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5話


 半月前、休日の昼までベッドの中で惰眠を貪っていた中野浩太は一本の電話で起こされた。
「机の上にある書類を持ってこい」
 有無を言わせない口調は兄のものだった。浩太の兄は建築関係の事務所に勤めていて、自宅からは電車で駅六つの距離だ。
 抜け切れていない眠気も手伝って、浩太はあっさり断わった。が、電話の向こうで実兄が現金をちらつかせると、浩太はすぐにその命令に屈した。兄は浩太が愛用ギターの弦を交換したばかりでお金に貧していたことを知っていたのだ。
 一時間半後に書類を持って現れた弟に、兄は用意していた別の封筒を手渡した。すると、
「それ、隣の病院の352号室に入院してる木下に渡したら帰っていいぞ」
 さらにおつかいを命じられた。ここまできたらしょうがない、収入を得るためには少しの労働は仕方ないだろう。浩太は兄の仕事場の隣にある病院へと向かう。
 その病院は古い建物で周囲の緑が多く、病院というよりは保養施設といった感じだった。浩太は言い付け通り木下なる人物に封筒を渡した。(話を聞くと兄の同僚で、入院してもなお仕事を持ち込まれているようだ)少しの同情と世間話の後、浩太は病室を後にした。そのときだった。
「こんにちは。誰かのお見舞い?」
 突然、廊下で話し掛けられた。
 色白の、折れそうな細い肩の、人懐っこい笑顔の、少年。

 それが、彼との出会いだった。






 東京都G区。十二月九日。午後七時十三分────

 日辻篠歩はいつもの喫茶店で、いつもの人物を待っていた。
 すでに外は暗いが、日の短いことに驚くことはない。通りのネオンはいつに増しても派手で、赤と緑が入り交じっている。もう十二月。街はクリスマス一色だった。行き交う人はコートとマフラーを身に付け、体を小さくさせている、そんな季節であるから。
 あんなに暑かった夏が嘘のようだ。
 と、そこまで考えて篠歩は寒暖の移り変わり───"四季"の根元である地球の公転と太陽の偉大さに思案を巡らせた。
(………)
 自覚はある。これは現実逃避だ。
 寒さに負けない賑やかさをもっている外の景色とは裏腹に、どんよりとした空気がここにはあった。篠歩の、テーブルについた片肘の上に乗る顔は眉間に皺が寄っており、左手の指先はトントンとソーサーを叩いている。篠歩は誰が見ても苛立ちが伝わってくる雰囲気を醸し出していた。
 彼女は某新聞社社会部勤務。現在ここにいるということは、定時で帰ってきたということになる。
 篠歩は先程帰りがけに、気が向いて芸能部を覗いてみた。するとその室内は物凄い騒動になっていた。電話は鳴りっぱなしで、書類は空を飛ぶ。人は駆けずり回っていて、篠歩はぶつかった男にボサっとすんなっ、と怒鳴られてしまった。
 理由は分かっている。
 つい昨日のこと。
 『B.R.』、今までずっと姿を隠してきた人気バンドのメンバー(のうち一人)を他社週刊誌がスクープしたのだ。この三年間の『B.R.』の人気を見れば大騒動になるのも無理はない。
 そしてこれは今朝、各マスコミにFAXされた情報だが、『B.R.』の一人が明日、世間のこの騒動を見かねて記者会見を行うというのだ。
 誰も口にしないが、マスコミ連中に無理矢理引き出された格好だ。
 それこそが、篠歩の苛立ちの理由である。

「篠歩」
 自分の名を呼ぶ声があった。待ち合わせの相手、八木尋人が現れる。彼はフリーのライターで定時に縛られることはないが、連絡がつかないときは取材に出ているか打ち合わせ中のどちらか。几帳面というよりは神経質な性格、どちらにしろ時間はきっちり守る人間なのだ、が。
「珍しいじゃない、そっちが遅れるなんて」
 と、篠歩は責めるでもなく、意外そうに言った。
「あー。途中で捕まってな」
 と、こちらも不機嫌な表情で返す。警察に? という篠歩の思いが表情に出たのだろう、尋人は否定するために背後を指差した。
 見ると、尋人の後ろに立つは四人。その四人はあまり、というか全く愛想の無い態度で尋人と篠歩を眺めていた。
 構成がまた面白い。三十歳前後と思われる男性、もう少し年齢が下がって目が細く髪を束ねている青年、それと同年代の女性と、最後に多分中学生であろうと思われる少年。ここまで年代がばらついたパーティはそう無いだろう。全く別の用件で、無関係の四人が同時に現われたというのも考えにくい。
「誰なの?」
 小声で尋ねたのは、篠歩はその四人と面識が無い、と言い切れるからだ。
 どういう関連のメンバー? 篠歩は首を傾げた。
「どうやら俺達に用があるらしい。席、移動しよう」
 いつものように篠歩の疑問を無視した尋人は有無を言わせない強さで促した。
 篠歩と尋人、そして謎の四人組は八人掛けのテーブルへ移動する。篠歩の隣に尋人、向かいに四人が座った。
 そのうちの唯一の女性が視線を上げて言った。
「あなたが日辻さん?」
 かなり刺のある言い方だった。彼女の年齢は篠歩より下で、二十歳くらいだろうか。
 どうやらこの四人は篠歩の第一印象通り、こちらに対してあまり良い感情を持っていないようだ。
(何なの…一体)
 きつい視線に居たたまれなくなって尋人に視線を送るが、先に助けてくれたのは四人のうち年長の男性だった。連れの女性に窘めるように言う。
「あんまり感情的になるなよ」
 それを聞いて先程の彼女はきっぱりと反論した。
「だって! 中野が庇うからどんな人間かと思ったら、結局は報道屋なんじゃない」
(中野……?)
 耳慣れた名前が出された。反射的に尋人の横顔に目をやる。どうやら尋人は、この相手が誰で何の用があるのか、ある程度はわかっているらしい。
「…誰なの、あなたたち」
 ほとんど無意識に尋ねると、細目の青年のずいぶん丁寧な口調──でもやはり厳しい声──が返ってきた。
「僕達は今、名乗るつもりはありません。どうせ二週間後にはバレることですから。今は、中野浩太の仲間、とだけ言っておきましょう」
(中野……)
 先程も出た。最近、よく聞く名前だ。件のスクープされたバンドの一人が中野という名前だった。よくある名前なのだろう。
「……?」
 よく、ある、名前?
(中野浩太?)
「……って、あれ?」
「同姓同名、ってオチはないからな」
「え…? え、うそっ! …ちょっと、尋人っ!」
 篠歩はあからさまに取り乱した。隣に座る尋人の腕を掴み激しく揺らした。
 ナカノコウタ。まさしくそれこそが、『B.R.』のギタリストの名前だ。
「俺も、すぐそこで捕まったんだよ。中野くんが俺らの素性をバラしたらしいな」
「『B.R.』の素性を先にバラしたのはそっちでしょっ?」
 泣き出しそうな剣幕で女性に怒鳴られても、篠歩は状況を把握するのに精一杯でまともな返答はできなかった。
 つまり。
 篠歩たちと面識のある中野浩太とこの目の前に座る四人が、三年もの間、音楽シーンを騒がせ続けていたバンド、『B.R.』だというのだ。
(うそ…)
 篠歩の現在の心情は、困惑はもちろんだが感激も含まれている。
 新聞記者という職業では勿論、個人という立場でも『B.R.』という存在に惹かれ、追い続けていた。
 『音』だけの存在。その正体────彼らが、目の前にいるのだ。
「お陰でこっちは酷い被害を被ってるんだからっ」
「……って、…え?」
 そこでようやく、篠歩は彼らから恨まれている原因に気付いた。そこに生じている勘違いにも。
「ちょっと待って…」
 彼らに会えたことの喜びに浸ってる場合じゃない。篠歩は我に返って負けないくらいの声を出した。
「ちょっと待ってよ。誤解だってばッ」
 どうやら激しく勘違いされているようだ。
 "私たちの素性を先にバラしたのはそっちでしょっ"
 "お陰でこっちは酷い被害を被ってるんだから"
 ああ、でもそれは、当然の誤解かもしれない、と篠歩は思う。
 条件は全て整っているのだから。でもそれは、篠歩にとって、とても不本意な勘違いなのだ。
「言い訳したところで、俺らが諸悪の根元だって事実は変わらないぜ?」
 すぐ横で尋人が冷静に呟く。その横顔をキッと睨むと篠歩は怒鳴った。
「少しは人間関係の修復に努力しなさいよっ。あんたはッ」
「別に繕わなくても弁解しなくても、付き合う奴とは今でもツるんでるだろ」
「それは尋人の周りの人間ができてるからよ。…まったくもう、昔っから変わらないんだからっ───」
 篠歩の説教はもう少し続きそうだったが、時と場所に気付いたのか、コホンとわざとらしい咳をした。



