BlueRose 1話/2話/3話/4話/PRE-DAWN/5話/6話 |
PRE-DAWN |
東京都A区───── 「じゃあ…、使うんですね? Kanonの曲を…本当に」 夏休みまであと二週間、自宅の電話口でそう言ったのは十五歳の叶みゆきだった。 中学三年生のみゆきは期末考査真っ只中。中休みの週末である今は数学の教科書と格闘している最中である。例え休みの日でも平日と同じ三つ編みと眼鏡。引っ込み思案で口下手なみゆきは電話で相手に伝えるということが苦手だが、今は受話器を握り締め、叔父に当たる人物の次なる詳細を待った。 「Kanonの曲を…。いつですか?」 意外さと、純粋な驚き、そして期待が含まれる声。誰もいない廊下に上ずった声が響く。 「できれば夏のうちには出したい」 「…急、ですね」 叔父とは特に付き合いがあるわけでなく、最近なって言葉を交わすようになった。その息子、つまり従兄弟とは昔馴染みで昔からよく遊んでいたが叔父とはあまり顔を合わせた記憶がない。多分それは、叔父が音楽事務所の社長という肩書きを持っているせいもあるだろう。 「すぐ動き出せる手筈は整えてある。…問題は演奏者だけだ」 「……どうするんですか?」 「それについては検討してある。叶にも協力してもらいたい」 「え……。ええっ? 私がっ?」 すっとんきょうな声を出すと、電話口の向こうからは不機嫌な空気が伝わってきた。 「無理にとは言わんが」 「えっ、あ、……、やりたいっ! やらせてくださいっ」 自分でも信じられない程、みゆきは大声を出していた。何故ならずっと昔からみゆきはKanonのファンで、その音楽が形になっていく様を見たくないと言ったら大嘘になる。そしてKanon自身も、自分の音楽を皆に聴かせたいというのが昔からの夢で、その手伝いができるならそれはみゆきにとって至福の喜びだろう。 しかも音楽事務所社長の叔父が絡むとなったら、ちゃんと世間に発表されて、CDになったり有線で耳にしたり、沢山の人に聴かれるようになるのだ。 「じゃあ夏休みは空けておいてくれ。叶には主に雑用をやってもらうことになる。それから……」 「え?」 「いや、後で話す。それから急で悪いが、来週の土曜日に打ち合わせをするので事務所のほうに来い、以上だ」 「あ、はい」 みゆきが返事をしている間に電話は切られた。しかしそんな事も気にならない程、みゆきは舞い上がっていた。 東京都M区───── 「理江さん! 久しぶりぃ」 七月二十日、ランチタイムのカフェで再会した旧友に手を振ったのは十九歳の片桐実也子だった。 待ち合わせ場所を指定したのは実也子のほう。ここは七十年代風の昔気質の店。マニア的なファンも多く、十八時以降にはバーになる為幅広い年齢層が入り交じる場所だった。 店の名前は「PREDAWN」といった。 「やあ、実也。半年ぶりだっけ」 木田理江は二十二歳。数年前都内で出会ってからは、気が向いては相手を呼び出してお茶する間柄だ。実也子とは年が離れているが気兼ねなく話ができる友人であり、姉のような存在でもある。 焦茶色のパンツスーツと、背中までのびる黒髪。その髪をかきあげる指先と、煙草をくわえる唇だけは赤くて艶やかさをかもし出していた。実也子が「かっこいーっ」と騒いでしまうのも無理はない。 「元気でやってる? あれ? 君ってまだ高校生?」 理江はアイスコーヒーを飲んで一息つくと実也子に尋ねた。 「ううん。この春、めでたく卒業したんだよー。誕生日もきてもう十九歳。大人になったでしょ?」 指を組んで科をつくり、ウィンクして見せた。そんな実也子を冷めた目で見て理江は呟く。 「そのわりには、ぜんっぜん、色気ないね」 「ガーンッ。ひどいよ、それー」 実也子はたははは、と苦笑する。 それに合わせて、理江も目を細めて笑った。実也子の変わらぬ様子を確認して、安心して笑った。 「…おしゃれする暇もないか。忙しいもんね。毎週毎週、週末には東京に通ってさ」 「……」 理江の言葉に実也子の表情が曇った。気付かずに理江は話を続ける。 「それとも、高校卒業したんならもうこっちに居るの? センセイのところに住んでるとか?」 「理江さん…」 「君がこっちに通い始めたのって、十三のときだっけ? 六年間も、ご苦労だね、ほんと。でもやっと音楽だけに打ち込む生活が始まるってことかな?」 