そんなものが才能なの・・・?」 結歌に言わせればこれは「彼」のちから。それは望んだものではない。 「私が言いたいのは、どうしてそれを隠すのかってことよっ! ・・・・あっ」 あかねの力説はいまひとつ決まらなかった。何故なら、丁度二人のすぐ後ろを数人の生徒が通り過ぎたからである。この状況では叱る教師と叱られている生徒、悪くて恐喝されているように見えなくもない。 こほん、と体勢を整える為に咳を一つ。ひそひそと話ながらこちらに視線を送りつつ帰っていく生徒たちをやり過ごした。 結歌に言わせれば、さっきの生徒たちがもう少し興味を示してくれれば、それに乗じて逃げられたのかもしれないのに。 「・・・・まぁいいわ、なんらかの事情があるんだろうから。その事情を聞くとあんたを許さなきゃならないから尋ねないでおく。それより・・・音楽の授業、ずっとサボってるらしいわね」 「何故それを・・・・」 「私がどうしてここにいると思ってんの。私は結歌がサボってる音楽の代理教師よ」 (そういえば郁実たちが言ってた音楽の・・・) おもしろい名前の人、と言い掛けてやめた。余裕があるのもここまでだった。 「嫌いだからってわけじゃないでしょ? そうやってそのものから離れていないと・・・無理にでも距離をおいておかないと音楽にのめり込んでしまうから。そうすることで音楽に夢中になってしまうのが恐いのね?」 「──────!!」 図星だった。結歌は自分の行動の意味を他人から指摘されて、今まで目を背けていたことも認めざるを得ない。 しかし、結歌はあかねの言葉を聞き、全く違う事を考え始めていた。 (そう、私は逃げてる。逃げることで笑っていられる。使いから逃れる為、音を手放した・・ ・・・じゃあ三高は? 一人でいたいのに、人間の中で生きなければならない三高は?) 《いっそのこと、山にこもって自給自足できれば楽かもしれない》 三高祥子は? 「結歌っ」 しつこく絡んでくるあかねから逃げ出したい一心で、結歌は次のように叫んだ。 「放っておいてよっ、私の気持ちなんかわからないくせにっ」 そして逃げる。 年齢差からいってもあかねが結歌の足に追い付けるはずもなく、あかねは追跡を諦めた。 「・・・あのバカ」 結歌は叫んで走りだしてから、自分自身の言葉に驚いていた。 あかねが結歌のことを語る台詞で気づいたことがある。 どうしても重なるのだ。・・・・祥子と、自分が。 『私の気持ちなんかわからないくせにっ』 祥子にはわかる。 結歌の恐怖心だけでなく。 妙なちからを持って、そのせいで自分の生活が変貌したことの辛さ。 本当の意味で同情するだけの材料が祥子にはある。 (私、三高と同じなんだ・・・) 結歌は音を出すことで使いに見つかるのが恐い。だから音楽から逃げている。 祥子はきっと、人の声を聞くのが恐い。だから、一人で行動している。誰も寄せ付けない。 そして祥子は言った。 《あなたには相談できる友達が沢山いるじゃない!》 (三高にはいない) 「・・・・・三高」 目頭が熱くなった。あの時祥子を否定した自分の愚行を責めたい。 《あんた何なの・・・?》 祥子に向かってそう言った。あの時の自分にはわかってなかったが祥子は傷ついていたはず。 結歌は校門の所まで走り、壁に手をついて足をとめた。距離はそんなになかったはずなのに運動不足がたたって心臓がばくばく言っている。 しかし首筋を流れる汗を、結歌は気持ち良く感じていた。 「・・・私って、おーばかものだわ」 壁に額をつけてくすくす笑う結歌を、通り過ぎる生徒たちは不気味そうに眺めていた。 |
■06. 彼方からの手紙、そして。 6月30日月曜日。 2年3組の5限目は体育だった。 三高祥子は教室の窓際で外の景色を眺めていた。 祥子は窓を開けて、初夏の風を教室の中に入れた。外ではクラスメイトがトラックを走っている。 (この暑いのに・・・) だからといって教室内が涼しいわけでもないのだが、太陽の熱とそれを吸収した土に囲まれた校庭より格段涼しい所にいる祥子は、ほんの少しの優越感をもってトラックを眺める。 その中に中村結歌の姿は見えない。今日は朝から学校に来ていないのだ。(音楽の授業以外の)皆勤賞を狙う彼女にとっては珍しいことである。 溜め息をついて、祥子は窓枠に頬杖をついた。 