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6話


 十二月十日。東京都H区────

 U MUSIC JAPANという会社がある。
 オフィスは池袋ビジネス街の一画にあるビル、その6階の1フロアを間借りしていて、一二〇名からの社員は全員がこのオフィスに収容されていた。収容、と表現したのは、このフロアが既に面積的に手狭になりつつあるからだ。社員の間からは「引越ししよう!」という意見が出ているが、管理職を含む上層部からの回答はいつも同じだった。「金がない」。
 さて、この会社の業務内容を説明しよう。
 取引先は主に某業界のそれぞれの事務所で、たまに個人や法人、行政団体などもいる。
 客先からデジタル処理をした音楽≠データで受け取り、指定された媒体に焼き付け、それを指定された数に増産する。装丁を整え商品を作り上げるのが仕事だ。その後地方への発送を手掛けることもあるがそれはオプションである。
 一般にレコード会社と呼ばれている。
 各アーティストや事務所が持ち込む編集済みの音楽≠何百万枚ものCDに焼く。CDケースを手配する。指定された通りのジャケットを作る。つまりただのデータを、店頭に並べる商品にするまでの工程を請け負っていた。しかしU MUSIC JAPANでは、CD増産やジャケット印刷などは下請けの会社に任せているので、実際の仕事は依頼主との交渉と下請け会社への指示、それからこれも重要だが、それら商品の宣伝全般を行う。
 地味な仕事と思われるかもしれないが、セールスワークを全て担っているのだからアーティスト側にすれば必要不可欠にして重要な存在だ。
 U MUSIC JAPANは国内シェア五位。それでもこの業界では中堅企業と言える。
 そして、今噂になっている『B.R.』のCDの発売元でもあった。CDだけでなく、店頭ポスターやテレビCM、その他関連商品もこの会社から配給されている。
 メンバーから事務所スタッフまで全てにおいて秘密とされている『B.R.』の発売元。それは世間から見た場合、『B.R.』に関わっている制作スタッフのうち、唯一身元が明らかになっている企業だということだ。(スタッフの一人、Kanonという名も世間には知れているが、どこの誰とも分からないのでは何の意味もない)そんなわけで、『B.R.』の人気に火がついた当初からこの会社にマスコミが押し寄せていた。が、会社は守秘義務をこれ以上無いくらいの巧みさで貫き通し、何一つ情報が漏れることはなかった。以前、新聞記者の日辻篠歩がこのレコード会社の振込み口座から『B.R.』の事務所を割り出そうとしたことがあるが、調べたその先には偽造名義しか見えなかったという。
 朝九時五十分。U MUSIC JAPANのオフィス入り口に現われた人影があった。
「はよーっす」
 無精髭を伸ばし(単に時間がなかったのだ)、脹らんだ腹が目立つ五十歳の男性。ポロシャツとスラックス、コートを背中に引っかけている。
 名は大塚スグルといった。
 ちなみにこの会社の始業は八時半である。
「あ。おはようございます。今日はお早いんですね」
 指定の制服を着て髪をきっちり結わえている女性がにこやかに言った。若さゆえか、かなり直球な嫌味である。それを聞いても態度を崩さず、
「十時から『B.R.』の記者会見やるだろ。それ見ようと思ってな」
 と、大塚は言った。この豪傑さは年の功だろう。
 パソコンが置かれた机が並ぶ間の狭い通路を早足で自分の席へと歩く。体型の割には身軽な男だ、と後に続く女性は心の内だけで皮肉った。
「それなら───」
 口を挟む。
「それなら皆、テレビの前に集まってますよ。あと五分で始まるそうです」
「あん?」
 見ると、両脇に並ぶ机に人影は少なく、パソコンは電源が入ったまま放置されている状態だった。大塚はふつと視線を泳がせると、オフィス奥にある応接コーナーに数十人が集まっていた。主に若い連中、二十代の社員がテレビの前に詰め掛けていた。勿論今は業務時間内だ。
「…何やってんだ、あいつら」
 大塚は呟く。
「見た通り、大塚さんと同じ目的の方々です。部長が特別に許可してました」
 許可、というのはこの場合、『B.R.』の記者会見を見る為の一時的業務の放棄だ。
「いい会社だなぁ」
「そうですね。毎日遅刻してきても何も言われない会社ですしね。あ、それから速達、届いてました」
「おお、さんきゅー」
 もしかしたらこの相手は嫌味が効かないのではなく人の話を聞いてないだけなのかもしれない、と踵を返した女性は思った。
 ほぼ毎日郵便物を受け取っている大塚は、A4封筒を渡されていつもと同じようにそれを器用に開けながら、倒れこむように自分の席へと座った。差出人を確認しないのは癖ではなく性格だ。中には十枚程度の書類が入っていた。大塚はそれに目を走らせた。
「…………」
 一方、テレビの前に集まっている社員の間には異様な熱気が漂っていた。
 勿論、社員たちは全員、『B.R.』のCDの発売元が自分たちの会社だということは知っている。しかし不思議なことに誰もその仕事に関わったことがない。同じ会社に居ながら、皆、そのプロジェクトを見たことがないという。そんな病的なまでの秘密主義を貫いていた『B.R.』が現われるというのだ。例え仕事中といえども気にせずにはいられないだろう。
 この、大塚スグルと同じように。
「木村ァッ!」
 心臓を貫く馬鹿でかい声が響いた。近くにいた部下の女性は勿論、オフィスにいたほぼ全員が何事かと振り返る。
「ハイーっ!」
 テレビの前に座っていた一人が飛び上がった。若い、ひょろりとした体型の男が人垣を越えて大塚の元へ駆け寄る。息を弾ませているのは走ったからではなく、大塚の声に驚いたせいだ。
 オフィス中からの非難の視線を全く気にせず、大塚は部下である木村康孝に命じた。
「一週間後に今井ンとこのプレス、予約取っとけ」
「は? 無茶言わないでくださいよ。この新譜ラッシュの時期に割り込めるはずないでしょう」
 プレスとは業界用語で、この場合CDの増産作業のこと。クリスマス前には大抵CD新譜が大量にリリースされる為、この時期に一週間後などという確約が取れるわけがない。小規模なプレス工場の今井産業では無理に決まっている。
「他の仕事全部蹴ってでもやれって言え」
 大塚の表情はマジだった。木村は若年ながら大塚のもとで三年以上片腕として働いている(こき使われている)。その傲慢な性格もよく知っているので反論することは諦めた。
「…一応、言うことは言ってみますけどね」
 難しいと思いますよ、と続けようとした。
「その価値はあるとも伝えろ」
「!」
 木村は大塚の表情にピンとくるものを感じて目を見張った。「あ…」と言いかけるが声にならない。もう一度、息を吸う。
「…えっ、嘘。大塚さんがそんなマジになるって、その仕事って…!」
 誰かが記者会見が始まったことを伝えた。大塚もテレビの前へと歩き始めた。
「ねぇ、大塚さん!」
 その背中を止めようと手をのばす。しかし手は届かず、振りかえらないままの大塚の背中は不吉なことを告げた。
「あ。…そうそう、おまえが出したクリスマスの休暇届け。あれ却下な。仕事入ったから」
「そんな……っ!」
 彼女と約束があるのに、と木村は叫んだが、既に大塚はテレビの前の人垣を掻き分け特等席を陣取ったところだった。





 十二月十日。東京都I区────

 早朝。
 とはいっても、早朝とは一体何時から何時までを指すのだろう。殊更に夜と朝の区別とは?
 空が白んでいる時刻を朝と呼ぶのなら、今は本当に早い朝───早朝ということになる。
「はーっくしょん!」
 都内某所の歩道橋の上。絵に描いたようなくしゃみをしたのは、カメラを抱えた新見賢三だった。
 空はまだ暗い。しかし東のビル群の向こう側の空が、白くなってきているのが見える。
 時刻は六時半。
 つい三十分前、新見の携帯電話にメールが入ってきた。
【やっと終わったーっ! お先に寝るよ。本日午前十時! 忘れないで見るように。すごく楽しみ! 桂】
 人のことは言えないが、相手もヤクザな仕事だ。この時間までパソコンに向かっていたらしい。
(どーせ、起きられんやろな。時間になったら電話してやるか)
 午前十時から『B.R.』の記者会見が行われる。勿論、新見も見ないわけにはいかなかった。
 パシャ。
 東の空を一枚。
「おーい、新見さん」
 下から声がかかった。顔見知りだった。
「よー、新聞配達のボーズ、朝から元気やなー」
 荷台に新聞を山ほど積んだ自転車が止まっている。その持ち主が歩道橋の階段をかけあがってきた。
「おはようございますー。また、仕事スか?」
 新聞屋の学生アルバイトくんだ。この歩道橋とこの時刻が新見のお気に入りスポットなので、何回か顔を合わせている。人懐こい性格で、いつのまにか懐かれてしまっていた。
「そう、仕事」
「最近撮ったのって、何かありますっ? 見せてくださいよー」
「その辺、適当にスナップあるから勝手に見ていいでー」
 カシャ
 朝日が照らすビル群を一枚。
 隣では新聞屋アルバイトが新見の荷物をがさがさと漁っていた。
「ねー」
「なんじゃい」
「新見さんて、風景写真専門なんでしょ?」
 と新聞屋アルバイトが首をひねる。
「そだよ」
「これって、人間じゃん」
 ぴらり、と掲げて見せたスナップ写真は、赤ん坊を抱いた母親の写真だった。どこかの公園で撮られたものだ。
 にやり、と新見は笑う。
「おいボーズ。おまえ、動物園で撮られたライオンやペンギンの写真を風景写真だと思うか?」
「え。…うーん、風景写真だと、思うよ」
「それと同じや。生物という点においては人間だって同じ。人間だって地球の風景写真には変わらん」
 パシャ
 本日三枚目のシャッターを、押した。





 十二月十日。埼玉県J市────

 二七回目のベルで受話器をとった。時間に換算して約一二〇秒───二分間。出ない方も出ない方だが、かけている側も大した根性である。
 名前を言わなくても声ですぐわかる相手だったが、それは意識がはっきりしている時の話だ。
 カーテンから明かりがもれる部屋の中、出窓で電話機が鳴っている。今時珍しい黒電話だ。少女趣味的な部屋の様相のなかでミスマッチに見受けられるが、部屋の主は「それがいいのよ」という。
 八畳の広さを持つ部屋の壁紙はシロ、カーテンはピンク色。主な家具はベッドとデスクとチェストと(これらはすべて木目模様)で、チェアとフローリングに敷かれた絨毯は花模様だった。チェストの上ではクマやウサギのぬいぐるみが十を越え、ベッドの脇に揃えられたスリッパは白いファーのウサギ型だった。タペストリーやチェアにもその趣味は感じられる。デスクの上のパソコンだけは型破りで白い縁取りのスカイブルー。これには部屋の主も事あるごとにグチっているのだが、アップル社のマッキントッシュG3ではしょうがないとも言える。同社の後発で発売されたパソコンはボディカラーが豊富だったが、その色彩感覚は部屋の主の好むところではなかった。慰めのようにディスプレイにはリボンがかかっていた。
 ベッドからにょきと手が伸びた。がしっと黒電話を掴んだかと思うとそのままベッドの中へ引きこむ。
 電話がベッドの中に消えてから、電話の音がやんだ。
「………もひもひ」
 再び意識が遠のくのを感じながらも桂川清花はどうにか声を出した。腹に抱えた電話はひどく冷たく、毛布の温かさの幸せをちょっとだけ感じてみたりする。
「だれ?」
 仕事の依頼主からの電話かもしれないのに、かなり不躾だったはずだ。それさえも気付かずに桂川は相手が名乗るのを待った。
「…なんだ新見さんか。え? ………」
 間。
「あーッ!」
 桂川は毛布を剥ぎ取りベッドから飛び起きた。ピンクに近いアカでこれまた花模様のパジャマのうえからオレンジ色のカーディガンをはおる。
 バタバタバターッと部屋を出て一気に階段を駆け降りた。その際、スリッパを履き忘れた。床はまるで氷のように冷たく、………電話は放り出されたままだった。
「お母さんっ! 九時半には起こしてって言ったじゃない!」
 居間の引き戸を開けた。
 専業主婦の母親は朝の一仕事を終えくつろいでいるようだった。こたつの上に新聞を広げ茶をすすっている。清花の部屋とは赴きが異なり、畳敷きに堀ごたつ、窓際は障子がはってある。床の間の上の一輪挿しには純白の水仙─────このあたりは「ああ、お母さんだなあ」と思ってしまうほど、母親の趣味がよく表れている。
 一方、母親の桂川一美は演技ではなく、本気で嘆きたくなった。
 目の前に立つのは、今年二十五歳になる一人娘で、パジャマ姿で寝癖をつけた、起こしてもらえなくて怒っているような娘なのだ。参考までに今の時間は十時七分だった。
「起こしたわよ。何度も」
「嘘」
「……清花」
 一美は深々と溜め息をついた。
「二十五にもなって、一体何してるの? 他の人達を見なさい、平日の昼間から寝とぼけてる人なんて居ないわよ」
 一人娘を甘やかしたのがいけなかったの? と母親としては時々思いつめることもある。
 清花は高校を卒業後、「おもしろそう」という理由だけで東京の大学の薬学科へ進んだ。二年後、突然に大学を辞めると言い出し退学、その後三年間フリーター(つまり、無職)でアルバイトを続けていたが、ある日「仕事が落ち着いたから」と言いバイトを辞めたのはいいが、何故か家に居ることが多くなった。
 一美には清花の行動が分からず、さらにその仕事とやらも理解できずにいるのだ。
 母親の小言にまたかというんざりした表情を見せ、
「何度も言うけど、私、仕事してるの。今日も朝の六時まで仕事してたのよ」
 と、清花は言った。
「パソコンで遊んでるだけじゃない」
「そうじゃなくて、デザイナーだって、何度言ったらわかるの?」
「だって、服、作ってるわけじゃないんでしょ?」
「世の中のデザイナーがすべてアパレル関係だと思わないでね、お母さん」
「あぱれる…?」
 首をひねる一美にさらに言葉を返そうとしたが、清花は視界の端に時計を認めると短い悲鳴を上げた。
「テレビ!」
「え?」
「テレビつけて、早く!」
 つけてと言っても結局自分でスイッチを入れた。ぶん、と画面が揺れて映像が表示される。
 チャンネルを合わせる必要はなかった。
 まず、カメラのフラッシュが絶え間なくたかれている光景が目に入った。画面の右下にはワイドショーの見出しである言葉が飾り文字で書かれている。
 「ついに出現! 『B.R.』」
 後で聞いたところによると、この時集まっていた報道陣は300人以上だったという。光を当てられているのは二人、四十代後半の男性(この人とは清花も面識がある)と、もう一人、高校生の男の子────。
 無愛想に、尋ねられたことに、言葉少なに答えている。
「……」
 清花は、息を飲んだ。目が、離せなかった。
「何なの、いったい」
 芸能ニュースに疎い一美は、今、大騒ぎになっている『B.R.』のことなど知らなかったのだ。テレビの中の記者会見を不思議そうに見ている。
「お母さん」
 清花は笑みを浮かべた。
「これが、わたしの仕事の依頼主よ」