理江の手が無意識に煙草へのび、赤い唇から白い煙が吐かれた。 実也子のことを語る口調には激励と期待が含まれていて、そのことが余計に実也子の胸を痛くした。 「ごめん、理江さん。…私、やめたの」 さりげなく言おうとしたつもりなのだろうが、その表情には痛々しさが残ってしまった。 「……?」 「やめたの。先生のところ」 目を見開いて見据える理江に、実也子は苦笑してみせた。理江は、信じられない、と口の形だけで呟いた。 「なにそれ」 聞いてないわよっ、と吐き捨てる。 「あのセンセイ、君を破門させたのっ? それとも他の七人が何か画策したとか?」 「違うよ。私から、やめるって言ったの」 「信じらんない」 「ホントだってば」 「それ、いつのこと?」 「二ヶ月前。五月。…だからもう、こっちにもあんまり来てないの。今回は理江さんに会う為に早起きして電車に乗ったんだよ」 知らせるのが遅くなってゴメンね、と実也子は頭を下げた。 そう言われると理江としては深くつっこめない。想像以上に動揺している自分を抑え付けるために深呼吸をして、椅子に背をかけた。 「…今は何してるの?」 「来年、地元の大学を受験しようと思ってる。現在受験浪人中。あと稼業の手伝い。…今まで全然そんなことできなかったから、散々わがまま言って困らせてきたから恩返しも含めて。両親とか、弟とか、最近会話する機会が増えてさ、楽しいよ」 やはり痛々しさが残る表情だけど、でも、家族のことを話す実也子の笑顔はどこか吹っ切れたようにも見えた。 新しい幸せな時間を見つけた、自然に込み上げる微笑みは嘘ではない。 はーっ、と思い切り溜め息をついた後、右手を大きく広げ、その手で顔を隠し、理恵はくすくすと笑い出した。 「あんた、今までセンセイのところで音楽一筋だったもんねー」 (…二ヶ月前のことじゃ、まだ聞き出すのは無理か) 六年間続けてきたことを自らやめたというのだ。しかも半年前に会った実也子は不動の意志を持った瞳で、将来を語っていたにもかかわらず。この半年の間に、何が実也子を変えさせたのか。 「…でも、さ。実也。楽器は続けていくんでしょ?」 理江の言葉に実也子は軽く吹き出した。 「それがね、笑っちゃったよ、私。先生の所、飛び出したときは"もうやめる"とか言ってたのに一週間後にはもう弓を握ってた。日課って怖いねぇ」 「あははっ、なんだそりゃ」 二人は一緒になって笑った。が。 「─────…」 ふいに、実也子は顔をあげた。意識の先はすでに理江との会話ではなく、別のことに向けられていた。 「実也?」 「……」 実也子は店内に視線を巡らせて、自分が何に気を止めたのかを確認する。 「理江さん」 無意識に呟く。多分、理江の返答など期待していないだろう。 それでも、尋ねてしまう。 どうして自分が、こんなにもこれを気にかけているかさえも知らずに。 「……この曲、何?」 東京都M区───── 「噂になってますよ。慎也が美人と付き合ってるって」 夏休み初日、コーヒーカップを片手にわざとさり気なく言ったのは二十二歳の山田裕輔だった。 向かいに座る日阪慎也は二十五歳。二人は某市にある音大生で同級生である。祐輔の地元は神奈川で、明日帰省予定なので顔の見納めとばかりに悪友同士グラスを傾けていたのだ。 「……………発信源は?」 かなりの沈黙の後(追いつめる為に祐輔は何も言わなかった)、慎也はトーンの低い声で尋ねた。答えは分かっていたが言わずにはいられなかった。 「もちろん、沙耶です」 「あの女…」 祐輔の回答の後、恨みがましく慎也が吐いた“あの女”とは、祐輔の彼女であり、そして慎也の妹でもあった。 沙耶も祐輔と学科は違うものの大学の同期である。そして前述した通り祐輔と慎也は同級生である。ということはつまり慎也は三歳離れた妹と同級生だということであり、それは少なからず慎也の悩みの種でもあった。 「ロリコン疑惑が晴れて一安心、とも言ってました」 「何であいつが安心するんだよ」 「いつ犯罪をおかすか、気が気じゃなかったんじゃないですか?」 「あのなぁっ!」 ばんっ、とテーブルを叩いて凄んで見せても、通用させるには相手は慎也の弱みを知り過ぎていた。 「……言っとくけどなぁ、あの子は当時七歳だったけど、計算すれば現在二十一歳っ。おまえらと、ひとつしか違わないんだぞ? 