「中野くんは何も言ってなかったのか?」
 尋人が四人に尋ねた。その質問に対し四人は顔を合わせコソコソ小声で囁き合うと、代表として山田祐輔が答えた。
「お二人のこと、そんなに悪い人じゃないから、とは言ってましたけど」
 昨日、五人が集った夜。小林圭、片桐実也子、山田祐輔、長壁知己の四人は中野浩太を吊し上げたのだ。浩太の正体がバレたことの経緯、そして、それをごまかし切れなかった相手。…まぁ、浩太を突つくのなんて簡単だけど、と四人は思うがこれは口にしない。
 四人が浩太に吐かせたのは、浩太が正体がバレるようなポカをやらかしたこと、そして浩太の正体を暴きに来た二人の名前。
 自分がやらかしたことについては後ろめたくて言いにくいのか口を濁していた。そして八木尋人と日辻篠歩の名前を聞いて「とっちめてやる」的発言をした四人に、浩太はすかさず八木たちのフォローを入れた。フォローと言ってもその時の四人の迫力に圧され、かなり弱気なものだったが。
「あんまり悪い奴じゃないよ、その二人は…」
「なに言ってんだよ、今回の元凶だろ?」
「そうよっ、中野はお人好し過ぎる!」
 圭、実也子に目の前に立たれ、浩太は反論さえもできなかった。一言だけ、「会えばわかるよ」と言った。
「それだけ?」
 篠歩は眉をしかめる。
「ええ。それだけです」
 はっきりと、祐輔は頷いた。
「中野くんもけっこう薄情だなー。もうちょっと助け船があって然るべきだと思うが」
「あんたに言われたくないけどね」
 のんきに嘆息する尋人を篠歩が睨む。続いて、
「聞けば、『B.R.』がすっぱ抜かれたことを逸早く浩太に知らせたのは八木さんだそうですけど、その辺りの行動の矛盾が分からないんですが」
 と、知己が訊いた。
 昨日の朝早く、浩太の自宅に週刊誌のスクープを知らせる電話が入った。それは八木尋人からのものであり、騒動に巻き込まれないよう身を隠すよう助言したものだったという。
 自らがスクープした内容について、そんなことを言うのはおかしくないだろうか。
 これは尋人に対する質問だったが、答えたのは篠歩のほうだった。
「だからっ、私たちが、バラしたわけじゃないのよっ」
 待ってましたとばかりに言い切った。
「……え?」
「嘘じゃないわ。誓って本当。…信じてよ。確かに、今年の七月から『B.R.』のこと知りたくて調査をはじめたわ。でもそれは仕事とは関係なく、純粋に個人的な興味として調べはじめたの。私一人じゃ無理だって踏んだから、古い友人の尋人にも手伝わせた。でも『B.R.』は百戦錬磨のマスコミにも捕まえられない存在……私個人なんかじゃとても敵わない相手だったのよ。四ヶ月間駆けずり回ったけど、結局何も分からなかったしね」
「…じゃあ」
「十一月頃だっけ。旧友に誘われて、二人でライブハウスに行ったの」
 気晴らしに二人が顔を出した店では、アマチュアのバンドが競うように自分たちの音楽を表現していた。その実力の上下はあるものの、その場所からメジャーを目指していく熱気はどのバンドも同じだ。ほとんどは十代半ばから二十代の若者で、具体的な目標を持った人達の集まりだった。
 奇しくも。
 そのうちの一つのバンドのギターの助っ人として、中野浩太が参加していたのだ。
「俺はすぐに分かったよ。『B.R.』のギターと同じ癖だって」
「癖?」
 実也子が首をひねる。
「…あ」
 心当りがあるのか、無意識の声を吐いたのは知己だった。
 中野浩太のギターの癖は、知己も知っている。当人はそれを「個性」と言っているけれど。
 しかし余程の耳の良さでないと分からないだろうに、尋人はそれを聴き取っていた。
「ま、そのことで確信とまではいかないけど、ある程度の予測は立ったわけだ」
 両手を広げて尋人は肩をすくめた。すると、ここで初めて圭が口を挟んだ。
「浩太のやつ、まさかそれを指摘されただけでゲロったわけ? 何の証拠もないじゃん」
「いや、続きがある。俺、そのライブハウスの店長と知り合いなんだ。あのバンドの演奏中にウラに入れてもらって、ちょっと楽屋を荒らさせてもらった」
「えッ、尋人、それ初めて聞いた」
「初めて言った」
「あんた、そんな泥棒みたいなマネしてたの?」
「物証が欲しかったんだよ。案の定、中野くんのギターケースの開けたら、『B.R.』の楽譜が入ってた。しかも書き込み入り」
 ギタリストに限らず、楽器ケースに楽譜をしまいこむ癖を持つ演奏家は結構多い。しかも奥にしまいこみ、そのまま忘れてしまう人もかなりいるのではないだろうか。
 尋人の楽屋忍び込みについての告白のあと、奇妙な沈黙が流れた。
「浩太が馬鹿なだけじゃん…、それじゃあ」
 呆れた、としか形容のできない言葉があった。
「圭…。それ、ミもフタもないですよ」
「だってそうだろ? 『B.R.』の楽譜なんてすぐ処分して当然じゃん」
「……実は私もケースに入れっぱなし。中野のことは強く言えないなぁ」
「ちょっと黙ってろ、話が途中だ」
 四人のそれぞれの個性ある反応を見て、尋人と篠歩は笑ったようだった。とりあえず、知己の言う通り話を続けることにする。
「それから一週間。俺は中野浩太の周辺を調べて、裏を取ったわけだ」
「私たち、中野くんに会いに行ったの。…尋人が正体みたりってずばっと言ったんだけど」
「中野くん、思いっきり顔に出るし、な」
「ね」
 苦笑する二人。
「浩太らしい…」
 まるで目に見えるように、四人は声を揃えた。
 そこで篠歩は声を改める。
「でね。ここからが重要。『B.R.』の正体を突き止めるっていう、当初の目的は果たされて、勿論、あなた達が疑っているように私が『B.R.』を記事にすることは簡単だったの。一時はそうしようとも思ってた。でも、中野くんに会ったら何か気がすんだし、それに本人が正体がバレるのをすごく嫌がってたから。…私たちは今まで調べた資料を全て捨てたわ。本当。それで終わりだったの。なのに───。昨日、『B.R.』が記事になると聞いて、一番驚いているのは私たちなのよ」
「…どういうことですか?」
「推測でしかないけど、どこかで私たちが『B.R.』について調べているのを知って、耳を欹てていた奴がいたんだと思う。…迂闊だったな」
「その誰かを調べるのは難しいし、今更無意味だ。…こんな事態になってはな」
 尋人は腕を組んで、溜め息をつくとともに背もたれに体重をかけた。それについて実也子が、
「無意味でも、私は知りたいわ。文句の一つくらい、言ってもいいでしょう?」
 と返した。
 尋人と篠歩は視線を合わせた。気まずそうな表情を送り、篠歩が覇気のない声で答えた。
「……それは、無理よ」
「どうしてっ?」
 空かさず実也子。
 一瞬の間があって、
「"ニュースソースは明かさない"。…この業界の絶対の掟だ」
 尋人が、低い声で言った。
 記事を出す出版社が必ずしもスクープを取ってくるわけではない。フリーのカメラマンなり、一般の情報提供者がそこには存在し、それぞれがモノにしたネタを出版社に売っている。彼らは決して表に名前が出ることはなく、出版社からの金銭と信用だけを糧にしているのだ。それは決して名声などに無欲なわけでなく、スクープされた被害者側に恨まれることを避けるためだ。
 そんな難しいことを言わずとも、簡単に言えば「おいしい話は他人には見せない」。そういうこと。
「責任の一端は私たちにもあるわ。それについては謝る。本当に、ごめんなさい。でも、私たちは部外者という立場でしかいられない。今後は見守ることしかできないわ」
 悲痛な表情で篠歩は頭を下げた。その肩を、尋人はトントンと指で叩く。
「篠歩。ここ、おまえの奢りな」
「えっ、何でっ?」
 いつも通りワリカンでしょっ? と、器用にも小声で叫ぶ。尋人は篠歩の肩を叩いた指をそのまま目の前の圭に向け、自信たっぷりに言った。
「『B.R.』のボーカル、男だよ。賭けは俺の勝ち。差額は後で請求するからな」
 尋人と篠歩のやりとりを聞いて、今度は四人が目を合わせて笑った。