 十二月十日。神奈川県K区────

「すーさー」
 朝、出勤するとすぐに室長に呼び付けられた。時間は七時五十分。会社の始業時間は九時だが、須佐巽はいつもこの時間に通勤している。須佐が会社に入ると、スーツ姿の室長(事実上の社長。だいたい、この業界でスーツを着ているのは上層部だけだ)が新聞を読んでいた。普段は「仕事はいかにサボるかが大事」とか言ってるくせに結局はこの人も仕事人間───いや、会社人間なのだろう。
 呼び付けられると言っても、スタッフ九人のみというこの会社では自分の机からたった数歩の距離。須佐はデスクへ荷物を置くと、狭い室内の一番奥、室長の席へと進んだ。
 STUDIO SSSは、マンションの二部屋を間借りして営業している。一室は今居る場所、普段は九人のスタッフが仕事をしているところだ。もう一室には本棚が設置され資料が詰め込まれていた。
 業務内容は主にテレビCMの制作。STUDIO SSSは某大手広告会社を親会社に持つため、営業に人手は割かないことになっている。放っておいても親会社から仕事が降ってくるからだ。依頼主との契約後、ここで企画会議、日程、人手や器材の調整が行われる。いわゆるCMプランナーという職種である。実際の撮影は専門の業者がいるが、監督の選定や撮影の監督などもここのスタッフの仕事だった。
 STUDIO SSSが親会社から独立した直後───四年前のことだが、当時のメンバーはこの室長と有馬という社員だけだったという。その後CM制作という業種に惹かれ、何の技術もなく感性だけで入社した者や、やる気や興味をアピールに来ていつのまにか居座った者もいる。そんな風にスタッフが増えていった。
 室長の人を見る目のおかげでSTUDIO SSSの業績と知名度は上がり、親会社にとって無くてはならない存在にまでなった。しかしそれは、純粋に仕事を楽しんでいるスタッフたちの与り知るところではない。
 スタッフの一人である須佐巽も、いろいろあって三年半まえに中途入社した身である。眼鏡の中の瞳はいつも穏やかそうであるが、彼の仕事に対する厳しさは撮影会社の人達も含め、ここのスタッフ全員がよく知っていた。さらに矛盾することだが、須佐は背丈は人並みだが十人いれば八人に指摘されるほどの童顔で、高校生に間違われたこともある二十八歳だった。高校生のような顔でいつも穏やかで、でも仕事となると周囲に怒鳴り散らすのだから、彼ほど「外見に惑わされるな」という言葉が似合う男もいないだろう。
「おはようございます、成瀬室長。お茶でもいれますか?」
「あ、頼む」
 他のスタッフが出社するのはまだ先の時刻だ。のんびりすることにする。
 すぐ横に備え付けられた給湯スペースで須佐は手際良く日本茶を入れ始めた。湯を入れて急須を温めている時間、少しの間ができた。
「例の仕事、きてるぞ」
 須佐の背中に向けて成瀬は言った。即答があった。
「あ、やっぱり」
「動じない奴だな。ちったぁ驚けよ」
 ばしゃっと湯を捨てて、今度は茶葉を入れもう一度お湯を注いだ。蓋をして押さえながら、ゆっくりと時計方向に回す。ゆっくりと。
「だって、今話題になってるでしょ? あそこの社長、ああ見えて派手好きそうだし、何か仕掛けてくるだろうとは思ってたし、それに」
 巧いんですよね、と付け加える。
「なにが?」
「何をどうすれば一番効果的か。Aをしたい場合、Bをどう動かすか、とか。そういうことです。殊にマスコミの動かし方をよく知ってますよ、あの人は」
 二つの湯飲みに交互に茶を注ぐ。茶柱は立っていないが室長好みの濃さにはいれられたと、須佐は満足した。振り返って成瀬の机の上に湯飲みを置いた。
 成瀬は「さんきゅ」と言ってから、
「その顔で、性格擦れてんな、おまえ」
 と言った。
「顔は関係ないでしょ」
 と須佐ははにかむように笑う。そして先程自分がいれた茶を口につけた。
 成瀬は新聞をぺらりとめくり、三十二面を開いた。それは新聞の一番最後のページで、つまりテレビ番組欄だった。
 十時からの時間枠の内容はすでに分かっている。あの『B.R.』の記者会見が行われるというのだから、これを放送しない手はない。成瀬の想像通り、七つのテレビチャンネルのうち五チャンネルに、『B.R.』記者会見の予告がされていた。
「一週間でフィルムあげろって」
「?」
 はじめ、須佐は何の話題を振られたのか分からず首を傾げた。しかしすぐに気付き、成瀬の言葉を理解すると大声をあげた。
「はぁっ?」
「依頼書に書いてあったぞ」
「何考えてんだ…っ────と、言いたいところだけど、あの社長の無茶は今に始まったことじゃないし」
 苦笑しながら須佐は近くの椅子に腰を下ろした。
 ────STUDIO SSS。
 『B.R.』のCDのテレビCMはここで作られている。
 『B.R.』プロジェクトの裏方スタッフのなかで、直接仕事に関わる人数が一番多い作業だ。企画会議はnoa音楽企画の社長安納鼎と、作詞曲家のKanon叶みゆき、そしてCMプランナー須佐で行われる。その後須佐が絵コンテを書き(これは安納らの承認をもらう必要はない。基本的に仕事は任されている)、実際に撮影に入るわけだが、その撮影班の選定に須佐はまず頭を悩ませた。
 企画の出所は絶対に秘密だというが、撮影に関わっている人間が後にテレビのオンエアを見たら、自分たちは『B.R.』のCMを撮っていたと当然分かってしまうからだ。『B.R.』のメンバーはもちろん、事務所、自分たちスタッフ関係者すべて名を明かしてはいけないと言われていたから、これは難しい問題だった(もとより、須佐たちは『B.R.』のメンバーを知らないのだが)。情報を洩らさないためには絶対の信頼関係が必要である。
 安納鼎はその問題を解決できる人材を選んだ。
 STUDIO SSS、須佐巽。
「でもほんとに、何考えてるんですかね。あの人は」
 当の須佐本人は、お茶をすすりながらしみじみという。
「ま。とりあえず詳細は明後日。事務所に来いってさ」
「じゃ、成瀬室長。いつも通り三田さんのところの撮影班お借りしますね。話を通しておいてください。それから一村くんを借りていきますよ」
 須佐は成瀬から依頼書入りの封筒を受け取り、自分の席へと戻る。
 書類を熱心に黙読する須佐の横顔を、鳴瀬はしばらく眺めていた。
 まだ、静かな朝だった。





 十二月十一日。東京都L区────

 神経研究所附属理和病院。
 ───中庭のツリーに電飾が灯って二時間が経とうとしている。
 中野浩太が帰った後、安納希玖は叶みゆきが持ち込んだ書類に目を通していた。十枚程度の書類を熟読することはせず、自分に必要と思われるところだけ拾い読みする。この施設の面会時間は夜八時までで、みゆきもそれを気にして入る様子だった。
 窓の外はもう真っ暗で、中庭のクリスマスツリーだけが光りを放っていた。窓に手を置くと外の冷気が伝わってくる。みゆきは湿ったガラスに指を走らせた。文字を書きたかったわけではなく、外の景色をクリアに見たかったので。
「ふーん、面白そう。さすがお父さん」
 その声に、ずっと外を眺めていたみゆきが振り返った。
「明後日にはスタッフ全員が集まるわ。レコーディングはその後から始める予定なの」
「スタッフ全員…って、初の顔合わせ? 浩太たちも?」
「多分」
 興味深そうに訊いた希玖にみゆきは曖昧な答えしか返せなかった。これは彼女が口下手で説明が足りないせいではなく、予定が不定だからだ。みゆきは安納鼎と並び『B.R.』プロジェクトの企画責任者であるが、安納のワンマンな手法のおかげで彼女が把握していないことは意外と多かった。
「おじさんが、二週間後に全員で記者会見するって言ったでしょ?」
「昨日のテレビで言ってたあれ? うん」
 『B.R.』が初めて姿を現した昨日は一大記念日だったに違いない。『B.R.』のメンバーの一人中野浩太と所属事務所社長の安納鼎二人だけの記者会見であったが、世間はそれに釘付けになっていた。
 その記者会見のなかで、「他のメンバーは誰なんですか」という報道人からの質問に、安納鼎はこう答えた。
 二週間後には彼らを紹介できるでしょう。
 みゆきはその様子をホテルの部屋のテレビで見ていた。
「その二週間後って、二十四日。つまりクリスマス・イヴなの。今回の企画だってクリスマスに合わせてのものなのよ」
「派手だなー」
 くすくすと笑いながら希玖は感心する。我が父親ながら立派な商魂だ。
 希玖の反応を見てみゆきは、
「なんかね…うまく言えないけど。やりすぎな気がするのよ。演出が過ぎるっていうか…」
 と言う。
「うん?」
「…」
 安納鼎は芸能事務所の社長で、タレントという商品を売り出すのが仕事だというのは分かる。
 秘匿性をネタに人気が集中した『B.R.』。レコーディングというまとまった時間に、一般人である彼らを一度に集めるのは、年に一回が限度だった。だから年に一度しかCDを出さなかった。その稀少さがまた人気の原因となった。毎回『B.R.』の曲は発売後二ヶ月はベストテン入りしているし、売り上げ枚数だって大したものだ。テレビにも雑誌にも、それこそCDの宣伝ポスターやテレビCMにまで現われない─────そう、言葉さえも聴かせてくれない、「音」だけの存在どころか、「歌」だけの存在であるにも関わらず。語り継がれてゆく、まるで伝説のように。
 『B.R.』は、「夏」の代名詞として君臨していた。
 そのなりゆきに安納は満足しているようだったし、『B.R.』の五人も楽しんでいるようだった。
 でも。
 安納の目的は『B.R.』を売ることじゃない。
(それだけは、私も分かってるわ)
 だって『B.R.』が立ち上げられた理由は一つだけだった。それはみゆきが待ち望んでいたことだし、希玖だって気付かずに願ってたはず。おじさんも分かってくれた、希玖から生まれた音楽を聴いた瞬間に。
 安納希玖の曲を人々に聴かせることが、『B.R.』の目的だから。


