CHORuBunGEN/1話/2話/3話/4話/SongOfEarth |
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■00. 序曲 神の声を聴いた。 1987年12月13日。 その演奏は全ての人間を黙らせた。 百五十人もの人間がそこにはいるのに物音ひとつしない。ただピアノの音だけが、その空間を占め、包むように人々の心に響く。 ただその音が、胸を熱くする。 静寂。 そして十秒後、会場が沸いた。 この日、ここに集まった全ての人間は感動と驚嘆の念を以て、惜しみ無い喝采を、舞台の上の少女に送った。 溢れんばかりの光の中で、少女は笑っていた。 そう、誰かが言ったかもしれない。 神童(アマデウス)の再来、と。 |
■01. 1997 1997年。 何処かの誰かが空から「恐怖の大王」が降ってくると予言した年を2年後に控えても、いつもと同じ、空は青かった。 人口密集地まで電車で15分。都会でもないがそれなりに商店街もあり、少しの会社が収まっている建物と、多くの住宅地、そして学校と公園がこの街にはある。市内の学校に通う限りぎゅうぎゅうの人間鮨詰め状態の満員電車とは無縁だし、東京人特有の早足に巻き込まれる気苦労もない。日常の買い物も市内で充分。なかなか便利で快適な街であると言える。 ただ排気ガスで少し苦い空気と、スモッグで遠く霞んだビル群には少々辟易するが、それがこの街の景観だと、納得してあげなくもない。それに今時、この手の苦情は日本のどこに行ってもありそうなものだ。この街を嫌う理由にはならない。 どこをどうしたら月から地球が青く緑に見えるのか。この、汚い海と灰色の街が。そして 「個人」を隠す人口。そう、一人の人間など隠してくれる人の多さ。 人間の多さに安心を覚える。 中村結歌はこの街が好きだった。 世界史でいい点を取るには二つの方法がある。 一つ、少なからずの興味を持つこと。もう一つは根性が試される丸暗記。ただし前者は範囲的にかなりの制限があり、後者は忘れるのも覚える時と同じくらい短期間なので一回勝負。追試にでもなったが最後、同じことの繰り返しである。 「・・・・中間考査、世界史範囲ページ数にして89ページ・・・か」 (冗談じゃないよー) 教科書を乱暴に閉じ、なげやりな声はやがて溜め息に変わる。 都立佐城高等学校本館の屋上にひとり。中村結歌は白いフェンスを背もたれに空を見上げた。 頭上に広がる初夏の澄んだ青い空は、都会の中でも褪せることはなかった。 都立佐城高等学校は都心から離れた住宅地にある。生徒数1000人強。近隣にはそれなりに進学校として名が通っているものの、校風は比較的自由で私服で学校に来る生徒も少なくない。教師陣がそれを容認しているのは、生徒たちが学生の本分を怠っていないからこそ、だが。 「・・・・・」 結歌はしばらく青空を見やっていたが、本館に隣接する新館に視線を移す。新館には12の教室が収まっている。結歌の現在地・本館屋上からはそれらがよく見えるのだ。そしてそのうちの一つ、3年6組の教室に世界史教諭・後藤和夫を見付けた。 「・・・・89ぺーじ」 歯軋りと共に吐き出された声はかなり低かった。そして。 「世界史はねー、教科書に加えて地図帳と年表と資料集ってもんがあるのよっ、それを『まあちょっと範囲が長いですけど』ってねぇ、何が『ちょっと』だ。ふざけんなっ。定期試験なんて所詮、生徒の丸暗記を試すようなものじゃない。いいわよっ、やってやる、そしてすぐ忘れてやるからっ、センター試験でぜったい世界史なんて選ばない、覚えてろ後藤っ」 すました顔をしてチョークを握っている遠い彼の人物に向かって叫ぶ。