誰がロリコンだっ」 ロリコン疑惑とは。 慎也の部屋の一画には、十四年前、『天才』と騒がれたピアニストのスクラップ記事が無数、壁に貼ってある。その天才ピアニストとはわずか七歳の少女だ。慎也は十一歳のとき同じコンクールに出場したことがあり、そのときの少女の演奏にかなりのショックを受けたという。 しかしそのコンクールを境に、少女は音楽界から消えた。 そのときからずっと、慎也はその少女を探し続けているのだ。 十四年もの執着に、ロリコンというレッテルを貼られても不思議じゃない。 「で。その美人と付き合い始めて、女の子のことは吹っ切れた、と?」 次のからかいネタを捕まれたわけだ。 「言っとくけど、付き合ってるわけじゃねーぞ。別に」 「……へーえ」 にやり、と祐輔が笑うのを見て、ようやく慎也は墓穴を掘ったことに気付いた。片思いネタはさらに遊ばれやすいものだ。 「それよりっ! おまえ、明日っから帰省すんだろ? 休み中に沙耶に変な虫ついても知らねーぞ」 見え見えではあるが強引に話を逸らそうとした慎也。しかし祐輔は真正面にその台詞を受け止め、 「ご心配なく」 寸分の揺るぎもない声色で言った。慎也は返す言葉がなかった。 友人と妹が恋人同士、というのも複雑な心境ではあるのだ。しかもその二人が最強のコンビであるものだから慎也の立場は例え年長者であっても危ういものと言える。 妹は大人しい部類に入る性格だが気が弱いとは言えない。口数が少なく何を考えているのか分からないところがある。一方、祐輔は見ての通り意地と性格が悪く、不特定多数と付き合う人間ではないが不思議と周囲から信頼されているふしがあった。 変わり者である二人を引き合わせたのは慎也自身だが、最強コンビをつくらせてしまったことに後悔することもあるのだ。 「そーいや、進路希望調査あったじゃん? 祐輔、何て書いた?」 「“ぴあの教室のせんせい”」 棒読みで即答された。 「本気なのか?」 慎也は声を荒げた。否定的な声だった。 「ピアノ教室の先生」が悪いわけじゃない。立派な職業だ。ただ、山田祐輔は学部内にその名が知れ渡っている程の腕の持ち主で、今秋選考会が行われるDAAD(ドイツ学術交流会)の給費留学生の候補に挙がっている一人でもある。 惜しい、と思ってしまうのは自分の思考が俗っぽいからだろうか。 慎也の言いたいことはわかっているようで、祐輔は苦笑した。 「気の乗らないことって、長くは続かないでしょう?」 「まさか、沙耶と離れるのが嫌で留学したくない、なんて言うなよ」 かなり冗談で言ったつもりだが祐輔は肯定した。 「それもありますけど、何より"演奏家"として食べていくつもりがないだけです。…もっとも、僕が興味を持つくらい楽しませてくれる環境だったら話は別ですが」 「でもなぁ…」 「…」 ふと、祐輔の表情が変わる。何かに気を取られたようだった。目を見開いて、心なしか首をもたげた。 「祐輔?」 「シっ!」 黙るように右手で指示される。祐輔らしくないその勢いに慎也は沈黙を決め込み、祐輔の次の言葉を待った。 たっぷり三十秒後。 「……この曲」 「え?」 「今、流れてる曲。有線…? …いや、違います、よね」 どうやら祐輔は店内のBGMに気を止めたらしい。慎也はあまり気にしていなかったが、かなり小さい音で曲が流れていた。この時間は込み入り時で、人の喧燥のほうがうるさく聞えるのだ。 祐輔はその曲を聴いて、何やら考え込んでいた。 東京都M区───── 「よ。もう来てたのか」 七月最後の土曜日、待ち合わせに遅れたにもかかわらず悠々と現れたのは十三歳の小林圭だった。 待ち合わせは夕方六時。場所は歓楽街、の少し外れた場所。まぁ健全な飲み屋街だが、夜になると決して安全とは言えない街だった。まして中学生が出歩く場所ではない。 「よーお、圭。とうとう、お互い中学生になったなー」 高居竜也、他二名は圭の登場を迎えた。 小林圭は生っ粋の名古屋市民で、毎年夏休みになると東京の祖父の家へ遊びに来ている。東京に住む竜也は五年前から夏休みの遊び友達だった。今年、二人揃って中学生になったわけだが、やはり一年ぶりに会う友人は少し変わっていた。色の薄い短髪を立てて、耳にはピアス。 久しぶりに会う友人の変貌にも圭は驚かなかった。 (待ち合わせ場所、指定されたときから予測してたからなぁ) 圭の地元にも、この手の友人は結構いる。