 安納希玖の病気は先天性のものだ。
 彼が赤ん坊の頃、母親は「お昼寝ばかりしていて手のかからない子」と笑っていたという。
 初めて異変に気付いたのは希玖が四歳の頃だった。日中、突然倒れるということが続けて起き、貧血かと心配した母親が希玖を病院へ連れて行った。そこで、病名を知らされた。
 ナルコレプシー。この病気の症例者の中でも、希玖はかなり重度なほうだと分かった。
 この日から、彼は「生活時間」と引き換えに、三十錠もの薬を飲むことを余儀なくされる。昼間に起きている為には、それだけの薬を飲まなければならなかった。普通の食事が喉を通らなかった。気分が悪くなって何回も吐いていた。かと言って薬を止めれば夢の中に落ちてしまう。
 幼い頃はきつ過ぎる薬を飲ませてもらえず、病院のベッドの上で何年も過ごしたことがある。退院しても、通院生活が続いた。
 当然学校には行けない。通ったことはない。病院内の友達。彼らはすぐに退院していった。
 淋しかったけれど、でも、それほどでもない。
 希玖には一人だけ、ずっと付き合ってる友達がいた。
 叶みゆき。同い年の従姉。
 多分、彼女の母親(安納鼎の姉)が希玖の見舞いに連れてきたのだと思う。初めにあったのはお互いが八歳の時。みゆきは誰にも教えられずに、希玖の病気を受け入れ、理解していた。少々心配性であるきらいがあるが、希玖のよいパートナーだった。
 彼女とは音楽鑑賞という趣味において、よく気が合った。歌謡曲に始まり次はクラシック、さらにハマったのはテレビCMや効果音などの「曲」ではない「音」。お互いCDを交換したり、流行歌批評もした。ある時病院へボランティアで来た中庭での楽団演奏を、楽譜に起こしお互いの記憶違いを指摘し合ったり。
 でも、二人とも楽器は使わなかった。
 興味がなかったのかもしれない。
 一人や大人数で奏でる音、歌。嫌いなわけでは勿論無い。ただ、耳に入る心地よい音楽に浸るのが好きだっただけで。
 希玖が十歳のとき、父親がパソコンを持って現われた。(みゆきはその時初めて安納鼎と会話した)
 多分、安納は玩具として息子にパソコンを与えたのだろう。ゲームやインターネット、病床の希玖には良い暇つぶしになるかもしれない、と。
 しかしそれは暇つぶしでは終わらなかった。
 そのパソコンを用い、希玖は次々と曲を作っていったのだ。
 溢れ出す才能の解放。
 今まで溜めてきたものをすべて吐き出すかのように、希玖はいつもパソコンに向かっていた。自分のなかの世界を形にする充実感。そして解放感。安納希玖から紡ぎ出される音楽はとても心地よく、耳に優しく、ときには感動さえ覚えた。
 みゆきはいつも、それらの曲を聴き続けてきた。となりで、希玖の音楽に浸り続けてきた。
「きっとこの曲がいつかCDになって、皆が耳にするかもしれないね」
「だめだよ。これはまだ未完成だもん。ギターとかバンドにやってもらって、歌も入れて、…本当に完成したものをいつか聴けたら、すごく幸せだけど」
 安納鼎が自分の息子が作った曲を初めて聞いたのは三年半前───。希玖が十四のときだった。
 その半年後。希玖とみゆきが十五歳の夏、『B.R.』プロジェクト開始。
 安納鼎は息子の曲が売れると打算したわけじゃない。
 皆に聴かせるに値する。
 そう、判断したのだ。
「でもお父さん。僕のことが知られるとあの人達怒るんじゃない?」
「その点はぬかりない。正体不明なバンドを作るんだからな」
 …そして今に至る。
 正体不明なはずの『B.R.』のメンバーの顔が割れてしまった。そして今、安納鼎は手の平を返したように大々的な演出と舞台を用意して『B.R.』を世間に発表しようとしている。
 開き直り? でも派手に『B.R.』が現われて調子に乗ったマスコミがKanonに興味を持たないとも限らない。それは安納鼎のもっとも避けたい事態ではないのか。
 それにKanonは実は叶みゆきではなく、安納希玖だという事実は、仲間たちにも秘密だと念を押している。この念の入りまくった秘密ゴッコはまだ続くのだろう。下手なことをするとは思えないのだが。
 みゆきはますますこんがらがる頭、額を押さえ深々と溜め息をついた。そして訊いた。
「…おじさんは、何を考えてるのかな」
「何?」
 首を傾げる希玖に、みゆきは要領が悪いながらもたどたどしく、希玖に説明した。
「ああ…。でもそれ、僕はわかるよ」
「え?」
 あまりにもあっさりと希玖が言った。驚くみゆきに説明するため、うーんと数秒考え込んでから、
「…抽象的な言い方をすると、影を濃くするには光を作らなきゃね、ってことかな」
 と、真剣な顔で言う。は? とみゆきは眉をしかめる。希玖の言葉を反芻し、頭を回転させ希玖の言葉を必死で理解しようとする。でもわからない。
「具体的に言うとどうなるの?」
 と、みゆきにしては気の利いた返しかたをした。希玖は、
「具体的に言うと、お父さんは僕を愛してる、ってこと」
 と、真剣な顔で言う。
「………降参。わかんないよ」
「うん、まあ。お父さんはお父さんなりに、僕のことを考えてくれてるんだと思う。『B.R.』のメンバーを潔く発表するのだって、多分、Kanonを世間に晒さない為なんだ」
「どういうこと?」
「例えば、ここで『B.R.』を下手に隠そうとすると、ストーカーまがいのマスコミが出てくるのは間違いないよね。浩太を監視して他のメンバーを調べようとするだろうし、もしかしたら僕までたどりつくかもしれない。『B.R.』の売り方もそうだけど、隠せば知りたがるのは人間の当然の心理だからさ。だからお父さんは『B.R.』を堂々と発表することで、下手に裏を探られないようにする。つまり『B.R.』という光源により影をつくり、そこにKanonを隠す。なんだかんだ言っても結局親馬鹿なんだよ、あの人」
 自分と、自分の父親のことなのに容赦無い言い方をする。
 でもみゆきは気付いていた。希玖の言う通りだとすると、安納鼎はKanonを守る為に『B.R.』を犠牲にしようとしているということだ。
 正体をバラされたくないのは、彼ら五人も同じ思いなのに。
「────………Kanonのため、か」
 溜め息混じりにみゆきは呟いた。
 みゆきが考えたようなことは、希玖はすでに予想していたに違いない。Kanonもまた、自分の名が広まるのを恐れている一人だから。
「そう。みゆきちゃんが知ってる通り、僕がこんなことしてるっていうのが世間様にばれたら、ごく一部の人は非難するだろうしね」
 そんな風に、笑う。
 『B.R.』は正体をバラしたくないと言ってる。
 Kanonは自分の名を広めたくない。
 安納鼎は希玖の音楽を発表したい。
(そして私は……────)
 自分の望むものは分かってる。安納鼎に談判してあっさりと却下されたものだ。
 そのことを考えるといつも息苦しくなる。手の平に汗が滲んで、胃が痛くなる。
「…」
 言葉が喉まで出掛かる。そして息はそのまま声になり、言葉になった。
「…でも希玖」
「え?」
「ごめんなさい。…分かってるんだけど、私は、ちゃんと言いたいの」
「───なにを?」
 みゆきの声から真剣さが伝わったのか、希玖は真顔で返した。みゆきは言った。
「皆に。私はKanonじゃないって、ただの代理なんだってっ! …希玖の事情は知ってる、隠れなきゃいけない理由も分かってる、のに、こんなこと言うのは勝手だって分かってる。───でも」
 唾を飲む。
「Kanonの名は、私には重過ぎるよ」
 絞り出すような、声。
 みゆきは希玖の顔が見れなかった。自分が酷く勝手なことを言ってるとわかっているから。
 『B.R.』が結成されたとき、自分の役回りを安納鼎から命じられた。『B.R.』のプロジェクトのなかでのみゆきの仕事は雑用と、Kanonを名乗りレコーディングに参加することだった。みゆきも初めは戸惑ったものの、結構簡単にOKしたと思う。希玖の曲を発表することに舞い上がっていたのだ。
 わずか一ヶ月でスタジオワークを叩き込まれ、最低限の知識も詰め込まれた。Kanonを名乗る体裁は整えられたはずだった。
 しかし。
(……)
 空名を背負うことがこんなに辛いなんて、みゆきは知らなかった。
 誰かの名を名乗るというのは、単なるスポークスマンとはわけが違う。代理だなんて気付かせてはいけない。
 曲をかいたのは自分だと、そう口にするのは簡単。良心が少し痛むだけで。
 でも、その賛辞を受けたときの罪悪感といったら前述の比ではない。
 ズキズキズキズキ。本当に、胸が痛くなる。
 その度に、みゆきは叫びそうになる。
(Kanonは私じゃない───!)
「……みゆきちゃん。それ、違うよ」
 静かな、声が響いた。
「え?」
 みゆきが顔を上げると、希玖は目を細めて苦笑した。いつもの笑顔とは違う、悲しそうな表情だった。
「やっぱり、勘違いしてたね」
 と続ける。
「え…どういう───」
 意味? と訊こうとした。
 瞬間。
 バンッ
 病室のドアが開かれた。同時に叫ぶ声があった。
「おい、かのんっ!」
 帰ったはずの中野浩太が現われた。えらい剣幕で二人に近づいてくる。
 浩太が名指しした「かのん」とはもちろん叶みゆきのことだ。────と言ってももしかしたら浩太はこの時みゆきを呼んだのではなかったのかもしれない。
 突然入ってきた浩太に二人は目を丸くした。
「浩太さん…?」
「どしたの、浩太。帰ったんじゃなかった?」
 浩太は呼吸が乱れて両肩が上下に揺れていた。走ってきたせいもあるが、それよりも興奮が勝っていると思う。
 浩太は二人の顔を交互に見渡した。
 一人は叶みゆき。三年前に出会い、あれらの曲を作った本人Kanonだと安納鼎から紹介された。『B.R.』のプロデューサーであり、雑用係でもある。
 もう一人は安納希玖。半月前からの付き合いだが、ついさっき安納鼎の息子でみゆきの従弟であることを教えられた。…はっきり言って食えない奴だ。
 浩太は自分の中に生まれた小さな疑問を放っておくことができなかった。その疑問はついさっき生まれたものではなく、何年も前から存在していたもののような気がする。
(ああ、やっぱり─────)
 何がやっぱりなのか分からないがそう思ってしまう。
 今、ここで二人に何を尋ねようとするのか、その言葉さえまだ決まっていないのに。
 まだ何も訊いてない。まだ何も答えてもらってない。それなのに。
 不思議と、納得してしまっている自分がいる。それはとても、穏やかで激しい。複雑だ。
「浩太…?」
「一つ尋きたいんだけど」
 浩太は、二人を見据えた。
「『B.R.』の作詞作曲者のKanonって、叶みゆき。おまえのことだよな? 希玖じゃなくて」


 ─────いつからだろう、妙な違和感を覚え始めたのは。
 『B.R.』の詞。曲。
 叶みゆきという人間を知れば知るほど、その違和感は深まるばかり。
 『B.R.』の、少なくともあれらの「詞」を、叶みゆきが書いたとは思えないでいるのだ。
 いつも自信が無さそうに、おどおどしていて、ちょっとつつけば言葉を返せないまま黙り込んでしまうような叶みゆきには。
 恋愛や生き方の詞。叶みゆきが「表現」する内容とは思えない。
 以前、片桐実也子にできるだけ柔らかい言葉で言ってみたところ、「え? でもかのんちゃん、好きな人いるよ」と返された。
(…別に、あいつにそういう気持ちが無いって言ってるわけじゃない)
 さすがにバツが悪くなり、自分の中で弁解する。
 それにそういう問題ではなくて。
 叶みゆきは自分自身を表現するのが苦手だ。おまけに鈍感で気も利かない。
 あんな風に、「言葉」という明確な意思疎通手段で自分を伝えるという器用さは、彼女には無いと思うのだが。そして詞の内容を物語りとして演技する要領も、無い。


 咄嗟のときに嘘が付けない。
 中野浩太と同様、叶みゆきもそんな人間だった。
「…っ」
 みゆきは明らかな動揺を表情に出した後、反射的に希玖を振り返ってしまった。希玖はみゆきのその視線を受け取らなかった。
 希玖だけは表情を変えず、浩太の視線を受け止めていた。強気も弱気もうかがえない視線で。
 空気が痛かった。
 浩太の質問からどれくらいの沈黙があっただろう。誰も、息さえ飲まなかった。
 浩太は二人を睨み付けたまま、どちらかが答えるのを待っている。
 みゆきは言葉を返せない。でもその表情だけは馬鹿正直で動揺しているのがわかった。
 希玖は何も読み取れない表情で浩太を見つめている。
 二人が答えられないでいるのは図星だからだ。と、言い切れるまで浩太は自信があるわけではなかった。でももし全くの見当違いなら笑い飛ばせばいいはずだ。それに少なくともみゆきは嘘をつけない。それは可能不可能ではなく単に性格の問題である。
(あ)
 ふと、こんな場面であるが思い立ったことがあった。
(…どうするんだろう)
 もしこれが本当で、もしここで二人がイエスと答えたら、自分はどうするつもりなのか。
 自分の直感通りだと笑うのか? それとも。
 全く考えてなかった。わからない、今は何もわからない。その瞬間に生まれる自分の感情さえ想像できないから。
 その瞬間に生まれる自分の感情が何故だか怖くて、ノーと言ってくれと、浩太は願った。
 沈黙を破ったのは、希玖だった。言った。
「あちゃー…。バレちゃったね」
 崩した雰囲気で笑う。どきっと驚いてみゆきは振り返った。
「希玖っ?」
「だってみゆきちゃん、これ以上隠してもしょうがないし」
 軽く肩をすくめてみせる。不安そうな顔をしているみゆきを安心させるために笑顔を向ける。
 しかし、
「ほんとなんだなっ」
 という浩太の厳しい声に、みゆきの体は跳ね上がった。
 希玖の、その何でもない事のような軽い言い方に、無性に腹が立っていた。
「うん」
 と、希玖。
「確かに、『B.R.』の曲の作詞作曲をしていたのは、僕だ」
 はっきりと、わざと単語を区切って希玖が言った。
 真実を言った。
「社長は、知ってんのか?」
「お父さん? もちろん知ってるよ」
「もしかして、そのパソコンで…、曲を?」
「あたり」
「…」
 浩太は歯ぎしりした。
 どうして、こうもどうでもいい質問ばかりが口に出るのだろう。
(落ち着けっ)
 そう、自分に言い聞かせて、実行できた試しはない。
(Kanonはみゆきではなく)
(『B.R.』の曲の作詞作曲は希玖で)
(隠されていた? 三年間も)
(ああ、やっぱり────)
 混乱して、複雑な感情が入り混じる自分の中で、不思議と落ち着いている部分がそう呟く。
 やっぱり、と。
 そう考えるとしっくりとすべてが解決するような気がする。
 Kanonとみゆきが同一人物とは思えないこと。みゆきの性格。希玖の指し示すもの。Kanonの詞。希玖の言葉。
 見えない糸が、ほどかれてゆく。
「…どうして、黙ってたんだよ」
 と、浩太は訊いた。
 この状況で尋ねるには、適当な質問ではなかったかもしれない。
 でも、浩太の心情的には、的確な疑問だった。
「どうして隠してたんだよっ」
 手が震えている。それを自覚した。
 声が大きくなるのは気持ちの昂ぶりだ。その大声でみゆきがビクッと肩をすくめたが知ったことではない。希玖は────。
 希玖は、その無表情のなかでも、どう受け答えするかを計算しているに違いなかった。
 それが分かるくらいの付き合いはあった。
 浩太は希玖が答えるのを待った。みゆきも、希玖の言葉を待っていた。
 さぁ、どう答える?
 挑発的に浩太は胸の内で呟く。
 弁解の言葉で、納得いく説明をして欲しかった。きちんと説得されて、一言謝って欲しかった。
 黙っててごめん、と。
 希玖の事情、みゆきが代役を努めるまでの経緯。
 それだけで、この、一人よがりな憤りは収まるはずだと。
 浩太は、思っていた。
 しかし。
 浩太の思惑は外れて、希玖はにっこりといつもの笑顔を見せると、明るい声のたった一言で説明を終わらせた。
「どうしてって、秘密だからさ」
 どこかで聞いた台詞だ。
 ああ、そう。希玖が安納社長の息子だと名乗らなかった理由も、彼はそう告げていた。きっと、その時とのシャレも含めて、意図的に同じ言葉を選んだ。きっと。
 すぅ、と、浩太は頭が冷めるのを感じた。憤り?
 浩太に鈍感と評されたみゆきでさえも、希玖の返答が浩太に与える感情に気付いた。
「き…、希玖っ」
「俺、帰るよ」
 口を出た言葉は意外にも冷静なように響いた。
「浩太さん…っ」
「そう? 浩太、また来てね」
「二度と来るか」
 あたふたと声をかけるみゆき。
 いつも通りの別れの挨拶をする希玖。
 それを拒絶する浩太。
 息を吸う。
「なんだかんだいって、仲間を騙してたのはおまえのほうじゃないかっ!」
 希玖ではなく、みゆきに。
 浩太は怒鳴った。
 希玖は弾かれたようにみゆきに視線を送る。みゆきが責められるとは思ってなかったらしい。
 みゆきは、唇を噛んで、酷く傷ついた顔を見せた。
 それで浩太が気を静めることはなかった。
(三年間も…っ)
 『B.R.』の面々は全員、みゆきのことを「かのん」と呼んでいた。それは勿論、みゆきがKanonであるからで、またそれとは別にKanonに対する尊敬も含まれていた。
 みゆきもそう呼ばれることに異議無いようだったし、なにより三年間一緒にやってきた仲間だ。
 それが嘘だったなんて。
 浩太だって傷ついている。
「ま…待って!」
 突如、みゆきは踵を返そうとした浩太に駆け寄ってその腕を掴んだ。浩太、そして希玖にとっても予想外の行動で少なからず驚く。
「離せっ」
 腕を振り解く。
 みゆきは息を切りながらも、浩太に懇願した。
「こ…このことは内緒にして、ください。お願い…、お願いします」
「…」
 ほら、やっぱり、と思う。
 みゆきがここまで必死になるだけの理由が、希玖にはある。
 みゆき本人の都合じゃない。自分のことをここまで貫き通そうとする意志の強さはないだろうから。
 希玖に理由があるんだ。
(…)
 何故だか、むっ、と苛立って、浩太は突き放す言葉を返した。
「そんなこと言える立場か」
 そして振り返り、ドアを開ける。部屋の外へ出る。ドアを閉める。
 今度は振り返る理由も、引き止める声もなかった。
 窓の外、ずっと遠くに都心部の明かりが見えた。いつもと同じ景色のはずなのに。
 浩太は、泣きたくなった。




