BlueRose 1話/2話/3話/4話/PRE-DAWN/5話/6話 |
4話 |
東京都A区。十二月二日、午前四時二三分───── はじめ、叶みゆきはそれが何の音か分からなかった。 しつこい程、鳴り続けるベル。 毎朝耳にする目覚まし時計の音とは違うし、廊下にある家の電話の音とも違う。 いつもと同じシーツの上で目を開ける。 (………) 部屋は真っ暗。朝でないことは確かだ。 起ききらない頭は回転を始めてくれない。取るべき行動を考えられない。 音は鳴り続けている。 どうやら自分の部屋の中から音がしているらしい。もう何分経っただろう。 実際は1分も無かっただろうが、みゆきには数十分にも感じられた。 (……早く止めないと、お父さん達、起きてくるなぁ…) そんな風に考えられるくらいには、頭が動き出したということだろうか。 音は鳴り続けている。 (…ああ、そうか) 携帯電話が鳴ってる。 ようやく、それを理解した。 みゆきの携帯電話はあまり鳴ることがない。 とくに冬は。というより夏以外には。 『仕事用』にと、持たせられているものだった。 「……誰?」 目をこすりながら布団をはぐ。 「寒…っ」 体が震えた。季節は冬。しかも朝方。当然の反応である。 みゆきは机の上の点滅する光に手を伸ばした。 「はい、………もしもし?」 「安納だ」 間を置かずに答えが返ってきた。 「………希玖?」 間をあけても深く考えずにみゆきは尋ねる。 「違う」 「…えっ、あっ! ……おじさんっ?」 眠気がいっぺんに吹っ飛んだ。電話の相手はnoa音楽企画事務所の社長、安納鼎だ。 慌てて混乱し続いているみゆきを無視して、安納は耳を疑うようなこと言った。 「仕事だ。至急、事務所まで来い。二時間以内にだ、わかったな」 「え……?」 部屋の時計を見ると、時刻は四時半。勿論、新聞も来てないような早朝である。 「仕事……って、『B.R.』の? だって……。…何かあったんですか?」 「朝のニュースには出る」 「…ニュース?」 「とにかく早く来い。連中を集めなきゃならん」 「連中って……」 オウム返しになってしまうのは、眠りから覚めきってないせいだけじゃない。安納は一体何を言っているのか。 みゆきが事態を把握するのには三十分の時間が必要だった。 群馬県B郡。同日、午前六時三分───── 「たっだいまー」 玄関が開く音と同時に、元気の良い声が家中に響いた。 毎朝、父親の手伝いで畑に出ている片桐家の長女が帰ってきた声である。 古い家の長い廊下の奥から母親の声がした。 「お疲れ様。朝ご飯できてるよ」 「わーい。着替えてくるね」 靴を放り投げて片桐実也子は自室へとかける。どかどかという騒々しい足音が遠ざかるのを聞いて、年頃の娘に母親は何か言いかけたが結局言葉をしまいこんだ。 「実也子、お父さんは?」 「カズおじさんと喋りこんでたよー。お酒の約束でもしてるんじゃない? あ、母さん。今日、霜降りてたよ。寒いはずだよね」 「あら、本当? もう十二月だしねぇ」 そんな風に言っても、実は実也子は自宅の冷えた廊下が嫌いでなかったりする。真冬でも裸足でうろつくのはひんやりとした床が気持ちよいからだ。 「姉ちゃん!」 居間から実也子を呼ぶ声がした。狭くない家と言っても、それなりに大声を出せば家中に聞こえる。 「俊哉? あんた母さんの手伝いちゃんとやってるの?」 姉貴風を吹かしてしまうのは、実也子が姉だから、としか言いようがない。片桐家では朝の仕事の分担が自然と決まっていて、実也子は父親の畑仕事を手伝い、俊哉は母親の家事を手伝うことになっていた。 「それどころじゃないって。ちょっと、こっち来てよ!」 「……?」 呼ばれるままに居間に入ると、俊哉はその場に立ったままテレビを凝視していた。その両手には料理が乗った皿があり、テーブルに運んでいる最中だったのだと分かる。 「…どうしたの?」 「姉ちゃん、『B.R.』のファンだって言ってなかった?」 テレビから視線を逸らさずに、俊哉は言う。 「そーよ。あんたもCD持ってるじゃない」 「ギターが見つかったって…、…テレビ出てるぜ」 テレビは朝のニュースを映し出していた。芸能ネタ? 週刊誌に載っている写真を背景に、キャスターは興奮気味にがなりたてている。 「……え?」 大抵の現実には前向きに対処する彼女でも、このときばかりは自分の目を疑い、夢かもしれない、と一瞬だけ思ってしまった。 「へー。この男、高校生だって。他のメンバーのこの後出てくるかな」 そんな弟の言葉も、耳に入ってこなかった。 神奈川県C市。同日、午前七時四十一分───── 「わかりました。すぐそちらへ向かいます。かのんさんは圭に連絡を取って下さい」 この電話に出たときの山田祐輔はコール一回をも許さなかった。電話がくるだろうと思っていた相手からの電話だった。 のちに叶みゆきが言うには、四人のなかで一番説明が短くて済んだのは祐輔だという。テレビのニュースから得られる情報を整理し、状況を把握していたのだ。 「お母さん、出かけてきます。今日は帰らないと思います」 朝食もそこそこに電話をしたり、テレビに見入ったり、息子のらしくない行儀の悪さの後の結論的発言だ。母親の反応は淡白だった。 