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3話


 それはまだ七月の頭、梅雨も開けきれてない夏のはじめの頃。
 雲は気まぐれに雨を降らすことを休み、街を歩く人の手にただ荷物になるだけの傘を持たせていた。
 そんな季節にだけ現れる、ただ耳に触れる音だけのその存在を、いつのまにか待ち遠しく思ってしまっている人は一体何人居るだろうか。





■1
 バンッ
 ドアを乱暴に開けて来店した客に驚き、従業員は不覚にもトレーを落としてしまった。幸運にもトレーには何も乗っていなかったので惨事は免れた。
 現れた客はショートカットがよく似合うスーツ姿の女性で、年齢は二十代半ば。毅然とした整った顔に従業員は見とれたがそれは本当に一瞬で、女性の明らかに怒りをたたえている表情とヒールを吐いた仁王立ちに自然と腰がひけてしまう。
「い、いらっしゃいませ。…お一人様ですか?」
 型通りの言葉を何とか口にすると、女性客はズイと歩み寄り低い声で言った。
「喫煙席に目つきの悪い男、居るでしょ?」
 さっさと案内しなさいよ、とスゴんでいるようにも取れた。被害妄想かもしれない。従業員は逃げ腰になりつつも女性を案内する。「目つきの悪い男」と断定したわけではないが、幸運なことに喫煙席に男性は一人しかいなかったのだ。

「ちょっとっ! 何、のんきに本なんか読んでんのよっ」
 日差しのよく当たるフロア、全体的に木目調で観葉植物が多く置いてある店内に大声が響いた。
 テラスに続く窓際の席で、その言葉通りテーブルに片肘をつき文庫本を読んでいた男は視線だけを上げた。
「…よー、篠歩(しのぶ)
 不精で伸びた髪、Tシャツにスラックスという格好の男は抑揚のない声で言う。髭を伸ばすことを嫌い、どんなときでも髭を剃って家を出るのは、この男の長所といえば長所だ。
 突然現れた女性に怒鳴られてもさほど気にもせず、ふわあぁと大きい欠伸をした。
「わっ、灰皿山盛り。一体、何箱開けたのっ」
 それは疑問ではなく非難だった。気遣いも少しばかりはあった。
 男はわざとらしくない程度の溜め息をついて、
「それはだなー」
 パタンと本を閉じる。
「徹夜明けだった俺は今朝八時の電話で十時に呼び出されて、その当人が一時間遅刻した間、ずっと吸ってたもんだから、何箱開けたかなんて俺にもよくわからん」
「……尋人(ひろと)
「こんな小奇麗な喫茶店で居眠りしてたら追い出されるだろうし、眠気覚ましに、のんきにミステリーなんか読んでたんだが…。…お、もう十一時か、…それでだな、その待ち合わせで待ちぼうけ食わされてる途中に、お前がやってきたんだ」
 本当に眠いのか? とツっこみたくなる雄弁さで語る。女はさすがにバツが悪い表情を表し、声のトーンを下げた。
「……わざわざ遠まわしに責めなくても、素直に怒れば?」
「お前こそ、素直に“遅れてゴメンナサイ”くらい、言えないのかよ」
 女の名は日辻篠歩(ひつじしのぶ)、男は八木尋人(やぎひろと)という。
 二人は大学のときの同級生で、腐れ縁も手伝って卒業後もこうして顔を合わせることがよくあった。
「で? 何むしゃくしゃしてんだ?」
 結局謝らなかった篠歩に席をすすめる。尋人は自分の心の広さに拍手を送りたい気分だ。合い向かいに座った篠歩は図星を当てられて、
「えっ、何でわかったの?」
 と、目を大きくさせた。
「おまえなぁ、八つ当たりされてる俺の身にもなれよ」
 長い付き合いだ、とは言いたくない。それ以前に態度と言葉でこれだけ当てられれば十分だ。
「…会社で上司に説教されたのよ。…まぁ、仕事中ぼーっとしてた私が悪いんだけどっ」
「珍しいな、仕事虫のお前が」
 驚いたのは、上司に説教されたことよりも仕事中に惚けていた、その事にだ。尋人は意外に思ったわけではなく、興味が湧いた。故にそのことについて尋ねると、
「それなのよぉっ!」
「うわっ」
 だんっ、とテーブルに体を乗り出した篠歩に尋人は驚いた。周囲の席の非難の視線も気付かないまま、篠歩は一気にまくしたてた。
「もーだめっ! 気になってしょうがないのっ。いつか誰かがと思ってたんだけど、もう駄目、もう限界っ。もう他人に任せてらんないわっ、私がやるっ!」
「……なんだよ、一体」
 そこまでの興奮の為にすっかり取り乱していた篠歩の目が、突然すっと冷める。
 真顔で、真摯に、篠歩は尋人を見据えた。
「『B.R.』が何者か知りたいの」