「希玖…、どうするの?」
 おろおろと慌てふためくみゆきは、浩太が去ったドアのところから振りかえった。
 希玖はベッドの上で軽く肩をすくめて見せる。
「浩太は告げ口なんてしないよ。『B.R.』のメンバーに言うくらいはするかもしれないけど、外に漏れることはないさ。────でも、僕の言い分を聞いて行って欲しかったな…」
 膝の上で指を組み、希玖は目を細めてそんな風に呟く。
「そんな」
 悠長なこと言って、と言いかけた。
「きみもだよ、みゆきちゃん」
「え?」
 みゆきの疑問符を、希玖はわざと無視した。
「みゆきちゃん」
 そして人差し指を立て、笑顔を見せる。
「──今回の企画の日程、教えてもらえる?」





*  *  *




 十二月十三日。東京駅丸の内口───

「久しぶりっ! …とは言わないか、今回は。三日前に別れたばかりだし」
 いつもと同じ、東京駅。
 小林圭、片桐実也子、山田祐輔、長壁知己の四人はそれぞれの地元から戻り、再び集合していた。
 いつもと同じでないのは、中野浩太がいないことだ。彼は今、外を出歩くわけにはいかないから。年齢がばらばらで、にぎやかな四人組は駅構内で多少目立っていたものの、まさかこの四人が『B.R.』のメンバーだなんて、人々は夢にも思わないだろう。
 三日前。四人はこの場所で別れた。理由は、これから世間を騒がせる出来事に自分たちが関わり、その結果周囲に迷惑をかけるだろうという、家族への告白のためだ。
 正体不明の人気バンド、『B.R.』。
 そのうちの一人、ギターの中野浩太がスクープされたのは四日前のこと。そして、四人が地元へ帰っている間、中野浩太と事務所の社長である安納鼎の記者会見が行われていた。四人はそれを自分の家のテレビで見ていた。
 『B.R.』の五人は皆、有名になりたかったわけじゃない。
 お互い全く別の、それぞれの生活があるし、それを大切に思っている。『B.R.』というバンド活動は趣味の一環で、勿論それも大切にしているけれど、一年に一回と割り切っている。
 安納鼎は言った。
 君達はプロになる気があるのか────?
 あるわけない。
 結局、安納の説得(企み?)により、全員、マスコミの前に出ざるを得なくなったわけだが、その後のことについて、明確なビジョンは無かった。
 彼ら五人の意志を尊重する。と、安納は言っているが。
「あ、すごいことに気付いた」
 と圭が面白そうに言う。
「?」
「俺達、コート着て会うことなんてなかったな」
 年長組三人が目を丸くした。
 『B.R.』の活動は夏と決まっていた。故に彼らは夏以外に会うことなどなかったのだ。
 ぷーっ、と実也子が吹き出す。
「皆とクリスマス過ごせるなんて夢にも思わなかったよ」
 今日は十三日。安納が五人に記者会見を行わせる二週間後というのは、奇しくもクリスマス・イヴ。
「こんな状況にも、ちょっとは感謝しなきゃかな」
 実也子は目を伏せて、苦笑いした。


「結論を出すのは、本当に最後でいいと思う」
 知己が切り出した。場所は東京駅を出てすぐの皇居外苑広場。すぐ近くには桜田門、そして永田町の政府関連ビル。冬の厳しい風が吹くなか、吹きさらしの公園に人影は少なかった。そこで四人は話し合いをしていた。
「今回は事が事だけに、皆の意見が一致するとは限らない。お互い、最後までよく考えて、それこそ記者会見の当日に結論を出すくらいに考えていたほうがいい」
「やめるか、続けるか。選択肢は二つですがその切り分けは微妙です」
 メンバーは五人いる。
 一人だけ、やめたいと言った場合。
 一人だけ、続けたいと言った場合。
 それはすでに『B.R.』を続ける続けないの決断ではなく、個人として一人一人が芸能界で音楽活動をするかしないかという意味になってくる。
 一人だけやめた場合、安納は別の場所から人員を連れて来て補強するだろうし、一人だけ続ける場合、それはすでに『B.R.』ではない。事は単純ではなかった。
「皆と離れてこの三日間考えてたこと、聞いてほしいな」
「いいですよ」
 冷たい風に身を震わせ、実也子はマフラーを巻き直した。
「私…ね。この間言った通り、三年前まで弦バスの先生のところに通ってたでしょ? それを理由も無くやめた。でね、両親は志し半ばで諦めた私を叱ったりしなかったけど、…さらに私、一年留年して大学に入ったのね。…私、すごくワガママで親不孝だと思うわ。この歳になっても、ふらふらしてて、独り立ちできない。………さらにここで、また、進路変更っていうのは、ちょっと言い出せないかなー……なんて。今は、思ってる」
 うまくまとまらない言葉で、実也子は三人にどうにか伝えようとする。その視線に促され、今度は知己が意見を口にした。
「俺んちは親父が単身赴任中で、もし俺が東京に出てきたら母親を一人にさせちまうし…まあ、そんな気遣いを喜ぶ人でもないから言えないけど、やっぱり……そうだな、一人にはさせられないな」
 知己も自分のなかでまだうまくまとまっていないようだ。彼にしてはすべりの悪い台詞だった。
「ご存知の通り、僕は音楽教室を営んでいるから生徒を放っておけないっていうのが、第一にありますね」
 と、祐輔。何となく当たり障りのない言い訳にも聞える。もしかしたら別に理由があるのかもしれない。
「圭は? 何か言いたそうですけど」
「…圭ちゃん?」
 無言を通している圭は、コートのポケットに両手を突っ込んで、眉間に皺を寄せていた。
「……俺、実は怖いと思ってることがあるんだ」
 と、切り出す。圭のこんな物言いは珍しい。
「圭?」
「…この間の夏、真剣に悩んでたことなんだけど」
 三度目の夏のこと。あの時はまだ、こんな事態になるなんて夢にも思わなかった。
「多分、俺は、来年は今と同じように歌えないと思う」
「?」
 実也子たちは目を合わせ、心配そうに圭を見つめた。
「変声期だよ。来年は十六になるし、『B.R.』の、この声で歌えるのは今年が最後だなって、夏に思った。そうしたらすごく、怖かったんだ」
 『B.R.』は正体不明。そのボーカルの声は男性とも女性とも思えるような微妙な声質だ。
 それは『B.R.』のボーカルである小林圭が変声期前の男子であるからだ。
 バンドにとってボーカルの声が変わるってのは致命的である。他のどの楽器のメンバーが替わっても、歌い手が替わってしまっては、それはもうそのバンドではない。
 全員が、沈黙した。
「……実家に帰ってたとき考えてたんだけど」
 知己が言う。
「なに?」
「俺たち、自覚が欠けてるんじゃないかって」
「どういうこと?」
「『B.R.』のCD売り上げ数って考えたことあるか? それを金に換算したことは? CD売り上げは数百万単位で、金にすると軽く憶に届く。俺達は単に楽しんでやってる。けど、『B.R.』の曲は二人に一人が聴いてるほど、世間に浸透している。それを恐いと感じた。名を隠しているからこそ、他人ごとのように楽しめたんじゃないか? 責任から逃れてるんじゃないかとか。──この先続けていくってことは、その責任を負うことなんだって、思った」
 さらに沈黙。
 基本的に『B.R.』のメンバー五人は、『B.R.』としての報酬を受け取っていない。当初、安納はそれに見合った賃金を用意していたが、五人が丁重に断わったせいだ。
 理由は、「自分たちはプロではないから」。
 プロであれば、報酬を受け、それに見合った仕事をする。その仕事に責任を持つ。
 もちろん、知己たちだって仕事に手を抜いているわけではない。───しかし、仕事に責任を持っているかは謎だ。
 プロではない、ということに甘えているのではないか?
 もし同じメンバーで同じように音楽活動を続けるのだとしても、プロと名乗る以上、今までとは違うものなのだ。
 四人とも、何となくではあるが感じ始めている。
 『B.R.』は、残ることはないだろう、と。



*  *  *



「皆さん、1002室を予約してありますので集まって下さい」
 叶みゆきの声で各部屋に電話があったのは、四人がホテルについてすぐのことだった。
 浩太の部屋も例外では勿論なく、希玖の病室での一件のせいか、みゆきはかなり気まずい雰囲気で用件を伝えた。
「…わかった。すぐ行くよ」
 浩太の声も、内なる憤りが表れていた。
 廊下に出ると、ちょうど他の四人もそれぞれ部屋を出たところだった。
「あれー、浩太久しぶり」
「よう」
 久しぶり、と言っても別れたのは三日前の話だ。しかし浩太はこの三日の間に記者会見があり、それに希玖やみゆきについて考えることが多かったので、このメンバーと顔を合わせるのは本当に久しぶりのような気がする。
「今回は僕らを集めて何を話す気なんでしょうね」
 祐輔が意地悪く言った。
「確かにな」
 知己も同調する。
 二週間後に予定している記者会見の事前打ち合わせ…とも考えられるが、時期的に早すぎだろう。もしくは安納鼎が『B.R.』の存続か否かの返事を待っている? それも考えられる。
 五人は揃って同じエレベーターに乗り、知己が十階のボタンを押した。
「かのんが早く帰って来いって言ったから、俺ら三日で帰ってきたけど、記者会見までかなり暇なんじゃない?」
「圭は学校はどうなってるんです?」
「自主休み。期末は終わってるし、大した授業もないから。…って、親を納得させてきた」
「中野? 何か機嫌悪くない?」
「うっせー。何でもねーよ」
「何よその態度はーっ」
 そうこう言ってるうちにエレベーターは十階に到着。五人は指定された部屋へ踏み出した。