*  *  *



 同日の昼間、ホテルで姿を潜めているはずの中野浩太は、サングラスに帽子という格好で外出していた。ベタでお約束な変装ではあるが、結構効果があるようだ。街中の街頭VTRや電車の車内吊り広告は『B.R.』、そして中野浩太のことで持ち切りだというのに、本人はこうして普通に外出できている。もしかしたら浩太の好きなミュージシャンなども、気付かないだけで、こうして街中を歩いているものかもな、などと思ってしまう。ホテルを出るときの叶みゆきの心配ぶりは尋常でない程だったが、現実はこんなもんだ。
 浩太の携帯電話は昨日から鳴りっぱなしだった。それは主にニュースを見た外のバンド仲間や学校の友達で、中にはほとんど連絡を取らなくなっていた中学時代の知り合いもいた。珍しい電話の内容は何となく予想がつくもので、そして予想通りのもので、予想外の電話の回数にうんざりした浩太はほとんどの電話を無視し続けていた。今朝になってから浩太が接続を許した電話は、家族からのものと、一本の「例外」だけだった。
「大場か。つまんねー内容なら切るぞ」
 浩太のクラスメイト。特に仲が良いというわけではないが、不思議と一緒にいることが多い人物だ。そういえば、昨日の電話の嵐のなか、彼からの電話はなかったな、と思い返す。
 他の電話にイライラしていた浩太は八つ当たりも手伝ってあからさまな牽制をした。しかし。
『オレにとっては重要だ。浩太、てめー、五百円返せっ』
 開口一番、受話器の向こうから大場は金銭問題を持ち出した。予測していたどの内容とも違うものだった。
「は?」
『夏に、今年も『B.R.』が現れるか否かで賭けしただろ? おまえ、そのとき俺から五百円巻き上げたじゃん。おまえ自身が『B.R.』ならそりゃ反則だよ、このやろー』
 大場は本気で怒っているようだった。
「…っ」
 浩太は電話口で大笑いした。頭を抱えて座り込んでしまった。何故だか、笑いが込み上げてきた。
『こんな切実だってのに、何笑ってんだよ。それより五百円っ、マジ、返せよな』
 次に会えるときでいいから。そう、大場は付け足した。
 そんな気遣いが、とても有りがたかった。
「サンキュ。倍にして返してやるよ」
『余計な借りを作らせんな。まぁ、消費税くらいプラスしてくれても、誰も文句は言わんが』
「オーケー。五二五円きっちり返してやるから待ってろ」
『なるべく早くな』
 そんな電話で気をよくした浩太は、ホテルでじっとしていられなくなって外に出たというわけだ。
 ただ目的もなく外出したわけではなく、浩太にはちゃんと行き先があった。
 中野浩太には、つい半月ほど前に知り合った友人がいた。彼のところへ顔を出してみよう、と思っていた。



 彼は大抵、ベッドで寝ているか、ベッドの上でノートパソコンを開いている。
 浩太が訪れたときに寝ていても、気配で分かるのか浩太が近づくとすぐに起き出してくる。パソコンを開いているときはすぐに閉じてしまい、何をしているかは教えてくれなかった。
「いっつも、寝てるかパソコンしてるかだよな」
 以前、そんな風に指摘したところ、
「どっちも趣味だからね」
 と、彼は笑った。
 神経研究所附属理和病院。
 彼は三ヶ月前からこの病院に入院しているという。元々体は弱いほうで小さい頃から通院していたのだが、とうとう入院させられたというのだ。そして半月前、兄のおつかいでこの病院を訪れた浩太は、偶然彼と出会った。
 廊下ですれ違ったとき、先に声をかけてきたのは彼のほうだった。
 初めはなれ慣れしいヤツと警戒していたが、話してみれば彼はちょっと抜けてるけど筋の通った人柄で好感の持てる人間だった。一部趣味が合うところもあり、浩太は週二回はここへ顔を出していた。
「やっほー浩太。すごいことになってるじゃん」
 西陽がよく当たる部屋、その窓際のベッドの上で肩の細い少年がくったくの無い笑顔を見せた。色の薄い髪と瞳の色、そして病室というシチュエーションがその姿を弱々しく見せるが、それらと不似合いな程明るい声を出す。
 やはりノートパソコンを膝の上に乗せていて、それをぱたんと閉めるところだった。
 彼の言うすごいこと、というのは当然、テレビもラジオも雑誌も新聞も賑わせている『B.R.』について───つまり中野浩太のことだ。
「なに、その格好」
 変装用のサングラスと帽子、そんな格好の浩太を見て遠慮なく笑い声を立てた。
「…うるせーよ」
 浩太は口を尖らせてその傍らに歩み寄る。
「バンドやってるのは知ってたけど、まさか『B.R.』だったとはなー。昨日の朝ニュース見て、せっちゃん先生も驚いてた。浩太、『B.R.』好きだって言ってたじゃん? それって自画自賛?」
 あははは、と白いベッドの上で体を折って笑う。
 彼は浩太が『B.R.』だと知っても、いつもと同じように話し掛ける。昨日の、知人からの電話に辟易していた浩太がわざわざここに来たのは、彼のこういう性格を知っていたからでもある。
「───希玖」
 彼、安納希玖の名を呼ぶ。
 今日、浩太がここへ訪れたのは理由があった。事情があって今まで尋ねられなかった質問を、希玖にしてみようと思っていた。
「なあ。今更だけど、希玖ってnoa音楽事務所の安納社長の息子?」
 この些細な質問を、浩太が今まで訊けなかったのには勿論理由がある。
 浩太の質問に、希玖は目を丸くした。
「お父さんのこと知ってんの?」
 あっさりと、肯定を口にする。浩太はやっぱり、と思っても世の中の狭さを実感した。
「あれ? もしかして『B.R.』の所属ってnoa? なんだ、それならそうと言ってくれればいいのに。まさか全然気付いてなかった? でもそれってかなり間抜けだけど」
 希玖に呆れられて、浩太は弁解するのを忘れたりはしない。
「俺が『B.R.』だってこと、隠さなきゃならなかったから、今まで迂闊に訊けなかったんだよっ」
 一般人は、一芸能事務所の社長の名前なんて知らないだろう。希玖のフルネームを聞いたからといって結び付けられるはずもない。
「外は大騒ぎなのに、わざわざそんなこと訊きに来たの? 案外、暇なんだね」
 悪気があるのかないのか、ずばっと言った。
「暇なわけねーだろ。外が大騒ぎなんだから」
 そういう言い方もありか、と希玖が笑う。
「──ねえ、浩太」
 少しだけ声を落とした。
「テレビ、見たよ。マスコミの人も、けっこう痛いところ突いてきてたね」
 世間を欺き続けてきたことについてどう思いますか──。
 そのことか、と浩太は視線を逸らす。一方で、分かってくれた人がいたという安堵感もあった。
「…確かに、あれはちょっと効いたな」
 もしかしたらあの質問は、芸能人を問い詰めるときの常套句なのかもしれない。よくある質問なのかもしれない。でもその言葉に浩太は傷ついた。
「自分の好きなことやってきたつもりだけど、それが誰かに迷惑かけてるなんて思わなかったなー…」
 珍しくしおらしい浩太を元気付けるように、
「誰にも迷惑かけないで生きるなんてできっこないよ。そういう僕も、短い人生のなかでやっぱり後悔したくないから、好きなことさせてもらってる。周囲には迷惑かけっぱなしだし」
 希玖はそう言って微笑んだ。しかし希玖の突然の告白に浩太は言葉を失った。
(短い人生──?)
「………」
 浩太が黙り込んだので希玖は視線を上げた。
 あっ、と自分の失言に気付き、
「あ、勘違いしないで。僕は放っておけば百は生きる体だよ」
 と、あまりにも簡単に訂正する。
 ぷちっ、と浩太がキレた。
「てめーっ、質悪すぎだろそりゃーっ!」
 希玖の頭を抱え込んで、その首をしめた。希玖は笑いながら悲鳴をあげる。
「わー、ごめんごめん」
 あははは、と声をたてて笑う。しかしふと真顔に戻ると、希玖は呟いた。
「────…でも、短いんだ」
 かなり小さい声だったが浩太には聞えた。
 そう言った希玖の横顔は、どこか儚くもあったけれど、とても強いものだと、感じた。