何が「覚えてろ」なのかよくわからないが、結歌は深呼吸を一回、姿勢を直して教科書を開いた。 「あーすっきりした」 暗記は集中力が要。もう一度ゆっくりと息を吸ってページをめくる。大学入学試験を突破するには勉強するしかない。たとえそれが無意味な暗記ものだとしても、だ。 その時。 「何だかんだ言っても成績はいいのよね」 第三者の声。結歌は身構えた。もし教師ならサボりの現行犯として職員室に連行される。相手によっては内申に何が書かれるか分かったものではない。 「おはよう、中村さん」 「・・・・三高」 青空を背景に立っていたのは、校内では数少ない、指定のセーラー服をきちんと着た女生徒、結歌のクラスメイトの三高祥子だった。整った顔立ちではあるがキツい表情をしている。風になびく長いウェーブの髪を無造作にかきあげて、結歌に歩み寄った。 「今の声、聞こえたんじゃない? 音楽室に」 無表情に指でコンクリートの地面を指差す。 本館の最上階、つまりここの真下には音楽室がある。そしてそこでは結歌たちのクラスが現在授業をしているはずだった。 「6月になってから1回も出てないでしょう」 「ま、受験には必要ないし、テストも近いしね」 ここで勉強してたほうが得策よ、と結歌は笑いながら付け加える。 音楽教諭・小川良美にとって2年3組中村結歌はブラックリストのナンバー1だった。上位の成績で入学したものの、結歌の音楽の授業の出席率は酷いものである。1年次の半分は欠席だったが、他の教科が優秀であったために留年は免れた。しかも無試験で。 「三高のほうこそ、珍しいじゃん。サボりなんて」 「一緒にしないで。正当な理由ある“遅刻”よ」 すぐに授業に入らない自分をどう思っているのか。そんな台詞さえ表情を変えずに言う祥子が逆に面白く、結歌は声を出して笑ってしまう。 「・・・やっぱ変だよ、三高って」 実際、三高祥子は妙な人間だった。 2年で同じクラスになってから、誰かと一緒にいる姿を見たことは一度もない。常に一人で行動していた。それが、ただ「大人しい」という言葉で片付かないのは、その態度が妙に堂々としているからでもある。誰も寄せ付けない言動と見目の良い顔立ち、加えて制服着用。好意から話しかけたクラスメイトに棘付きの言葉を返し、追い返したとかそうでないとか。 孤独を好む人間なのかもしれない。 しかし。 2週間前から三高祥子は何故か、中村結歌に付きまとうようになった。 きっかけがあったわけではない。突然の出来事に結歌は勿論、周りの人達も驚きを隠せずにいた。 しかし確かに、祥子は結歌に話しかけてくるものの、何か話題があるでもない。そして結歌が察するに、特に仲良くなろうとかそういう意図が、祥子には無いように思える。 いつもと同じ、無表情で無愛想。 言葉がきついのは、単に正直なのだということも、最近わかってきた。そして祥子は人の目を見て話さないということも・・・。 付き合いにくいタイプではあるが、結歌は祥子が嫌いではなかった。 「受験に無くても、その前に単位落としたら、話にならないじゃない」 「そのへんは抜かり無く。留年しないくらいには授業に出るし、追試になったら絶対落ちない自信はあるわ」 世界史のノートをぱらぱらめくりつつ、結歌は言い切った。 「突っ込むようだけど、体育も家庭科も受験にはないわ。それらはしっかり出席してるのはどうして?」 「嫌いなの、音楽が」 平然と。 「──────」 祥子は目をひそめた。 意外だったのだ。人当たりが良くて、クラスの誰とでも仲良く喋る結歌が、こんなにもはっきりと真剣な顔で言うほど嫌うものがあったとは。それも他愛無い会話で話題にあがりそうなものを。 いやしかし、とそれを打ち消す考えが浮かぶ。 嫌いなのは「音楽」ではなく、「音楽の授業」かもしれない。