音楽室からはパッヘルベルのカノン、隣りの教室からは数学の授業が聞こえてくる。すぐそばの道路を走る車の音、空を飛ぶ鳥の鳴声。 こんな風に、自分に向けられているわけでもない音を、それも日常的で平凡な雑音を聞く瞬間、少しの孤独を感じる時がある。しかしそれと同時に、自分がここに存在していることを思い知らされる瞬間でもあるのだ。 「・・・・・」 (別に、他人の“声”を聞くのが嫌だから一人でいるわけじゃないんだけど) 昔から、嘘、というか友達の悪ふざけにさえ、引っ掛かったことは一度もなかった。 小学生の時は友人と呼べる人間が人並みにはいた。 お喋りをしながら登校し、休み時間には一緒に外で遊んだりもしていた。 一番古い記憶は校庭。 5時間目が始まるチャイムが鳴り、校庭で遊んでいた子供たちは一斉に教室に帰りはじめる。祥子は遠くに転がっていたボールを取りに行った。 待っていてくれた友達は、祥子を驚かそうと計画を企てる。玄関わきの壁に隠れ、祥子が戻ってくるのを待った。 ボールを抱え走ってきた祥子ははじめ、友達がそこにいないことに戸惑う。先に行ってしまったのかと思い、急いで玄関に向かった。しかし。 祥子は何かを感じ、そこで立ち止まる。 『けーこちゃん、ゆまちゃん。先生におこられるよ。早く行こうよ』 何気ない祥子の言葉。少したってから、二人は壁の向こうから現われた。 目を丸くして不思議そうに言う。 『どーしてわかったのぉ』 こんな些細なことはまだ序の口。「勘がいい」という言葉で済むのなら、こんな風に悩む必要もなかったかもしれない。 自覚した時期がいつだったのかは、もう忘れてしまった。だけど、自分以外の人間は「わからない」のだと気付いたのは、結構後になってからだったと思う。 思考は聴こえない。 しかし祥子はそれのことを「声」と呼んでいる。 感情というものの波、喜びや悲しみ、憤り、そして恐怖。言語ではない、それらの「声」。 感じるのだ。この肌に伝わる気配と波のように伝わる感覚。 普通ではない。 小学生の頃は顔の表情と精神の喜怒哀楽はたいがい一致するものだった。多少疑問を感じるものの、問いただしてきたものは一人もいない。 しかし転校にまで追いやられたのは中学生の時だった。 『祥子ちゃんてさ・・・ちょっとおかしいよね』 それはすでに冗談でも嫌味でもない。 ひきつった笑み、今まで祥子を見ていたそれとは明らかに異なる瞳。 ≪祥子ちゃんてさ・・・ちょっとおかしいよね≫ ゴン。 と、窓ガラスに拳をぶつける。鈍い痛みが走るがそんなことはどうでもよかった。 「・・・おかしくて悪かったわね」 低くかすれた声を吐き出す。 恐いのは、親しい人が現われることだ。 もし自分のことを打ち明けて、それを受け入れてくれなかったら? ・・・・それが恐い。 今更嘆く気にもならないが、このちからのせいで中学の時転校することになったのだ。恨みたくなるも当然だろう。 (・・・しかし) 馬鹿か私は・・・、と溜め息混じりに呟いた。 中学の時にこりたはずだった。だから誰とも付き合わないようにしていたのに。 中村結歌はどうでるだろうか。如何によってはここにも居られなくなる。しかしそうなっても別に慌てることはない。どうせ去る者は追わないだろうから。出て行きさえすれば、すぐに忘れてくれる。 自分の居場所に執着など無い。ただどこに居ても残るものは疑問だけだ。 ・・・私って何なんだろう。 そんなこと何万回も考えた。答えが出たことなど一度もない。そしてこれからも。 祥子は自分が感傷的になっていることに気付いていたが、別にそれを抑える理由も無かった。人間誰でも落ち込みたい時があるのだ。それを理由に授業をサボっていることには否定しないけれど。 突然。 ガラッ、とドアが開く。その音に驚いて祥子は振り返った。 「・・・!!」 さらに驚くことにそこには意外な人物、中村結歌が立っていた。結歌は祥子の姿を見ても別に動じもせず、後ろ手でドアを閉めてずかずかと自分の席に向かう。 逆に、動揺していたのは祥子のほうだった。結歌の顔を見るのが正直恐ろしい。窓のほうに向き直ったのも、表情を読まれたくなかったからである。 何故、中村結歌は何も言わないのか。 恐がって接触を避けるか、もしくは周りの人間に言いふらすかのどちらかが、今までの例。 