*  *  *




 都内某所。noa音楽企画事務所五階、社長室前─────

「かの〜っ」
 背後から伸びる両腕があった。
 突然強い力に抱きすくめられる。
「…きっ」
 勿論、叶みゆきは悲鳴をあげた。
「きゃあああぁっ!」
 バサバサバサッと派手な音を立てて、みゆきが持っていた書類が空を舞う。それには構わず、みゆきはほとんどパニック状態で抵抗したが、その力が弱まることはなかった。その正体を見極めようとどうにか身をよじる。背後に立つ人物を目に入れるとみゆきは驚きとともに呆れた声をあげた。
「な…っ、新見さんっ?」
 そこにはみゆきの知る人物、新見賢三が立っていた。年齢は確か三一歳。  
「よっ。半年ぶりやな」
 人好きのする愛嬌ある顔で笑う。
「は、離してくださいー」
「まぁまぁ」
 何がまぁまぁなのかさだかではないが、それでも手を放さない図々しさはある意味立派だ。みゆきには迷惑以外のなにものでもないだろうけど。
 その時、目の前の扉が開いた。
「叶、何騒いでいる」
 助け船、とは少々…いや、かなり言い難いが社長室から出てきたのは、この事務所の社長である安納鼎だった。廊下に響く悲鳴をあげたみゆきを叱りにきたのだろう。しかしみゆきの背後にいる以外な人物を目にすると安納は眉をひそめた。
「……新見? 呼んだ覚えはないが」
「やっほー、安納社長。相変わらずツレないなー」
 やっとのことみゆきから手を放した新見は、安納にひらひらと手を振ってみせる。
 ピタとその手を止めて、不敵に笑うと新見は声色を改めた。
「聞くところによると、明日、『B.R.』の記者会見やるらしいやん」
「それがどうした」
 凄んで見せたのに、あっけないほど簡潔な回答。新見は一瞬だけ落ち込んで、次に泣き落としにかかった。
「シャチョー。顔も知らん三年越しの仕事仲間がとうとう顔出すのに、報道連中と一緒に大人しく発表を待ってろ言うんは、かなり酷じゃねぇ?」
「大人しく待ってろ」
「シャチョーっ!」
 仕事仲間、と新見は言った。
 ところで『B.R.』は五人のメンバーから構成されていて、プロデュースのKanonをいれれば六人になる。それからプロジェクト総指揮の安納鼎。
 当たり前のことだがそれだけの人員でCDが作られるわけではない。
「シャチョーはケチだー、って桂川もムクれてたぜっ? それにっ、『B.R.』プロジェクトのスタッフだって、俺と桂川の他に数人はいるんだろ? スタッフさえお互いの顔を知らんのは水臭いと思わんかっ」
「そういう契約だったはずだな」
「頭かったいな、ほんと」
 新見賢三は『B.R.』のCD製作スタッフの一人、正真正銘『B.R.』プロジェクトの一員である。が、彼が『B.R.』の仕事で会う人物といったら安納鼎と、企画打ち合わせで一緒になる叶みゆき、それから職種上どうしても共同作業になる桂川だけだった。これだけ大きい仕事だ、普通ならスタッフが数十人はいるところである。
「じゃあ、いつになったら会わせてもらえるん? 叶はどうなん? 全員、把握しとるん?」
「え…っ、あ、私は……」
「新見」
 会話を中断させる、安納の声。そして続けた。
「二週間後に全員で記者会見を行う。全員、だ」
「え…それって」
 とたんに新見の声が明るくなった。
「嫌でもそのときには顔を合わせることになる。…それより、一つ頼まれて欲しいんだが」
「は?」
「……」
 そこで、安納鼎は新見賢三に仕事を一つ依頼した。
 それは『B.R.』プロジェクトの仕事であった。今日、叶みゆきがここに居るのも、その仕事の打ち合わせに来ていたからだ。
 期限は三日間というかなり無茶なものだったが、新見の性格から断わるわけがないと、安納もみゆきも知っていた。
「……さっすが、社長。商売人は考えることがあざといな」
 嫌味を言いながらも笑みを隠せない新見。
「桂川にも言っておいてくれ。正式な通達は明日一番で届くようにする」
「他のスタッフには?」
「こちらから依頼しておく。まだおまえにはばらさないよ」
 簡単な誘導尋問に引っ掛かるわけもなく、安納は最後に一言、付け足した。
「『B.R.』プロジェクトは秘密主義だからな」



 新見がスキップしかねない足取りで去った後、残されたみゆきは安納に視線を投げた。
「全員での記者会見って、………"Kanon"は?」
 恐る恐る小声での質問に安納は短く答える。
「メンバー外だ」
 露骨に安堵するみゆき。その横顔を、安納は冷めた目で眺めていた。新見や『B.R.』の五人、そしてみゆきもまた、二週間後の記者会見の意味を分かっていないのだ。
 安納鼎が『B.R.』プロジェクトを立ちあげた理由はたった一つだ。忘れられがちだが、正体不明という売り出し方を持ち掛けたのも安納自身、他メンバーの都合とは利が一致しただけのこと。それは叶みゆきも分かっていたはず。まさか忘れたわけではないだろう。
「叶」
「え…っ、あ、はいっ」
 隣の安納を仰ぐと、真っ直ぐに視線が合った。
「分かっているだろうがKanonのこと、誰にも言ってないだろうな」
「…はい」
 みゆきは咄嗟にうつむいてしまう。ああそのことか、と嘆息した。途端に胃のあたりが痛んだ。原因はわかってる。それこそ、すべてのはじまりから。
「これからも、仲間内に対してもな」
 これからも?
 これからも、嘘をつき続けろというのだろうか。彼らにまで。
 ───『B.R.』プロジェクトが立ち上げられたとき、みゆきは少なからず驚いた。彼の音楽が形になるという喜びもあったが、それとは別に不安もあった。何故なら、彼は表舞台に立てない人だから。隠れなければならない存在だから。だから。
 Kanonの代役として、叶みゆきが選ばれた。
「おじさん…っ」
 無意識のうちに、みゆきは声を発していた。また、胃が痛んだ。冬だというのにこめかみには汗が滲んでいた。
 血縁を表す呼称を使ったみゆきを睨みながら端的に返す。
「なんだ」
 いつも、その視線に負けてしまう。
「あの…」
 でも、言わなきゃいけない。
「…私、やっぱり駄目です! 希玖の代わりなんて…できませんっ。嘘を付き続けているのが辛いんです」
 言った。
 たったそれだけの言葉に、みゆきの息はあがった。
 Kanonは私じゃない。
 何度、叫びそうになったことだろう。
 期待や賞賛。押しつぶされそうになるそれらに対し、それでも見合う楽曲が出来上がってくる。誉められるのは私。でも私が造ったわけじゃない。
 Kanonは、安納希玖だ。
「安心しろ。おまえがマスコミの前に出ることはない」
「…そうじゃなくてっ、スタッフの皆にです。新見さん、桂川さん、大塚さんや須佐さん一村さん、………そして」
 あの五人にも。
 世間の評判はどうでもよかった。ただ、演奏者の五人に賞賛されるのが、一番辛かった。
 そんなに、笑顔を見せて欲しくない。裏切っているのは自分だから。居たたまれなくなるから。
「社長!」
「叶も、あいつの事情は知ってるはずだろう」
「…」
「おまえは、仲間内ならKanonを公にしても大丈夫と思ったんだろうが、例えば『B.R.』にあれだけ気を遣っていてもバレるものはバレた。世間にとって『B.R.』とはあの五人でしかないから、まあ、この辺りが潮時だったとしよう。…だがKanonは? 叶も知ってる通り、あいつは外に出すわけにはいかない。バレて「しょうがない」では済まないんだ。少しでもKanonの正体を広めることの危険性はわかるだろう?」
「……」
 Kanonを表には出さない。安納は、初めからそう決めていた。
 演奏者の五人の正体をも隠すことにしたのは、後の話し合いで確定したことだ。結果的にそれが効を奏し、今の『B.R.』があるわけだが。
 今、世間では『B.R.』が明かされることで騒がれているけど、仕掛人である安納は特に慌てていなかった。安納が思案を巡らせているのは、『B.R.』の作詞曲家である"Kanon"をマスコミに探られない為に、いかにあの五人を使うかである。
 叶みゆきは、そのことをよく分かっていた。
 にも関わらず、二週間後の記者会見を行うことの意味に気付かずにいるのは、人生経験の浅さであろう。多分。
 念を押すように、安納は言った。
「Kanonのことは口をすべらすな。わかったな」
「…はい」
 声が震えていた。安納はいつも通り無視してくれるだろう。
「明日の記者会見は私のほうで巧く進める。おまえはおまえの仕事をしろ。近いうち希玖とも連絡をとっておいてくれ」
「はいっ」
 気持ちを崩さないために、大声を出す。
 安納はすでに廊下を歩き出していた。
「それから至急、スタッフ全員に企画案の送付を。特に須佐には早く動いてもらわんと間に合わない。頼んだぞ」
「…はいっ!」
 結局みゆきの願いは叶わず、いつものように慌ただしい企画がスタートする。
 もう、溜め息も出なかった。