でも。 (それも違う気がするのよね・・・) 結歌の表情から察したわけでもなく、祥子はそう思った。 「そうだ、確か三高、今日当たるでしょ? 私のカンペキなノートを見せてあげてもいいわよ」 「・・・無料なら遠慮なく借りるけど」 「・・・・・私をどういう人間だと思ってるんだ」 たはは、と笑った結歌の声はそこで途切れた。 音。 曲が、流れ始めた。 「───」 結歌は息を止める。顔が強ばる。 それとほぼ同時に三高祥子の、景色を見ていた視線が止まった。 何も言わなかった。 音源は真下の音楽室。曲はクラシックであまり知られているものではない。 「鑑賞が始まったってことは、あと10分?」 音楽の授業では、毎回ラスト10分は観賞用のCDを流すことになっている。祥子は立ち上がり、教室に帰るしたくをした。相変わらず、祥子は人の表情を見ようとはしない。 「・・・だね」 結歌はそのことに感謝しながら、つられて立ち上がった。ポーカーフェイスを気取っているつもりでも、他の人にどう映っているかは自分ではわからない。 あまり興味が無さそうに、祥子は流れてくる音楽に耳を傾けた。 「この曲、何だっけ?」 祥子はすでに歩き始めている。その姿を追い掛ける足を止めて、結歌は力無く、呟いた。 「レクイエム。・・・モーツァルトよ」 * * * 「あーっ、結歌っ」 階段を降りる途中、階下から声がかかった。 「何やってたの? 小川さん、怒ってたよ」 たった今音楽の授業を終えてきたのであろう、同じクラスの松尾郁実と北川萌子がそこにはいた。校舎本館の四階には実習室が多いので、休み時間になると移動する生徒たちでごった返しになる。教科書を持った生徒たちでいっぱいのその人波を、結歌はどうにか潜り抜け、二人と合流した。 「もえ、いく、おっはよー」 「おはよーじゃないよ、もお。音楽のせいで留年したくないでしょ」 「あ。いく、その服かわいい」 郁実は実に彼女の趣味らしい、フリルのついた夏らしいブラウスを着ている。結歌はそれを見やり正直な感想を述べたのだが、郁実にはごまかすな、と頭を小突かれた。 「だいじょうぶよ、成績優良者は粗雑な扱い受けないもん」 「でたよ、この自信家」 三編みにりぼんがトレードマークの萌子があきれ顔で肩をすくめる。厳しい物言いはいつものことだ。 天然ボケの松尾郁実。熱血懸命な北川萌子。二人は中村結歌の親友であり、いつも一緒にいる仲間だった。高校に入ってからの付き合いである。 とん、と結歌の肩を叩いたものがあった。 振り返ると、三高祥子が背を向けて階段を降りていく。 祥子が先に行く合図として結歌の肩を叩いたのか、それとも単に通り過ぎる時にぶつかったのかはわからない。去った理由としては結歌たち3人の会話を邪魔しないよう気を使ったか、多くを語らない祥子が挨拶をするのも面倒臭く思ったのか。 ・・・どちらも後者だな。 祥子の背中を見送りながら、結歌は内心で容赦のない結論をつけた。 「今の三高さん? そーいえば最近、結歌ちゃん仲いいね」 目ざとく結歌の視線を追った郁実が問う。 「仲いいって言うのかなー、これも」 うーん、と結歌は複雑な気持ちで考え込んでしまう。不本意とまでは言わないが、周りの人達に祥子と仲が良いと思われているのは心外だ。結歌が受ける印象としても、逆に嫌われているのではと思う時が多少ある。 「私は嫌いだな。なんかすましてるし」 「あははー、言えてる。でもねぇ、なかなかおもしろいヤツだよ」 「おもしろいっ? あの、三高さんがっ!?」 「そう」 二人は3歩ほどあとずさり、結歌の全身を凝視する。5秒後、萌子は一言、呟いた。 「あんたって大物だわ、結歌」 2現目開始まであと3分。