*  *  *



 『B.R.(ビーアール)』。その単語には大半の日本人が応するのではないだろうか。
「は?」
 八木尋人もそのうちの一人。しかしこれは友人の口から出た突飛な言葉に驚いたものだ。
「『B.R.』よっ、知ってるでしょ?」
 有無を云わせない口調で日辻篠歩は堅い口調で言う。その迫力に圧されて尋人は頷いた。
「そりゃ、まぁ」
 『B.R.』とは、ここ数年の間、世間様を騒がせているバンドの名前だ。
 三年程前になるだろうか。はじまりは多分有線放送だったと思う。
 街中を歩くといつのまにか耳にしていた。喫茶店に入れば気付くと耳を傾けてしまう。誰かと会っているとき、買い物の途中、食事、散歩、いつもの日常のなかで。
 気付くと耳を傾けていることに気付く、そんな歌があった。
 初めは何件かの問い合わせの電話。少しずつ噂が広まり、話題が話題を呼んで、その歌がチャートに名を列ねる頃。誰もが、誰もその姿を知らないことを知る。
 『B.R.』は正体不明。どのメディアにも姿を現さず、音だけの存在なのだ。
 演奏形態はロックバンドの基本、ボーカルとギター、その他からなる5人(推定)で、ボーカルの声は男声とも女声ともつかず、性別すら分からない。
 デビューから三年。これだけ時間が経つと、レコードをリリースする周期が読めてきて、『B.R.』は夏にだけ曲を出すことに気付く。
 その秘匿さは世間の好奇心を掻き立てていた。
 マスコミは競って正体を暴こうとし、夏が近づくとテレビで名前を聞くようにもなる。
 でも、やはり聞くのは名前とその歌だけで、誰もその姿は見つけられないまま、三年目を迎えた。
「もう、三年よ。出てきてもいい頃合いじゃない。週刊誌はガセばっかだし、ウチの業界なんて本当に目の色変えて人と金使って探してるのよっ? それこそ表沙汰にできないような手段も使ってるの。これだけ手を回しても見つからないなんてありえないわっ」
「…だから、『Blue Rose』、なんだろ」
 殆ど呆れて口も挟めなかった尋人は、気分直しに冷めたカップを口につけた。
 『Blue Rose』とは、『B.R.』のデビュー曲のタイトルである。
「落ち着いてないでよーっ」
 泣きそうな声を出されてもどうしようもない。篠歩の野望(というしかない)には呆れるしかないだろう。
「篠歩…」
「お願いっ。協力してよ、尋人」
「何考えてんだ」
「だって尋人、昔から妙なところで頭キレるし、要領いいし…」
「俺はフリーのライターで、お前はさっき言ったガセばっかの記事書いてる記者だ。一体何の…」
「ガセばっかり書いてるのは週刊誌! 私は新聞記者よっ」
「社会部のな」
「……そうだけど」
 途端に声が小さくなる篠歩に、尋人は何度目かの溜め息を深々とつく。
「まぁ、仕事じゃないのは分かったよ」
 社会部の記者に芸能欄を埋める仕事が来るとは思えない。それにこの女は仕事よりも自分の純粋な好奇心のほうに熱を向ける性格なのだ。
「そうよ」
 力強い声。
「ただ、知りたいの」
 真っ直ぐな瞳。
「…」
 そんな気性を、尋人は昔から知っていた。