先週、屋上で結歌は確かに畏怖の念を以て祥子を見つめていた。それなのに。 中村結歌は過去出会った人間のどれとも違う。 祥子はとにかくこの気まずい雰囲気が早く終わることを祈った。 ばんっ! ビクッと祥子の肩が揺れた。教室に響いたその音は、結歌が自分のカバンを机に乱暴に置いた音だった。そして。 「珍しいじゃない、三高がサボりなんて」 どこかで聞いた台詞。 わざとはっきりと、思いのほか結歌のいつも通りの声が背後から聞こえた。 祥子は目を見開く。窓枠にかかる両手が震えている。 (・・・・・・・) 信じていいのだろうか。 結歌の心情はいつも以上に穏やかだった。それは祥子自身が、結歌の次によくわかっている。 予想外の展開。 過去、一度でも祥子に不審を抱いた人間がこんな風に話し掛けてくることなどなかった。 この3日で、一体何が結歌の心を動かしたのだろう。 「・・・・・たっ」 胸が熱くなる。不覚にも泣きそうになった。 「・・・体育が受験にないから、かな」 震える声をどうにか押さえ付けて言う。 その言葉で二人の間の空気が和み、目があって笑みを交わす。 黙契が成り立った。 「どこまで知ってるわけ?」 祥子に並んで結歌は手近な机に腰を下ろした。 「この間言った通りよ。本当に何も知らない。・・・ただ漠然と、その人の心情の変化を感じ るの。嘘をつく人はよくわかるわ。感情の起伏がないとだめなの。平静な人からは何も読み取れない」 他人に説明するのは初めてのことである。祥子はたどたどしく、言葉を選びながら語った。 「へぇ、便利じゃん。誰か他に知ってる人いるの?」 「母親・・・はね。昔はうるさいほど注意されたけど、今は歳とってそんな気力もないみたい」 肩をすくませて苦笑した。そんな祥子を見て結歌も笑った。 「・・・三高は前向きなんだ」 「どこが?」 祥子はその発言に心底驚いたが、結歌にはそう思えるのだ。笑みを消し、顔を上げて祥子を見据える。 「三高には夢がある?」 突然、結歌は真剣な顔で言う。 「え?」 「私は小さい頃、音楽家になりたかった」 「──────」 そこで間をもつように結歌は笑った。それは嘲笑に近いものだった。 「って言ってもね、ただあの頃は、自分のちからを自慢したいだけだったの。自己顕示欲が人並み以上にあったっていうか。・・・けど、自分を特別だと思ったことはなかった。ただピアノを弾くと母さん・・・・・・・・お父さんも喜んでくれた。それが才能の意味なんだと思ってた」 「・・・・・」 窓の外を眺め懐かしそうに語られる過去は、今の結歌からは想像できないものだった。 嘘でないことはわかる。祥子はおとなしく聞いていたが、先程から感じていた矛盾を口にした。 「それならどうして・・・」 音楽が嫌いだなんて。 何故、幼い頃夢に見た音楽を放棄することになったのか。どうして無理にピアノから離れなければならないのか。 「中村さん・・・」 そこで、祥子は口を閉ざした。意外なほど真摯な表情の結歌と目が合う。 「死神に追われてるって言ったら、あんたは笑うかな」 風が通り抜けるくらいの、一瞬の沈黙。後、祥子は、 「そうでもない。・・・借金取りに追われてるって言うなら、笑ってあげてもいいけど」 と言った。 冗談ととったわけでもない。しかし頭から本気ととることもできなかった。 結歌は予想外の祥子の反応に目を丸くして吹き出す。 「冗談よ・・・・やっぱ変だわ、三高って」 「そ?」 そう。使いの事を死神と思ったのは「彼」の思い込みだから。 「フツーなら笑うよ。みんな」 「・・・・」 簡単には信じないだろう。しかし祥子には結歌が嘘をついていないことはわかっている。 結歌の言葉を信じるだけの理由があるのだ。 しかし、祥子自身の考え方はそうではなかった。 (それが一人で隠してきた理由?) 祥子は眉をひそめ語調を強めた。 「それはあんたが茶化すからよ! ・・・本気で、真面目に相談すれば周りの人達は・・・・信じてくれるはずだわ」 「・・・・・」 この言葉に結歌は少なからずショックをうけたようだった 実を言うと、音楽をやめることと死神に追われていることがどう結びつくのか、祥子にはわからないのだが。今はそれを追求する時ではないだろう。 「・・・そうね」 自分の手のひらを見つめて力弱く呟く。 