遅刻するわけにもいかないので、3人は数分前に祥子が消えた階段を降りていった。 「そーいえば今日、新しい音楽の先生が見学に来てたよ」 「新しい? どういうこと?」 「ほら、小川さん産休とるから。その代理。正確には2学期から教えるらしいけど」 「へぇ・・・」 全く無関心に、結歌は99%義務的な言葉を返す。理由は興味が無いからである。 音楽教諭・小川良美が子供産もうがなんだろうが関係ない。何より危うく自分を留年に追い 込むところだった教師を恨みこそすれ、良い印象など持てるわけがない。 授業をサボっていることなどなどの、根本的な理由は自分にあることなどさておいて、結歌は無茶苦茶な論理を展開させていた。 代理とやらの音楽教師のことにしても、深く追求する気にもならなかった。 「四十過ぎのおばさん。なんて言ったっけなー、なんか面白い名前だったんだけど」 「それより次の世界史よ。松尾郁実くん、三高が当たるってことはあんたも当たるんじゃない?」 郁実の悲鳴と同時に、結歌は笑いながら2年3組の扉を開いた。 6月18日水曜日。 「7月の初めのテスト終わったら夏休みじゃん。どっか行こうよー」 放課後、結歌たち3人は教室でテスト勉強をしていた。始めてから30分、さっそく現実逃避に陥ったのは郁実である。シャーペンを置いてノートの上にうつぶせた。 「私海行きたーい」 すぐさま萌子が提案する。これでテスト勉強は一時中断したことになる。 「結歌は?」 「私? 私はねー・・・」 その時。 「そーいうことは、テストが無事終わってから言えよな」 人気の少ない廊下から、男子生徒の批判的な声が投げられた。眉をしかめた結歌は、声だけでその主が誰だかわかった。 「その台詞、そっくり返すわよ。桔梗」 低く響く結歌の言葉を意に介しもせず教室に入ってきたのは、2年5組の内田桔梗である。結歌とはかなり古くからの付き合いで、腐れ縁も続き今に至っていた。 「やっほー、桔梗くん」 「松尾っ、名前で呼ぶなって言ってんだろっ」 コンプレックスを指摘され、かなり本気で桔梗は怒鳴り返す。郁実は毎度のことなので気にも止めていない。 「おまえ今日サボってたろ」 「あれ、ばれてた?」 「俺のクラスから丸見え。何の科目だか知らないけど、期末考査は全科目あるんだから」 忠告めいた桔梗の言葉に結歌はかちんとくるものを感じて、対抗するかのように声を尖らせる。 「ご心配なくー。誰かと違って赤点取るようなことはしませんから」 ・・・また始まった、と萌子は溜め息をついた。 最近、結歌と桔梗は仲が悪い。どちらかというと一方的に絡んでいるのは結歌のほうなのだが、二人とも後には引けない性格の為に、会話が始まると雰囲気は険悪なものとなる。 「・・・俺が悪いのは古典だけだよ」 「私は悪い点取ったことないの」 睨み合う二人に痺れを切らして、お節介とはわかっていても郁実は仲介の手を出した。 「まーまー、二人とも」 どんな喧嘩でも端から見ていて気持ちのいいものではない。 「そうよ、内田も結歌のガリ勉精神は知ってるでしょ? それともそんなに結歌が心配?」 「誰がっ!」 その言葉は高い声と低い声が見事にハモった。結歌と桔梗は顔を見合わせる。 そんな二人を見て萌子は思わず吹き出した。 「萌ちゃんっ、あおってどーするの! あ、そだ。桔梗くんも、夏休み一緒にどっか行く?」 「邪魔しちゃわるいわよー。彼女と行くでしょ、どうせ」 せっかくの郁実の気遣いも、ひやかすような、それでいて嫌味な結歌の言葉によって無駄に終わった。そして。 「おまえには関係ないだろう」 (──────) 言い返せなかった。 桔梗はそれだけ言って2年3組の教室を後にした。このまま結歌の住むマンションの、2つ上の階にある自宅へ帰って行くのだろう。 