■2
 ただ、知りたい。篠歩はそう言った。

「…そんなこと言っても、どーせ記事にするつもりなんだろ?」
 あれから四ヶ月。季節は変わっている。
 四ヶ月前と同じ店の中で、八木尋人はコーヒーをすすっていた。同じく、合い向かいには日辻篠歩が座っている。
「当たり前じゃないっ、同じように思ってる人は沢山いるのよっ。知りたいと思うことを伝えるのが新聞屋の仕事よっ」
 あの日と同じく力強く言う篠歩。だが。
「まぁ、それもこれも…。……見つけてから、だよな」
「だね…」
 はぁ、と篠歩も複雑な表情で溜め息をつく。
 四ヵ月。とうに夏は過ぎ、『B.R.』の三枚目のシングルも発表され相変わらずチャートを賑わせていた。『B.R.』の正体を掴むべく四方八方してきた二人だが、その尻尾さえも見つけられないまま……。
 季節はもう冬だった。
「インディーズがメジャー狙いでレコ社へ売り込んだんじゃないかって噂があるけど、あれはシロだな」
 咥え煙草で手帳をめくりながら尋人は言った。
「根拠は?」
「動いてる金だよ」
「お金?」
「そ。金。…2年目以降は前回に稼いだ金があるからわかるけど、1年目のCD製作費、CM代はまとまった金がないと無理だ。それに有線への直接売り込みはその道のプロじゃないと難しい」
 そういうもん? と篠歩は首を傾げる。まあでも、某新聞社社会部に属する篠歩には畑違いな分野だ。一方、学生時代からフリーのライターとして数々の業界を見てきた尋人とでは知識の違いが出るのは当然かもしれない。
「あとこれは重要。篠歩も覚えとけよ。ある程度大きな秘密を抱え、それを守るには金が必要だ。用途は主に口止め。『B.R.』はデビュー当時からその資本があったんだ。…結論、『B.R.』はどこかに所属している。あまり弱小じゃない、かなりの金を持ってるところにな」
「お金…っていう話なら、どこかのスポンサーがついてる、とかは?」
「スポンサーなんてものは、宣伝媒体に出資するもんだ。正体不明、ノータイアップの『B.R.』に宣伝費なんか出すもんか」
「……納得」
「レコ社の振込み口座から探すっていうのは? どうなった?」
 これは以前尋人が発案したもので、篠歩が担当していた。
 『B.R.』のCDの発売元は公になっているので、その発売元との取引相手を探ろうというのだ。
 探偵、興信所、そんな名前がつくところに依頼していた。
 一応断わっておくと、真っ当な興信所は銀行の裏情報なんかに手は出さない。それに個人を調べる場合は身内に限られるものだ。…あくまでも真っ当な興信所は、だが。
「だめ。振込み相手の社名はヒットできたらしいけどその会社がゴーストだったの。それから先は手詰まり。それにねぇ、同じ依頼が6件来たって。皆考えることは同じなのね」
 四ヵ月、何もしてこなかったわけじゃない。手足、頭をフルに動かして走り回っていたのだ。
 不思議なもので情報化社会と言える昨今でも、本当に本当に誰も知らない情報というのはネット上で探すことはできない。もしそんなところに存在するのなら、誰かがとうに暴露しているからだ。
 人と人の繋がり、身近な情報通、プロの情報屋、利用できるものは全て利用した。
 それでも、手がかり一つ出てこない。
「やっぱ無理なのかな。『B.R.』の尻尾を掴むなんて」
「泣き言いうな」
「だってー」
「…でも確かに、何らかの偶然を期待しないとこれ以上先に進めそうにないな」
 『B.R.』を探しているのは自分達だけじゃない。もっと大きな、組織立った何かも動いているはずなのに。
 世間の噂というのは本当にいい加減で、それでいて信憑性のあるものもいくつかはでている。一番有力なのは、話題にもでたインディーズ上がりではないか、ということ。実は大物ミュージシャンがお遊びで仲間内で演っているのではないか、テレビ番組の企画で後に大々的に発表しようとしているのでは、とか。ネタは尽きない。
(………)
 何かを見落としていないだろうか。
 探してもいいんだよね。
 篠歩は心のなかで、確認してしまう。
 出てこないのは知られたくないから。では、隠れているのは何故か。
 偶に、ふと不安になるときがある。
 追ってもいいんだよね?
 好きなものを、興味のあるものを、もっと知りたい。
 多分、それは、望んでもいいと……思う。