 ガチャリ
「あれ…」
 一瞬、浩太は部屋を間違えたのかと思った。何故なら室内には既に数名が椅子に座っており、ドアが開かれる音に反応してその全員が振り返ったからだ。浩太は(しまった…)とそのままドアを閉めようとした。
「何してる。早く入れ」
 安納鼎の声だった。
「え」
 落ち着いて部屋の中を見渡すと、その幾人かの中に安納と叶みゆきがいるのが分かった。
「中野? どしたの?」
 ドアの後ろでつっかえている仲間から不審の声があがる。
「あ。ああ…」
 とにかくよく分からないが部屋は間違えていないわけだ。浩太は室内に足を踏み入れた。続いて圭、実也子、祐輔、知己が入室する。
「なに、この人達」
 と、誰に問うでもない、つまるところ、小さくない声で独り言を言ったのは圭だ。
「ほんと…」
 実也子も、既に席についている人物からの視線をどう受け止めればよいか戸惑っている。
 安納がいて、みゆきがいる。そして六人。年齢も服装もばらばらの人物が、興味深そうに『B.R.』の五人を振り返っていた。
 いや、そもそも彼ら六人は浩太たちを『B.R.』と知っているのか? 安納、そしてみゆきがいるのだから何らかの関係があるのは必至だ。
 パタン、と知己が後ろ手でドアを閉めた。
「八木さん…?」
 その六人の中で、一人だけ面識のある人物がいることに逸早く気付いたのは知己だった。
「えっ?」
 知己の言葉に浩太が驚く。
「あーっ、ほんとだ、八木さんだ」
 実也子が大声を出すと、六人のうち一人が立ちあがって軽く頭を下げた。
「どーも」
 八木尋人だった。職業はフリーライター。表沙汰にはなっていないが、『B.R.』のメンバーのうちの一人である中野浩太を誰よりも早く見つけ出した人物だ。
「どうしてここに?」
「安納社長に呼び出されたんだ」
 八木は浩太たちの反応を面白がっているかのように笑う。どーして、と尋ねようとした矢先に安納の声が響いた。
「早く席につけ。会議を始める」
「その前にこの方たちが何者か紹介していただけませんか」
 冷静に祐輔が問う。
「勿論だ。早く来い」
 入り口付近で足を止めていた五人は、みゆきの誘導により用意されていた席につく。丁度、八木を含めた六人と向かい合うかたちだった。八木は自分の席に座り、みゆきは白板の前に立つ安納の隣に腰を下ろした。
 ごほん、と安納が空咳をする。そして言った。
「全員が揃うのは初めてだな」
 しん、と室内は静まりかえっている。
「三年前に立ち上げた『B.R.』プロジェクト。現在この部屋にいる、八木くんを除く十二名が、『B.R.』プロジェクトの総メンバーだ」
 そう、言い放った。
「…っ!」
 驚いているのは浩太たち五人だけだった。目の前にいる八木を含む六人、それと叶みゆきは静かにそれを聞いた。
「今まで、顔を合わせないよう打ち合わせを行っていたからな」
「そーやっ、えげつないでー、シャチョー」
 と、目の前の一人が立ち上がった。三十歳前後と思われる男性。怪しい関西弁で、びしっと安納を指差した。
「聞いてくれや、『B.R.』の人達っ」
 浩太たちのほうに顔を向けたかと思うと馴れ馴れしく話しかけてくる。
「俺らスタッフもな、全員が顔を合わせていたわけやない。実際、俺はこの中では桂川と叶としか顔合わせたことなかったしな。今日、来てみたら何や。大塚のオヤジに須佐までいるし。他の仕事で一緒になったことあるヤツばっか。隠しとく必要なかったやん」
「必要かどうかは関係ないだろう。そういう契約だっただけだ」
 と、安納。
「新見さんっ、話が進まないから座ってよ」
 隣の女性が小声で諌めた。この女性は二十代半ばと思われる。全体的に派手…というより若作り気味で、ウェーブの髪をアップに結って花飾りがあしらっており、襟と袖にファーがついたピンクのシャツにミニスカートという格好だった。
「桂川さんの言う通りだよ、新見。座れ。まず、自己紹介してもらう、新見から」
「よっしゃ。俺は新見賢三、三十一歳。フリーのカメラマンだ。『B.R.』プロジェクトのクレジットで言うなら、Photography担当、つまりジャケ写の写真は俺が撮ったっつーことやで」
 次に隣の女性が立ち上がる。
「デザインワーク担当、桂川清花です。二十五歳。ディスクの盤面デザインは勿論、ジャケットの紙の素材、色や文字の配置を考えるのが仕事。新見さんの写真を好き勝手使えるのが特権かな」
 さらに隣。眼鏡をかけた細身の男性が軽く頭を下げた。
「須佐巽。二十八歳。CF…テレビCMの製作をやってます」
 隣。大学生のような男性が緊張しているような挙動で立ち上がる。
「一村草介、ですっ。この仕事では宣伝ポスターの製作をやっています。二十四歳です」
 また隣。膨れた腹が目立つ壮年男性が胸の前で手をあげる。
「大塚スグル、五十歳。確認するまでもなくこの中では一番年配だな。製作担当。製作ってのは、まぁ、CDやケースそれら全てを形にする仕事だ。CDだけでなくCMの配給もやってるから、ま、こいつらの総まとめ役でもある」
 その、嵐のような自己紹介を浩太たち五人は黙って聞いているしかなかった。
「でも、ほんと、感動ですよ、社長」
 桂川が高い声を出した。
 他、新見たちも浩太たちに目を向けて、笑顔を見せる。
「会えて光栄です。あなたたちと」
 スタッフ五人を前にして、感動しているのは浩太たちも同じだった。
 自分たちだけで、『B.R.』のCDが作られているとは勿論思っていなかったが、こうして製作スタッフとして関わる人達と会うことで実感が伴う。三年間、一緒に仕事をしてきた仲間たちが、はじめて結集したのだ。感動を覚えるのは当然だろう。
「あ、あの…っ」
 実也子だ。
「ジャケットの写真って、いつもすごく綺麗なあの風景写真の? あなたが撮ってるんですか?」
「そーやっ」
「うわー、私、あれ、好きなんですよぉーっ。嬉しーっ」
 身を乗り出して新見の手を掴みぶんぶんと上下に振る。握手をしたいらしいが、気が昂ぶっていて何がなんだかわからない。しかし、実也子のそのテンションに新見もうまくのっていた。
「テレビCMって、女の子が路上で踊ってるやつですよね…?」
 と、祐輔が言う。
「そう。僕が撮った」
 須佐が答える。
「あれって、BGM無しで無音ですよね」
「そうそうーっ。突然、音が消えてハッとさせられるやつ」
 圭ものってきた。
「CDのCMでは珍しいですよね。あれも須佐さんのアイディアなんですか?」
「まあ確かに無音なのは演出だけど。でも実際問題として、毎回CMを撮ってる時期は、君らのレコーディングがまだ始まっていないんだ。だから『B.R.』の曲は使えないんだよね」
 苦笑しながら須佐は肩をすくめた。
 しばし歓談。
 『B.R.』のPR商戦は本当に一般的なものだ。
 リリース日の半月前には店頭にポスターが貼られ、テレビではCMが流れ始める。CMは過去三回に渡り、ストーリー形式になっており、CMファンの間では好評だった。一見、何のCMか分からない映像で、最後にアルバムタイトルと『B.R.』という文字が出るだけ。ずっと無音であることも、人々の注意を引きつけるのに一役かっていた。ポスターも同じイメージである。
 一方、発売されたCDのジャケットはCMに比べるとかなり抽象的で、風景写真にデジタル処理を施してあるものだ。とくにこれは知己が気に入っていた。
「────で、だ」
 盛り上がっている中で、安納が口を挟んだ。
「八木くんには、ライターとして、今回の企画に加わってもらう」
「よろしく」
 と、挨拶。
「は?」
 訳が分からず呟いたのは浩太だ。
 同じく圭も首をかしげる。
「今回の企画、ってなに?」
「あー、君達五人には言ってなかった」
 と、申し訳ないと思ってない表情で安納。
「二週間後の記者会見と同時に、『B.R.』のファーストアルバムを発売する」
「えーっ!」
「聞いてませんよ、社長」
 これも、驚いているのは浩太たち五人だけで、目の前の六人、そして叶みゆきは平然と聞いていた。すでに知らされていたのだ。
「だって、あと二週間で何やれって言うの? さらにアルバムってどういうこと」
「アルバムと言っても、ミニアルバムだな。今までシングルで発表してきたものと、新曲を一曲入れる。だから君達にはすぐにでもレコーディングに入ってもらいたい」
 さすが、と言うか。安納が浩太たち五人を二週間も遊ばせておくはずがなかった。
「このアルバムは、『B.R.』の正体をバラすのが目的なので、ジャケットにも色々と企画をつける。詳細は未決定だがメンバーのプロフィールや対談などだ。その為に八木くんを呼んだ」
 『B.R.』プロジェクト。
 企画責任者。安納鼎、叶みゆき。
 ミュージシャン。小林圭、中野浩太、片桐実也子、山田祐輔、長壁知己。
 スタッフ。大塚スグル、新見賢三、桂川清花、須佐巽、一村草介、そして八木尋人。
 合計十三名のプロジェクトがまた始まろうとしている。
 しかし、これで全員ではないことを知っているのは、安納鼎、叶みゆき、中野浩太の三名だけだった。





*  *  *



 目が覚めるような、鮮やかな、青。
 ───の、衣装。
「はずかしーっ」
 実也子が叫んだ。続いて同じ意見の圭も嫌味を含めた言葉を口にする。
「げーのーじんって、皆、こんなことやってんの?」
 とある撮影スタジオでのこと。
 教室ほどの広さの部屋の中は雑然としていた。撮影器材や照明器具、小道具が積み重ねられた棚は今にも崩れそうだし、所々に足場が組んであるので下手に歩き回れない。薄暗いのも気になる。が、部屋の一点だけ、照明が集中し、照度が高くなっている場所があった。
 そこには壁から床にかけて白い布が皺一つ無く敷かれている。照明の色も白。眩しすぎる光の中に彼らはいた。
 同じ青色の衣装。デザインはそれぞれ異なるけれどお揃いの服を着ている。圭は肩を出したトップに膝丈のズボン。浩太はタンクトップの上に襟付きジャケット。実也子は襟足の高いアンサンブルにミニスカート。祐輔はタートルネックの薄手のセーター。知己は首の開いたシャツとスラックス。
 すべて、青。
 靴下や靴まで同じ青だった。おまけに圭以外は、これまた青のレイバン。圭は大きな青い布を持たされている。
「今回のジャケット写真撮るでー。いいかー」
 と、三脚に乗せたカメラの向こうで新見が手を振る。
 いいか、と言われても五人は微妙に顔を歪ませることしかできないでいた。新見は試し撮りを既に始めていて、カシャ、ジー、という音が部屋に響いている。
 ジャケット撮り、と言われて連れてこられたと思ったら衣装を着せられスタジオの照明の中に居た。ここにいるのは『B.R.』の五人と新見賢三と桂川清花だけだ。安納鼎と叶みゆきは工程進行の打ち合わせで、他のスタッフもそれぞれの役割分担の前準備に追われているらしい。
「にしてもまさかこんな格好させられるとは思わなかった…」
 と浩太が嘆息混じりに言う。
「私、スカートはかない人なんだけどなー。あと慣れないヒールが痛い」
 実也子は苦笑いしながら、スースーする足をさすった。
「なあ、この青ってやっぱり」
「Blue Roseからきてるんでしょうね」
 知己の言葉を祐輔が継ぐ。
「安易だなー」
 圭が呆れる。
「分かりやすい、って言って欲しいな」
 と、口を挟んだのは桂川だった。背後に声を聞いて圭は振り返った。
「よく似合ってるよ、小林くん」
「喜んでいいわけ?」
「喜んで欲しいなぁ。私の見立てだもの」
 この桂川という女性。───彼女の趣味はすでに新見経由で知らされていた。
 安納社長と同じく派手好きで、しかも極度の少女趣味。安納と桂川では「派手」の種類が異なるが、どちらも演出過剰という意味においては同じだ。
「あ、ほらほらー。小林くんの持ってるヴェールね、『B.R.がヴェールを取って、今、明かされた』って意味を込めてるの。ね、ね。かっこいいでしょ?」
 桂川は一人、はしゃいでいるが、それに賛同する声はなかった。(派手好き…ね)と誰もが納得した。
「そこどけっ、ファインダーに入っとるでっ」
 カメラの向こうから新見の声が飛んだ。これは勿論、桂川に当てられた言葉だ。
「大体、なんで桂川が衣装決めるんやー。おまえ、デザインワークやろ」
「うるさいなー新見さんは。社長がこれ以上スタッフを増やしたくない、なんてケチなこと言うから仕方なく兼業してるんじゃない」
「嘘言え。楽しんでるくせに」
「あたりでーす」
 からからと笑いながら、ファインダーの外へ出て、そのまま新見の後ろにつく。新見はまったく、と息をついて再び撮影再開。相変わらずぎこちない五人だがそれはそれ、持ち味というものだ。
「ほんとは、今はあまりこういうのは流行らないのよね。CDジャケットにメンバーの写真をこれでもかってほど載せるのはね」
 桂川が語りはじめる。声量から、新見にではなく被写体の五人に聴かせている言葉だった。
「どちらかというと、抽象的なデザイン───写真とか、前衛的なイラストとかそういうもので曲のイメージを伝えるものが多いの。でも今回は『B.R.』の正体をバラすのが目的でしょ? やっぱり写真がメインじゃなきゃね」
「とか言って自分が楽したいだけじゃねん?」
 横から茶々が飛んだ。桂川はむっとして、報復の言葉を口にする。
「新見さんこそ、風景写真専門のカメラマンだからって、人物撮りはセンス無しってのはプロとしてシャレになりませんよ」
「桂川ー。ケンカ売っとんのか」
 桂川はくすっと笑うと、今度は五人に聞えないよう、声量を落とした。
「そりゃあ、新見さんと対等に仕事するにはケンカくらい売っておかないと」
「若造がええ気になんなよ」
 にやりと笑って、カメラの倍率をあげる。
 青い衣装を着た彼らを、ファインダーから覗き込む。シャッターを押す。
 新見の仕事はそれだけだ。そしてそれだけで全てが評価される。何年間もこの業界で生き残っている者を馬鹿にしてはいけない。桂川もそれをよく分かっている。
 カシャ。ジャー。
「新見」
 出入り口から須佐と一村が入ってきた。二人ともノートとシャーペンを片手に持っている。先程まで打ち合わせを行っていたのだろう。
 新見は頭を上げ、二人に軽く挨拶した。それから照明の中の五人に向かって、
「十分、休憩な」
 と叫ぶ。
「まだ着替えちゃいけないのー?」
 実也子が言う。
「これからや、我慢せー。───で、須佐たちは何の用だ」
 スタッフ側四人が輪を作り会話を始めたとき、新見の声は一段下がっていた。桂川も表情を改めて、その会話に加わる。『B.R.』演奏者の五人がそうでないとは言わない。が、スタッフの彼らはプロだ。遊びで仕事しているわけではない。
「一村のポスター案。やはりここは人物を使う方向で決まりだ。ついでだから、新見が今撮ってるもののポラが上がったら、ポスターの写真も撮ってもらいたい」
 と、須佐。
「ポスターに人物? 顔、写すんか?」
「いや、こっちはそちらと違って、事前宣伝だから。それはしない」
 発売日前に貼られるポスターに『B.R.』の顔を映すはずがない。
「だから、後ろ向きの写真を撮ってもらいたいんです」
 と、一村が続けた。
「丁度、ジャケットの後ろ姿だと面白いんじゃないかと思ってます。ポスターでは後ろ姿、そして発売されたCDは前面からの写真───、勿論、後ろ姿である程度人物像はバレてしまいますが、ポスターを貼ってからCDが発売されるまで一週間もないならそれもいいんじゃないかと思って」
 一村の言葉が切れると今度は須佐が話しはじめた。
「ついでにCFでは、完成CDのモックアップ(実物大模型)使うから、これは大塚さんのほうに頼んでおく。桂川さん、インレイや盤面デザインってできてる?」
「インレイは製作中、新見さんのスナップ待ち。盤面はデータをすでに大塚さんのほうへ送付済みです」
「ありがとう」
「CFの絵コンテは?」
「新見に見せる必要ないだろう。それはこっちの仕事だ」
「かーっ、ケチくせぇ」
「まあまあ、新見さん。抑えて抑えて」
 噂通りの須佐の仕事に対する厳しさを初めて目の当たりにして、桂川はウキウキしていた。これぞ仕事の充実感というものだ。
 セールスワークの作業も佳境に入っていた。