「教室のほうは?」 「臨時休業にでもしておいてください」 「無責任ねぇ」 「返す言葉もありません」 出かける準備をしながらの返す言葉は至って義務的である。急いでいるのだろうが慌てた素振りを見せないのは憎たらしくもある。母親は義務的に返される言葉を、無視されたのだと歪曲解釈した。少しの報復を試みる。その効果を期待できるだけの駒は持っていた。 「今日、沙耶ちゃんが来るって言ってなかった?」 「……」 ピタっ、と祐輔の動きが止まった。背中を見せているが、これだけでも明らかな反応を示したことになる。 「忘れてた?」 ふふん、と勝ち誇った笑み。 しかし振り返った祐輔は冷静そのもの。誰に似たのかしら、と、母親は自分の伴侶を恨んだ。 「適当に言っておいてください。沙耶には後で僕のほうから連絡を入れます」 「フラれるわよ、そのうち」 母親の言葉に、祐輔は表情を崩し、苦笑した。 「それは困りますね」 彼にしては、自信のなさそうなことを言う。 「彼女より大事なこと?」 玄関を出る息子にしつこく声をかける。すでにノブを回したところだったので、返事はないかもしれないと思ったが、祐輔はわざわざ振り返って答えた。 思わせぶりな捨て台詞ではある。 「同じくらいには、大切ですよ」 愛知県D市。午前八時四五分───── バンッ 「親父っ!」 「おわっ」 突然の来客に驚き、小林レコード店の店員・佐川省吾は入荷したばかりのCDを床にぶちまけてしまった。時間は九時前、もちろん店は準備中である。 「なんだ、圭くんかぁ。驚かせないでくれよ」 「悪ィ、省吾。急いでるんだ、親父どこっ?」 「店長なら奥に…」 「さんきゅ!」 最後まで聞かずに小林圭は店の奥へと走っていった。 名古屋市内の片隅に、その小さなレコード屋はある。 「親父っ、金貸せっ」 ゴツッ ぎゃっ、と悲鳴をあげ、圭はその場に伏した。間髪入れずに殴られたからだ。 「……っ」 頭をさすりながら上体を上げると、そこには穏やかな笑顔の年配男性がエプロン姿で立っている。両手には棚卸しのレコードが抱えられていた。 「それが人にものを頼む態度か、圭」 笑顔で言う。小林修、四八歳。圭の父親である。 「急いでんだよっ」 「…おまえ、朝、俺より先に家を出たよな。遅刻ギリギリで、朝メシも食わずに」 「朝、ニュースを見る暇があったら、その場で同じこと言ったよ」 「この間、携帯電話買い換えると言うんで、まとまった金やったろう」 「……」 それが問題だった。 圭は朝、学校に着いてからクラスの女子が今朝のトップニュースを話題にしているのを耳にした。担任教師と入れ違いに教室を飛び出してきたのだ。 多分、東京の叶みゆきは圭の携帯電話に連絡しただろう。しかしつい半月前、圭は携帯電話を買い換え、そのナンバーは変更されていた。みゆきの慌てふためく姿が目に見えるようだ。 「で? 何に急いでるんだ?」 「東京…の、じーちゃんの所、行ってくる」 思わず目を逸らしてしまった。嘘ではないかもしれないが、この辺り、圭も悪党にはなれない。 「何しに?」 「急用なんだよっ」 「理由になってない」 「金は後で返すってっ!」 「論点がずれてる」 「親父ぃ〜」 「泣き落としもだめ」 「お金ください」 「開き直りもだめ」 「…っ」 素気無い父親の対応に苛立ちが爆発した。 「仲間が困ってんの放っておけるかっ!」 店中に響く大声だった。 佐川省吾にもきっと聞えただろう。 圭は父親を睨み付けていた。すると父親はポケットから財布を取り出し、半ば投げ出すように圭に現金を手渡した。 「ほれ、とりあえず五万。無駄遣いするなよ」 「さんきゅーっ、向こう着いたら連絡するからっ」 手の平返したような息子の態度に呆れつつも、修は手を振って見送った。 静かになった室内を奥に進み、修はテレビをつけた。いくつかチャンネルを回して、ニュース番組のところでリモコンを置いた。 「……。ふーん、仲間ねぇ」 窓の向こう側を、圭が走っていくところだった。 新潟県E郡。午前九時五分───── 「長壁っ」 新潟市内、駅前のコンビニ入り口で自分の名を呼ぶ声があった。 通勤通学ラッシュも終えての駅周辺。人波は落ち着きを取り戻したと言っても地方都市であるのだから侮ってはいけない。 「ここ、ここ。ご無沙汰ぁ」 スーツ姿で大きく手を振る人影が近寄る。長壁知己はその人物を認識すると、表情が緩み手を振り返した。 「よ。久しぶり」 横田悟は大学時代の同級生。特に仲が良かったわけでもないが、今でも挨拶を交わすのは彼くらいのものだ。何せ、知己は大学をたった一年で退学し、この土地を離れていたので知り合いが極端に少ない。 横田はスーツ姿が板についており、社会人としての年季が感じられた。 「これから会社か?」 「うち、フレックスだから。そういうお前は相変わらず根無し草生活か」 「そういうこと」 知己は今年三十四歳になるが、結婚もしてなければ定職にも就いていない。そのことについて本人も深く考えることがあるが、特に解決案は出されていなかった。幸いにも雑学と器用さは並以上有り、特技はその日暮らしで食うには困らなかった。 「おまえん家の母ちゃん、元気か? 俺、たまに店に行くんだぜ」 「元気も元気。