*  *  *




 夜の九時を回っていた。
 浩太と安納社長の記者会見が始まるまであと十三時間。
 安納は世間を落ち着かせるために会見を行うと言っているが、今のこの騒動がさらに大事になるだけのような気がする。でもまあ、中野浩太という役者を明示することで話題は浩太に集中し、余計なところを勘ぐられることはなくなるだろう。二週間後にはその他のメンバーも顔見せするというのだから、脚本が良く出来ている。
「所詮は、…誰かのせいにして楽になろうっていうのは、ムシの良すぎる甘い考えだってことだな」
 八木、日辻と別れた四人はホテルの近くのラーメン屋にいた。
 今回の騒動の元をとっちめる、と亥きりだって出かけたはずだったが、事情を知った今となっては覇気も収まった。
 知己の意見に祐輔も同意する。
「蓋を開けてみれば、誰も悪くなかった、というのもよくあることですしね」
「世の中厳しいなー」
「ま、そんなもんだろ」
 ラーメンをすすりながら、四人はそれぞれ溜め息をついた。どう足掻いても明日には浩太がマスコミの前に出る。そして二週間後にはこの四人も。(安納は代理人を使っても良いと言っていたが、多分それは無いだろう)
「で? どうする?」
「……」
 知己の問い掛けに、全員が沈黙した。
「ミヤは? 嫌がってたじゃん」
 圭が言った。
「え?」
 実也子は話題を振られ、一瞬きょとんとした。しかしすぐに、当初、正体がバレるのを嫌がっていたのは自分だと気付く───その理由も思い出し、視線を落とした。
「ああ…、うん。そっか」
 かたく目をつむる。
 そして開く。
「…私ね、昔、弦バスの演奏家に弟子入りしてたの」
 他三人は実也子の告白に驚いた。全員が初耳だった。
 確かに、あまりメジャーと言えない楽器のコントラバスを実也子が巧みに操るのは、専門的に教わったことがあるからかもしれない、という程度には思っていたが。
 そして、自分のことは何でもあっけらかんと話す実也子から、そのことを聞かされたことは今まで一度もなかった。
 うつむいたまま、実也子は続ける。
「思いっきりクラシック肌のところ。『B.R.』を始める前にやめちゃったから先生とはもう関係ないんだけど、今回のことで私の名前が出て、ちょっと調べられたら先生の名前も出ちゃうでしょ。それは、嫌なんだ…。先生にも迷惑かけちゃうし、それに…」
「それに?」
「ううん、なんでもないよ。…先生に迷惑かけるのは、すごく、嫌だったから正体がばれるのも嫌だった。それだけ」
 でも、と痛々しい笑顔で言う。
「しょうがない、のかな」
 沈黙が生まれた。
 しょうがない。その言葉はほぼ全ての事象を収めてしまうちからがある。
「あ、長さんは? 長さんも、嫌がってたよね」
 沈黙を取り払うために実也子が切り出した。
 ちょうど麺をすすっていた知己は、それを喉の奥に押しこんでから、
「言ったことなかったと思うけど」
 と前置きする。
「俺は昔、…十年くらい前だけど、東京でバンドやっててさ」
「え? 何それ、知らない」
「プロだったのっ?」
 圭と実也子が身を乗り出す。
「まぁ、一応その金で生活してたからプロとは言うんだろうな。ジャンルがマイナーだったから知らないだろうけど。俺が、自分の名前が出るのを嫌がったのは、その時の仲間に知られるのは避けたかったからだ。俺が勝手にやめたんで怒ってたし………つーか、あんまり昔の事掘り返したくないんだよ」
 最年長の知己。三年も付き合ってきたが、初めて弱音らしい弱音を聞いた気がする。
「…確か祐輔も?」
 圭が三人目に話題を振った。
「僕は二人のように深刻じゃないですよ。ただ大学のときに「演奏家にはならない」と宣言して卒業した手前、気恥ずかしいだけです」
 比較的冷静に(もしくは冷静を装っているのか)祐輔は答えた。さらなるつっこみを入れようとした圭の言葉を遮って、祐輔は三人に言い放った。
「多分問題は、今の生活を切り捨てられるかってことです」
 圭、実也子、知己は食べるのをやめて、その言葉を聞いた。
「…どういうこと?」
「安納社長が何を考えているかはわかりませんが、記者会見の後、僕らがどうするのか選択は二つしかありません」
「メジャーでプロとしてやっていくのか。もしくは、きっぱりと解散するか、だな」
「その通り。もっと簡単に言うと、続けるか続けないか、それだけです。先程出たように、僕らは顔を出してまでバンドを続けたいとは思えない理由があります」
「でもっ、それを踏まえても『B.R.』を続けたいっていう気持ちもあるよっ」
「…だから難しいんだよ」
「そう。もし、このまま『B.R.』を続ける場合、今までのように年一回というわけにはいかないでしょうね。正体が明かされた後では、以前のような売り方は無意味ですから。もしかしたら、全員、東京に出てくるハメになるかもしれません」
「それって…つまり、プロになるってこと?」
 ───例えば。
 長壁知己は新潟の実家で稼業手伝い、山田祐輔は横浜でピアノ教室を営んでいる。片桐実也子は群馬で大学生、小林圭は名古屋で中学生だ。中野浩太も、都内の高校生である。
 彼らは一年のうち、夏の一週間のみ、一年の五二分の一だけ、『B.R.』として活動している。他、五二分の五一は、皆、それぞれの生活があって、それぞれ忙しかったり、楽しんだりしている。
 プロになるというのは、それらの生活を切り捨てるということだ。
(つまり、プロになるってこと?)
 実也子は自分の言葉の意味に驚いた。
「私…、そんなつもりはなかった。そういう風に、考えたこともなかった、な」
「…………」
 現実に引き戻される。
 先が見えない未来、足場のない明日。
 本当に好きなことをやろうとしているのに、こんなにも不安になるなんて。
「……圭は?」
「そういえば、圭の言い分を聞いてませんでしたね」
 知己、祐輔が言う。珍しく意見せずに聞き手に回っていた圭は、やっぱりきたか、と苦笑した。どんなふうに答えるべきか、圭は十秒ほど考えた。
「…俺は」
 と、口を開く。
「皆と違って、あんまり悩む必要は無いんだよな。あと三ヶ月もすれば中学卒業だし、人生設計では高校で遊びながらデビューするっ、て算段だったんだけど。まあそれが早まったと思えばいいよ」
 もしこの台詞を圭以外の中学生が吐いたなら冗談に聞えたかもしれない。けど、そう言ったのは他でもない小林圭だった。
 憧れるだけの夢とは違う、具体的な目標、それを実現させる為の手段、努力。
 圭はそれらをしっかりと考えているのが分かる。
「さすが、しっかりしてますねぇ」
 祐輔のその反応は単なる感心ではなく、尊敬が含まれる納得だった。
「しっかりしすぎるのも問題あると思うが…」
「あはは。メンバーの中で一番しっかりしてるよね」
 年長三人組にとって、圭のその姿勢は羨ましく映る。そのひたむきさ、奔放さや情熱、そういった類のもの。
 同じものを同じように好きなのに、いつのまにか臆病になっていることに気付く。
 それは多分、三人が、それぞれ目指したものを諦めたときから生まれた。
 何かを始めるのは意外と簡単で、必要なのは勢いだけですむ。でも。
 続けてきたことを辞めるときの覚悟はそれは大変なものだ。自分のちから不足、それを認める辛さ、費やしてきた時間を無駄にするということ。
 一度諦めた道を、もう一度目指そうとするのは想像以上に大変だ。
 圭にそういった不安や臆病さというものが無いのは、そういう経験が無いからだとも言えるが、若いうちはその勢いが必要である。
「でも」
 圭はそこで間を置いた。
「ここで皆が辞めるって言うなら、俺は予定通り高校に行くぜ?」
 まっすぐに三人を見据えて、圭はそう言った。
 三人は極端な反応を見せて驚いた。
「…圭」
「圭ちゃんっ?」
 今、確かなチャンスがあるのにそれを逃がすと圭は言っているのだ。
 例え『B.R.』が解散したとしても、圭にその気があるならこの業界に残るのも難しくはないだろうに。
「これが卑怯な意見だってのはよく分かってる。俺の今後を皆の選択に委ねてるわけだからな。でも、今は『B.R.』でしか、歌いたくない。……それが、俺の意見」
 相変わらずの迷いのない瞳で、今誰より落ち着いている圭は三人に言った。
 そんな風に言われたら、納得するしかない。
 四人は顔を見合わせて黙契した。
「とりあえず、一度それぞれの家へ帰りますか。いろいろと事情があるでしょうけど、打ち明けなければならない内容は同じです」
「…だな」