音も無く歩き、ドアを閉める音だけは派手に鳴らして、桔梗は廊下に消えた。 残された空間には気まずい空気が漂う。 「・・・ごめん」 結歌は素直に頭を下げた。一応、この雰囲気を招いた責任は感じる。 (・・・なんで、いつもこうなんだろ) あのさぁ、と萌子が口を開いた。 「内田に彼女作ってほしくないなら、そういえばよかったのに」 「私がいつそんなこと言ったよ」 萌子の平然とした態度はどこか三高祥子を思い出させる。それとも、結歌が遊ばれやすい性格なだけだろうか。 「今の態度がそう言った。ね? 郁実」 「うーん。まーねぇ・・・。1年の時さぁ、私、結歌って桔梗くんのこと好きなのかなーって思ってたし」 遠慮がないのかはっきりしないのか、よくわからない郁実の言葉に結歌は思わず立ち上がった。 「ちょっとまってよー」 「違うの?」 「──────違う」 「今の間は何?」 (うっ・・・) 完璧に追い詰められた結歌は言葉に詰まる。正直な話、女子高生というものは、こういう話に過度の興味を示すものだ。それが友人のものなら追求するのは当然のことと言えよう。 椅子に座り直す。 二人の視線に耐えられなくなったころ、結歌はぼそぼそと話し始めた。 「・・・中学の時、そう思ったこともあった。だけど何ていうか・・・恋愛対象ってわけでなく、一番身近な異性だからそーゆー錯覚に陥るわけで。そーゆーのってあるでしょう? それにここに来てから最初に仲良くなった人だし。親近感ってやつじゃないの?」 言葉を選びながらゆっくりと、本音を告白する。とにかく、内田桔梗に対して恋愛感情は無いということだ。 あまり納得のいかない萌子は、人差し指を結歌の目の前につきさして、さらに突っ込む。 「じゃあ、内田に彼女ができてから不機嫌なのは?」 「それは自覚ないけど・・・独占欲じゃないかな、たぶん」 ははは・・・と力なく笑った。 「どっちにしろ贅沢な悩みよ、それは。年ごろの高校生が女だけで遊びに行く相談してるよりはね」 「そりゃそーだ」 . |
■02. 予兆 1987年12月10日。 23時41分。G県K市内にある中村智幸の家の居間で、3つのグラスが鳴った。 中村智幸、その妻・沙都子、そして二人の大学時代からの友人である巳取あかね。3人は3日後に控えた、中村結歌のコンクール当日の打ち合せをしているのだった。 『しっかし大変ねー、あんた達も。恩師の結婚式ぃ? それが娘の晴舞台より大事かなぁ。ねぇ沙都子』 酔いが回っていつも以上に饒舌なあかねはソファに背を持たせ横目で智幸を見る。沙都子を名指ししているものの、自分への当て付けだということはあまり勘のよくない智幸でも分かった。 『当日には戻るんだからいいだろ』 『結歌を置いていくのは心残りだけど、あかねっていう頼りになる人もいることだしね』 『・・・相変わらず口がうまーい』 『それにー、久しぶりに二人だけで旅行だもーん。しかも北海道。結歌には悪いけど楽しんでくるよー。あかね、お土産買ってくるからね』 智幸の腕にしがみ付いて、沙都子は本当に嬉しそうに笑った。 あかねはそんな二人を見て溜め息をつく。 この夫婦は本当に仲がいい。10年の付き合いになるが喧嘩らしい喧嘩も見たことがないし、人の目の前で(沙都子が一方的に)いちゃつくのはいつもの事だし。 お互い最良の相棒を得たということだ。 『あーあ、私も早く結婚したいなーっと』 あかねの誰に向けたでもない台詞に智幸が反応した。 『巳取って高校の音楽教師なんだろ? 職場結婚とかあるんじゃないか?』 『私はもう三十よぉ。あるとしたら校長が見合い話持ってくるくらいね』 『あかね、恋愛結婚するって昔から言ってたもんね』 沙都子はワインを注ぎながら昔話を持ち出した。 (・・・そんな古いこと、よく憶えてるな) もしそれで恋愛結婚できなかったら立つ瀬がないではないか。自分が持ち出した話題とはいえ、これ以上続くと返答に困ることになりそうなので、あかねは話を逸らした。 『そうそう、音楽の先生なんてやってるとわかるんだけど、やっぱり結歌の才能は異常よねー』 『才能・・っていうのかしらね、あれも』 『何言ってんの沙都子。3日後は全国コンクールよ、7歳で全国。立派なもんじゃない』 『環境がものを言ったって気がするけど、あの子の場合』 環境、というのは両親が芸大卒で、二人とも音楽に心酔していた為、それを学ぶ知識と時間には不自由しなかった、という意味だ。加えて本人のやる気があればこうなっても当然だと、沙都子は思っていた。 『環境だって才能よ。・・・でもやっぱり、結歌はそれだけじゃない気がするのよね』 『天才・・・か。モーツァルトに例えるなら、あなたは最初の師、まさしくレオポルトね』 沙都子はくすくす笑いながら智幸のほうへ振り返る。 『・・・違うよ』 今まで黙り込んでいた智幸が苦笑する。グラスの中の氷を眺めて目を細めた。 『え?』 『僕はレオポルトじゃない。どちらかというとモーツァルトの才能を妬んでいた、サリエリのほうさ』 6月24日火曜日。 放課後、図書館でのテスト勉強を終わらせた中村結歌は、忘れ物をとりに教室へ向かっていた。既に6時を回っている為、テスト前ということもあって校舎内は無人に近い。薄暗い教室の中で息をひそめてしまうのは、この沈黙さ故であろう。心細くなって、手に取った教科書をカバンの中に入れもせず、そのまま教室を後にした。 自分の足音だけが響く廊下を、結歌は足早に通り抜けた。2年生の教室は4階にあるので、 道程の遠さを考えると結歌が溜め息をつくのも致し方ない。 「・・・?」 ─────────鳴った。 突然、床が消えたような、足元が浮くような感覚に陥る。 ・・・・呼ばれた。 知っている感情。結歌は顔をしかめて立ち止まった。 (・・・・・) 衝動、というのだろうか。まるで波のように、周期をもってそれは押し寄せる。胸が熱くなり、溢れそうになる欲望。 それは懐かしく、悲しくて優しい。 今の生活には全くの無関係なものなのだが、無駄と分かっていても、捨てきれずにいるものは誰にでもあるものだ。 結歌は自分のその感情を否定している。いや、否定したい。 かなり長い時間迷って、結歌は振り返り階段を昇る。渡り廊下を通って本館の奥へと歩を進めた。 足が逸る。 屋上へと続く、いつも昇る階段を今日は素通りして、そのさらに奥の教室へ。 息を切らし、歩を緩めて歩み寄る。 「・・・・」 その扉は開かれていた。西日が照って窓枠のシルエットを床に映し出す。 存在する生命体は、その空間では結歌ただ一人だった。ひんやりとした空気は全てのものの侵入を拒絶するか如くその場を占めている。 そして当然のようにそこにある黒い、奇妙なかたちの楽器。 冷たい曲線を描くピアノ。 半瞬だけ躊躇して、結歌は室内に足を踏み入れた。 警鐘。 やめろという声がする。 結歌が自分の次の行動を予見するのは容易いことだった。 引き返したほうがいい。 (だけど) たどりついたその手は、迷わずピアノのふたを開けた。 鍵は掛かっていなかった。 白と黒。両腕をいっぱいに広げた長さくらいに、並ぶ、モノトーンの鍵盤。 十本の指を置く。 懐かしい感触。 結歌は息を飲んだ。 ポ────ン。 軽い音が、部屋全体に響く。 そしてそれは結歌の心にも、大きな波紋を生んだ。 (・・・・お父さん) 結歌は笑った。その目には涙が浮かんでいた。 続けて、鍵盤をたたく。人差し指一本で、淡々と、一つの曲を弾いた。 アイネ・クライネ・ナハトムジーク。