今朝も俺がこれから東京へ行くって言ったら、"クビだ"って息巻いてた」 知己の家は酒屋を営んでいるのだが、どうやら店長である母親は、どうしても知己に後を継がせたくないらしい。しかも、この歳になっても落ち着かずにいる知己を家から追い出したいようなのだ。今朝、仕事を休むなんて言ったものだから、ここぞとばかりにクビだ、なんて言い出したのだろう。 横田はからからと笑った。 「でも、東京行くって? あれ? まだやってるんだっけ?」 「……何年前の話してるんだよ。確か、こっちに帰ってきたとき、挨拶に行ったよな? 七年前の話だけど」 かなり記憶力を疑う声で言う。 「悪ぃ、悪ぃ。だって、長壁がこっちに帰ってきたことより、学校をやめていったことのほうが印象が強いんだよ。あの時の教授との会話、一部で語り種になってるんだぜ? 大学辞めてまで始めたことを、簡単にやめた、って言われてもさー」 「……」 懐かしい話を持ち出され、知己は感情を表さないためには黙るしかなかった。 長壁知己はかなり小器用な人間で、運動や勉強もそれなりの成績を収めたし、人付き合いも良く、何が起っても結構簡単に解決してきた。中学、高校時代は大したつまづきもなく過ごしてきた。 そして気が付けば幼いころからの夢を、二十代前半で叶えてしまっていた。その後七年間、その夢を満喫して、やめた。その後は今に至る。 ──早くに夢を叶えてしまったら、その後は何をして生きろというのだろう。 「で? 東京へは何しにいくわけ?」 「『B.R.』のおっかけ、って言ったら笑うか?」 真顔で、知己は言った。 「ああ、今、ニュースになってるヤツね。俺も『B.R.』好きだよ。家のやつもファンだしさ。…あれ? おまえって、そーいう音楽聴くやつだったっけ?」 確かに、昔から知己は音楽好きな人間としても知られていたが、極端にジャンルが偏っていたはずだが。 「宗旨変えしたんだよ」 そう言って、複雑な表情で笑った。 東京都F区───── 「…わりぃ、バレちまった」 テレビカメラの前で、中野浩太は言った。 昨日の夜遅く、一本の電話があった。今日発売の週刊誌にスクープが載る、という内容である。 電話の相手は最近知り合ったフリーライター。今のうちに隠れるなりして騒動に巻き込まれるなと言ったが、既に手後れであることを、自宅前に停まった車を見て浩太は悟っていた。 その夜のうちに浩太がとった行動は、家族に事情を話し、安納鼎に連絡する、それだけだった。 『B.R.』姿現す。 そんな見出しの記事が発表され、テレビでも紹介されている。 『B.R.』の概略(人気の程が少々誇張して書かれているようにも思える)、そして今まで明かされなかったメンバーの一人、中野浩太について。 ただ、これは確証めいたものがまるで無く、週刊誌にありがちな「決め付け記事」であり、「『B.R.』のギターは中野浩太(かもしれない)」という内容でしかなかった。それでも、世間を騒がせるには十分なものである。 どこから調べたのか浩太の学校や年齢、生年月日、ライブハウスで助っ人として演奏したバンド名まで書かれていた。ご丁寧に写真まで。一体、どこから入手したのだろう。 特に取り上げられていた点は、浩太が普通の高校生であることだった。 今までも『B.R.』について信憑性があるものないもの、数々の噂が世間に流れていた。マイナーインディーズあがりではないか、大御所がおふざけでやっているのではないか、TVの企画モノ、等など。中には突拍子もないものもあったが、それでも、普通の高校生が…、という意見は無かったのである。 日も明ける頃になると、浩太の家の前には報道陣が集まり始めた。一人、二人と数は増え、七時にもなると十人を超す人垣ができていた。寒いのにご苦労なことだ。その様子はテレビでも映された。 ちなみに浩太の家はオートロック式のマンション六階で、報道陣は上がってこられない。何回かインターフォンが鳴ったが、家族の協力により居留守を使っていた。もっとも、当然のようにバレているのだろうけど。マスコミ陣は降りてくるマンションの住人を捕まえては中野浩太について尋ねていた。大した近所付き合いもないのに、それっぽく答えられているあたりは笑ってしまう。 浩太の家族は意外と冷静で、特に兄は近所が映っているテレビを面白そうに見ていた。 「学校サボって何やってるかと思えば、コータもやることがでかいねぇ」 「サボりは関係無いって。夏休み中しかやってないんだから」 そっけなく答えておいて、浩太は腕の時計に目を落とした。 (……) 約束の時間にはかなり早いが、マスコミを撒く逃走経路を考えると、そろそろ家を出たほうがいいかもしれない。 「兄貴、俺、出かけてくるから」 「どこ?」 あの中、かいくぐるのか? と付け足された。 「学校じゃないことは確かだよ」 コートを羽織って家を出る。 人影のないマンションの廊下を歩く。いつも通りの景色。いつも通りの生活。 いつもの生活が崩れてしまったとは思わない。まだ、自分の周囲には何の変化もないから。どう崩れるのだろう。何が変わってしまうんだろう。自分たちはどう変わっていくのだろう。 それは恐怖でもある。 『B.R.』としてギターをやると決めた。もう二年半前のことだ。 当時、浩太は高校一年生だった。