 それぞれが帰郷する朝、安納は駄目押しのように五人に問い掛けた。
 ───── 君達はこれからプロとしてやっていく気があるのか?
 それは人生の選択でもある。





*  *  *

 十二月十日。
 五十人からの報道陣が集まる中、安納鼎と中野浩太による記者会見が行われた。


*  *  *




 東京都。十二月十一日。
 神経研究所附属理和病院。

 病院の棟と棟の間にはちょっとした広場があって、そこは中庭と称されている。建物に囲まれているにも関わらず日中は日当たりが良く、入院患者の散歩やちょっとした社交場として利用されていた。
 中庭の中央には二メートルほどの樫の木があり、クリスマスの季節になると子供たちが飾り付けをして、日が沈むと電飾が灯った。自慢してもいいが、これはちょっとしたものだ。
 午後五時。いつも通りツリーのあかりが灯った。中庭の芝生の上に、病院の窓からの明かりが映っていた。
 実際、この季節のこの時間は寒くて外に居るどころではない。気温は10℃以下まで下がり、はしゃぎたい盛りの子供たちにドクターストップがかかることも理由の一つである。
 そんな中、安納希玖は中庭の椅子に腰掛け、西の空を仰いでいた。白いパジャマにカーディガンを羽織っただけのその姿はやはり寒そうだった。茶色の髪が風に晒されても、希玖は身震い一つせずにただ空を眺めていた。
 太陽は西の空へと追いやられ、そして沈もうとしている。空はもう夜の色。深い群青、闇から光へのグラデーション。ビルの輪郭ごしに光る色だけが、太陽の沈んだ方角を教えてくれていた。風が一層冷たく吹いた。
 冬の匂いがした。
(…)
 遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。
 希玖はかたく目を閉じることで、その音を意識から遮断した。
 その時。
「早く病室へ戻れって、関先生言ってるぜ?」
 突然の背後からの声に、希玖は目を丸くした。反射的に振り向いた。
「よぉ」
「……っ」
 そこには中野浩太が立っていた。ジャンバーにマフラー、それでも防寒対策は完璧ではないらしく、首を縮ませて両手をポケットに突っ込んでいる。
 希玖は笑った。
「あはははははは」
 座ったまま体を折って大声で笑う。突然のそれに浩太は亥を突かれた。
「…なっ、…前触れもなく笑うなーっ」
 それでも笑い続ける希玖。浩太は何がそんなにおかしいのか分からず、自分の格好を見直してみたり、後ろを振り返ってみたりする。見当違いの行動に希玖はさらに笑い続けた。
「浩太って、ホント、ヒマ人だねー。こんな時間にこんな所に来るなんてさ。他に行く所ないの?」
 笑い涙を拭って、希玖は言った。
「ワリーかよ?」
 むっとして浩太は逆に問うが、実は行く所がないのは事実だった。
 家にいてもマスコミは押し寄せてくるし、この状況で他の友人と会うのは更に騒がしい事態になる。『B.R.』のメンバーは全員東京を離れているし、社長が用意してくれたホテルに居るのもいい加減飽きたのだ。
 それに、どうやら浩太は自分が思っている以上に、希玖のことを気に入っているらしい。
 気が付くとここへ足を運んでいた。
「悪くなんてないよっ。かち合わなければ、僕は大歓迎だよ」
「かち合うって?」
「それは秘密です」
 人差し指をたてて、くすくすと笑う。
「?」
「浩太、そんだけ厚着してるのにまだ寒いの? 風邪?」
「おまえが薄着すぎるんだよっ。そんな格好で外出て、一体何やってんだ」
 寒さも手伝って浩太はキレ気味だった。爪先から頭まで寒さが伝わってくるこの寒さの中、パジャマにカーディガンという希玖の格好のほうがはるかに異常だ。見ているだけで浩太は震えた。
「お月見してたんだよ」
「は?」
 希玖は西の空を指さした。かろうじてまだ明るさが残っていた。その夕闇の中に。
 ビルの間に太陽が沈んだ後の群青の、飲み込まれそうな空の中。
 月が、浮かんでいた。
「この時間のお月見がけっこー好きなんだ」
「…へーえ」
 浩太も、その景色に見入った。
(………あれ?)
 浩太はちょっとした既視感を覚えた。
 何か思い出しかけた。浩太はそれを辿るために黙りこむ。
(誰か、同じこと言ってなかったか?)
 深く集中しはじめると、その「同じこと」というのが何なのかさえも分からなくなってしまった。
(……?)
 浩太は考えることを諦めた。そのうち思い出すだろう、と見切りをつける。
 顔を上げると、希玖の笑顔と目が合った。
「浩太って、いい奴だよなっ」
「え?」
 希玖はにこにこしながら浩太を見つめている。ツリーの電飾が横顔を染めているその表情は決して冗談ではないようだった。が、突然で脈略のない告白を軽い冷やかしと思って、浩太は踵を返した。
「馬鹿言ってねーで、部屋戻ろうぜ」
「うんっ」
 勢いよく椅子から立ちあがる。
 浩太に続き歩きだそうとした、とき。
「!」
 ある兆しを感じて、希玖は額に指を置いた。
 一歩を踏み出せない足は軽く震えていた。
 心拍が速くなる。
 下半身の感覚がなくなり、意識がブレる感覚に陥る。
「……っ! ごめんっ、迷惑かけるかも」
 それだけ、言葉を残すのが精一杯だった。
 ぐらり、と希玖の体が傾いた。
「は? ……えっ、おいっ!」
 浩太は咄嗟に手を伸ばす。
 希玖の腕を引いた反動で、その体はそのまま浩太のほうに倒れてきた。
「…! うわっ」
 軽すぎるはずの希玖の細い体を支えることもできず、結局浩太は後方に崩れた。
 希玖もろとも、地面に派手に倒れ込んだ。
 ドサッ
「………。いってぇー」
 まともに背中から落ちた浩太はその痛みを口にせずにはいられなかった。下が芝生だったことは救いだろう。腹の上に希玖の頭が乗っているのは見なくてもわかった。
 背中の鈍い痛みが通り過ぎるまで、浩太は立ち上がることができなかった。
「希玖っ! …何だよ一体」
 浩太は完全に巻き添えにすぎない。しかも当の希玖は予告までしていた。
「……希玖?」
 返事はない。浩太は背中の痛みを堪え上体をあげた。
「おいっ!…希玖っ!」
 浩太の上に重なる希玖を起こそうとする。しかし希玖の肩を揺らしても、本人にその意志は見られなかった。
 意識がない。
 その時始めて、浩太は希玖がここに入院している患者なのだということを意識した。
 いつもへらへらと笑って、パソコンをしたり、散歩をしているところしか見てないので深く考えたことがなかったのだ。
「希玖っ!」
 完全に昏倒している。浩太は青くなった。
 浩太は希玖の病気を知らなかった。怖くなって、叫んだ。
「先生ーっ! 希玖が倒れたっ、早く来てくれーっ」