中学生になったからって、派手に遊び始める人種。そんな奴らとの付き合い方は知ってる。 中学生らしからぬ冷めた瞳で"友人"を眺めてしまう。圭はそんな自分を、しっかり自覚していた。 「竜也ぁ、店、行こうぜー」 「おー。圭も行くだろ?」 センパイとか集まってる場所なんだ、と竜也は言った。 「…いいよ。連れてってよ」 圭は笑って答える。 適度につるんで、決して仲間意識を持たない。客観的になれる立場にいること。これが重要。 圭の前を歩く三人が、慣れた手付きで煙草を吸い始めた。 「圭は?」 一本差し出されたが圭は即答した。 「遠慮しとく」 「真面目だねー」 冷やかすように言われたが、別に圭は気にしていない。 「そういうことにしとくよ」 俺の前では吸うな。そう言えるほど親しい仲でもないし。 連れが、ふー、と吐いた煙から顔を背ける。気付かれないようにさり気なく息を止めた。息苦しさに顔をしかめてしまうのは仕方のないことだ。 実は、圭自身も煙草を吸っていた時期がある。中学に入ってすぐの頃だった。誰かとつるんで、なんていうのは趣味じゃないし、そもそも違法行為であることはわかっている。何故吸うのか、と問われるなら圭は、好奇心、と答えるかもしれない。絶対に口にはしないけれど、ストレス解消であることも確かだ。 誰の前でも吸わなかったし、自分の部屋以外には持ち出さなかった。勿論、匂いがつかないように細心の注意を払った。 しかしバレた。 『煙草って、喉、悪くするぞ。肺活量も少なくなるしな』 流石、というか。 父親は圭の性格をよく見抜いていた。事実、その言葉だけで圭はあっさりと喫煙をやめた。 ───圭は自分の声≠大切にしている。それこそ、誰にも言わないけれど。 だから、自分が大切にしているものの為なら、何かをやめるなんて、とても簡単なことなんだ。 「タツ。俺、ちょい寄り道。ケータイで連絡するから、先、行っててくれ」 「おう、たまに補導員いるからな。気を付けろよ」 「わーってる」 竜也たちから離れたのは煙草の匂いのせいだけじゃない。圭が東京へ来る度に寄っている場所がすぐ近くなので、ついでに行ってみようと思ったのだ。街中の一画、素人バンドの路上演奏のメッカがこの辺りだった。しかし、その場所へ向かおうとした圭の足を止めたものがあった。 突然、耳に入ってきた。 通り沿いの、店内に流れる曲。 (……有線? …じゃ、ないよな) 父親の職業柄、自宅に有線が引かれている小林宅。結構チェックしているにも関わらず、今流れているのは聞き覚えの無い曲だった。 打ち込みの、…完成率が決して高いとは言えない、まるでデモのようなインスト曲。 (…誰だ?) 無意識に立ち止まった足はなかなか動いてはくれなかった。 東京都M区───── 「本当に久しぶり、キョウさん」 七月最後の日曜日。深夜のバーでグラスを鳴らした後、そんな挨拶をしたのは三十二歳の長壁知己だった。向かいに座るのは、簡単に説明すると「派手なオヤジ」であった。ちぢれた長髪を無造作に結んだ頭。ちなみに髪の色は黒のメッシュが入った金に近い茶パツ。顎を隠す髭。夜なのにサングラスをかけていて、アロハにも近い柄のシャツと膝までのズボンを履いていた。口元には常に不敵な笑みを覗かせていた。 「にしても、おまえも年とったよなー」 キョウ、こと石川恭二はガハハと愉快そうに笑った後、ウィスキーグラスを口に付けた。 「お互い様だろ」 こんな風に切り替えしがうまくなったのは、恭二の言う通り年をとったせいだろうか。 しっかり相手の誕生日を覚えていた知己は「先日、五十になったばかりのくせに」と付け足した。 「やかましい」 ゴン、と容赦なく拳が飛んできた。本当に容赦がなかったので知己は必死で避けた。 本気で当てようとしていた恭二は知己が避けたことにむくれて、バツが悪そうな顔で手を引っ込める。少し間を開けてから、からん、とグラスを鳴らした。 「でもまぁ、最後に会ったのは五年も前だしな」 サングラスの向こうの両眼が懐かしそうに笑う。 「…もう五年か」 恭二と違って、知己は笑うことができなかった。 まだ、笑えなかった。 「康男が死んでバンドが解散になった即座におまえは地元に引っ込んで、それ以来だもんな」 「嫌味?」 「そのとおり。…でもまあ、おまえが康男に心酔していたのは分かってたし。