その頃にはすでに友達とバンド活動をしていて、表現の場に不自由はなかったはずなのに、『B.R.』に参加した。 (まぁ、俺らがあの日集められたのはサギに近かったけど) 年齢差を感じさせない長壁知己。小生意気な小林圭。初対面から馴れ馴れしかった片桐実也子。笑顔がくえない山田祐輔。 変な奴らだと思った。年齢もばらばら、住んでいる所もまるで違う。 Kanonの曲に集った自分達。 その上、彼らの音は驚くほど心地よくて。 すぐに意気投合して、部屋を借りて夜通しセッションしていた。ボーカルの圭が、喉の疲労を訴えるまで。 『『B.R.』のこと、引き受けてもらえるかい?』 『やるっ!』 全員、一緒に答えていた。 安納の行動は素早く、その夏の間に『B.R.』のデビュー・シングルを発表するまでに漕ぎ着けた。 自分たちの音楽を数々のメディアで聴く、というのは不思議な体験だった。 一年に一度、それだけの活動。皆とうまく付き合えているのは、たまに会うだけの自分たちはお互いの悪いところが見えないからだと思うこともある。『B.R.』の歌が世間で騒がれているのも、正直、悪い気はしない。 それらのこと、良くも悪くもも含めて、楽しいからやってる。浩太はそう思う。 ご大層な理由なんかない。 ただ、それだけのことなんだ。 歩く速度が落ちないように意識して、浩太はマンションを出た。 予想通り、浩太の姿を見つけた報道陣が駆け寄ってくる。その勢いは予想以上のもので、人垣に阻まれた浩太が前に進むためには根性が必要になった。 「中野くんっ、他のメンバーは誰なのっ?」 「ご家族の方にも秘密だったんですか?」 フラッシュが四方でたかれた。 「どこかに所属してるの?」 「お友達は何てっ?」 「発起人は誰なんですか?」 個性の無い質問。それは仕方の無いことかもしれない。十を知りたいのに一も知らない者は一から尋ねるものだ。 一般人の中野浩太であるが、このような質問に返すべき言葉は安納鼎から教えられていた。 「ノーコメントです」 通りにはあらかじめ呼んでおいたタクシーが停まっていた。報道陣に揉まれながらも浩太はそれに乗り込んだ。それでもマイクを向けてくるつわものも居る。いくつも質問が投げられている。一緒にタクシーに乗り込んでくるんじゃないかと思われるほどの勢いだった。「いい加減にしろっ」とキレそうになったが、そうしたらそれで今度は何をニュースのネタにされるか分からない。その辺りのことも安納から教わっていたので浩太は耐えた。 運転手に「締めてください」と言う。 「中野くんっ」 しつこい。 「3年もの間、世間を騙してきたことについてはどう思いますか?」 パタン、とドアがしまった。 タクシーは走り出す。 もう安心だ。しかし。 浩太は運転手に行き先を告げるのも忘れた。ただ、その、最後の言葉が耳を離れなかった。 「…………は?」 浩太は自問する。 世間を騙してきたことについてはどう思いますか? 「……なんだよ、それ」 * * * 二年半前─── 『契約書は必要ないだろう? どの書類にも君達の名前が残ることはない』 あの日、ブラインドが掛かる窓を背に、安納鼎はそう言った。 中野浩太、小林圭、片桐実也子、山田祐輔、長壁知己。五人が三度目に集まった日、そこから全ては始まる。 叶みゆき。彼女は企画側の人間だ。安納の右側に控え、何故か気まずい表情で視線を伏せていた。 安納が言う通り、noa音楽企画のどの書類にも、五人の名前は記されていない。それぞれの連絡先は叶みゆきしか知らないし、事務所側が知っていることと言えば五人の本名くらいだ。 『"Kanon"の曲をヒットさせる自信はある。それを損なわせない腕を持つ演奏者を集めたつもりだ。宜しく頼むよ』 この時点で"Kanon"の曲はいくつか聴かされていた。そしてお互いの音も聴きあっていた。 『一年に一度、正体不明、全てのプロフィールを隠したアーティスト。その隠れた部分を人は知りたくなる』 『あの…っ』 片桐実也子だった。 『…絶対、私たちのことがバレるっていうこと、ないんですよね? 本当に正体不明のまま、カノンの曲を演らせてもらえるんですよね?』 『素性を明かしたくないのか?』 『……』 肯定の沈黙だった。 『僕も、名前や顔が出るようなことがあるのは困ります』 『同じく』 山田祐輔、長壁知己も実也子の意見に同意する。実也子のフォローに聞こえなくもなかった。 不安がる実也子に安納は言葉を添えた。 『そのことについてはこちらが言い出したことだし、君らの意見を尊重するつもりだ。それを覆すことはない』 そう、あの時は。 近い将来何が起るかなんて想像できなかった。 こんなことが起るなんて、安納だって考えていなかったはずだ。 『年寄りは心配性だね。なっ? 浩太』 『呼び付けにすんなっ』 『年寄り…って、私、まだ十代なんだけどなぁ』 『片桐さん…、それ言ったらこっちの立つ瀬がないですよ』 『俺は年寄り組でいいよ。事実、そーだし』 『んじゃ、年上三人組。そんなに気にすることー?』 安納との契約内容は納得済みだったはずだ。なのにしつこく確認するなんて。 『…えーと』 実也子は言葉に詰まる。 『変に目立つのは柄じゃないんですよ。