「本当にそう・・・」 その手を愛しそうに眺め、指先に唇に触れさせた。 「ピアノをやめて、それを振り切るように努力したのが勉強だったの。結構頑張ってきたつもりだけど、それもこれが限界ってわけ。推薦枠に入れるだけのちからもないわ」 「・・・・・」 推薦を狙っているのに、それほどまでに音楽の授業だけは出たくなかったということか。 「聞いてほしいの。三高に。・・・テスト最終日の放課後、屋上に来て」 結歌の真摯な瞳が祥子を捕らえる。 「・・・・・」 祥子はというと少々責任を感じていた。確かに結歌の心理を見抜き忠告にも近い口出しをしたのは自分だが、それを聞く役を買って出ていいものか・・・。 「・・・いいの? 私で」 「あんたじゃなきゃ言えないわよっ!!」 反射的に力強い声が返ってくる。 叫んでから、結歌ははっと我に返り思わず大声を出してしまったことを取り繕うとした。 「あっ・・いや、そーいうワケじゃなくてぇ・・・ほら、三高って妙な力あるしぃ・・」 どーいうワケだか定かではないが、それを聞いて祥子は。 がんっ。 と、こぶしで机を叩く。 「妙で悪かったわねぇ・・・」 芝居がかった低い声で祥子は呟いた。 「わ、ちがう、ごめん。そうじゃなくてっ」 泥沼にはまりつつある結歌を解放すべく、祥子はくすっと笑う。 「いいわよ。聞いてあげる。4日の放課後、ね」 祥子の笑顔に一瞬気をとられた後、結歌もはにかんだ笑みを返した。 7月4日金曜日。 (あのやろ・・・) 問題用紙に向かいながら、中村結歌は何度もそう呟いた。 左斜め前に位置する三高祥子の席は、朝から一度も座られることはなかった。つまり、欠席、ということになる。 それが病欠なのかサボりなのか結歌には分からない。しかし結歌との約束は見事に破ってくれたというわけだ。 (ちぇー、せっかくすごい事教えてあげようと思ってたのに) この場合「すごい事」とは、結歌の過去(と、さらに過去)に他ならない。毎年1年のうちで最もブルーになるこの時期に、結歌が自分のことをこんな風に言えるのはかなり珍しく、気持ちが軽くなっている証拠だといえる。 「先生ー、三高・・・さんってどうして今日休んだんですか?」 テストも終わり解禁になった職員室へ足を運び担任の席を訪ねた。 「三高? ・・・ああ、何でも親が突然入院したって、朝電話があったぞ」 事情は事情だがあいつは夏休み補習組になるだろうな、と高田先生は煙草をふかしながら呟いた。 「そう・・・ですか」 失礼しましたー、と声をかけて職員室を出る。 (・・・それじゃーしょーがないかな) こりこりと頭をかいて昇降口に向かって歩き始めた。 落ち着いた頃に電話でもかけよう。 先程ついでに三高祥子の家の電話番号も担任から聞き出していたので、いつでも連絡は取れる。それに月曜の終業式には嫌でも顔を合わせるだろうし。 (それにしても・・・) 上履きをぬいでローファーに履きかえると、結歌の思考は今回のテストの事へとむかった。 後藤のやつ・・・、と恨み言の一つも言いたくなる。あれだけやたらと膨大で広大な出題範囲を指定しておきながら、いざ問題用紙が配られてみると論述形式の問題が1問だけだったのである。あの時結歌の目の前が真っ暗になったと言っても決して大袈裟ではない。 『香港返還について』。 「・・・」 タイムリーといえばタイムリーだが、それではあの死に物狂いの自分の努力はどうなるというのだろう。時間と労力の無駄、すべてはそういうことだ。 外に出ると灼熱の太陽が、容赦無く肌を突き刺す。それを手でさえぎって結歌は青空を仰いだ。 (・・・海、行きたいな) 心の中でそう呟いてから、驚いて結歌は思わず立ち止まってしまった。 余裕が、出てきたのかもしれない。 毎年夏休みは気が重いだけの、学校が休みな分、気晴らしになることがない憂欝なだけの期間だったのに──────今年は何か違う。 三高祥子とのことによって、確かに自分は変わってきている。それと分かるほど。 「結歌──────!」 その時、頭上から名を呼ぶ声が聞こえた。 (げっ・・・) 見ると、2階の会議室の窓から巳取あかねが顔を覗かせている。彼女の心境からすればここまで追ってきたいのだろうが、今日は午後から会議があることを結歌も知っていた。 「この間は忘れてたけど、これ、前から預かってたの!」 