「うふふふー」
 実也子が不気味な声を発したことに、他四人が振り返ったのは当然かもしれない。
「…? なんだよ、ミヤ」
 スタンドマイクの前に立つ圭が訝しい声を返す。チューニング中の知己たちも同じ意見なのか同様の視線を実也子に向けていた。
「やっぱ、この時が一番幸せだなーと思って」
 現在、五人は馴染みのスタジオに入っていた。CM撮りも終わってスタッフ側は一息ついているころだろう。大塚スグルはいつでも量産に入れるように工場に出張っているというが。
 そういうわけで、演奏者側は迅速にレコーディングを行うように言い渡されていた。今朝早くからスタジオ入りしてノルマをこなしているというわけだ。
「皆の音のなかに居るときが、やっぱり一番かな」
 愛器のコントラバスを抱き込むように体重をかけ、実也子は笑顔を見せた。
「僕も、実也子さんのベースを聴いてるのは心地良いですよ」
「ありがとー祐輔ー。私も祐輔のタッチはすごく好きだよー」
 二人のやりとりを聞いて、圭は知己に、
「長さんも祐輔くらいのマメさを見せないと」
 と前置きしてから、
「ミヤと付き合えないんじゃない?」
 と言った。
「俺があんな台詞吐けるか」
 知己は珍しく躱さなかった。さり気なく聞いてしまった本心に圭は、くくくっ、と笑う。
「──それにしても浩太は」
「…え?」
「調子悪そうですね。というより、機嫌悪そうですね」
 と、祐輔は言った。話題を振られた浩太本人は、ぎくっ、という表情をそのまま見せた。
「そうそう。さっきの音合わせでもミス連発してたしな」
「体の具合でも悪いの? それとも何かあった?」
 四人に囲まれて、その疑惑の迫力に浩太は後ろに倒れそうになる。
「いや…、なにも、ないけど」
 目を逸らす。
「あやしーなー」
『きゃっ』
 別の声がスピーカーから響いた。同時に、カシャンと小物が落ちる音がする。
 五人がガラスの向こうのPA室に目をやると、叶みゆきが慌てて落ちたものを拾っているところだった。
「────あっちも、調子悪そうだな」
 と圭が言う。
「二人して何かあったんですか?」
「うわっ、祐輔。それってすごく嫌らしい言い方」
「何もねーよっ」
『な…何もありません!』
 こちら側の声も向こうには筒抜けだ。会話を聞いていたみゆきもマイクに向かって叫んだ。
 みゆきのそのうろたえようから、何かあったことが丸分かりである。(あのばか…)と浩太は内心冷や汗をかくが、浩太自身も案外簡単に見透かされていることに自覚がない。

 あの、病室での一件から数日経っている。
 みゆきと浩太は何度か顔を合わせているが、みゆきは目を逸らすだけで話にならない。そして浩太も、あの日耳にした真実を、他のメンバーに言い出せないでいた。
 もちろん、このままみゆきが皆を騙し続けるのは、絶対に許さない。
 それならば自分が暴露してしまえばいいのに。浩太は、何故か言い出せないでいる。
(このことは、内緒にしてください…っ)
 みゆきはそう言った。希玖とみゆきには何か事情があり、隠さなければならないことがあるのだろう。
 それは理解してやってもいい。
 けど。
(俺たちにまで、三年間も隠し通さなければならないことなのか?)
 それを言ってしまったら秘密にならないのだが、その矛盾に気付かない浩太だった。
 半月前に偶然(と、思っていた)出会った安納希玖が、これほどにまで深く、『B.R.』に関わっていたなんて知らなかった。
 希玖という存在を知らない四人に、どう告げるべきか悩んでしまうのだ。
 みゆきが、小さな悲鳴をあげた。
「なに?」
「かのんちゃん? どうかした?」
「…」
 浩太も我に返り顔を上げる。
 みゆきは後ろを振り返っている(ドアの方向だ)。どうやら突然入ってきた誰かに驚いたらしい。
 五人がいるところからではドアは見えないので、みゆきが誰に驚いたかはわからない。
『ど…どうしてっ』
 みゆきの、驚きの声。それから遅れること一秒。
 がちゃり、とPA室と録音室の間のドアが、開いた。
「よー。陣中見舞いに来たぞー」
「……あーっ!」
 ドアから現われたのは中年の男性だった。何者か察したのは、浩太が一番初めだった
 他のメンバーもすぐに気付いた。
「あれーっ!」
「え…、まさか、店長?」
「確か、PRE-DAWNの…」
 現われたのは、筧稔。喫茶店『PRE-DAWN』の店長だ。『B.R.』が結成されることになった因縁ある店でもある。
「聞いたぜー。二四日の記者会見のときに同時に新曲披露だなんて派手だな、あいかわらず。鼎の考えることは」
「筧さん…っ」
 追って、みゆきも録音室へ足を踏み入れた。
「…どうしてここへ? 聞いてませんよ」
 非難する言い方だった。
「鼎には言ってあるよ。俺が、ここにくることは、さ」
「……それって」
 筧の意味ありげな言葉に、普段は鈍感なみゆきもピンとくるものがあったのか気を止めた。全く気付いていない実也子が筧に弾むような声をかけた。
「ねぇねぇ、店長って何者? かのんちゃんと知り合いなの?」
「かのんちゃん? って誰だ?」
「あ、私のことです」
 と、みゆきが自ら名乗る。そして実也子の質問にもみゆきが答えた。
「筧さんは社長のお知り合いで、私にスタジオワークを教えてくれた先生なんです」
「そういうこと」
 これには浩太も驚いた。
「店長、スタジオマンだったのっ? マジでっ?」
「あれ、浩太も知らんかったっけ? おまえが中坊のとき、貸しスタジオ世話してやったのは誰だと思ってんだ」
「そりゃ覚えてるけど…。………っ!」
 浩太は目をとめた。飛び上がりそうなほど、驚いた。
 筧とみゆきの背後、丁度同じドアから、彼が表れるのを、見た。
「………きっ」
 浩太の呼びかけに、弾かれるようにみゆきが振り返った。
「!」
 目を見開く。
「……っ希玖!」
 みゆきと浩太の驚きは同じものだ。
 ここに来るはずのない人間が現われて、二人は目を見開く。
 彼が、そこに立ってた。ニットのコートと帽子、それにマフラー。彼にしては厚着な格好。
 そこにいる全員の注目を浴びているにも関わらず、動じずに、それを受け止めていた。
「誰? 浩太の知り合い?」
 圭が言った。
 非関係者ならばここに現われるはずがない。プロジェクトスタッフは先日全員と顔合わせをしたし、仮にスタッフだとしても年齢が若すぎる気がする。
 彼は圭、実也子、祐輔、知己に対して、にっこりと笑った。
「こんにちは。はじめまして、僕は安納希玖といいます」
 明るい声で名乗り、ニットの帽子を取る。すると、茶色の髪が空を舞った。ぶるぶると首を振った後、もう一度微笑んだ。
 みゆきは彼、安納希玖の行動の意図を掴めずパニックになっている。考えがまとまらない。
 浩太も、希玖が何故このシチュエーションを選び自分に会いに来たのか全く分からなかった。
 そして礼節通り名乗った希玖だが、この状況では何の説明にもなっていない。しかしながら名前だけから推察できる素性、それに逸早く気付いたのは知己だった。
「安納…って」
「うん。そう。社長≠フ息子」
 希玖が言う。え、と皆、目を見開いた。
「あとみゆきちゃんの従弟だし、浩太の友達でもあるよ」
 みゆきちゃんの従弟だし、浩太の友達でもあるよ。
「希玖…っ」
 みゆきだ。希玖はそれに答えて、
「稔さんと違って、僕がここに来ることは、お父さんには言ってない。反対するのは分かってるし」
「じゃあ…」
「それにしても…あはは。テレビより先に、『B.R.』の皆を見ちゃった。ちょっと優越感」
 もう一度五人を見渡して、希玖は熱っぽく語った。
「僕も『B.R.』のファンなんだ。サイン貰ってもいい? 他のファンの人達から見たら、すごい抜け駆けだけど、それはまあ、お父さんのコネということで」
 くすくすとよく笑う。
 希玖は気さくな人柄で、圭や実也子ともすぐに打ち解けた。『B.R.』の音楽や、安納鼎の裏話で盛り上がっている。
 そんな希玖を前にして、知己は浩太に気付いた。
 浩太が、希玖を見る視線。苦々しく眉を寄せて、何か言葉を飲みこんでいるように、右手は胸を掴んでいる。
 希玖は「浩太の友達」と名乗ったが、希玖が現われてから浩太は一度も言葉を発していなかった。
 知己は浩太に小さく声をかけようとする。が、圭のほうが勢いがよく一瞬だけ早かった。
「浩太、なに怒ってんの?」
 と、大きくはないが会話の流れを中断させるくらいの声量で言う。
 浩太は圭を睨んで、
「……なんでもねぇよっ」
 と刺々しい声。
「浩太」
「!」
 希玖だ。凛とした声が響いた。
「僕は、君に会いにきたんだよ」
 真っ直ぐに浩太を見つめる。いつものような場を和ませる笑いではなく、ただ一人に向ける、感情を表した笑顔だった。
「それから小林圭くん」
「ん?」
「片桐実也子さん」
「…あ、はいっ」
「山田祐輔さん」
「はい?」
「長壁知己さん」
「…ああ」
「──それに浩太。みゆきちゃん」
 真剣な瞳を、二人に向ける。
「聞いて欲しいことがあって、今日はここに来たんだ」