小林くん』 『そーいうこと』 そう言って、笑っていた。 * * * (……怒ってるだろうな…あいつら) はあ、と大きな溜め息をついても、息苦しい嫌悪感は少しも軽くならない。 胸を締め付ける感情がある。苦い。すごく不安になる。思わず腕を壁に叩きつけたくなる。 不安に駈られる。 中野浩太は品川の某ホテルの廊下を歩いていた。変装用の眼鏡と帽子は、似合っていない、という域を超えて怪しい人にしか見えなかった。 浩太は何度目かの溜め息をついた。 二年半前。『B.R.』結成当時、『B.R.』という名と共に自らの名前も知名度が上がってしまうのを恐れたのは実也子だ。そして祐輔と知己。当時、浩太は高校一年だったが、何か事情があるのだろうと推測するくらいはできた。事情を尋ねるとなかったのも、知られたくなさそうだったからだ。特に実也子は顕著で、事務所やスタジオに出入りする際に、『B.R.』の内部情報が漏れないよう人一倍気を遣っていた。 今回、不本意とはいえ自分の不注意で『B.R.』がこんな風に世間で騒がれることになってしまった。 浩太は駄目押しの溜め息をつく。 「………。怒ってるだろーな、あいつら」 小さく、呟いた。 コンコン。 1002室のドアを叩いた。 「どちらさまですか」 内側から叶みゆきの緊張が伝わる声がした。 (あいつも来てるんだな。……当然だけど) 「俺。中野」 答えてからしばらくしてドアが開かれた。 「浩太さん…」 「よお」 心配そうな顔をするみゆきにいつも通りの言葉をかけた。いつも通りと言っても彼女と会うのも五ヵ月ぶりだ。 マスコミが中野浩太について騒ぎ始めてから、初めて安納たちと顔を合わせることになる。マスコミはまだ、『B.R.』のバックにnoa音楽企画が絡んでいることを知らないので、こうしてひっそりとホテルの会議室で落ち合うことになったのだ。 「中野っ!」 (えっ?) 予想外の人物の声に浩太は眼を見開いた。走り寄る人物はそのまま浩太の腕にしがみつく。その勢いで浩太は背後の壁に押し付けられた。 「な……っ、ミヤ? どうしてここにっ」 予想に反して、安納鼎はそこには居なかった。体当たりしてきたのは片桐美也子だ。しかも室内には山田祐輔と長壁知己まで居た。いつも一年ぶりに夏に会うときと同じ、その姿に少しの違和感を覚えるのは五ヶ月という時の流れのせいだろう。 でも、性格はそう簡単には変わらない。 「馬鹿言わないでっ! 朝っぱらから、あんなニュース見てじっとしてられるわけないでしょおっ!」 「実也子…、落ち着けって」 「ここに来てからずっとこんな調子なんですよ」 知己は実也子をなだめ、祐輔は浩太に苦笑を見せた。実也子はそんな祐輔に抗議する。 「だってっ! あのリポーターの人、中野にあんなこと言うなんて許せないよっ。あっちは騙されて楽しんでるくせにさっ」 「実也子さんにしては俗世間的な意見ですね」 「ちょっと祐輔っ、それ失礼だよ」 「だから落ち着けっつーの」 世間を騙してきたことについてはどう思いますか? 些細な、一言ではある。 しかし浩太を悩ませるのには十分な一言だった。 「────」 浩太は咄嗟に、実也子に尋ねようとした疑問を飲み込んだ。口に出さなかった。 子供っぽい質問だと思ったから。 「大変だったな、浩太」 「ここに来るまで大丈夫でした?」 「…あ、ああ」 知己と祐輔の労りの言葉にぎこちない返事を返す。いつも通りの各個性の対応に少しだけ驚いたのだ。 みゆきがコーヒーをいれてくれて、浩太は一息つくことができた。 「…圭は?」 「こちらに向かってる途中です」 祐輔が答える。 「かのん、社長は?」 「えっ、あ…朝はこちらに居ましたけど…、仕事があるとかで外出しています。…そろそろ戻って来ると思います」 「そっか…」 浩太は目を伏せて少しだけ沈黙したが、やがて意を決したように顔を上げた。 「ごめん。迷惑かけて」 とりあえず、言いたかったこと。 「おまえのせいじゃないだろ」 知己は言う。他の二人も同じ思いのようだ。 しかし浩太はすぐ反論した。 「俺のせいだよ。簡単に否定するな。…今回のことは、謝らせてくれ」 ゆっくりと、頭を下げた。 実也子は何か言おうとしたが祐輔に遮られた。 (…多分、このままでは騒ぎは収まらない) それは浩太の見解でもある。自分だけでなく皆、そしてその周囲の人にも、迷惑がかかるのは免れないことだ。それが全て自分のせいであることもわかっている。 「じゃ、言い方を変えましょうか」 笑みを含んだ声で祐輔が人差し指を出して提案した。 「浩太、"気にしないでください"」 「え?」 「僕達の誰でも、同じことを巻き起こす可能性はあったわけですから」 「そ、だな」 「そーよっ! それより今後のことを考えなきゃ」 知己と実也子も賛同して、場の雰囲気が盛り上がる。 さらに。 「わるーい、遅れたー」 いつのまにノックがあったのか、みゆきが開けたドアから六人目の人物が表れた。 小林圭は部屋を見回しながらコートを脱ぐ。 「あれっ。俺がラスト? 悪ィ。あ、かのん、連絡してくれたんだろ? ごめんな、繋がらなくて」 「圭さん、お家のほうには何て? 今日は学校もあったんじゃないんですか?」 企画側の人間としては黙っていられないのだろう、みゆきが心配そうに尋ねた。 