「落ち着いて、中野くん。大丈夫だから」
 希玖の主治医である関久弥はほとんどパニックに陥っている浩太をどうにか落ち着かせようとした。
 関は三六歳で、七年前から希玖についているという。
 結局、浩太の呼びかけに駆け付けた関が、希玖を病室まで運んだのだ。その後の処置はと言うと、関は希玖に外傷がないことを確認し、顔に耳を近づけて呼吸を聞いただけだった。
 人一人倒れたというのに、それだけ看ただけで何が分かるというのだろう。だから浩太はパニックから抜け出せないでいるのだ。
 希玖はベッドの上で、静かに眠っていた。
「でも、こいつ、急に倒れたんですよっ?」
 大丈夫だから、と言われても、それだけで理解できるはずもない。
「そういう病気なんだ」
「そういう…って、それじゃわかんないですよ───……?」
 浩太は関の言葉の意味を理解しようとした。何か今、妙なことを言われたような。
「……え?」
 浩太はさらに混乱した。今、関は"そういう病気"だと言わなかったか?
 関は浩太を安心させるように笑ってみせた。
「希玖を見てごらん。顔色もいいし、呼吸も正常だ。今回のように突然倒れるのは確かに彼の病気の発作だが、これは寝てるだけだよ」
「は?」
 ベッドの中の希玖に目をやる。
 確かに、こうして見るとただ眠っているようにしか見えない。穏やかな寝息を立てていた。
 そして、関は希玖の病名を告げた。
「希玖は過眠症なんだ」

 睡眠障害の一つ、ナルコレプシー。
 不眠症は五人に一人といわれるほど代表的な睡眠障害だが、その逆に過眠症というものもある。ナルコレプシーもそれにあたり、現在日本には二万五千人いるといわれている。
 文字通り、健康な人よりも眠り過ぎてしまう病気で、周囲に理解されないことが多い。昼間でも睡魔が発作的に襲い、感情が昂ぶると足の力が急に脱力して倒れてしまうこともある。
 過度の眠気、レム睡眠異常および情動脱力発作を特徴とする睡眠障害。
 薬剤である程度抑えられるものの完全な治療法は見つかっていない。先天性であると言われているものの、一卵性双生児の不完全一致も報告されている。

「健常者の何倍もの疲労負荷、睡眠時と活動時の脳波異常。それが希玖の病気だ。──簡単に言うと、すごく疲れやすい体質で、長い時間起きていることができない。突然糸が切れたように眠っちゃうこともある、それこそ普通に歩いているときでもね」
 つまり今回のように、目の前で倒れることもよくある、ということだ。
「希玖が昏倒するのは心配しなくてもいい。ただ寝ているだけだからね。どちらかというと、倒れたときに頭をぶつけるほうが心配だな」
 関は苦笑した。
「………」
 浩太は何も言わなかった。そんな病気があるということさえ、今日初めて知ったのだ。どう受け止めて良いのか、まだ分からなかった。
 さらに関は続ける。
「この病気の症例者の中でも、希玖はかなり重度なほうでね。一日に三十錠の薬を飲むことで、今の状態がようやく保てるほどなんだ。それでも、希玖の一日の活動時間は八時間を切ってる」
「でもそれじゃあ…」
 普通の生活など、できるわけないじゃないか。
 声には、出せなかった。
 一日の活動時間は八時間。それは通常の人の半分だ。
 何ができるんだろう。何がしたいんだろう。意識がない間に、時間は過ぎて行く。
 例えば浩太が授業を聞かないでぼーっとしているような、そんな時間さえ彼には許されない。
 限られた時間のなかで、彼はどんな気持ちで、どんな覚悟で、毎日を生きているのだろう。
 関はもう一言、浩太に付け加えた。
「心配も同情もいらないよ。教えてはくれないけど、希玖は自分のやりたいことを実行しているようだし、それに周りの人間に恵まれてるんだ、彼は」