「『B.R.』の作詞作曲担当はKanon……。これはクレジットにも明記してあるし、世間にもそう知らされているよね」
 筧を退室させてから希玖がそう切り出したとき、過敏に反応を見せたのはみゆきだった。
「希玖…っ、あなたまさか」
「みゆきちゃんが言いたいって言ったんじゃない。どうせなら僕に言わせてよ」
 今。希玖が皆に言おうとしていること、それはみゆきの望んだものだ。それなのにみゆきは素直に成り行きを聞いていられないと思った。どうしてだろう。胸が痛かった。
 続ける。
「皆の前に現われたことはなかったけど、僕は『B.R.』プロジェクトに立ち上げ当時から参加していた。というより、……『B.R.』を最初に考えたのは僕なんだ」
 全員に、明らかな動揺が伝わった。
「僕は先天性の病気持ちでね。あんまり外出できない体質なんだ。何年か前、そんな僕にお父さんがパソコンを買ってくれた。昔から音楽を聴くのは趣味だったけど、曲を作ったのはその時が初めてだったよ」
 すらすらすらと淀みない台詞が希玖の口から紡ぎ出される。話の内容の方向を見抜いたのか、「え…」と誰かが呟いた。
「初めに曲らしい曲を創ったのは十歳のとき。僕の曲を初めに聴いてくれたのはみゆきちゃんだった。その数年後、お父さんが仕事で僕の曲を使いたいと言ってくれた。僕はすぐにOKした。でも僕はこんな体だから製作に関わることができない。だけど信用できない人に僕の曲を任せたくない。だから」
「ちょっと待って、それってつまり────」
 淡々と話される希玖の言葉をとめる。
「だから、僕はみゆきちゃんにお願いしたんだ」
 その告白に。みゆきはぎゅっと目をつむり、顔をそむけた。浩太はそんなみゆきを見つめていた。
「待ってください。それじゃあKanonは…」
「『B.R.』の作詞作曲をしたのは僕だ。それは事実だよ」
 希玖は言い放った。
「そもそも、Kanonというのは、僕が楽譜にサインした名前をみゆきちゃんが「カノン」と読み間違えたのが始まりなんだ」
「じゃあ、Kanonはかのんちゃんじゃなくて…」
 びくっ、とみゆきの肩が揺れた。それを目に止めたかはわからない。希玖はまっすぐに言う。
「────それは違うよ」
 予想しなかった答えが返ってきた。
 四人は混乱した。
 浩太は目を見開き、みゆきは顔を上げる。
「え…?」
 と呟いた。
「あははっ。もう、皆、早合点だなー。ここはみゆきちゃんも浩太も勘違いしているところなんだけどさ」
「勘違い…って、どういうことだよ」
「何でわかんないの? 浩太」
 浩太だけじゃない。みゆきも、希玖の言いたいことがわかっていない。
 Kanonは、みゆきではなく希玖だ。当事者であるみゆきが、それは事実だと断言できるのに。
 同じように当事者である希玖は、それを違うという。
「浩太も、『B.R.』のギタリストなら分かるよね。みゆきちゃんはどんな仕事をしてた? みゆきちゃんは楽譜というただの書類から、浩太たちの音を録り、組み合わせて、「曲」にしている。それがみんなが耳にする『B.R.』の音楽だよ。一つの曲を完成させるには、どの音を選びどの音を抜くか判断しなければならない。それはオペレーターの手にすべてかかってる。…わからない? 『B.R.』の曲を造っているのはみゆきちゃんだ。僕はその素となる楽譜を書いている」
 一呼吸、おいた。
「つまり、Kanonは二人いるんだ」
 だから、みゆきではなく希玖だというのは間違い。
 どちらが欠けてもKanonという役はこなせないから。
 希玖は三年前からそのことを意識して曲を書いている。みゆきの存在が不可欠だということを知ってる。希玖は口にしたことはなかったが、やはりみゆきは分かっていなかったのだ。
 そして浩太も、レコーディングに参加し、みゆきの仕事を見てきていたはずなのに希玖が現われて疑惑を生じさせていた。
 希玖の言葉に戸惑っているみゆきに、視線を向ける。
「…みゆきちゃん、僕は決して自分の仕事を軽んじているわけではないけど、Kanonの名を一人で背負うのが辛いのは僕も同じだ。……Kanonは、僕たち二人の名前なんだよ」
「希玖……」
「浩太も、わかってくれた?」
「……」
 浩太は答えなかった。しかしその表情からは先程と違うものが伺えた。希玖は返答を求めなかった。
「『B.R.』の皆さんも、了解してくれた?」
 圭、実也子、祐輔、知己に視線が振られ、今まで黙って聞いていただけの彼らは我に返ったようにはっとする。
「ええ、もちろん。了解しましたよ」
 と、祐輔。
「でも驚いたよ、マジで」
「ほんと、びっくり。私たち、六人じゃなくて、七人だったんだね」
 実也子の言葉に、希玖は笑ったようだった。
「夢で描いていたことがすべて現実になった。本当に感謝しなくちゃいけないよね」
 噛み締めるように、そう言った。
 その時、
(やばい)
 すぅ、と足の力が抜けた。発作だ。上半身が傾く。
 がしっ、と。希玖の体を支えた腕があった。
 浩太だった。
「おい、かのん。椅子持ってきて」
「あ、はいっ」
 ぱたぱたとみゆきが部屋を横切って、折り畳み椅子を片手に戻ってくる。それを手早く組むと、浩太は希玖をゆっくりと座らせた。
「…さんきゅー、浩太。…みゆきちゃん、ごめん。せっちゃん先生に連絡しておいてくれない? 勝手に抜け出してきたから心配してると思う」
 椅子に座っても、希玖の足の感覚はなかった。
 でも、だからといって希玖は絶望を感じたりはしない。
「おい、大丈夫なのか」
「どうしたのっ?」
 希玖の病気の詳細を知らされていない圭たちが心配そうな声をかけてくる。希玖は笑顔で何でもないことを表した。後々、ちゃんと説明しなければならないだろう。
「…浩太」
「何だよ」
「以前、僕、言っただろ? 好きなことばかりして、周囲に迷惑かけてるって」
「ああ。──でも、こういうのは迷惑とは言わないだろ」
 気遣いや心配をかけるさせること。それは迷惑という枠には組しないと、思う。
「違うんだ」
「希玖?」
「アメリカの研究機関が僕に来て欲しいって言ってる。僕のはかなり重度な症例だというから、多分、データをとって治療に役立てたいんだろうね。でもさ、同じ病気の人達には悪いと思うけど……、僕は、ここで色々なことをしてみたかったんだ」
 勝手すぎる自分に嫌悪を抱く。沢山の人を困らせていることに胸が痛くなる。
 でも、僕の人生。好き勝手していいはずだ。でも。
 混乱と葛藤があって、道徳や倫理が加わったら自分の意志だけで自分の行動を決められないと気付く。
 それを振り切ることと引き換えに、この嫌悪感を抱き続けなければならいと、分かっている。
「僕がこんなことしてるなんてばれたら、いろんな所から苦情と非難がくるだろうし、ね。だから僕は、表舞台には立たないできたんだよ」
 にかっ、とまたいつもと違う笑顔を見せる。これは自分のなかの痛みを表情に出さないための笑顔だと、浩太は見抜いてしまった。
「あ、ねぇ。そういえば『B.R.』のこれからって、悩んでたみたいだけど結論でたの?
 突然、話題を変えて、希玖は圭たちに尋ねた。
「まだだけど」
 希玖はいたずらを思い付いたように、不敵な笑みを見せる。
「僕、考えたんだけど、こういうのはどう? 面白いと思うんだけどな。きっとお父さんも賛成するよ」
 人差し指を立てて、希玖は、五人に一つの提案をした。




*  *  *



 今日の仕事場所はnoa音楽企画の会議室だった。
 日程調整と指揮は叶みゆきの仕事。今日、集合したのはプロジェクトの演奏者五人と八木尋人だった。別の仕事があるのか、みゆきはここには来ない予定だ。
「じゃあ、さっき説明した通り、CDジャケットに全員のプロフィール載せるから一人ずつ個人面談な」
 広い会議室に六人。八木の声は意外なほどよく響いた。
「名前呼ばれたら、こっちの部屋に入って」
 と、室内扉で区切られている別室へ向かおうとした八木に、実也子が手を挙げて質問した。
「なんで、わざわざ別の部屋でやるの?」
「一つ一つの受け答えに外から茶々を入れられないように、だ」
 簡潔に回答が帰ってきた。要するに、邪魔をするなと言いたいのだろう。



「まず。名前」
「知ってるじゃん、そんなの」
「形式だ。答えて」
「小林圭」
「年齢は?」
「十五歳」
「出身地」
「名古屋。…現在住のときも出身地って言うのか?」
「言う。間違ってない。次、担当楽器」
「声」
「……。尊敬する音楽アーティスト、いるか?」
「堀外タカオと山村シンジ」
「…世代、違うだろ」
「俺、それ聴いて育ったから。親父の影響」
「じゃあ、最近の歌手では?」
「尊敬はしないけど、Little BACHはよく聴く。各パート巧いってわけじゃないけど曲は俺好み。あとはLOVE PHYLACTERYの八十年代初期風。それと矢野美樹の声は好き」
「えーと、『B.R.』を始める前の、圭の音学歴なんてある?」
「特になし」
「自分を『B.R.』に導いたものは何だと思う?」
「レコード屋の父と、オペラファンの母」
「最後に、これからの抱負」
「ずっと、歌ってるだろうなー」





「名前は?」
「山田祐輔」
「年齢」
「二十四です」
「出身地は?」
「横浜ですが」
「担当楽器」
「キーボード及びピアノ。鍵盤楽器全般」
「尊敬するアーティストは?」
「特にいません」
「…。一人も?」
「どうしても挙げろというなら、一人だけ」
「誰?」
「東京ミュー・フィルのビオラでセカンドの人です」
「………? …次の質問。今までの音学歴は?」
「音楽院を出たっていうのは音学歴になりますか? あとは地元でピアノ教室開いてるというくらいです」
「自分と『B.R.』を出会わせたものは何だと思う?」
「友人です。彼に呼び出されたとき、Kanonの曲とであったので」
「これからの抱負を」
「なるようになります」






「まず、名前」
「はいっ。片桐実也子でっす」
「年齢は?」
「…それを訊くか。二十一だよ」
「出身地」
「群馬県」
「バンドでの担当楽器は?」
「ベース。…使ってる楽器はコントラバスだけど」
「尊敬するアーティストは?」
「RIZの加賀見康男! …あ、もう亡くなったんだけど。でもあの人はかっこいいよ、ホントに」
「RIZ…って、昔いたジャズバンドだっけ?」
「知ってるのっ? なんだ八木さんもー、早く言ってよー。そう、あの人のベース聴いて、私もこの楽器始めたんだ」
「他には?」
「………。……前田公昭」
「じゃ、次の質問。今までの音学歴は?」
「ありません」
「自分と『B.R.』を出会わせたものは何だと思う?」
「RIZ、かな。やっぱり」
「これからの抱負を」
「やれるとところまで、やるよ」





「じゃ、名前」
「長壁知己」
「年齢は?」
「三十四歳」
「出身地」
「新潟」
「バンドでの担当楽器は?」
「ドラム」
「尊敬するアーティストっている?」
「尊敬…っていうのは、いない、かな」
「じゃあ、最近よく聴く音楽は?」
「ビル・アルゲリッチはよく聴く。サーボ・バナルとか? あとTNMとOMO。当時は全く聴かなかったけど、最近聴くようになった」
「あと…、長壁さんも、音楽歴ないの?」
「も、って…まさか実也子がそう答えた?」
「うん。違うの?」
「あ、いや。…俺は昔、東京でバンドやってた」
「え。プロで?」
「一応」
「へえ。バンド名は?」
「秘密」
「…また秘密か。ま、いいか。次、自分と『B.R.』を出会わせたものは何だと思う?」
「昔やってた、バンドだな。やっぱり」
「これからの抱負は?」
「気の向くまま。俺はそういう性格」





「次。まず、名前」
「中野浩太。…なんでわざわざ」
「形式だよ。…次の質問な。年齢は?」
「十八」
「出身地」
「東京」
「『B.R.』での担当楽器は?」
「ギター」
「尊敬するアーティストは?」
「ジミー・カート。あと意外なところで連香織」
「自分から意外とか言うなよ」
「だって、クラシックのギタリストだぜー? …それから、バンドマンならどんなに遅くても一度は彼らへ帰ると言われるビートルズ」
「なるほど。『B.R.』始める前の音学歴は?」
「俺の?」
「他に誰かいるか」
「えーと、中学二年から友達とバンドやってて、高校入ってからは助っ人として色んなバンドに出入りしてたこと……。これって音楽歴か?」
「勿論。次、自分を『B.R.』に導いたものは何だと思う?」
「…んーと。…けっこー音楽に飽きてたときに、Kanonの曲を聴いたこと、かな」
「最後に何か一言」
「何かって?」
「CD買ってくれた人に対して、とか」
「『今、俺の前に居るのは、俺の正体をバラした本人だ』、とか」
「手厳しいな」
「いいんだよ。どうでも。俺達はもう、『B.R.』の行方を決めてるんだから」





*  *  *




 十二月二十四日。クリスマス・イヴ。
 キリストの降誕を記念する祝祭。───の、前日。
 と言っても、この世界的規模のイベントでどれだけの人がそれを意識しているだろう。街を歩けば煌びやかなネオン、華やかな通りを着飾った人々が歩く。例え名目が何であれ、東方の三博士が星見だけでイエスの生誕を予測したように、誰もが幸せな気分でいることを誰もが不思議と予感してしまうような、そんな、聖なる日。
 そんな日のとても寒い朝。人々の話題を独占したものがあった。
『はい。こちら渋谷MG会館前の高木です。見て下さい、この行列! このクリスマスイヴの朝にずぅーっと向こうから、若い人達を中心とした人だかりができています。皆さんお分かりでしょう! 本日午前十時から、MG会館大ホールにて、あの、『B.R.』の公開生記者会見が行われるんですっ』
 女性リポーターが寒い中息を弾ませて叫んでいる。
『元々、マスコミ向けの記者会見だったんですよ。しかし同時に初のライヴを敢行するということが、昨日、各マスコミに通達されました。どういうことか分かりますかっ? 過去、一度も、姿を表すことがなかった『B.R.』がライヴを行うんです! 半月前の中野浩太さんの一件は皆さんご存じだと思いますが、彼以外のメンバーも全員現われるんですよっ! ───『B.R.』の仕掛人、安納鼎社長が言うには一般の方の出入りもオッケーだそうで、整理券をもらうために、こんな行列ができているというわけなんですっ! ライヴの状況はテレビ放映の許可も出ているので、ここに来れない方々も放送を楽しみにしててくださいねっ!』
 それともう一つ。
『高木さんありがとーっ。替わってこちらは、Tレコード池袋店まえの平沼シンヤでーっす。こちらも人、人、人の行列ですっ! ちょっと訊いてみましょう。───おはようございます! 今日は何を買いに来られたんですか?』
『もちろん『B.R.』の新譜ですよー。テレビCMも超カッコ良かったしー、早く聴きたーい!』
『というわけでぇ、こちらも『B.R.』絡みの行列です! 販売元の生産が間に合わず限定数発売との噂もあるので皆さん必死です。今日はクリスマスイヴ! 同時に『B.R.』の日と言っても過言ではないでしょう! それではスタジオにお返ししまーす』

 『B.R.』────。
 三年前の夏。どこからともなく現われたロックバンド。
 はじまりは有線放送だった。
 街中を歩くといつのまにか耳にしていた。喫茶店に入れば気付くと耳を傾けてしまう。誰かと会っているとき、買い物の途中、食事、散歩、いつもの日常のなかで。
 気が付くと耳を傾けていることに気付く、そんな歌があった。
 初めは何件かの問い合わせの電話。少しずつ噂が広まり、話題が話題を呼んで、その歌がチャートに名を列ねる頃。誰もが、誰もその姿を知らないことを知る。
 『B.R.』は正体不明。どのメディアにも姿を現さず、音だけの存在なのだ。
 演奏形態はロックバンドの基本、ボーカルとギター、その他からなる5人(推定)で、ボーカルの声は男声とも女声ともつかず、性別すら分からない。
 デビューから三年。これだけ時間が経つと、レコードをリリースする周期が読めてきて、『B.R.』は夏にだけ曲を出すことに気付く。
 その秘匿さは世間の好奇心を掻き立てていた。
 夏だけの存在。
 しかしその歴史は今日までのこと。
 クリスマス・イヴの今日。彼らは現われる。
「─────ねぇ、尋人」
 白いコートに身を包んだ日辻篠歩は、隣に並ぶ八木尋人の名を呼ぶ。
「何?」
「クリスマスにライヴに誘うなんて、あんたにしては上出来だけど、どうして『B.R.』のライヴチケットがすでにあるわけ? しかもバックステージパス付き」
 疑惑の目を向ける篠歩。ぎく、と尋人は内心で思ったが態度には出さなかった。
 尋人は、『B.R.』のアルバムにライターとして参加していたことを、まだ篠歩に言っていない。
 まぁ今日発売のCDを篠歩が手にしたら、クレジットの名前でバレてしまうのだけど。
「ダメ元で中野くんに頼んでみたら、意外とあっさりくれたんだ」
 平然と嘘をつく。
「……怪しいわね」
「オイ」
「『B.R.』がライヴするって聞いたのは、つい昨日のことよ? 半月前の騒動から中野くんにはマスコミが張り付いてるし、端から見て第三者のあんたが中野くんと会う機会があるわけないじゃない」
 確かに、筋は通っている。
(…さて、どうやってゴマかすか)
 あとたった二時間の秘密を隠し通すことを、尋人は真剣に考える。煙草を咥える。すでに無意識下での行動。
「隠し事してるでしょ」
「そりゃ勿論」
「『B.R.』絡みだったら、ただじゃおかないわよ」
「じゃあ言わない」
「『B.R.』のことなのねっ!」
 このやろ。ぼすっと尋人の背中を叩く。
「すぐに分かるさ」
 と、尋人が笑った。勿論、尋人が素直に笑うはずがなく、ごまかすためのものだと篠歩は知っている。この辺りの歪みきった付き合いが何年も続いているのだから。
「────彼ら、どうするのかな」
 と、篠歩が訊いた。質問の意図をすぐに察して、尋人は目を伏せた。
「…」
「……まさか、やめるなんて言わないよね? 中野くん、何か言ってた?」
「俺は何も聞いてないよ」
 ただ、五人の意志は決まっているという。
 今日、それが明らかにされるのだ。