■3
「あれー。ヤギじゃーん」
 自分が呼ばれたのだ、ということは、八木尋人はすぐに気付いていた。それでも無視したい気持ちになることには、誰も責めないで欲しい。
 尋人は駅から歩いて5分のレコード屋に居た。新譜を物色しているときに背後から呼ばれたのだ。うんざりしながらも、このレコード屋が大学時代の行動範囲内であったことを思い出す。そして、背後から現れた二人組みは大学時代の同級生なのだ。こんな偶然も、ある。
「いい加減、その呼び方やめろ」
「久々に会ったのに、何よその言い草は」
 頬をふくらませて不満を言ったのは塩谷茅名、そして、
「珍しいな、ヤギが真っ昼間から活動してるなんて」
 対照的におっとり笑いかける佐藤順がそこには居た。
「何やってんの?」
「レコード屋でCD見てるのがそんなに珍しいか?」
「ヤギーっ、あんた、その性格、ぜんっぜん変わってないのねぇっ」
「おまえもな」
 全く意味のない尋人と塩谷の問答を、面白そうに見ていた佐藤は尋人の手元を覗き込んで言った。
「何、見てんだ? …『B.R.』? ヤギってこういうのも聞くんだ」
 尋人の手元には、『B.R.』の三枚目のシングルがあった。意外そうな声を返す佐藤の手に、尋人はそのCDをポイと渡す。
「まーな。……でも、どっちかっていうとこれは、今、入ってきた奴の趣味」
「え?」
 尋人が指差す先、店の出入り口に目をやる。ちょうど、スーツ姿の女性が当たりを見回しながら自動ドアをくぐったところだった。
 待ち合わせなのかキョロキョロ視線を巡らすと、やがて目的のものを見つけたのかホッとした表情を見せ早足で歩き出した。


「尋人、お待たせ」
 遅れてごめん、と日辻篠歩は頭を下げた。
「おまえ、時間通りに来たことないからな。もう慣れたよ」
「ちょっとぉ、それって酷い……、って、あれ?」
 ふと、尋人の隣に立つ人物と目が合う。
「あれ………」
 何やら懐かしさを感じたのは相手も同じようで、しばらくの沈黙の後、一番先に口を開いたのはカップルの男のほうだった。
「……ヒツジ?」
 それにつられて女のほうも、あっ、という表情を見せる。
「あー、ヒツジだーっ。やだぁ、ひっさしぶりぃ!」
 抱き付かんばかりの勢いで名前を呼ばれると、さすがに篠歩のほうも二人の名前を思い出した。
「佐藤くん? …それに塩谷っ」
 大学時代の同級生。篠歩自身、二人に会うのは数年ぶりだ。
「ちがいまーす。籍入れたんだよーあたしたち。あたしも佐藤だよん」
 手を頬に当てて、わざとらしく科をつくりポーズを取って見せる。
「うそっ、聞いてないよっ」
「ごめーん、ハガキ出そうと思ってたんだよ」
「遅いよ、もおーっ。でもおめでとーっ」
 場所もわきまえず大騒ぎしている女性陣を横目に、尋人は佐藤に話し掛けた。
「よく覚悟したなー」
「おかげさまで」
「ま。おめでと」
「ありがと」
 尋人の素直じゃない祝辞に笑いながら、佐藤はそれにしても、と続ける。
「まだヒツジとつるんでるなんて、この間会ったとき言ってなかったじゃん」
「腐れ縁だよ」
「…それって、今の質問の答えになるわけ?」
「うるせー。俺だって分かんねーんだから、ツっこむな」
 ぶはっ、と佐藤は吹き出し、その余波でくすくす笑いが込み上げてきた。しかしそれも尋人の厳しい視線に抑えられ、佐藤はさらに次の話題でごまかした。
「あー、そうそう。ヤギ、お前、最近店に来ないじゃん。リクたちがぼやいてたぞ」
「暇なくてな。…あいつらちょっとは巧くなったのかよ。この俺が実力無いヤツを記事にするわけねーだろって言っとけ」
 実はこの二人はとある店の常連で、佐藤とはそこで何回か顔を合わせていた。
「リクのとは別の日だけど、来週土曜のチケット余ってるよ。ヒツジと来れば?」
「え? なになに?」
 自分の名前が出たことに反応し篠歩が顔を出す。
「ライブハウスのチケット。ヒツジもたまにはこーいう所に顔だしなよ」
「ライブハウスー?」
「まぁあえて言うなら、席料払うだけで飲み放題、生演奏付きの喫茶店ってとこ」
「…かなり違うと思うぞ」
「まぁまぁ、忙しいなら気分直しにでも、どう?」