「学校はともかく、家には言ってきたから大丈夫。まぁ、事情説明はしてないけどさ。よぉ、久しぶり」 浩太たちに向かって手を振る。 「わーい、圭ちゃん、五ヶ月ぶりだねーっ」 「お久しぶりです」 「よぉ」 実也子、祐輔、知己ともう一人、浩太は圭に近寄り真面目な顔で、 「圭、悪かったな。今回は」 と言った。 ふと、圭は笑ったようだった。 「別にいいよ。こうなってみると、今までバレなかったのも不思議な感じもするしさ。あ、それより浩太。テレビ映りいいじゃん。実物より」 「おーまーえーはーっ」 珍しく人が殊勝な態度をとっているというのに。しかも「実物より」にアクセントを付けるものだから、その言葉は喧嘩を売っているとしか思えない。圭は浩太の手が出るのを予測して逃げた。 「待てっ! こらっ」 結局、いつもの調子の二人に皆笑い出した。知己、祐輔、実也子の三人はふと目が合って、もう一度笑った。 みゆきも、そんな五人を見て微笑んでいた。 「…あ」 突然、トーンの落ちた声を出したのは実也子だった。 「?」 「……どうしよう、すごくショックだよー」 頭を抱えてその場に座り込む。深刻というわけではないようだが、受けているショックは演技だけではないようだ。 「ミヤ?」 「…だって、圭ちゃん」 え? 俺? と圭は自分を指差す。 「圭ちゃん、私より背が高くなってる…」 沈黙。 実也子以外のメンバーは目を合わせた。 そして次に圭の頭部に目をやる。確かに、夏場に会ったときより背が高くなっているようだ。実也子より大きいようにも見える。 「ミヤ、あのなぁ…」 「圭って十五だっけ? そりゃ、大きくもなるだろ」 「成長期ですからね」 「それってショックなことなのか?」 座り込んでいる実也子は男どもの言葉を頭に受け、微かに笑ったようだった。 「皆には複雑な乙女心はわかんないよー、だ」 ぷん、とそっぽを向く素振りをする。 乙女心ねぇ、と誰かが苦笑した。 * * * ノックが鳴った。 一斉に全員が沈黙した。次に現れるべき人物はわかっているからだ。 皆の視線に促され、みゆきがドアを開けにいく。ゆっくりとドアが開かれ、その向こう側からはスーツ姿の安納鼎が現れた。 「…全員、揃ってるな」 その表情は少しだけ疲労の色が表れており、本人も機嫌が悪そうに見える。こんな事態ではそれも当たり前だろう。安納が会議机についたので、メンバーはそれぞれ近くの椅子に腰を下ろした。 マスコミが『B.R.』について騒ぎ始めたのは昨日の深夜。スクープをトップに飾った雑誌が業界に出回ったのがきっかけだ。時を同じくして浩太もそのことを知らされる。その浩太から、安納に連絡がいった。 記事が出回る前に抑えるには時が遅すぎた。 幸い、『B.R.』の裏にnoa音楽企画がいることはバレていないので安納がマスコミに曝されることは免れている。しかしそれも時間の問題でしかない。 「外は大した騒ぎだな」 溜め息とともに安納は言う。浩太はそれを嫌みと受け取ったのか、申し訳ありません、と頭を下げた。 「いや、今回のことはこちらの手落ちでもある。正体不明を装うのも潮時だった、と思うよ」 本音かどうかは計り兼ねるが、浩太個人をどうこう言うつもりはないようだ。 そんなことよりも、今考えるべきことは。 「では、これからの事だ」 安納の言葉に空気が緊張した。 「まずは事務所側から君達への要求だ。全員、マスコミの前に出てもらう」 「社長っ?」 それぞれが驚きの声をあげた。もちろん、それには批判的な声が含まれている。 「それ、約束が違いますよね」 すかさず祐輔が厳しい声を返した。その反応の良さはもしかしたら安納の言葉を予測していたのかもしれない。 「祐輔の言う通りよっ。何があっても私たちの名前が出ることはないって、言ってたじゃないですか」 「ほとぼりが冷めるまで大人しくしていれば済むことでしょう?」 実也子、そして知己も反論を返した。 三人は初めから、自分たちの名前が出るのを嫌がっていた。だから浩太は、今回のことで三人が自分を責めないことを意外に思ったのだ。知己たちのなかで、その確執は消えたのかとも思った。しかしそれは思い違いでしかなかった。 「ここまで世間を騒がせておいて、姿を現さないというのは許してもらえない」 安納の言葉は、業界のことに疎い五人には大した理由には聞えなかった。 「でも…」 「逃がしてもらえない、というほうが正しいかな」 このまま大人しくしていて、うやむやのうちに騒ぎが収まっても、このネタを追い続ける少数派は必ず存在する。彼らに見張られている中では夏に集まることもできなくなってしまう。コソコソと嗅ぎ立てられ事実を歪曲した記事が出回るよりは、というのが安納の考えだろう。 「でも社長。マスコミの前に出たら、俺らどうなるわけ? 俺らはフツーの一般人なわけだし。その後の一騒動は仕方ないとしても、『B.R.』の活動だって、例年通りにはいかなくなるだろ?」 一同の中で、一番落ち着いているのは圭かもしれない。穿ったことを言う。 「小林くんの言う通り、君達が騒動に巻き込まれるのは避けようがないな。それぞれの地元のほうにも報道陣が押しかけるだろう」 「周囲の人にまで迷惑かけろって言うんですかっ? 