ト短調K.525。2楽章。 モーツァルト。 しばらくするとそれは変化した。伴奏がつく。ゆっくり、そして速く。原曲を無視して曲調は次々と変わっていく。 静かな、人気の無い校舎に響いた。 一人も観客はいない。それでもこの大気に震える音は、何かに伝わるのだろう。 愛しく思う。この音。そして奏でる指。 それは、北川萌子も松尾郁実も、内田桔梗さえ知らない、中村結歌の姿だった。 「あ・・・」 突然曲が止まる。指が絡まったのだ。 結歌は自分の両手を見つめて苦笑した。 「・・・やっぱり、いきなりは無理か」 何年も使っていない指だ。もう弾けなくなっていてもおかしくない。 (馬鹿みたい) やりたい事ならばやればいい。 いつまでも過去に捕われていることはない。現在を生きればいいのに。 つまらないことに、自分はこだわっているのかもしれない。 「・・・驚いた」 「!」 突然の背後からの声。さほど驚いていないように感じられる言葉に、心臓が止まるかのような驚愕を味わらされたのは結歌のほうだった。 声の主を察して、結歌は振り返るよりも態勢を整えるほうに神経を張り巡らせる。 「音楽、嫌いって言ってなかった?」 三高祥子の意地悪い質問に、結歌は即答する。 「嫌いよ」 低く力強い台詞を吐いた結歌を祥子は横目で見やる。背を向けられている為表情は見えない。 もとより、祥子には相手の表情を見る気など無いのだが。 「・・・そうは見えないけど」 祥子は音楽室に入り、一番近くの机の上に腰を掛ける。結歌はぱたんとピアノのふたを閉めると、笑顔で振り返った。 「三高こそ、こんなに遅くまで何やってたわけ?」 「担任に呼び出されてたの」 その言葉に結歌は目を丸くした。内心では祥子がさらなる追求をしないことに安心しながら。 「何やらかしたのよー、高田さん、話し始めると長いんだから」 「この間の進路調査、白紙で提出しただけよ」 「だけ・・・ってあんた。そりゃ呼び出しもくらうよ。あの人こーいう事に厳しいのは知ってるでしょお?」 一応、この佐城高校は進学校と言われている。もし進学するとなれば受験対策が3年生になると同時に始まるので、せめてこの時期におおまかな進路を決めておかなければ外野がうるさいのも当然と言える。 「・・・三高って何やりたいわけ?」 ふと、結歌は思いついたことを素直に口にした。 「・・・・・わからない」 (あれ・・・?) 祥子の答えは結歌にとって意外なものだった。 今のはもしかして祥子の本心を聞いたのかもしれない。 「三高が自分のこと喋るなんて・・・・珍しいじゃん」 「失礼ね。私だって真剣に考えてるのよ。・・・お金払ってまで勉強したいことがあるわけでもないし、その金銭的余裕もない。就職するにしても、私の場合1ヵ月と経たないうちに辞めることになるだろうし」 ここまで祥子が雄弁だったことがいまだかつてあっただろうか。 そのことに驚きながらも、結歌は祥子の進路に関しての考えを黙って聞いていた。 「いっそのこと、山にこもって自給自足できたら楽かもしれない」 冗談とも取れる台詞を祥子は真顔で言う。その判断は結歌には下せない。しかし、一つわかったことがあった。 「・・・三高って、誰にも興味が無いのね。だからいつも平然と、一人でいられるんじゃない?」 「──────」 意表を突かれて祥子は沈黙した。しばらくして説得力の無い、弱い声で言う。 「違うわ。・・・誰にも興味を持たれたくないのよ」 「それは自意識過剰というのでは・・・・。まあ、人間関係うまくやらなきゃ就職はできないよねぇ」 祥子みたいな人は、きっと社会に馴染めずに息苦しい毎日になるだろう。とくに彼女のように、自分を変えようとしない不変の意志を持つ人には。 「中村さんはどうなのよ。