なにもそんなに大声で言わなくても聞こえるのに。おかげで周囲の生徒の視線を集めてしまってかなり恥ずかしい。 あかねは何か、小さい紙らしき物を手にすると、それをそのまま下にいる結歌に向かって落した。 「え・・・ちょっとっ」 それはやはり紙なのでひらひらと空を舞う。結歌はあわてて空気中を泳ぐ紙を追い掛け、どうにかそれをキャッチした。 (何なのよ一体───っ) かなり古ぼけた茶封筒。宛名も書いてない。 手紙。 「それからっ、夏休みあなたの家に行って色々尋問するからねっ! 覚えときなさいよっ!」 まだ諦めていないということだ。 (しつこい人だ) でも。 今なら、本気であかねが自分の事を思ってくれているのがわかる。 「あかねさんっ」 結歌は2階にいるあかねに拳を突き上げ、満面の笑みを見せた。 「私、夏休み中に何か変わるかもしれないっ」 「・・・・・」 元気良く手を振って去っていく結歌にあかねは目を丸くした。 (・・・あんな風に笑えたのねぇ) 先週会った時とはどこか違っている結歌を、あかねはすっかり保護者気分で見送った。 心に余裕ができると見えてくるものがある。 余裕が無かった頃の自分。それを見ていた祥子。あかねの憤りと思いやり。 《あなたには相談できる友達が沢山いるじゃないっ!》 誰かに打ち明けたからと言って事態が変わるわけじゃない。でも今の状況からは抜け出せるはずだ。 “過去”に捕われることはない。 「彼」の記憶に縛られ使いに怯えなくてもいい。 逃げてもいい。しかし“現在”を後向きに生きるのは自分の為にはならないから。 (三高に知ってもらおう) そして自分こそが三高祥子の「相談できる友達」にまで精進することを、結歌は厳かに誓った。 その封筒を開けなくても、これから結歌に起こる出来事が変わるわけではなかった。 自宅の近所に馴染みの公園がある。結歌はそこにいた。昼時のせいもあってか人影は少ない。 結歌はブランコの一つに腰掛け、先程あかねから受け取った手紙をカバンから取り出した。 (預かってたって・・・───誰から?) あかねを仲介しての自分宛ての手紙。思い当る人物は一人もいない。 「不幸の手紙とかだったら許さん」 そんなわけないか、と笑って結歌は封を切った。 いったい何年開封されずにあかねの元にあったのか。 古ぼけた封筒、そして便箋。 すっかりクセのついた紙はパリパリと音をたてて開かれる。 手紙の冒頭、それは本来宛名になるべき文字が、こう書かれていた。 《まだ見ぬ君へ───》 * * * 7月の乾いた風が結歌の頬をかすめた。 隣りのブランコが揺れて、鈍い金属音が数回繰り返される。 頭上では青青とした木々がそよぎ、白い鳥が枝から飛び立った。 それさえも聞こえない。 「──────」 くしゃ、と便箋を握り締めた結歌の肩は小刻みに揺れ、うつむいた顔が蒼白になる。 「・・・なに、これ」 その声とは裏腹に顔は奇妙にひきつった笑みを覗かせている。 「なに・・・?」 手紙の内容に“結歌”という文字は一つも無い。しかし自分宛ての手紙であることはわかった。 《1980年5月18日 中村智幸》 結歌が生まれる前の日付と、今は亡き父の名前。 その内容は祥子のおかげで浮上しかけていた結歌の思考を完全に覆すものだった。 「お父さん・・・・?」 助けを求めたかった。 誰でもいい。何故今、この瞬間に、誰も隣りにいてくれないのだろう。 そして結歌は。 全身が凍り付く声を聞いた。 「やーっと捕まえた」 能天気と言えるほど明るい声が頭のすぐ後ろで響く。誰か、を判別する前に頭の中が真っ白になった気がした。 振り返れない。 必死で否定する思考とは裏腹にわかっていた。声など覚えていない、しかし本能的に。 背中に汗が流れる。それは決して夏の暑さだけのせいではない。 目の前に現われる。 ご丁寧に背後から回ってそれは結歌の視界に侵入した。 「・・・・っ!」 そこにはわかってはいたが宙に浮く黒い人影。 黒い服とマント、帽子と靴。三日月を象ったと思われる錫杖を手に、『使い』は現われた。 「どーも。主人の使いの者です。久しぶり。・・・それとも初めまして、かな。中村結歌さん」 ───悲鳴さえ出なかった。 |
wam2 END |
CHORuBunGEN/1話/2話/3話/4話/SongOfEarth |