*  *  *



「おはよう、希玖」
 病室のドアを開けて、叶みゆきが入ってくる。すでに出かける支度を整えていた安納希玖は笑顔を返した。
「おはよー、みゆきちゃん。今日も寒いね」
「おはよう、叶さん。今日は希玖のこと、よろしく頼むね」
 隣で希玖の主治医である関久弥も手を振った。
「おはようございます、先生」
 心配する関医師を他所に、外出許可をもぎ取ったのは希玖本人だった。関は絶対に駄目だと言い張っていたが、すべての事情を話したら納得してくれた。
 今日ばかりは、行かなきゃならないから。
 いつもパジャマ姿の希玖だが、今はコート姿でベッドのとなりに立っている。これからみゆきと渋谷MG会館へと向かうのだ。
「とうとうだね。みゆきちゃん」
「…だね」
 どこか淋しそうに、みゆきは笑う。
「彼らは?」
「朝一でホテルから直行してる。今はリハーサルしてるころかな」
「ミキサーは誰?」
「筧さんがやってくれるの。…私じゃ、ライヴは務まらないし。助手やれって言われたけど、断わっちゃった」
「どうして?」
「怖くなったの。こんな素人が、この業界にいることに」
 みゆきは希玖の目を見て、はっきりと言った。
「私、やっぱり甘えてたんだと思う。自分が表に出ないのをいいことに、『B.R.』の仕事を楽しんでた。この程度の力量で、満足してたの。…でも急に怖くなって、このままじゃ駄目だと思った」
「……」
「私、専門学校に行こうと思ってるの。ちゃんとオペレーターのこと勉強して、また、この業界に戻ってきたいの」
 喋るのが苦手なはずのみゆきが、一生懸命自分の思いを伝えようとしている。それを受け止めて、希玖は微笑んだ。
「学校なんて行かなくても、お父さんに頼んでみたら? noa音楽企画だって優秀なミキサーはいるし、彼らの助手をしてたほうが実践で身につくかも」
「希玖〜。決心を揺らがせること言わないでよ〜」
「あははっ。────僕もね、みゆきちゃん」
「ん?」
「アメリカへ行ってこようと思うんだ」
「希玖っ?」
「例の研究所」
「どうしてっ? 何か言われたのっ?」
「別に。ただちょっとは献身しないと、夢見が悪いと思っただけ」
「希玖……」
「心配しないで。四月には戻るよ」
 そろそろ時間だよ、と関が言う。希玖はマフラーを手に取り、歩き始めた。
 ショックで歩き始めることのできないみゆきは立ち止まったままだ。
 希玖はみゆきに手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。僕らのプロジェクトは、これで終わりじゃないんだ」
「……」
 みゆきはぎこちない笑みを見せて、その手を受け取った。

 『B.R.』とは「Blue Rose」の略。
 「Blue Rose」。その意味は、ありえないもの。
 まだ手にしていない何か、…不確定な未来。
 まだ手にしていない何かを探しながら。未来へと、歩いてゆくのだ。





 渋谷MG会館大ホール。
 午前九時半、開場。
 開場から十分もしないうちに、数千からの客席は運良く整理券を手にした人でいっぱいになった。その二十分の一はプレス席で、報道関係がカメラを持ち込みひしめきあっている。
 客席にはまだ明かりが灯り、ステージは薄暗闇にしか見えない。それでもマイクスタンドやドラムスが置いてあるのは確認できる。客席では期待と興奮が高まっていた。
 ────その、舞台袖では。
「………何か、すごいことになってるな」
 と、Tシャツ姿の中野浩太が言った。その片手には愛用のギター。チューニング済み。
「今更じゃん、浩太」
 呆れた声を返したのは小林圭。マイクはすでに舞台に設置されているので彼は手ぶらだ。
「まぁ、折り返せない所まで来たのは確かですね」
「うぅーっ、緊張するなー」
「始まればおさまるだろ」
 舞台袖には、『B.R.』のメンバーが集合していた。リハーサルは開場前に済ませ、あとは本番を待つだけだ。タイムテーブルでは、十時からライヴで新曲とデビュー曲を披露。その後、スタッフも壇上に上がり記者会見をすることになっている。
 プロジェクトでデザインワーク担当の桂川清花は、ライヴで、ジャケット写真と同様の衣装を五人に着せたかったようだが五人は揃って辞退した。そういうわけで五人の衣装は結局いつもと同じ普段着となった。
「かのんと希玖は?」
 と、長壁知己がわざと浩太に訊いた。
「もう少しで着くってさ」
 さっき希玖から連絡が入ったので、浩太はそう答えた。
 浩太以外の四人が顔を見合わせる。
「ところでどうなの? やっぱり希玖って、かのんちゃんのことが好きなのかなぁ」
 本来、ひそひそ話となるべき片桐実也子の台詞は、しっかりと浩太の耳に入るくらいの声量だった。
「もしそうなら浩太に勝ち目ないじゃん。かのんが希玖のこと好きなのはまる分かりだし」
 と、圭。
「まぁ、浩太のこれからのアプローチ次第ですかね」
「浩太にその甲斐性があるかは謎だが」
 山田祐輔と長壁知己もそれぞれの意見を口にする。
「でも希玖って、中野のこと気に入ってるよね、絶対。それってもう、完璧な三角関係じゃない。すごーい、少女漫画みたーい」
 無邪気にはしゃぐ実也子の台詞に浩太は脱力した。
「あのなぁ…ミヤ。……いーかげんにしろよ、おまえらっ!」
「そこで凄んでも照れ隠しにしか見えないって」
「圭っ、てめーっ!」
「ちょっと中野っ、圭ちゃんに八つ当たりしないでよっ」
 圭の首をしめる浩太を実也子がブーイングする。
「でもこれで、浩太に本当に自覚がないなら、それはそれで恐いですよ」
「おもしろい、の間違いだろ」
 細目をさらに細くさせて、知己の言葉に祐輔は微笑んだ。
「さすが長さん。よく分かってますね」
 騒ぎ立てる浩太たちをよそに、クスクスと笑い続ける祐輔。それにつられて、知己も声を出して笑った。
「おい、いい加減静かにしないか」
 頭上から注意の台詞が降ってきた。
 いつもと同様、スーツ姿の安納鼎だ。
「舞台袖だぞ。騒げば客席にも聞える」
 安納の諌める口調に五人は顔を見合わせて肩をすくめた。
「…まったく、本当に君達はマイペースだな。これから数千人の観衆の前に出るっていうのに───」
 安納は正直、呆れた。
 どんなプロでも本番前は何らかの心構えをするものだ。気負いやプライド、自分をいきり立たせるように。そもそもこの五人は公式の場にでるのは初めてのはずなのに、このリラックスしきった雰囲気はなんだ。
 知己が口を開いた。
「…社長。色々ワガママをきいてくれて、ありがとうございました」
 五人とも、全員、感謝を表す表情を向けた。
「…」
 安納は嘆息した。
「まぁ、私は『B.R.』についてはもったいないと思うがね」
 ふと、そこで腕時計に目を落とす。
 顔をあげる。
「──さあ。時間だ」
 その言葉を合図に、ざっ、と五人が一斉に立ち上がる。
 輪を作って、全員、拳を揃えた。
「では、最後の晴れ舞台。───行きますか」
 誰かが言った。
「おっしゃ」
「はーい」
「楽しかったよ、この三年間」
「ほんとに」
「では」
 輪を解き、五人は歩き始める。
 すぐそこには、この三年間知ることのなかった光の庭。
 安納鼎。そして安納希玖と叶みゆきはその後ろ姿を見送る。
 きっと誰もが望み、期待していた瞬間。
 中野浩太。小林圭。片桐実也子。山田祐輔。長壁知己。
 五人は。
 光溢れるステージへと飛び込む。
 割れんばかりの歓声を、その身に受け止めるために。
 そして。





 ───そして。
 『B.R.』は解散することが、告げられた。







 『B.R.』初の冬の歌は、『B.R.』最後の曲となった。
 最初で最後のアルバムタイトルは「SONGS」。
 各小売店は品薄に嘆き、レコード会社はクレームの嵐に陥った。年末だったので迅速対応は不可能。結局この騒動は年越しまで延長させられた。
 『B.R.』の解散に各報道関係はこぞって騒ぎ立てた。号外まで出た。それこそクリスマスどころではなかった。ライヴ後の記者会見でそのことが告げられ、メンバーや安納鼎を含む関係者は勿論質問攻めに合った。スタッフ一同は言う。「演奏者側が決めたことですから」。そして演奏者側は言う。「真剣にこの業界で活動されている方には申し訳ないですけど。僕たちはそれぞれの生活がありますので」。
 予想以上のマスコミの盛り上がりぶりに、結局、『B.R.』の五人はホテルでの軟禁生活を余儀なくされた。しかし年末になると、それぞれの実家へ帰って行った。
 某テレビ放送局の年末恒例の生放送歌番組では、異例のビデオライヴが行われた。もちろん、『B.R.』の。
 年が明けても落ち着かず、それぞれの実家へマスコミが押し寄せた。
 けれども、彼らは本当に、普通の、今まで通りの、自分たちの生活に戻っていた。その姿がニュースで流れたとき、世間は彼らが本当に一般市民なのだと実感させられることになった。
 『B.R.』再結成を望む声も多くあった。投書があったらしくテレビでも取り上げられた。それらは安納鼎の前まで持ち込まれたが、「本人たちの意志ですから」と、柔らかく納得させられた。
 そんな風に『B.R.』の名は消えることがなかった。
 でも、流れ行く時のなかで。バレンタイン・ディがショーウィンドウを飾るころになると、次第に『B.R.』の話題は薄れていった。
 『B.R.』は、伝説になった。








 ─────四月。東京駅。

 中野浩太は駅構内を颯爽と走っていた。
「やべーっ、遅刻だ」
 左腕の時計にチラリと目をやると、約束の時間は五分前に過ぎていた。同じ場所に集合する他の人間たちのなかに、他に遅刻するような奴はいない。
(うるさく言われるなー…、これは)
 そう、心の中で思っても、無意識のうちに浩太の口元は緩んでしまっている。自然と、足が速まる。
 飛び越えそうな勢いで、自動改札をくぐった。
「あーっ! 中野だっ」
 懐かしい声が響く。相変わらずらしいというか、目ざとく浩太を見つけたのだろう。
「…声でかいよ。ミヤ」
「うるさいなー。皆、もう来てるんだよ?」
「浩太。お久しぶりです…って、この台詞も何回言ったかわかりませんね」
「よう、浩太。一番近場に住んでるくせに遅刻すんなよ」
「悪ぃ」
 息を弾ませながら、浩太は謝罪した。ふと、目に映ったのは最後の一人。
「圭ー。おまえまた背がのびたなー」
「そのうち浩太を抜くぜ」
 にやり、と相変わらず不敵な笑みを浮かべる。一方、
「………は?」
 浩太は自分の耳を疑った。そして爆笑した。
「わはははっ、誰だよ、その声ー」
「そうっ! 私たちも驚いたのっ! 声かけられただけじゃ圭ちゃんだってわかんないよねっ」
「まさかここまで低くなるとはなー」
「まぁ、歌のほうは今日にでも聴かせてもらいましょう」
「浩太、笑いすぎだっ」
 東京駅丸の内口で騒ぐこの五人を、この間の冬、世間を騒がせた『B.R.』だと気付いた人がもしかしたら居たかもしれない。しかし四月という何かと忙しい時期。立ち止まり指摘する人はいなかった。
 ───四月。
 中野浩太は、この春、高校を卒業した。就職先も進学先も決めなかった。
 小林圭は、この春、中学を卒業した。二月に訪れた変声期にはかなり悩まされたという。
 片桐実也子は、この春、短大を卒業した。
 山田祐輔は、この春、ピアノ教室を閉鎖した。事後処理が忙しかった。
 長壁知己は、いつも通り、つい昨日まで稼業の手伝いをしていた。
 それぞれの人生を一区切りさせて、また、結集した。
「……にしても、これってインチキって言われるだろーな」
 浩太が口元を歪ませて呟く。
「何言ってるんです。最初から決めてたでしょう」
「そりゃ、仲間内ではそうだけど、世間から見たらさ」
「いーじゃん。ケジメをつけるために、『B.R.』はしっかりと終わらせたんだから」
「今回だって、いつまで続けるか分からないしな」
「どこまでやれるかも、試してみたいしね」
 ────ここに、『Blue Rose』が結成される。
 これからプロとしてデビューし、本格的な音楽活動を始める予定だ。メンバーはこの五人。専属のスタッフもすでに決定している。
 Blue Roseというのは、ありえないもの、まだ手にしていない何か、不確定な未来、という意味である。
「…なぁ、希玖って、いつアメリカから帰ってくるんだ?」
「そういえば詳しくは聞かされていませんね」
「かのんちゃんに聞こう! 早く事務所に行こうよっ!」
「…まーたいつものメンツか」
 台詞とは裏腹に、浩太は押さえ切れない笑みを口元に浮かばせていた。

「…皆さん、お久しぶりです」
 少しぎこちない笑顔で、叶みゆきは彼ら五人を迎えた。







6話 END(本編終了)
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