あのときの心痛は俺達も同じだったし、止める理由はなかったな」 バンドは事実上の解散。知己は詳しくないが、再結成を望む数多くの声があったらしい。 「キョウさん。結構派手に活躍してるみたいだな。たまにCDのクレジットで名前を見るよ。次郎さんも別のバンドでジャズやってるみたいだし」 「そうそう。省吾もプロデューサーなんてやってるしな」 くくっ、と不敵な笑みを恭二は返したが、それは途中で不自然に止まった。恭二は厳しい目つきで知己を睨み付けると、わざと低い声で言った。 「…おまえだけだよ。この業界から離れていったのは」 責める口調だった。 「……」 「聞いてんのか」 「………"彼女"は、元気でいる?」 突然、話がすっとんだ。しかし知己自身に話をずらそうという意図はなかった。 知己のあさってな方向の会話進行に恭二は苛めるのを諦めたのか、溜め息をついて肩をすくめた。 「ああ。時々『sing』って店で歌ってる。折角、こっちに来たんだ、会って行ってやれよ。おまえのこと、気にかけてた」 「…ああ」 「今、何やってんだ? おまえの腕は正直惜しかったから、こっちで続けて欲しかったんだがな」 「地元で適当にやってる。もうブランク五年だ。腕だって腐ったよ」 「とにかく! ウチの業界に入るならアイサツに来い。でないと苛めるぞ」 「…お手柔らかに」 知己には全くその気は無い。それでも穏便に交わそうと曖昧な答えを返した。 本当に、そういう気の回し方をするようになった自分は、年をとったと思う。 「この曲、気に入ったのか?」 「え?」 「おまえの癖。気に入った曲が耳に入ると、自然に指が机叩いてる。ドラムパートだけ、妙に正確に」 尊敬を通りこして呆れるよ、と恭二は笑ったが、知己は店内に流れるBGMに気をとられていた。 「…知らない曲だけど、なんだろ」 東京都M区───── 「今流れてる曲、誰の何ていう曲?」 七月末日、ギターを背負ったままカウンターに突進してきたのは十六歳の中野浩太だった。 「PREDAWN」店長・筧稔は、カウンターを陣取る年配層の間から高校生が顔を覗かせたことに少なからず驚いた。そう、少なからず。 「…浩太。高校生が出入りする時間じゃねーぞ」 顔見知りなのだ。店長は、浩太の割り込みに気を取られた周囲の客には苦笑してごまかした。 「コータっ! 何、やってんだよっ。おいてくぞっ!」 背後からバンドの仲間が声をかけてきたが、浩太は素気なくそれをあしらった。 「先、行ってろ。明日の集合時間、決まったらケータイ入れてくれ」 「おまえも早く帰れっつーの」 お怒りモードに入った店長の声が頭上から響いた。その声の低さに、浩太は肩をすくめながらも頭をあげる。 「十七時以降は店出入り禁止だって言ったろ。犯罪だぜ」 「酒なんか、飲んでないだろ」 「それでも、だ。さっさと帰んな」 そう言って店長はカウンターの奥へ引き篭もろうとする。 「わーっ、待てって。この曲、誰の曲? それくらい教えろよ、ケチっ」 すると。 店長の肩が震えた。 くるりと振り返ったその表情は不敵に笑っていた。 「…まさかお前が五人目とはなぁ。しかも締め切りギリギリ…」 そう言いながらも口元がほころぶ。笑いを噛み殺していた。 「なにそれ」 「浩太と同じことを尋ねてきた人間が、この三週間で五人いたっていうこと」 五人。 多分、このBGMに耳を止めた人間はもっと居ただろう。しかし何の曲かを突き止めようとした人間はたった五人だった。 その数字が多いのか少ないのか、浩太には分からない。 「浩太、おまえ、ギター始めてどれくらいだっけ?」 「え? ……2年くらいだけど?」 「明日ヒマか?」 「……? まあ、夏休みだし」 意図が分からず答える浩太に、店長は一枚の名刺大の紙切れを手渡した。 「八月一日───つまり明日、午前十時にこの場所へ行ってみな。そうしたら教えてもらえるさ」 はあ? と浩太は眉をしかめた。ただ、先程流れていたBGMが何なのか尋ねただけじゃないか。それこそ、デッキからCDを取り出して、見せてくれるだけで済むことなのに。 「なんだよ、それ。店長、知ってるんじゃないの?」 「俺も教えてもらえないのさ。……さぁ、用が済んだらさっさと帰れ。夜遊びを覚えるなんざ五年早ぇぞ」 店長はさっさと仕事へ戻ってしまった。浩太もこれ以上は聞き出せないだろうと悟る。 