冗談じゃないですよ」 「有名税ってやつですか? そんなもの、払わなければならないのは、かなり不本意です」 祐輔と知己、二人は比較的落ち着いているように見えるが、不機嫌さを露にした物言いはいつもの彼らではなかった。 安納は指を組み、少しの間考える。 「……」 安納はあえて言わなかったのだが、彼ら五人は分かっていなかった。 自分たちのしてきたことの大きさを。 自分たちの音楽を、一体、何万人が聴いたのかなんて、彼らは知らないのだろう。レコード会社に数千を超える問い合わせがあったことも。シングル一枚に億単位の売り上げがあることも。 彼らは自分たちも『B.R.』のファンだと言って笑っているが、同じように『B.R.』を好きだという熱狂的なファンが日本中にいることを、考えたことがないのだろうか。 「…どうしてもというのなら、中野くん以外は代理人を用意してもいい」 打開策とも言える案を安納は提示した。 「どういう意味?」 「顔を知られてしまった中野くん以外のメンバー、対マスコミ用の『B.R.』のメンバーはこちらで別の人間を雇ってもいい、という意味だ。もちろん、これから先の音作りに関しては、変わらず君達にしてもらうつもりだが」 「駄目っ!」 頭ごなしに否定した声があった。 「実也子?」 周囲が驚いて彼女を振り返る。実也子自身、自分が叫んだことに驚いているようだった。 「あ…、ごめんなさい。…あの、でも、私は嫌ですっ! 他の人間に中野の仲間を名乗らせるのも。他の人間に『B.R.』を名乗らせるのもっ!」 勢いづいた言葉は止まらなかった。 「以前、社長は私たちのことを必要以上のプライドがない≠チて言ったけど、……でも、私は、これだけは譲りたくありませんっ」 なけなしの。つまらないことかもしれないけれど、譲れないプライド。 実也子は大声を出した反動で足の力が抜けたが、知己がその肩を支えた。 「話にならないな」 安納の厳しい声が響いた。 誰も返事を返せなかった。 「社長」 知己だ。 「なんだ?」 「今回の件は急過ぎて、俺達も意見がまとまっていません。少し考える時間をください。…多分、社長の言う通りにせざるを得ないでしょうが」 「……わかった。とりあえず明後日は世間を落ち着かせる為にも、私と中野くんで記者会見を行う。その二週間後に『B.R.』を発表させる。それが今ここにいる君達か、それとも別の人間かは君達の返答しだいだ」 ガタン、と派手な音をたてて立ち上がり、安納は部屋を立ち去ろうとする。その際、みゆきに視線を投げ、付いてくるように示した。 二人が退出した室内に沈黙が訪れた。 しばらく誰も、口を開こうとしなかった。 がたん、と椅子が鳴った。 「…ごめん、私もちょっと」 実也子は控えめな声を出すと、皆に顔を見せないように、逃げるようにドアから出ていった。 すると、浩太、圭、祐輔の視線が知己に集中する。無言の発言はとても分かりやすいもので、知己は、 「……わかったよ」 と言うと実也子の後を追った。 「浩太。顔が緩んでますよ」 「……っ」 意地悪い祐輔に、浩太は口元を手で隠して睨み返したが効果は薄かった。 しかし思いの外、祐輔は優しい笑顔を見せる。 「実也子さんの言葉、嬉しかったんでしょう?」 祐輔のその言葉は間違いなく図星であったけれども悔しくはなかった。祐輔も同じように感じたのだと気付くと嬉しくなった。 「……ああ。俺は今回、皆に迷惑かけて見捨てられるのが怖かったんだ。いや、迷惑はかけてるんだけどさ」 この部屋に入ってきたとき。皆のいつも通りの態度と、自分を心配して駆けつけてくれたこと。とても嬉しかった。 怒ってないのか? そんな疑問も、いらなくなる程に。 圭は室内の給湯所を漁って、食料を物色している。「インスタントしかねーけど、日本茶でいいかー?」と声をかけてくる。それに手を振りながら。 「……祐輔」 「?」 「俺はやっぱり、こいつらと続けていきたいと思うんだけど。…迷惑?」 「何言ってるんですか」 本気で呆れられた声が返ってきた。 「そう思ってない人が、僕たちの中に居ると思ってるんですか?」 「実也子」 ホテルの廊下の片隅で、知己は実也子を捕まえた。往生際悪く逃げようとするがそれを許す知己ではない。 先程大声を出したことで気が高ぶったのか、実也子の目には涙が浮かんでいた。知己の声にも答えない。これは気を抜くと泣き出してしまいそうだったからだ。 「実也子…」 「ごめん。あはは、…私、馬鹿なこと言っちゃったねえ。矛盾ばっかりで…、社長も呆れただろーなー」 「おい」 「皆もっ! 私一人、勝手なこと主張しちゃって。怒ってるかなぁ? 謝らなきゃ…」 混乱しつつも笑顔を見せようとする実也子の腕を、知己は強く掴んだ。 「っ痛…」 「落ち着けって! ……謝る必要はない。皆、同じこと思ってるから」 実際、先ほど実也子が社長に主張した言葉には知己も同じ思いだし、他のメンバーもそれは変わらないだろう。この程度の予測はそう難しくはない。しかし、どうも片桐実也子という人間はその辺の直感が鈍いように思える。その直感力を養う「人付き合い」というものには、誰よりも経験が有りそうに見えるのに。 「……皆?」 知己の顔を見上げて尋ねる。 「ああ」 「本当に?」 