(短い人生のなかで後悔したくないから)
(好きなことさせてもらってる)
 放っておけば百は生きる体だと言った。
 それでも、短い人生だと。
 希玖は、笑った。
「……こういう意味だったのかよ」
 希玖が眠るベッドの傍らに腰かけて、浩太は呟いた。
 不思議な気持ちだった。希玖の病気を知らされたショックと、知らされていなかった憤りと、これまでどんな風に生きてきたのかとか考えてしまう。
 きっと支えてくれている人がいる、ということは容易に想像できた。家族でも恋人でも、希玖にはそういう人がいるのだ。多分。
 一人であんな風に強くはなれないだろう。
(………あれ?)
 浩太はそこで思考を停止させる。
 また、何か思い出しかけた。
(なんだ…?)
 記憶を辿ることに集中し始めた浩太。
 しかしそれを邪魔する声があった。
「あれー、浩太、まだ居たの?」
 ベッドから希玖がのそのそと這い出してくるところだった。
「今、何時? あ、まだ七時前なんだ」
 ふわああああ、と緊張感のない欠伸をする。
(……)
 途端に、浩太は希玖を殴りたくなった。さっきまでシリアスに考えてきたことが馬鹿馬鹿しくも思えた。
「あのなぁ…」
 バンッ!
 浩太の言葉を遮るように、物凄い勢いでドアが開かれた。
「希玖っ、倒れたって本当? 大丈夫なの?」
 と、同時に同じくかなり勢いづいた少女が転がり込んできた。そのまま希玖のベッドまで駆け寄る。息が上がっている。病院内だというのに、ここまで走ってきたのだろう。長い髪が乱れてボサボサになっていた。眼鏡の奥の両眼は心配を隠せない色で、希玖をじっと見つめている。
 驚いたことに、浩太はその少女の名前を知っていた。
「あ、みゆきちゃん。いらっしゃい」
 希玖は予定していなかった客を笑顔で迎えた。
「…………──かのん?」
 浩太は半信半疑で口を開く。
「え?」
 少女はそこで、はじめて浩太を目に止めた。目を見開いて、もう少しで悲鳴をあげそうになったのではないだろうか。でもそれを飲み込んで、
「………浩太さんっ?」
 叶みゆきは器用にも小声で叫んだ。その後も意味不明の声を発して、希玖と浩太の顔を交互に見回した。どうしてここに?と言いたいのだろう。勿論、浩太もみゆきほどうろたえてはいないものの、驚いていることには変わりない。
 ただ一人、落ち着き払っている希玖がみゆきに向かって言った。
「へー。みゆきちゃん、かのんって呼ばれてるんだ。かわいいね」
「希玖っ」
 みゆきが希玖を軽く睨みつけた。
「……」
 意外な組み合わせだった。『B.R.』の仲間である叶みゆきと、偶然知り合った安納希玖がこうして同じ空間にいるのだから。
「何でおまえがかのんと知り合いなんだよっ」
 浩太は希玖に詰寄った。決して浩太の迫力がなかったわけではないが、希玖は平然とその言葉を受け止めた。
「えー? どっちかってゆーとそれはみゆきちゃんの台詞なんじゃない?」
「どっちでもいいから説明しろーっ」
「だって、みゆきちゃんは僕の従姉だもん」
 ね? とみゆきに同意を求める。予測していなかった血縁関係は浩太の頭の中ではすぐに結びつかなかった。
「…は?」
「みゆきちゃんのお母さん、僕のお父さんのお姉さんなんだよ」
「ということは社長の…」
「姪、だね」
 安納社長と希玖は親子で、希玖とみゆきは従姉弟同志。
(何か、できすぎてる気がする…)
 希玖は『B.R.』を好きだと言ったことがある。その正体を見てみたいとも言った。
 希玖の父親は『B.R.』の所属事務所の社長で、希玖の従姉は『B.R.』の作詞曲担当。
 そして、その希玖の従姉。
 叶みゆき。
「───…なんで浩太さんがここにいるの?」
 と、浩太ではなく希玖に訊いたのはみゆきだ。問われた通り希玖が答えた。
「半月くらい前かなぁ。誰かのお見舞いに来てた浩太と偶然会ったのって。それ以来懐かれちゃって」
「懐いてんのはそっちだろうっ」
 浩太に怒鳴られて希玖はくすくすと笑う。
「あ。僕も聞かなきゃならないのかな。みゆきちゃんと浩太はどういう関係?」
 その台詞に、浩太はじとっと希玖を見据えた。
「しらじらしーぞ、希玖」
 わざと低い声で言う。希玖は首をひねった。
「なに?」
「おまえ、俺が『B.R.』だって知らなかったって言ったよな」
「言った」
「あれ、嘘だろ」
 みゆきが入ってきたとき、希玖が「あ、かち合った」と小さく呟いたのを浩太は聞き逃さなかった。
 希玖は浩太とみゆきが知り合いであることを分かっていた。そして自分が、浩太とみゆき、共通の知人であることをそれぞれに隠していたのだ。それに。
「かのんが嘘つき続けるなんて、できるわけないし」
 これは自信を持って言えた。
 『B.R.』を好きだという従弟に対して、自分を『B.R.』関係者だと隠し通せる性格ではない。
「ど、どーいう意味ですかっ」
 自分の性格を挙げられてさすがにみゆきは反論する。
「へー。浩太、みゆきちゃんのことよく分かってるなー」
 希玖は感心して声を弾ませた。冷やかしも含まれた言い方だったが、浩太もみゆきも気付かなかった。どことなく似ている二人を目の前にして、希玖は表情を改めた。
「───…あたり。浩太の言う通りだよ」
「希玖」
「嘘ついてもしょうがないし。ごめん、悪気は無かったよ。ほんと」
 みゆきを制して希玖は続ける。
「僕はお父さんやみゆきちゃんが『B.R.』に関わってることは知ってたし、浩太が『B.R.』のメンバーだってことも、実は初めから知ってたんだ」
 みゆきがうつむいた。
「…俺が『B.R.』のメンバーだから、声かけたのか?」
 半月前、この病院の廊下で声をかけられた。単なる偶然と思っていたことが、仕組まれたことだとわかった。
 希玖は否定しなかった。
「それもあるけど…」
「他に何かあるのかよ」
「ほら、前に言っただろ? 夏場に街中で助けてもらったことがあるって。浩太は覚えてないみたいだけど」
「…ああ」
 確かに、それは以前聞かされたことだ。
 浩太はさっぱり記憶にないのだが、今年の夏、浩太は希玖と会っていたらしい。街中の歩道で、具合が悪くなりうずくまっていた希玖に声をかけたのが浩太だというのだが…。
 未だ思い出せない浩太を前にして、希玖は微笑んでみせた。
「あの時のお礼をちゃんと言いたかったんだ。実は発作起こしかけてて、正直ヤバかったから」
 発作、という言葉を聞いて浩太の表情が曇った。先程、希玖の主治医に聞いたことを思い出したのだ。みゆきへと目をやる。希玖の病気のことは、もちろん彼女も知っているのだろう。
 浩太は首を振った。
 夏の一件のことを除いても、うまく逸らかされた気がしたから。
「俺が『B.R.』関係者だって知ってたなら、どうして隠してたんだ?]
「じゃあ、どうして浩太はお父さんと僕の関係を訊けなかった?」
 質問を予測していたらしく、希玖は満足気に笑みを浮かべた。
「わかってる。浩太は『B.R.』関係者だって、知られちゃいけなかったからね。それと同じで、僕もお父さんに『B.R.』については口止めされてたんだ」
「……で?」
「で、ってそれだけ。口止めされてたから、言わなかった」
 希玖は浩太の目を見ているものの、口の中では込み上げる笑いを噛み殺している。
 みゆきは、うつむいたままだった。
「あのなー」
 理由になっていない希玖の回答に釈然としない浩太は声を荒げる。巧く…いや、下手にごまかされた気がするのは決して気のせいではない。
 希玖はぽんと手を叩いた。
「そうそう。ところでみゆきちゃんは今日はどんな用事?」
「あ」
 自分でも忘れていたのか、みゆきははっとして顔を上げた。
 手間取りながら持っていた封筒を希玖に差し出す。
「これ……。あ」
 はっとみゆきは浩太に気まずい視線を送る。
 受け取りかけていた希玖の手から、封筒を半ば奪い取るようにして自分の背中へと隠した。とても分かりやすすぎる反応だった。
「みゆきちゃん?」
 手持ち無沙汰で希玖が声をかける。
「えーと……、あの」
 浩太に向けられる視線の意味は馬鹿馬鹿しいほどわかった。
 こんなときでさえ何も言えないみゆきの性格は、浩太もよくわかっている。
 途端に気が抜けて、気付かれない程度の溜め息を落とす。
(…あほらし)
「俺、帰るよ」
 そう言うと浩太は上着を羽織り帰り支度を始める。
「え? 何、もう?」
 浩太との会話をごまかそうとした希玖がぬけぬけと言う。でも浩太を引き止めようとする言葉は本音のもので、彼の性格の複雑さが伺えた。いや、単に天然に意地が悪いだけかもしれない。
 また追求する機会はあるだろうし、『B.R.』が集まったときにみゆきを尋問するのもいいだろう。
 希玖が何を隠し何を企んでいるのか知らないが、どちらにしろこれからも付き合うことになると思った。これは予感だろうか。
「浩太っ」
 名前を呼ばれた。浩太は振り返る。
「今日はごめんな。あと、ありがとう」
 真顔でそう言う希玖には、やはり勝てない。これからも振り回され続けるかもしれない、と半ば諦めの笑みを浮かべた。
「ああ。またな」
 そうして、浩太は希玖とみゆきに別れを告げた。




「あれ、中野くん。今、帰り?」
 正面玄関で関と会った。
「あ、はい」
「叶さん来てただろ? あの二人も仲良いよね」
「あいつ、よく来るんですか?」
「彼女は希玖が通院してたときからの付き添い人だよ。従姉弟なんだってね。最近はFDや書類をやりとりしてるし…。一体何を始めたのかなあ」
 関は楽しそうに笑った。
「…?」
 ふと、関が胸に持つノートの表紙の文字が浩太の目に飛び込んできた。
 何の取り止めもない、大学ノートだ。
 でもすぐに、浩太は何故自分がそれに気を留めたのか理解した。
 見知った文字がそこに書いてあった。
 でも何故、関のノートにそんな文字が?
「先生、…それ、何のノートですか?」
 きっと偶然の一致なのだろうが、気になったので訊いてみた。
「──ああ、これ? これは個人的な希玖の診断書だよ」
「は?」
 浩太はすっとんきょうな声をあげた。
「ほら、希玖、今日倒れただろ? 毎回記録してるわけさ」
 それはわかる。それはわかるが、何故、安納希玖の診断書(正確には関の個人的なノートだが)に、その文字が書かれているのだ。
(──アノウ、キク)
 胸の中でその名前を発音して、浩太は目を見開いた。
 そして関のノートの文字を凝視する。一文字一文字を追いかけながら、自分の読み間違いでないことを確認する。
 体が震えた。
「中野くん? どうかした?」
 関の声も耳には入らない。

 関のノートの表紙には、簡潔にイニシャルだけが書かれていた。
 「K.anou」───と。
 約二十秒、浩太はそのノートを眺めていた。
「……なんだ、そりゃ」
 呟いた。







5話 END
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