*  *  *


 結局、2枚分の料金と引き換えにチケットを置いて二人は去っていった。
「うまく買わされたっていう気もするけど…篠歩はよかったのか?」
「ご祝儀代わり、なんてセコいことは言わないけど。…『B.R.』のほうも煮詰まってたところだし、丁度いいんじゃない? 気分転換にはさ」
「あれから何か分かったか?」
「全然。いろいろ職権乱用もしてるんだけどね。尋人のほうは?」
「同じく、進展無し。……」
 尋人はふと思い付いたことがあり、棚から『B.R.』のCDを取り出した。顔に近づけてそのジャケットに見入る。
「なに? どうしたの?」
 篠歩も後ろから覗き込み、尋人の意図を探ろうとする。
「カノン……」
 そんな呟きが返ってきた。それなら篠歩も知っている。
 『B.R.』のジャケットにも書かれている、『B.R.』に関わる人物で唯一公開されている名だ。
「『B.R.』の作詞作曲家の名前でしょ?」
「いや…、Kanon≠チて、どういう意味なんだろうと思って」
「音楽用語じゃなかった?」
 音楽方面の知識にはあまり明るくないけど、そんな曲名を聞いたことがあるような気がする。
「なじみがあるのは英語表記のCだ。Kじゃない。ま、どっちにしろ意味はわからんけど」
「Kは何語なの?」
「ドイツ語」
「なんだ。音楽用語って、確か、ほとんどはドイツ語でしょ? 気にするところが違うと思うけど」





■4
「意外。あんた、こういう所、よく来るの?」
 店内の騒音は、すぐ隣にいる尋人にも大声を出さなければ声は届かなかった。
 先日もらったチケットの半券を片手に、篠歩は今自分がいる場所にカルチャーショックを受けていた。
「まーな。たまに知り合いが出るし。ここは結構レベルが高いから」
「へー」
 池袋駅近くで店の名は「rossi」。店内は薄暗く、対照的にステージのライトは痛いほど眩しい。一方にはバー・カウンターがある。人口密度がものすごく高くて、篠歩は息苦しさを感じた。派手に着飾った人もいれば、一人飲みに来ている人もいる。色々な種類の人間が混在する場所だということはわかった。
 演奏の音が止んだ。
 久しぶりに訪れた耳の安静に篠歩は心からほっとした。ステージの上は三人組のバンドが舞台から降りるところで、花束やプレゼントを持った女の子たちに囲まれている。
「そんなに上手だった? 今のバンド」
「ま、所詮、前座。あんなもんだろ」
 煙草に火をつける。
 こういう店の風景に自然と馴染んでいる尋人の姿を横目に、篠歩は自分の場違いさを少しだけ窮屈に感じた。二人はもう5年の付き合いになるが、篠歩は尋人がこういう店に出入りしていることを知らなかった。複雑な心境になる。
『お待たせ致しましたーっ、本日の主役、Missing Kisses≠ナすっ!』
 司会進行役なのか、派手な衣装の女性がマイクを片手に高い声で言った。それと同時に舞台袖から楽器を抱えた面々が登場する。ベース、ギター、バチを持っている人はドラム、手ぶらはボーカルだろうか。四人構成らしい。全員ラフな格好で、あまり気取った雰囲気はない。
「知ってるバンド?」
 バンド演奏が始まらなくても周囲の喧燥は相変わらず。それに負けない声量で、篠歩は隣を見上げて尋ねた。
「ああ、たまに出るよ。全員高校生だったな、確か」
「うまいの?」
「まあまあ」
「って、ちょっと待ってよ。高校生がこういう店に出入りするのってヤバいんじゃ」
 真面目くさった性格も篠歩の長所だ。それをあえて指摘せず、尋人はぷはーと煙を吐いてから言う。
「まぁ、少なからずのリスクを覚悟してでも、自己実現したい輩は居るってことさ」
 一曲目の始まりはギターのソロだった。