「しつこい」 どん、と実也子は知己の胸を叩いた。 「じゃあ、どうして口にしないのっ?」 「は?」 突然怒り出した実也子の感情に、知己は付いていけなかった。そう、実也子は怒っていた。 ただ我慢していた涙が溢れてきてしまい、結局実也子は視線を外して続きを口にする。 「皆、そう。圭ちゃんは変にスレてるし、浩太は柄でもないのに二枚目ぶってるし、祐輔は自分の考えてることは最後まで言わない。長さんだって、大切なことは口にしてくれないじゃないっ! いつも、そう。……馬鹿みたい…っ、私」 例えば夏に再会するときも。 実也子はいつもワクワクしながら、走って集合場所に来る。毎年、一番はじめに。その後の皆を待つ時間も楽しいし、会えたときは嬉しいものだけど、時々不安になる。 皆も同じように、楽しかったり嬉しかったり、思ってくれているんだろうか。 「私は祐輔や長さんと違って、口にしてくんなきゃ分かんないの!」 強要できるわけないと知っているけれど。 「皆が『B.R.』を続けたいのか、そうでないのかとか、ちゃんと言ってくれないと分からないよ」 実也子の言葉は知己に言わせれば、どうして分からない? となる。祐輔も圭も浩太も同じ様に『B.R.』を楽しんでいるし、お互いの気持ちも分かっている。だから安納に対して堂々と、五人の総意として発言できるのだ。 「…あいつらの性格はわかってるじゃないか。自分の意見を暴露する奴等じゃないだろ?」 「それじゃあ、私が損するだけじゃん〜」 半泣き状態で知己の腕に擦り寄った。知己は溜め息を一つ。ぽん、と実也子の頭に手を置いて言った。 「おまえの言葉は俺達の気持ちを確認させてくれてる。…大丈夫、俺達はそれぞれ『B.R.』を好きで、楽しんできたし、これからも続けていきたいと思ってるよ」 五人を置いて会議室を出た安納とみゆきは、事務所に戻る為、待たせていた車に乗り込んだところだった。 「社長…」 恐る恐る、みゆきは安納に声をかけた。 「何だ」 キツい物言いに一瞬みゆきは言葉を飲み込んだが、手のひらを握って思い切って口を開いた。 「今回のこと……、記者会見が無事に済んだとして、そうしたらその後、どうするおつもりなんですか」 「何が」 「勿論、『B.R.』についてです」 安納は窓の外に目をやり、遠くを流れる建物を目で追いかけた。 「それはあいつら次第だろう。続けるつもりなら今まで通り…まぁ、仕事量は増えるだろうがな。…万が一『B.R.』が解散ということになっても、私は別の器に「Kanon」の曲をやってもらうつもりだ」 「……」 みゆきは眉をしかめて、うつむいた。続けるべき言葉はなかった。 その日。 会場に集まった報道陣は約300人。 と、noa音楽企画社長・安納鼎。 ゴネていたが、結局安納に引きずられてきた中野浩太。 二人が用意された席についてからもう五分、カメラのフラッシュは光りつづけて止むことがなかった。 写真なんかこの二日で腐るほど撮っただろうが、フィルムの無駄。などと呑気にも思ってしまう。 「…随分、落ち着いてるんだな」 苦笑混じりに小声で、隣から安納が声をかけた。 「この二日で、芸能人ヅラが板に付いたんですかね」 失笑混じりに言ったが安納には無視された。あっさり別の質問をしてくる。 「『B.R.』の方針は決まったか?」 「…まだですよ」 本当に、最大の問題はそこだから。今日、こんなことで慌ててるわけにはいかない。 別室には叶みゆきがいて、他のメンバーは今ごろ帰りの電車の中だ。それぞれ身内に事情を話す為に家に帰る。 『B.R.』のこと。今までのこと。現在のこと。これからのこと。 これからのこと。 皆の意見をまとめるには、考える材料が少なすぎる。 ただ一つ。皆との別れ際に安納が言った一言。 ───君達はこれからプロとしてやっていく気があるのか? 誰もが無言のまま、答えられなかった。 誰も考えたことがなかった。 それを言うなら、今の立場は何と言うのだろう。確かに、五人は『B.R.』の仕事で食べているわけではないので、プロとは言わないだろう。それ以前に五人は仕事だなんて思っていないのだ。 プロとしてやっていく気があるか? 楽しい夢から現実へと、起こされた気分だった。 「この度は、世間をお騒がせしたこと、心よりお詫び申し上げます」 安納の低い声がスピーカーごしに響く。その声で浩太は思案の底から目が覚めた。 「noa音楽企画が仕掛け人だったんですね?」 「中野くんは高校生だそうですが、どうやって選ばれたんですかっ」 「現在の『B.R.』の人気は、予測していたんですか?」 一斉に質問が浴びせられた。 「安納社長、今回、公になったことについてどう思います?」 「中野くん以外のメンバーは誰なんですかっ? 教えてくださいっ」 そこで、こほん、と、わざとらしく安納が咳をする。 静まった空間に、安納の言葉がはっきりと響いた。 「二週間後、この場所でもう一度記者会見を行います。そのときには『B.R.』を紹介できるでしょう」 その日。 世界で少なくとも五人は、眠れない夜を過ごしただろう。 |
4話 END |
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