店長から手渡された紙には、「八月一日午前十時」という殴り書きの文字と、住所と建物の名前、それから「第三四会議室」と書かれていた。 (一体、何なんだ…) 混乱する浩太に、店長は最後にさらに訳の分からない言葉を言った。 「あ、そうそう。その名刺の場所へは楽器、持っていけよ」 「はぁ? 何で?」 「もう一つ、条件がある。このことは誰にも言うな。わかったな」 「だから何でっ」 浩太の更なる疑問は周囲の喧燥に掻き消され、店長には届かなかった。 店長も仕事が忙しそうだし。 (しょうがない、…帰るか) 溜め息を一つ吐いた後、浩太は踵を返した。 ドンっ 「あ、悪ぃ」 誰かにぶつかった。こちらの落ち度だったので浩太は素直に謝った。 「いえ、こちらこそ」 浩太とぶつかったと思われる人物、眼鏡をかけた少女が反射的に頭を下げていた。 中学生くらい…に見えるのは浩太の観察力が足りないせいだろうが、飾り気のない服装が場にそぐわないように思えた。 二人の会話はたったそれだけで、少女は慣れない所でおどおどするように店の奥に入っていった。 * * * 「店長」 少女はカウンターの一番端に座った。彼女は大声を出すのが苦手で、この呼びかけも届かないかもと心配したが、店長は気付いてくれた。 「や。みゆきちゃん、こんばんわ」 店長は愛想良い表情を見せた。 「こんばんわ。…どうでした?」 「ついさっき、五人目が来たよ。五人とも見所があると思う」 バサッ、と店長は叶みゆきにファイルを手渡した。勿論、例のBGMに関して尋ねてきた五人のデータだ。正確に言うと四人のデータ、プラス、五人目の名前。五人目は下手に知り合いなだけに、詳細は後で書き足そうと思っていたのだ。 「五人目のことは今夜中にメールするよ。鼎のところでいい?」 「あ、私のところにもc.c.いただけますか?」 「了解」 「ありがとうございます。宜しくお願いします」 用件が済み、とっとと帰ろうとするみゆきを店長は呼び止めた。 「みゆきちゃんも大変だねー。あの堅物オヤジに捕まって。…あー、みゆきちゃんって十五歳だったよね? 本当はこの時間は立ち入り禁止なんだよー。鼎によく言っておくからさ。こんな時間に、女の子寄こすなら自分で来いって」 「おじさんは顔が知られてるから。下手に動きたくないそうです」 申し訳なさそうに苦笑して、みゆきは「PREDAWN」を後にした。 都内某所。八月一日、午前九時四五分───── 長壁知己は指定された建物の前に立っていた。 「PREDAWN」の店長に貰ったメモと見比べ、間違いないことを確認する。 (「noa音楽企画事務所」……?) 一応、元業界人の知己としては、知らないはずが無い名前だ。 何故、こんな所に呼び出されなければならないのだろう。不審に思うのは当然だった。 ガラスの自動ドアをくぐると、そこそこに広いロビーが広がっていた。右手には受付があり、知己はとりあえずそこへ向かうことにする。 (…あれ) 受付には先客が居た。後ろ姿で女性とわかる。多分十代だろう。そして何より目を引いたのは、隣の大きな楽器。 (弦バス?) 弦楽器特有の形、茶色のソフトカバー、そしてあの大きさ。 知己にとって馴染みが無いわけではない楽器が置かれていた。多分、その女性のものだろう。それにしても、あの楽器は長さ一八〇cm以上あるのに、身長一五五cm程度の人間、しかも女性が扱うには大変な楽器だと思うのだが。 とりあえず知己はその女性の後ろに並んだ。受付で交わされる会話が耳に入ってきた。 「すみません。コレ、見せれば通していただけるとうかがったのですけど」 (!) 女性が受付に差し出したものは、知己が現在右手に持っているものと、全く同一のものだった。 「はい、三階の三四会議室です。エレベーターでどうぞ」 丁寧な受付嬢の対応に彼女は頭を下げた。それから、よいしょ、と楽器を肩に抱える。やはりかなり大変そうだが、楽器の扱いには慣れているように見えた。 「…おい」 知己は思わず声をかけていた。 「え?」 振り返った彼女は、化粧っ気はなく活発そうな雰囲気を持っていた。突然呼びかけた知己に対する不信感は無い。知己は自分が持ち込んだメモを見せた。 「持とうか? 行き先は同じらしいから」 彼女はメモを見て少し驚いた表情を見せる。次に目的が同じだと分かると、知己と目を合わせて人懐っこい笑顔を見せた。 