 篠歩の左肩に鈍痛が走ったのは、一曲目が終わろうとしている時だった。
「っ痛…」
 歌に聞き入っていたので、突然のその痛みはちょっとしたショックだった。
(なに…?)
 痛みの根元に目をやる。
 尋人の右手が、篠歩の左肩を掴んでいた。
「……尋人?」
 呼びかけのつもりで、呟いてみる。
 しかし尋人の視線はステージに固定されていた。その横顔は、…彼にしては珍しいかもしれない、驚愕にも似た表情で、目を見開いて、ステージに見入っていた。
「篠歩」
 やはり視線は動かさないまま呟く。
「え? ……なに? 煩くて聞こえない」
 周囲の歓声と、それ以上に演奏が鳴り響いているからだ。
 尋人は初めて視線を動かした。篠歩の目を見て、真顔で言う。
「……おまえ、耳悪いのか?」
「え?」
 これは聞こえた。でも意味が理解できなかった。
「ギターだよ」
「ギター…が、どうかした?」
「いつものメンバーと違う。…助っ人だ」
 そんなこと、初めてこのバンドを見た篠歩にわかるはずがない。尋人がこのバンドに対して何か思うところがあったのだ、とは気付いても、それが何なのか、篠歩には計りかねていた。大体、尋人の一連の発言には脈略が無い。
「…それが、なに? ……あっ、ちょっと! どこ行くのよっ」
 突然、尋人は背を向けた。人込みを分け入って、出入り口へと向かう。
「ちょっと待ってろ」
 そんな風に言われた気がした。やはり、周囲の騒音のせいで絶対とは言い切れないけれど。
(ギター…の人が、なに?)
 尋人の姿を追うのを諦めた篠歩はステージを振り返る。ちょうど一曲目が終わったところだった。
 観客ににこやかに手を振るボーカル、他の三人は次の曲の準備をしている。ギター担当だけ楽譜を立てているのは、なるほど助っ人だからだろう。尋人は一体、何に驚いていたのか。
「何なのよ……、一体」
 左肩が、まだ痛んでいた。





■5
「おい、今日一日ちょっと付き合え」
「……は?」
 その日。平日の朝七時の電話は開口一番にそう告げた。
 篠歩は咄嗟にその内容を掴めず、電話口で沈黙してしまう。声の主は分かっていたが、あいつがこの時間に起きているというのは、どうにも信じがたい。そしてその内容。とりあえず、何を言われたのか理解すると、
「尋人? あんた、この一週間連絡無しで一体何やってたのよ。こっちから携帯はつながらないし、この間のライブのときも一人でとっとと帰っちゃうし…聞いてる?」
 積もり積もっていた愚痴を吐いてみる。
 そもそも一週間前のライブ。あのとき尋人は、一度戻ってきたが、その後篠歩を残して帰ってしまったのだ。それ以降、連絡もつかず篠歩はイライラしていた。突然、連絡があったかと思えば早朝で、しかも内容がこれだ。愚痴を言いたくなるのも当たり前だろう。
「それらについては後で謝るよ。それよりどうなんだ、今日、出られるか?」
「わかんないわよ、そんなの」
「早く決めてくれ。今、お前のアパートの前に居る。さっさと用意しろ、すぐ出るぞ」
 は? と、今度こそ篠歩は言葉を失った。
「………一体何なの? 説明してよ」
「それも後でな。五分で支度しろ。いいな」
 ぷつん。一方的に、電話は途絶えた。
 篠歩は受話器を握る手が震えているのを自覚する。そしてその意味も、尋人に対する憤りからであることを理解する。
 がちゃんっ! と、かなりの破壊音をたてて、受話器は下ろされた。
「この…っ、マイペース男がぁっ!」
 大声を出すことで怒りを発散する。自分勝手でマイペースで無神経。そんな男だと知っているけれど、結局は付き合ってしまう自分を篠歩はわかっている。何より、そんな男だと知っていても、大抵、突き合わせているのは自分のほうだ。それから今回のような電話。
(…何かあったんだわ)
 何についてかは分からないけど、多分、そう。
 篠歩は受話器をあげ短縮ナンバー1を押すと、コール三回で出た応答に、有給願いを申し出た。