経済学部だっけ?」 結歌は目を見開く。 祥子の無表情さが憎らしいと思ったのはいったい何回目のことだろう。 「なんであんたが知ってんのよっ!!」 「あの先生が、杜撰なのは知ってるでしょ。進路調査の紙が机の上でそのままだった」 ぱくぱくと結歌は口を開閉させる。すぐに言葉は出てこない。 別に知られるのが嫌なわけではない。何故か祥子には裏をかかれることが多いので、それがさらに一つ増えたことが不愉快だったのだ。 仕返しを試みても、別に罪ではあるまい。 「三高ってさー、何か私のこといろいろ聞いてくるし、付きまとってくるし。もしかして、あんた私に興味あるのー?」 わざと嫌味を込めて言った結歌の言葉に祥子は笑ったようだった。 「あるよ」 あまりにも簡単に、そう答える。しかしその口調はあまり社交的なものとは言えなかった。 「え・・・? 本気で?」 「興味あるよ。どちらかというと悪意がこもってる意味でね」 同時刻。 本館4階の音楽室より、降りること2層。今、校内で一番活気があるのはまず間違い無くここであろうと思われる職員室がそこにはある。 定刻を過ぎても大半の教師たちが帰ろうとしないのは、来週にせまっている期末考査の問題を制作しているためだった。 この学校では原則として、テスト問題をコンピュータで作成することは禁止している。もう少し厳密に言うと、問題作成に通信機能のある機械を使うことは禁じられているのである。何故なら、職員室にあるパソコンは、生徒に公開されている3階の実習室のコンピュータとサーバを介してリンクしている為だ。一応セキュリティは敷かれているものの、念には念を入れた故の処置であった。それでも職員室内にキーボードを叩く音が絶えないのは、手持ちのワープロ等を駆使する教師たちが多数いるからである。 そんな中、職員室の片隅でパソコンのディスプレイに向かっている、一人女性の影があった。真剣な、それでいて焦りを感じさせるその眼差しは、何かを探しているようである。 カタカタと、キーを叩くその指はどこかぎこちない。四十という彼女の年齢を考えればそれも無理がないように思うのだが。 ディスプレイにはこの学校の2年生の名簿が映しだされている。生徒の名前が出席番号順に並んでいて、それをクリックすると個人情報が引出されるようになっているのだ。 見落とすのを恐れているのか、それとも単に操作が鈍いのか、画面を流れていく学籍番号と名前の動きはかなり遅かった。彼女は検索という機能があることを知らない。 (・・・ここにも、いないの?) 指の動きとは裏腹に内心はかなり焦っている。衝動でキーボードを破壊したくなったが、もちろん理性で耐えた。 いっその事、やめてしまえばいいのかもしれない。宛てもない人探しなんて。 しかし。 (一言いってやらなきゃ、気が済まないわ) 椅子に座り直し、お茶を一口。呼吸を整えて、もう一度ディスプレイに向かった。 「あ・・・・」 慣れてきたのかキーを叩く音が速くなりはじめた頃、指が止まった。 息を飲む。 2年3組。・・・間違い無い。 そこには十年間探してきた人物の名前が、明朝体で小さく書かれている。 代理の音楽教師という名目でここにいる巳取あかねは、目を見開き、その名前を凝視したまま、かすれた声を喉の奥からしぼりだした。 「──────みつけた・・・」 「みーつけたっ」 内心の喜びを隠せない声が、校舎の屋上に響く。その声を聞いた者は誰もいなかった。錫杖を片手に黒いマントをなびかせた人影は、まっすぐ音楽室に目を向けている。 中村結歌の姿を認めると、にっこりと・・・・笑った。 |
wam1 END |
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