「ありがとう。でも遠慮します」 はっきり断わられたわけだ。そのことに知己は少々意外に感じた。彼女の表情には変わらず不信感はない。遠慮されているわけでもなさそうだ。知己には断わられた理由が分からなかった。 「重いだろ? …」 「うん。でも、自分で扱えない楽器を相棒に選ぶなって、先生の教えだから」 何故だか嬉しそうに微笑んで言う。 彼女の発言を逆に言い換えるなら、相棒に選んだ楽器は自分で扱えなければならない、ということになる。でもそれは、知己の手助けを断わる理由にはならない。 …しかし彼女には、もしかしたら彼女なりの戒めがあるのかもしれない。 知己はちょっと言葉に悩んで、 「へえ。厳しくて、いい先生みたいだな」 と、言った。それに対し彼女は過敏な反応を示した。 「でしょ? でしょ? 私もそう思う。……尊敬してる、自慢の先生なの」 まるで自分のことのように、口元をほころばせて嬉しそうに微笑む。知己もその笑顔につられて笑った。 二人はエレベーターホールまで来ると、一度立ち止まった。 ポーンという音と共に一つのボックスが開き、背広を着た中年男性が数人降りてきたところだった。いかにも会議が終わった後、というような風景である。あまり自分の周囲では見慣れない光景に知己と女性は顔を合わせて小さく笑い合った。 人間が降りきって無人になったエレベーターのドアを知己は素早く抑え、彼女に早く乗るよう動作で示した。重い楽器を運びながらもエレベーターにたどり着き、知己も中に入って扉は閉められ、そのまま「3」のボタンを押した。 「ありがと。私、片桐実也子」 一息ついて改めて自己紹介。 「長壁知己」 片桐実也子は自分が十九歳であることを述べた。知己はその年代の女性と会話する機会など全くないが、実也子の人柄はそれを感じさせない。もしかしたら実也子のほうが、知己くらいの年代と話をすることに慣れているのかもしれなかった。 「おさかべ…、って、長い壁って書くほう?」 「ああ」 実也子は、むー、と少しの間考え込むと、知己を仰いで真面目な顔で言った。 「じゃあ、”長さん”、かな」 どうやら呼び方を検討していたようだ。そして決定されたらしい。 「…何でそーなるんだよ」 命名された初めてのあだ名に、知己はくすくすと笑い出した。 「まあまあ、気にしない、気にしない」 一方、実也子は長さん長さんと繰り返し呟いている。慣らしているようだ。 「あ、ねぇ。もしかしてそっちもPREDAWNで引っかかったクチ? 作曲家一人の名前尋ねただけなのに、楽器持ってこいって。何なのかな? 一体。…あれ? でも持ってないね」 「ああ。俺がそこそこに経験ある楽器って、ドラムスだから。さすがに持ち歩きはできないだろ?」 「あはは。それはそうだねー」 チン。エレベーターは三階にたどり着いた。 都内某所。八月一日、午前九時五一分───── 高い声がロビーに響き渡った。 「だーかーらーっ! 呼び出されたのはこっちなんだよっ!」 それは山田祐輔が受付の女性にメモを差し出そうとした瞬間のことだった。 キーンと響いたその声は気持ち良ささえ覚える響き方だった。 「…」 だがいくら気持ち良く響いたとしても、驚いたことには変わりない。祐輔はメモを落とし、受付嬢も来客対応中にも関わらずその声の源へ目をやった。 丁度、正面玄関の横。この会社の警備員と思われる男がずいぶん小柄な人影を取り押さえているところだった。 「君、まだ小学生だろうっ。こんな所でなにしてるんだっ」 「こんな所≠ナ働いてメシ食ってんのは、あんたのほうだろっ? それに、俺は中学生だっ!」 祐輔はその会話を聞いていて、思わず笑ってしまった。なんて口の減らない中学生だ。 微笑ましい、とは言えないがそれに近い感情を抱いてしまう。 そして。 (…男っ!?) かなり遅れて祐輔は驚いた。ショックも大きかった。 高い…女声と思っていたのは勘違いで、声の主は少年。 変声期前の、ボーイソプラノ。それに。 (……すごい声量。よく通ってる…) 感心を通り越して感動してしまう。 「ほら、これっ。俺は今日、呼び出されたんだっ」 (…っ!) 遠目ではあるが、少年は警備員に何やら紙を見せているようだった。その紙に何が書かれているか、祐輔には推理することができた。 「………」 ふむ、と祐輔は三秒程考え込んだ。 