 一時間後。
「寒いよ〜。何で朝っぱらから、こんな所に突っ立ってなきゃならないわけ?」
 篠歩の住む町から電車で五〇分。ローカル線に乗り換えて三つ目の駅前。
 尋人に連れられてこんな所まで来てしまった。そしてこの場所に立ち始めてさらに一〇分。それだけで凍えてしまう季節なのに。
 学校が近くにあるのだろうか。駅からは学生服の若者が多く降りてきていた。
「……尋人」
 低い声で名前を呟く。説明を求めての呼びかけだったが、それは尋人にも伝わったらしい。
「ライブの日は悪かったな。先に帰ったのは、ちょっと調べたいことがあったんだ」
 意外にも素直に謝ったことに驚いて、篠歩はその横顔を見つめた。
「調べたいこと?」
「まぁ、それはまた後で。それより篠歩」
「…何よ」
 また、一つ逸らかされている。そのことを肝に命じつつ、尋人の発言に慎重な受け答えをした。
「一つ、確認していいか?」
「?」
 尋人は正面に立つと、いつになく真面目な顔で篠歩の目を見据える。
「俺はただお前に付き合ってきたけど、お前は『B.R.』の正体を知りたいんだよな? ただ、追いかけていたいだけじゃないんだよな?」
「尋人……?」
「それでいいんだよな」
 …すごく、突き放されたような気がした。
 でも、そう。間違ってない。尋人を付き合わせていたのは私だし、『B.R.』の正体を知りたいと言ったのも私。尋人の問い掛けの判断を迫られて然るべきなのも、私。
「………」
 ───後から思えば、ほとんど売り言葉に買い言葉で私は答えてしまったと思う。
 尋人はわざわざ、目的を見失わないよう、忠告してくれていたのに。
「……そうよ」
 握り締めた手のひらに爪が食い込んだ。
「初めに言ったわ。『B.R.』が何者か、知りたいの」

 繰り返し尋ねてはくれなかった。
 それは、たった一言の重みの証。

「よし」
 尋人は篠歩の頭に手をやって、くしゃりと髪をかきまぜた。
「……」
 言葉を返すのも忘れ、篠歩は尋人の言葉の意味を反芻する。
「……『B.R.』ね? 何か見つけたの? 今日、連れ出したのもその関係なんでしょう?」
「お前にしては鋭いな」
「尋人っ」
「慌てるなって…、…おっと」
 ごまかそうと目を逸らした尋人は、駅前の人波に視線を止めた。何かを見つけたのだ。
「……篠歩、付いてこい。いいな、何も喋るなよ」
 尋人は自分のバッグから道路地図を取り出し、前を歩き始めた。しょうがないので篠歩も渋々その後に続く。
 駅の周辺は学生の通学ラッシュ真っ最中だった。尋人は慎重な足取りで人込みに混じり、その流れに同化した。篠歩はどうにか、その背中を見失わないように付いて行く。
(『B.R.』……。何か見つけたの?)
 今日、尋人が呼び出した理由はこれだ。一体、何を……。
 尋人は、学生服を着た一団の一人、男子高校生に近づいた。
 篠歩は自分の心音が煩いほど響いているのを感じる。
(この男の子が……?)
 その男子高校生が何なのか、想像できるほど篠歩の胸中は落ち着いているわけではなかった。
「すみませーん。ちょっと聞きたいんだけど」
 がくっ、と篠歩は肩を落とした。地図を片手に申し訳なさそうに尋人は言ったのだ。
(……何だ。結局、道を尋ねたかっただけか)
 一瞬だけ、ものすごく期待してしまった篠歩は尋人の背中を睨み付けた。尋人はそんなことは意に介せず、男子高校生の反応を待つ。
 呼び止められた高校生はわざわざ立ち止まって振り返ってくれた。
「何?」
 かなり無愛想だが、どこへ行きたいの? と前向きに教えてくれる態度。いい人なのかもしれない。
 尋人は振り返った高校生の顔をじろじろ観察した。しつこいほど。
(尋人……?)
 その理解不能な態度には高校生も眉をしかめる。
「……?」
 尋人は確認していたのだ。
 そして、確信する。
 微かな笑みを浮かべると、ゆっくり、はっきりと、その台詞を口にした。
「君は『B.R.』のギタリストだ。間違いないね? 中野浩太くん」

 ───咄嗟のときに嘘が付けない。中野浩太はそんな人間だった。







3話 END
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