本来、人助けなんてものは祐輔のガラではない。 にも関わらず思わず足が動いてしまうのは、少年のその声と、どこから来るのか自信の在り方と、気性に興味があったからと言い訳しておこう。 「あの」 強い口調で警備員を呼び止める。 「何だっ」 「本当ですよ。そのメモを持っている人間は、今日、呼び出されています」 自分自身が不審人物と思われないように、祐輔は愛想笑いを向けた。 「助かった。さんきゅー、……えーと名前、なんつーの?」 「あぁ、山田祐輔と言います」 件の小学生……ではなく中学生と隣に並んで仲良く歩いているのは当然の成り行きだろう。目的地が同じなのだから。 「俺、小林圭」 そう名乗る表情も自身に満ちていて快活だ。人を引き付ける力がある。 「祐輔、変わってるって言われない? 俺みたいなガキ相手にも敬語遣ってさ」 何気に呼び付けにされた。少し複雑ではあるが、相手が圭だと悪い印象はない。 「これは癖なんです。誰に対しても」 ついでに「変わり者」扱いされているのも本当だが、声に出しては肯定しなかった。 二人はエレベーターに乗り込み、三階へ向かう。気持ちは分かるが、圭はエレベーターの壁のカウントアップしていく数字を目で追っていた。しかし途中で飽きたのか首が痛くなったのか、祐輔に向かい直して口を開いた。 「にしてもさぁ。誰の曲か尋ねただけでここまでつれてこられるとはね」 「同感です。…僕は帰省中だったんですけど、結局戻って来てしまいました」 朝、ここに来るかどうか三十分ほど悩んだが、結局祐輔はここにいる。折角、ここまで来たのだから、せめて知りたい情報はしっかり押さえなければならない。 「え? 祐輔ってどこの人?」 東京人と思われていたのだろうか。圭は意外そうに尋ねた。 「横浜です」 「なんだ、すぐ近くじゃん。俺なんか名古屋だぜ?」 「名古屋から来たんですかっ?」 これには祐輔も本気で驚いた。 「いや、今はじーちゃん家に泊まってるんだけど。それに……、あっ、そうそう。同じ経緯でここに来たなら、楽器を持ってこいって言われなかった? 見たところ手ぶらのようだけど」 確かに、PREDAWNの店長にはそう言われた。しかし祐輔はその場で「無理です」と答えた。 「…さすがにピアノは持ち歩きたくないです」 苦笑しながら言う。 「なるほどなっ」 圭もにかっと笑ってみせた。祐輔が視線で問うと、圭はすぐに察して含み笑いをした。 「俺はちゃんと楽器、持ってきてるよ」 「…? 手ぶらに見えますけど」 「楽器は俺自身だよ」 演出を狙って圭はわざとそこで息をついた。 「俺の喉が、楽器なんだ」 都内某所。八月一日、午前九時五九分───── (遅刻だなー、これは) 中野浩太は早足でその建物に駆け込んだ。 受付を見つけ、PREDAWNの店長からもらったメモを見せたらすぐに通してくれた。浩太がエレベーターへ向かおうとするのと入れ違いに、オレンジ色のスーツを着た女性とすれ違う。ものすごい形相で駆け足で、そのまま受付カウンターに激突しそうな勢いでまくしたてた。その迫力に浩太は思わず目で追ってしまった。 「ねえっ! どうしよう、社長、怒ってるよ〜。みゆきさんが来たら、直接三四会議室に行くように伝えて」 受付の女性は気心が知れているようで、落ち着かせるように笑った。 「はーい。珍しいね、彼女が遅刻って」 「だよねー、希玖さんはもう来てるんだけどさー。じゃ、よろしくね」 どうやら駆け寄った女性もここの社員らしい。 会話が筒抜けである。 そんな風景を後にして、浩太はエレベーターに乗り込み三階で降りた。難なく三四会議室を見つけて、その前に立つ。 この時、浩太が全く気付いてなかった真実があった。 PREDAWNで耳にした曲。妙に気になって店長に誰の曲か尋ねた。そうしたら今日ここへ来るように言われた。面倒臭くてやめようとも思った。それでも。 浩太は、あの曲をもう一度聴きたくて、今、このドアの前にいる。 出会えたのは、決して運命などではなく、本当にささやかな偶然。 少なくとも数百人は耳にした曲の、さらにその先を知ろうとしたのは彼らだけだった。 彼らは。 “Kanon”の下に集った。 |
PRE-DAWN END |
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